イギリスの道徳哲学者,経済学者。主著《国富論》はあまりに有名。スミスという姓がイギリスではひじょうに多いので,アダム・スミスと姓・名をあわせて呼ぶのがふつうである。D.リカードとともに古典派経済学を代表し,他方では,その経済学と道徳哲学moral philosophyとの結合によって,不可侵の自己保存権(自然権)をもつ近代的個人の,自愛心=利己心に基づく活動が,平和的に共存して社会を構成し維持できることを明らかにした点で,スコットランド啓蒙思想のなかで特異な位置を占める。
スコットランド東海岸の港町カーコーディに,税関吏の次男として生まれたが,父は彼が生まれる前に(異母兄は1749年に)死亡した。町立学校を出てグラスゴー大学に学び,ここで道徳哲学の教授F.ハチソンの影響を受けるとともに,アメリカ植民地貿易で繁栄へ向かう都市の自由な空気を呼吸した。グラスゴーという都市はスコットランドではまったく例外的に,ジャコバイト(名誉革命体制に反対するスチュアート王朝復興運動)の反乱に荷担しなかったし,ハチソンの自由主義的神学(神は人間のこの世での幸福を願っていると主張する)に対して教会が干渉しようとしたときも,大学当局,学生とともに,彼を支持した(市は大学行政に参加していた)。このような教育を受けたスミスが,グラスゴー大学を卒業して,スネル奨学金によってオックスフォードのベリオール・カレッジに留学したとき,その保守性に失望したのは当然であり,彼はのちに《国富論》第5編で,特権(生活と地位の保証)に安住する大学の沈滞ぶりを鋭く批判した。スネル奨学金の支給条件は国教会牧師になることであったが,彼はこれを放棄し,約6年の在学ののち,1745年8月に帰郷,中途退学した。
帰郷したスミスは,牧師にかわるものとして貴族の家庭教師の職を探したが,成功しなかった。しかし1748-49年,49-50年,50-51年の冬にエジンバラで行った3回の公開講義がひじょうに好評で,それによって51年1月にグラスゴー大学の論理学の教授に任命され,翌年には道徳哲学の講座に移って,恩師ハチソン(1746死亡)のあとを継ぐことになった。ただし,この公開講義については,当時のエジンバラの新聞に報道がなく,何人かの同時代人の回想だけが証拠であって,内容も文学・文芸批評が2回,法学が1回ということしかわかっていない。スミスがグラスゴー大学で60年代に行った講義の,学生による筆記が3種類残っていて,一つは修辞学,あとの二つは法学であり,それらはエジンバラ公開講義の内容にかなり近いものであろうと推測されている。
このころ(1750前後)の彼の著作として残っているものは,遺稿集《哲学的主題に関する論文集》(1795)のなかの〈天文学史によって例証された,哲学的研究の指導原理〉と《エジンバラ評論》への2編の寄稿である。前者はオックスフォード時代に大部分が書かれ,帰郷後に仕上げられたもので,スミスは引き続き,古代物理学史について,古代論理学・形而上学史について,同じテーマで論じた断片を書いた。《エジンバラ評論》は1755年と56年にスコットランド文化の振興を目ざして刊行された書評中心の同人雑誌で,教会の干渉によって2号でつぶれたといわれるが,スミスはその1号にS.ジョンソンの《英語辞典》の書評を,2号に大陸とくにフランスの出版物の展望を寄稿した。いずれも短編ながら高く評価されたが,後者はスミスが早くからルソー,ボルテールおよび《百科全書》に注目していたことを示している。〈天文学史〉は,科学の体系が新しい事実にぶつかって動揺し,それを包摂するような(新しい事実を平明に説明しうるような)新しい体系にとって代わられる過程を述べたもので,やがてスミス自身が道徳哲学において,またとくに経済学において,そのような意味での体系の革新をなしとげることを,予感させる(衝撃を与える新しい事実は,前者については〈利己心〉,後者については〈労働〉である)。
