スフォルツァ(読み)すふぉるつぁ(その他表記)Carlo Sforza

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スフォルツァ」の意味・わかりやすい解説

スフォルツァ
すふぉるつぁ
Carlo Sforza
(1872―1952)

イタリアの外交官政治家。1896年に外務省に入り、外務次官(1919~1920)を経て、第五次ジョリッティ内閣(1920~1921)に外相として入閣し、ユーゴスラビアとのラパロ条約を成立させた。1919年以来上院議員になり、ムッソリーニ政権の誕生とともに駐仏大使を辞して反ファシズム運動の指導者となった。ムッソリーニに追われて海外に亡命(1927~1943)。この間、反ファシズム、反全体主義、ヨーロッパ連邦のための評論活動を展開。1943年10月に帰国、国王の即時譲位を要求する勢力に加わった。共和党党首として連立内閣の無任所相(1943~1944)、立法議会の議長(1945~1946)を経て、第三次から第六次までのデ・ガスペリ内閣の外相を歴任。その間、北大西洋条約機構(NATO(ナトー))加盟に至る戦後イタリアの外交的進路の推進者になった。第七次デ・ガスペリ内閣の無任所相の任期中に死去。

[重岡保郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「スフォルツァ」の意味・わかりやすい解説

スフォルツァ
Ludovico Sforza il Moro
生没年:1452-1508

ミラノのルネサンス君主。フランチェスコ・スフォルツァとビアンカ・マリア・ビスコンティの間に生まれた。特にレオナルド・ダ・ビンチ,ブラマンテや他の芸術家たちのパトロンとして有名。通称のイル・モーロは肌の黒さ,あるいは別称のマウロMauroに由来する。1476年兄のガレアッツォ・マリアが暗殺された後,その7歳の息子からミラノ公爵位を剝奪しようとして失敗し,追放される。しかし80年甥の後見人として帰還に成功し,実権を掌握。エステ家の娘と結婚し,甥の死後,94年公爵位を授けられる。反フランス・イタリア同盟の推進者であった彼は,ビスコンティ家系からの公爵位の相続権を主張するルイ12世に攻撃されて逃亡し,再帰還を企てたが,スイス傭兵に裏切られ,1500年フランスに捕らえられ,ロシュに幽閉されたまま死去する。ブルクハルトによれば,こうした甥からの権力奪がフランスの干渉と全イタリアの悪運をもたらしたといわれている。
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スフォルツァ
Francesco Sforza
生没年:1401-66

ミラノ君主に成り上がった最も幸運な傭兵隊長。ムーツィオ・アッテンドロの庶子ベネチアと戦うミラノ公フィリッポ・マリア・ビスコンティに仕えた。1434年教皇の弱点を利用してアンコナ辺境伯位を獲得。ミラノ公の庶出の唯一の娘ビアンカ・マリアと結婚後,47年彼女の父が死ぬと,辺境伯位を放棄して,ミラノ公爵位の相続を主張し,アンブロジョ共和政(アンブロジアナ共和国ともいう)を倒して権力を奪回した。54年ローディの和ののち彼の公爵位が確認される。その後南部進出を策し,サボナ,イブレア,ジェノバを征した。親しかったメディチ家のコジモほどの教養はなかったが,文化人を援助し,自分の多くの子どもたちに人文主義的教育を受けさせた。しかし,その息子たちは暗殺・投獄されて,父ほど幸運ではなかった。マキアベリは《君主論》の中でこのスフォルツァ家の文人教育を,君主の非武装の弊害例として示している。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スフォルツァ」の意味・わかりやすい解説