グラスゴー大学教授としてのスミスは,有力な商人たちとの交友や,親友D.ヒュームの経済論文の影響などを通じて,すでに後年の経済的自由主義の基礎をつくっていたといわれるが,《道徳感情論(道徳情操論)The Theory of Moral Sentiments(1759)によって,全ヨーロッパに学問的名声を確立した。それはスミスに,バックルー公の旅行付添教師として大陸に渡る機会を与え,彼は大学を辞任して,1764年1月から2年9ヵ月にわたりフランスとスイスを旅行する。このとき,パリでフランスの重農主義経済学者たち,百科全書派哲学者たちに会い,ジュネーブでボルテールに会ったこと,とくにF.ケネーとの出会いが,スミスの思想的発展を促進した。主著《国富論》(1776)は,この旅行中に書きはじめられたともいわれるが,大部分は帰国後故郷の家にこもって書かれた。それはアメリカ独立宣言と同じ年に出版されたが,スミスが本国による植民地貿易の独占を非難したことは明白であるとしても,アメリカの独立を支持したかどうかは,あとで発見された〈アメリカ問題についての覚書〉をも含めて,論争の的になっている。
スミスは77年11月に,スコットランド税関委員に任命されて,エジンバラに居を移し,死ぬまでそこでスコットランド文化の中心的人物として過ごした。彼の最後の学問的業績は,《道徳感情論》の大幅な改訂増補(第6版,1790)であって,それには《国富論》を経過した思想的発展と,フランス革命の思想的衝撃とがはっきり表現されている。
経済学者としてのスミスは明治初期には日本で知られていたし,《国富論》の翻訳も石川暎作と嵯峨正作によって1882-88年に刊行された。石川が福沢門下であり,この邦訳の第4編序文を田口卯吉が書いたことからもわかるように,《国富論》は彼らの自由主義経済論の支柱となったのである。しかし,1878年に来日して翌年から外務省法律顧問として活動したヘルマン・レースラーには,ドイツ歴史学派の立場からスミスを批判した著書があり,《独逸学協会雑誌》に訳載された論文においても,スミスは資本家を寄生者とし,労働者のみを生産的だとすることによって,社会主義の先駆となったと主張した。もちろん,この見解がそのまま日本でうけいれられたわけではないが,自由主義に対して保護主義,利己心に対して利他心および国家意識が優位を占めたことは,両国の資本主義の後進性からして,不可避であった。
やがてマルクス主義がはいってくると,スミス経済学のなかにおける労働価値論の萌芽だけが,彼の科学的側面として評価され,あとは価値論および再生産論の混乱が指摘され,K.マルクスの引立て役の地位を与えられたにすぎなかった。ところが,1930年代後半になってマルクス主義への弾圧が強化されると,スミス経済学はマルクス経済学の研究者の隠れみのとなった。そして,そこから進んで,スミスにおける道徳哲学と経済学の統一を再発見することによって,日本のスミス研究は,さしあたっては戦時の空虚な道徳論を批判するとともに,第2次大戦後においては独特の〈市民社会論〉によってマルクス主義にも大きな影響を与えた。この方向での代表的な著作は,太田可夫〈アダム・スミスの道徳哲学について〉(《一橋論叢》2巻6号,1938),高島善哉《経済社会学の根本問題》(1941),大河内一男《スミスとリスト》(1943),内田義彦《経済学の生誕》(1953)である。
執筆者:水田 洋
イギリスの軍人,探検家,著作家。軍人としてヨーロッパ大陸でトルコ軍と戦って捕らえられるが,脱走して1604年ころ帰国。07年ロンドン・バージニア会社の植民者をつれて北アメリカのジェームズタウンに上陸し,バージニア植民地を建設した。インディアンに捕らえられ,酋長の娘ポカホンタスの助命で助かったり,現地経営の内紛で死刑となる寸前に新移住者をつれてきたC.ニューポート船長に助けられるなどの苦労ののち,08年総督に選ばれ,09年帰国。14年にはロンドン商人たちによりニューイングランドに派遣されて探検し,魚や毛皮の積荷を持ち帰った。これがロンドン有力商人間にこの地方に植民地を建設する刺激を与え,20年のピューリタンによるプリマス植民地の建設となった。その経験を多くの著述や地図として出版したが,重要なものは《ジョン・スミス船長の旅行・冒険・観察記》(1630),《バージニア地図》(1612),《ニューイングランドについて》(1616)。
執筆者:武則 忠見
イギリスの地質学者。オックスフォードシャーの鍛冶屋に生まれ,若いころ,当時盛んであった運河工事を手伝ううち,測量技師となり,終生,土木技師civil engineerを名のった。工事のかたわら,地層の特徴に注目,地層の重なり,連続の規則性に気づき,地質図にまとめ,1815年に大きな《イングランド,ウェールズ,およびスコットランドの一部の地質図》を出版した。また特定の地層には特定の化石を産することに着目,1816年から地層ごとの化石図鑑《化石によって同定される地層》を出版しはじめたが,財政難で中断。イギリス各州の地質図も出版した。化石による地層の同定を確立したことから,〈層位学の父〉とも,〈イギリス地質学の父〉ともよばれる。1831年にロンドン地質学会から第1回のウォラストン賞をうけた。イギリス国会議事堂の建築用材の調査旅行中に病気で死亡した。
執筆者:清水 大吉郎
アメリカの写真家。カンザス州のウィチタ生れ。18歳で《ニューズ・ウィーク》,19歳で《ライフ》のスタッフとなったスミスは,以後一貫してフォト・ジャーナリズム(グラフ・ジャーナリズム)の世界を歩んだ。彼の求道的・理想主義的なヒューマニズムはグラフ雑誌編集者との衝突も生んだが,数々の人間愛に満ちた傑作を生みだした。〈カントリー・ドクター〉(1948),〈スペインの村〉(1950),〈慈悲の人シュワイツァー〉(1954)など《ライフ》誌に発表された写真は,単にルポルタージュとして優れているだけでなく,写真芸術としての完璧さを備えている。晩年になっても,スミスの求道的な姿勢は衰えず,71年に来日して水俣病に取り組み,彼の最後の傑作を残した。
執筆者:金子 隆一
アメリカの政治家。アイルランド系カトリック教徒移民の子として,ニューヨーク市のスラム街に生まれた。1903年ニューヨーク州下院議員に当選,アイルランド系票を背景に政界に着実な地歩を占め,18年には州知事に当選,行政改革,社会福祉で実績をあげ,名知事として4期務める。その間24年民主党全国大会では指名を逸したが,28年には指名され,アメリカ史上最初のカトリック教徒の大統領候補となった。好況のゆえもあって現職のH.C.フーバーに敗れたが,北部の大都市票を獲得した。アメリカの人口構成の変化,都市化に対応して,民主党は北部大都市の大衆を地盤とする政党へと変容しつつあったが,スミスはその変容を象徴する政治家といえる。ただし,32年の民主党の大統領候補指名争いでF.D.ローズベルトに敗れ,ニューディール政策には反対した。
執筆者:斎藤 真
イギリスの発明家。1836年,二つのねじ山をもった木ねじ型のスクリュープロペラで特許を得,同年,10トンの汽船フランシス・スミス号を造り,この木製のねじ型スクリューを装着し,ロンドンの運河で実験した。実験中,ねじ山の一つが折れたが,これによりかえって船速を増したことにヒントを得て,二枚翼のスクリューを考案した。39年には直径1.75mの二枚翼スクリューを装備した長さ32.3m,総トン数約240トンのアルキメデス号Archimedesを建造,同船は,イギリス一周の試験航海でスクリューの優秀性を実証し,当時,ブリストルの造船所で鉄製汽船グレート・ブリテン号を建造中であったI.K.ブルネルは,予定していた外輪をやめスクリューを採用したほどであった。
執筆者:在田 正義
イギリス,ピューリタン運動の一支流をなしたバプティスト派の創始者。ケンブリッジ大学に在学中,同大学に盛んであったピューリタニズムにふれて回心した。卒業後しばらく英国国教会の牧師をつとめたが,のち分離派(セパラティスト)の群れに加わってその指導者となった。1607年の末,迫害を避けてアムステルダムへ脱出,そこでメノー派の影響を受けた。11年,亡命以来の同志T.ヘルウィズとJ.マートンはイギリスに帰って,最初のイギリス・バプティスト教会をつくった。スミスはオランダにとどまり,翌年死去した。バプティストの名の由来は,幼児洗礼を否定し,信仰告白に基づく洗礼(バプテスマ)だけを有効と主張したことにある。
執筆者:小倉 義明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
イギリス生まれのカナダの生化学者.1956年マンチェスター大学で博士号を取得した後,バンクーバーのH.G. Khorana(コラーナ)研究室に入り核酸化学を学んだ.1961年カナダ漁業局に移り海洋生物学を研究し,1966年以降はブリティッシュ・コロンビア大学生化学部に所属(~1997年).1998年ブリティッシュ・コロンビアがん局ゲノム配列センター所長となる.1980年代初頭,合成オリゴヌクレオチドを用いて部位特異的な突然変異を導入する方法を開発し,タンパク質の機能の正確かつ簡便な研究が可能になった.この業績で,1993年PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法を開発したK. Mullis(マリス)とともにノーベル化学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