スフォルツァ
Sforza, Francesco

[生]1401.7.23. サンミニアート
[没]1466.3.8. ミラノ
ミラノ公スフォルツァ家の創始者。 15世紀,イタリア政治に重要な役割を演じたコンドッティエーリ (傭兵隊長) 。傭兵隊長ムツィオ・アッテンドロ・スフォルツァの庶子。父の傭兵隊を受け継ぎ,宿敵ブラッチオ・ダ・モントーネを倒し,ミラノ公に雇われたが,1434年フィレンツェに鞍替えし,ミラノと戦い,ガルダ湖,ベロナ,アンギアーリで大勝した。 1441年ミラノ公のひとり娘と結婚,1447年公の死に乗じて共和国を宣したミラノ市に雇われてその総司令官に就任。しかしミラノ市民がベネチアと結んで抗したため,ミラノを兵糧攻めで攻略,1450年ミラノ公として入城。以後フィレンツェと結んで,内外の足場を固め,文芸を奨励して絵画,建築の遺産を後世に残した。

スフォルツァ
Sforza, Carlo

[生]1873. モンティニョーソ
[没]1952. ローマ
イタリアの政治家,外交官。 1920~21年外相在任中にユーゴスラビアとの間にラパロ条約を締結。次いでパリ駐在大使となったが,ファシズム政権に反対して 27~43年亡命。ファシズム崩壊後に帰国,47~51年再び外相に就任。

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百科事典マイペディア 「スフォルツァ」の意味・わかりやすい解説

スフォルツァ[家]【スフォルツァ】

15―16世紀に北イタリアのミラノ公国を支配した家系。始祖のムーツィオ・アッテンドロMuzio Attendolo〔1369-1424〕はナポリ公国の傭兵(ようへい)隊長として武勲をたて,〈スフォルツァ(威服者)〉の称号を得た。その子フランチェスコFrancesco〔1401-1466〕はミラノ公に仕え,公の娘と結婚,1447年以降公国の支配者となり,文化人を援助し文芸を愛好した。1494年5代目のルドビコLudovico〔1452-1508〕(通称イル・モーロil Moro)の時,正式にミラノ公となった。後フランスの侵入にあって,公国の支配権を失った。
→関連項目ビスコンティ[家]ミラノ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「スフォルツァ」の解説

スフォルツァ
Carlo Sforza

1872~1952

イタリアの政治家,外交官。1920~21年ジョリッティ内閣の外相を務め,ラパロ条約を締結。22年駐仏大使となるがムッソリーニ内閣の成立で職を辞す。ファシズム期には国外に亡命していたが,43年イタリアに戻った。47~51年外相を務め,ユーゴスラヴィアとの間のトリエステ問題の解決にあたった。

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367日誕生日大事典 「スフォルツァ」の解説

スフォルツァ

生年月日:1872年9月25日
イタリアの政治家,外交官
1952年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のスフォルツァの言及

【レオナルド・ダ・ビンチ】より

…またこのころ,生涯つづく科学的・芸術的省察と観察を書きとどめた手稿の執筆が始まっている。
[ミラノへ]
 81年ミラノ公ルドビコ・スフォルツァの宮廷付画家,彫刻家,工学技術家としてミラノに移り,99年まで同地にあって,芸術制作のみならず,軍事,土木,治水,都市計画,宮廷のイベント企画等々にたずさわり,〈万能の天才〉としての力を縦横に発揮した。またこの時期に,解剖学,動物・植物学,数学,光学,機械工学,水力学に関するノートを書き,これに関する多数の素描を残した。…

【ミラノ公国】より

…1311年マッテオ1世が皇帝に支援されてミラノの領主権を確立,30年アッツォーネが市民に自らを〈永遠の支配者〉と呼ばせ,君主制への移行を明確化,95年ジャン・ガレアッツォが皇帝から公爵位を授けられ,公国の歴史が始まる。同家の支配は広く中部イタリアの一部にまで及び,短期間(1447‐50)アンブロジオ共和国が成立するが,これを倒したフランチェスコ・スフォルツァにより公国が受け継がれる。スフォルツァ家の支配は1535年まで続き,以後公国は外国勢力(1540年ハプスブルク家のスペイン王家,1713年同オーストリア王家)の支配下に置かれる。…

※「スフォルツァ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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