(三好信浩)
(河村一夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1723~90
イギリスの経済学者,道徳哲学者。スコットランド生まれ。グラスゴー大学,オクスフォード大学に学び,1751年前者の道徳哲学教授となり,『道徳情操論』(59年)を出版。大学を辞めて貴族の家庭教師としてヨーロッパ大陸に旅行,帰国後経済学をはじめて体系化した『諸国民の富』(76年)を執筆,自由主義経済思想の基礎を築いた。晩年はグラスゴー大学総長となり,エディンバラで没。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…端的に,人間と自然との交渉のうちに成り立つ自然的経験世界の定立から,人間の間主観的相互性を通して再生産される社会的経験世界の発見に至る経験概念の不断の拡大傾向がそれである。こうした動向に注目するかぎり,イギリス経験論の歴史的サイクルは,通説よりもはるかに長く,むしろF.ベーコンによって始められ,A.スミスによって閉じられたと解するほうがより適切であると言ってよい。その経緯はほぼ次のように点描することができる。…
…価値は価格にとって内面的inherentもしくは内在的intrinsicであるとされたのである。このいわゆる真実価値real valueの根拠を定めるのが,A.スミスからA.マーシャルにいたる古典派および新古典派の価値論における一つの重要な仕事であった。注意しなければならないのは,このような価値と価格との密接な連関のために,両者がしばしば混同されるということである。…
…18世紀半ば以降は,このような法人格をもたない非公認会社の時代であった。当時の会社企業についてアダム・スミスは《国富論》(1776)で次のような見解を示している。まず第1に,他人の貨幣を管理する会社の重役は,自己の貨幣に対するほどの慎重さを欠くから,会社企業は個人企業やパートナーシップのような資本の所有と経営が結合した企業形態に比べて経営能率が低い。…
…この法は18世紀後半の経済自由主義の発展期まで機能しつづけた。自由主義経済の使徒アダム・スミスは,居住制限法は自然的自由と正義に対する明らかな侵害であり,この法によって自由な労働市場の形成が妨げられたと批判した。このような批判にもかかわらず,この法が維持されつづけたのは,救貧税の増大と貧民の増加に反対する中産階級と各教区とが示した自己中心的な態度と,本法が地主や借地農家に対しては農業労働力を自己の教区に引き止めるという利益をもたらしていたことによる。…
…ただし実際には当時フランスの租税は2割程度であったとみられる。A.スミスも《国富論》で分業の原理から職業的軍隊の必要性を説き,軍事技術の進歩は軍事費を増大させるが,それは他国からの不正な侵略を排除し,文明を繁栄させる,といっている。 近代国家が確立し国民軍が成立するにしたがって,軍事費の大きさが兵器の発達や戦争の規模の拡大とあいまって大きくなり,また近代兵器の出現は戦争のもたらす破壊・悲惨さをいっそう重大な問題にした。…
…もちろん,J.ロビンソンをはじめとして批判は多いが,ロビンズの考え方は現在にいたるまで近代経済学の指導原理の一つとなっている。
【スミス《国富論》】
経済学が今日のような形での一つの学問分野としてその存在を確立されたのはA.スミスの《国富論》に始まると一般に考えられている。《国富論》の初版は1776年に刊行されたが,書名は直訳すれば《諸国民の富の性質と原因に関する研究》であり,これは〈政治経済学political economy〉と同じ意味に用いられている(political economyの語が使われなかったのは,1767年刊のJ.スチュアートの著書にすでに使われていたからと考えられている)。…
…部や編に大別されぬ章のみの構成で,初版(750部)は30章からなり,一見雑然とした感じを与えるが,第1~7章の〈経済学の原理〉編,第8~18章および第22・23・29章の〈課税〉編,そして残りの〈補遺ないし論争〉編,の3部からなるとみなすことができる。リカード理論の骨格をなす第1部では,A.スミスが投下労働論・支配労働論の二元論に放置した価値論を投下労働論で一貫して説明しようとし,またその差額地代論,利潤率低下傾向の問題を中心とする地主・資本家・労働者3階級間の長期的・巨視的分配関係を論じた巨視的動態論,国際貿易における比較生産費説などでも,以後の経済学に大きな影響を与えた。投下労働価値論と関係する不変の価値尺度の問題はリカードの終生の問題であったが,21年の第3版では,その点が修正されるとともに,有名な〈機械について〉という第31章が付加された。…
…しかし重農主義においては,土地だけが純生産物を生むと考えられ,前貸しとしての資本の概念は確立されていたが,恒常的所得としての利潤の概念は存在しなかった。 古典派経済学の創設者は《国富論》(1776)の著者A.スミスであり,重農主義者と同じく自然法思想により自由放任を提唱,重商主義を論難した。私利の追求は価格機構のみえざる手に導かれて公益を促進するというのである。…
…経済学の始祖ともいうべきA.スミスは,経済活動において人間はセルフ・インタレストにもとづいて行為するものだ,と考えた。セルフ・インタレストの意味は,元来,自己に関連した事柄への関心ということであるが,それをせまく解釈すると私利私欲ということになる。…
…とはいえ,なおブルジョア的個人主義にもとづく啓蒙の社会哲学の一面性,形式性は,ルソーを先駆とするロマン派の一連の共同体論による批判を呼びおこすことになる。
[経済思想]
新興市民階級の立場からする生産と流通,分配といった経済現象の分析が,ロック,ケネー,スミスらによって発展せしめられた。スミスにみられる国家による統制の排除と自由主義経済の考えは,こうした動きの一つの到達点を示すものといってよいだろう。…
…生存競争,優勝劣敗による進化という社会進化的観念は,当時の知識人に中国は亡国の危機にさらされているという意識をよびおこし,桐城派古文の典雅な文章とあいまって,《天演論》は青年たちに暗誦されるほど歓迎され,彼の名を不朽のものにした。それ以後彼は,アダム・スミス《原富》(1902,《国富論》),ミル《群己権界論》(1903,《自由論》),ミル《穆勒(ぼくろく)名学》(1905,《論理学体系》),モンテスキュー《法意》(1904‐09,《法の精神》)など多くの翻訳を出版し,西欧近代の学術的成果を紹介した。しかし,辛亥革命(1911)以後は,しだいに伝統思想へ接近してゆき,袁世凱の帝制運動を助けるなど,かつての名声も地に落ち,1921年,五・四新文化運動のさなか,病没した。…
…この立場を代表するのはM.ウェーバーであり,表現は異なるがK.マルクスが商品の交換過程を論じるさいに示している理解も同趣旨のものである(《資本論》1編2章)。いまひとつの立場はA.スミスによって代表される。彼は分業の発生に関して,それは人間の本性のなかにあり,そして人間だけに見いだされる交換性向,すなわちある物を他の物と取引し,交易し,交換するという性向が,利己心に刺激されてひきおこすところの必然的帰結であると説く(《国富論》1編2章)。…
…アダム・スミスの主著で,経済学の最初の体系的著作。全2巻。…
…たとえば,J.ロックは国家と市民社会を区別し,市民社会は国家に一定限度内で統治を信託しているにすぎないと主張した。またA.スミスは,人間は〈神の見えざる手〉によって導かれているとして,市民社会の自律性を説き,最小の政府こそ最良の政府であるとした。このように,市民社会の自律性を主張することは,国家批判の系譜においても重要な位置を占める。…
…古典派経済学(略して古典派あるいは古典学派ともいう)とは一般に,18世紀の最後の四半世紀から19世紀の前半にかけイギリスで隆盛をみる,アダム・スミス,リカード,マルサス,J.S.ミルを主たる担い手とする経済学の流れをさしている。D.ヒュームらアダム・スミスの先行者や19世紀のJ.ミル,J.R.マカロック,R.トレンズ,ド・クインシー,S.ベーリー,N.W.シーニアー,S.M.ロングフィールドらをどう扱うか,またJ.S.ミルに後続するフォーセットHenry Fawcett(1833‐84)やケアンズJohn Elliot Cairnes(1823‐75),フランスのセーやシスモンディをどう扱うかについて,多少考え方の相違があるが,おおむねこれらの人たちも含まれる。…
…この論争は,重金主義者G.deマリーンズと貿易差額論者E.ミッセルデンおよびT.マンとの間で行われ,前者が直接的,個別的な貿易統制政策による貨幣的富の国外流出防止と流入促進とを主張したのに対し,後者は総括的貿易バランス論を主張し,最終的にはマンの主著《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664,死後出版)によって体系化された。A.スミスはこのマンの主著を〈すべての他の商業国の経済学の基本的命題になった〉ものと評価し,それ以来この著書は長いあいだ重商主義の古典とみなされてきた。総括的貿易バランス論は,貨幣的富を重金主義のように直接重視するのではなく,むしろより多くの貨幣的富を獲得するための元本(資本)とみなし,一歩発展した見地を示した。…
…重農主義者(フィジオクラットphysiocrates)たちは,自分たちをエコノミストéconomistesと呼んでいた。それが重農主義agricultural systemと呼ばれるようになったのは,A.スミスが《国富論》でそう呼んだことによるものと思われる。
[重農学派の政策的主張]
フィジオクラシーとは,もともと〈自然の統治〉を意味する語で,重農学派は王権を合法的に制限する合法的専制主義を最良の政体と考え,当時のルイ王朝を是認しながら自然的秩序による開明的社会を実現しようとした。…
…自由放任ということばはA.スミスの《国富論》(1875)の主張を要約したものとして知られている。そして,しばしば,自由放任,レッセ・フェールとは現実の経済をあるがままに放置せよ,あるいは,すべての経済主体とくに生産者(企業)に好き勝手にやらせるのがよい,という意味であるかのように誤解されてきた。…
…A.スミスがグラスゴー大学の道徳哲学教授のとき,36歳で出版した処女作。1759年刊。…
…個々人の私益追求のエネルギーが結果的に社会全体の利益増進に役立つことを示すのに,アダム・スミスは著書《国富論》第4編第2章,および《道徳感情論》第1編第4部において,〈見えざる手に導かれてled by an invisible hand〉という表現を用いた。19世紀になると〈見えざる神のみ手〉と誇張して,独占利潤を含めた無法な私益追求までも正当化しようとする傾向を生じたが,スミスの本意では,私益追求に伴う弊害が市場での主体間競争によって除去され浄化されることを大前提としているのである。…
…産業とは人間が労働によって富を目的意識的に形成する活動なのである。 こうした思想は,A.スミスを頂点とする古典派の経済学者によって,労働を起点として国民の富の形成を説明する,最初の経済学説(〈古典派経済学〉の項参照)として完成されるのだが,そこでは労働は富の源泉となる人間の能動的な,対象に働きかける活動として把握されている。これは労働が自然(神々)に従う生活や(神に定められた)職で生きる生活の一部であったそれまでとは,たいへん大きな逆転であった。…
…17世紀のW.ペティはその《租税貢納論》(1662)において,穀物と銀の生産における剰余生産物の価値の比較から,部分的ではあるが素朴な形で労働が価値の積極的な要因であることを主張した。しかし体系的な形では18世紀後半のA.スミスがはじめてそれを論じたといってよいだろう。スミスはその《国富論》(1776)において,労働こそが人間が自然に対して支払う〈本源的購買貨幣〉であることを明らかにするとともに,労働の量が価値の真実の標準尺度であることを指摘し,それを彼の経済学の体系の基礎に据えた。…
…その後スイス人のビショッフWerner Bishof(1916‐54),オーストリア人のハースErnst Haas(1921‐86)など個性的な写真家がつぎつぎと参加し,《ライフ》《パリ・マッチ》など世界的な雑誌を舞台に大活躍した。またE.スミスも一時参加し,そのころに一大写真叙事詩ともいえる《ピッツバーグ》(1955‐58)の写真を撮っている。その後ダビッドソンBruce Davidson(1933‐ ),ハーバットCharles Hurbuttなどが参加し,マグナムの写真もしだいに楽天的なヒューマニズムを表現するものから,よりパーソナルな視点をもつものに変化する。…
…それは複数の写真の組合せとキャプションとにより,視覚的な解説以上にテーマの内面的な真実へと迫ろうとする試みであった。〈フォト・エッセー〉という新しい方法への意識の確立は,すでに1937年のアイゼンシュテットによる《ワッサー女子大学》という組写真に対する,編集者の〈エッセイストとしてのカメラ〉という解説にも示されており,のちレナード・マッコムの,地方からニューヨークへ来て働きながらファッション・モデルになることを夢みる一人の女性の日常を追った《グウィンド・フィリングの私生活》(1948),フランコ政権下で昔ながらの伝統的な生活をする寒村の人々を描いたユージン・スミスの《スペインの村》(1951),アメリカのアイルランド系移民たちの姿を撮ったドロシア・ラングの《アイリッシュ・カントリー・ピープル》(1955)など,50年代を中心にして数多くの傑作が生まれた。《ライフ》はこれらの写真によって,いわゆるニュース写真では知ることのできない〈日常的な世界の中の隠された真実〉を読者に伝え,フォト・ジャーナリズムの新しいあり方を打ち立てたということができよう。…
…〈末日聖徒イエス・キリスト教会Church of Jesus Christ of Latter‐Day Saints〉の俗称。1830年スミスJoseph Smith(1805‐44)によって創立された。スミスが発見したとされるアメリカ大陸の古代住民に神から与えられた《モルモン経》を旧新約聖書とならぶ経典として重要視し,シオン(神の国)がアメリカ大陸に樹立されることを信じる。…
…〈末日聖徒イエス・キリスト教会Church of Jesus Christ of Latter‐Day Saints〉の俗称。1830年スミスJoseph Smith(1805‐44)によって創立された。スミスが発見したとされるアメリカ大陸の古代住民に神から与えられた《モルモン経》を旧新約聖書とならぶ経典として重要視し,シオン(神の国)がアメリカ大陸に樹立されることを信じる。…
…18世紀になると,博物学者らによってこのような宇宙開闢(かいびやく)説cosmogonyに磨きがかけられる一方,化石の優れた写生図を伴った体系的分類が進められ,古生物学への下地を作った。18世紀の博物学者らは化石とそれを含む地層の岩質との対応関係をおおまかに知っていたが,W.スミス(1769‐1839)によって生層位学(化石層位学)の方法が確立され,広域の地層対比のための化石の価値が明らかにされた。さらに重要な理論的貢献をしたのはG.キュビエ(1769‐1832)で,彼は比較解剖学を創始して脊椎動物化石を研究した。…
…このステノが観察したものが,地史学における基本的概念の一つといわれる〈地層累重の法則〉に発展する。18世紀になって,現代地質学が確立していくが,その間に貢献のあった2人を挙げるとJ.ハットンとW.スミスである。ハットンは現在みられる運搬・浸食・堆積などの作用は過去の地層を理解するうえに重要な意味があり,それを〈現在は過去の鍵である〉という,後に斉一説と呼ばれる考えで示した。…
…教会政治は各個教会の独立自治にもとづき,政教分離を主張するのが特色。17世紀の初め英国国教会に迫害されてアムステルダムに逃れたJ.スミスによって創立され,アメリカにはピューリタンの一人R.ウィリアムズによって最初の教会がロード・アイランドに設立された(1639)。17世紀にはフロンティアの西漸につれて中西部と南部への伝道に力を注ぎ,現在はアメリカ最大の教派となっている。…
※「スミス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
1936- 昭和後期-平成時代の女優,声優。昭和11年10月16日生まれ。昭和32年俳優座養成所をでて,テレビ界にはいる。NHKの「ブーフーウー」で声優としてみとめられ,54年テレビアニメ「ドラえもん...
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
6/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
5/20 小学館の図鑑NEO[新版]昆虫を追加