セザンヌ

デジタル大辞泉 「セザンヌ」の意味・読み・例文・類語

セザンヌ(Paul Cézanne)

[1839~1906]フランス画家印象派として活躍したが、のち、色面によって空間を構築する独自の様式を確立し、キュビスムをはじめとする20世紀絵画に多大な影響をもたらした。作「サント・ビクトワール山」「大水浴図」など。→後期印象派

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精選版 日本国語大辞典 「セザンヌ」の意味・読み・例文・類語

セザンヌ

  1. ( Paul Cézanne ポール━ ) フランスの画家。初め印象派に加わったが、のち、印象派を越えて自然の対象を幾何学的形態に還元し、調和的な色彩による構築的な画面を表現。二〇世紀絵画の祖とみなされる。代表作「青い花瓶」「赤いチョッキの少年」「水浴図」など。(一八三九‐一九〇六

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百科事典マイペディア 「セザンヌ」の意味・わかりやすい解説

セザンヌ

フランスの画家。南仏のエクス・アン・プロバンス生れ。絵画を志しながら,一時父の経営する銀行に勤めたが,親友ゾラの勧めで1861年パリに出て絵画に専念。それまでドラクロアクールベらの濃い影響を受けていたが,パリでピサロに出会って印象主義的作風に向かい,さらに1880年ころから印象主義を否定して,豊かな量感と堅牢(けんろう)な構成をもつ独自の芸術に達した。そこでは,対象は主観的に把握(はあく)され,幾何学的形態に基づいて整理・抽象されて緊密に構成される。ゴーギャンゴッホキュビスムなどのほか20世紀絵画にも大きな影響を与え,〈近代絵画の父〉といわれる。代表作に《大水浴》(1898年―1905年,フィラデルフィア美術館蔵),サント・ビクトアール山を主題とした数多くの作品(ロンドン,コートールド研究所所蔵など),《首つりの家》(1873年,オルセー美術館蔵)などがある。
→関連項目青山熊治有島生馬アンデパンダン展オルセー美術館キスリング後期印象派サン・パウロ美術館スゴンザック静物画デュフィデュフレーヌ中村彝バウマイスターバーンズ・コレクションフライブラマンクベルナールボラールマン・レイメトロポリタン美術館森田恒友レジェ

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改訂新版 世界大百科事典 「セザンヌ」の意味・わかりやすい解説

セザンヌ
Paul Cézanne
生没年:1839-1906

フランスの画家。後期印象派を代表する一人。印象主義の決定的な影響を受けるが,そのあまりに感覚的で,しまりのない画面にあきたらず,〈印象主義を,美術館の美術のように堅固で持続性のあるものにする〉ことを目ざし,自然を前にした際の,刻々と変化する〈感覚sensation〉そのものを,厳密に構築的でありながらも晴朗な画面のうちに〈実現réalisation〉しようとした。また,〈自然を円筒,球,円錐によって処理する〉(エミール・ベルナールあての手紙。1904年4月15日)といったセザンヌの分析的な思考は,キュビスムの画家たちに根底的な影響を与えたばかりではない。自然を〈深さ〉として実現するその自在な色彩処理は,抽象絵画の展開,とりわけ抽象表現主義において本質的な役割を果たしている。

 フランス南部,エクサン・プロバンスに生まれ,同地で没。父は成金の銀行家で,およそ芸術には縁遠い人物であったが,この父のもとで抑圧されながらも彼は一生,生活に困ることはなかった。最初エクサン・プロバンスの大学で法律を学んだが,1861年親友のゾラに刺激されてパリに出て行く。まったくの独学で,アカデミー・シュイスに通うかたわら,バロックの画家たち,ドラクロア,クールベらの模写を通じて自己形成していったが,エコール・デ・ボザール(国立美術学校)不合格(1863),相次ぐサロン落選(1844-69)など不遇な時代がつづいた。このころの作品はおおむね,生来鬱屈した複雑な性格の持主であったセザンヌの,暗い情念,性的抑圧に根ざした,厚塗りの,ロマンティックで陰鬱なものである。69年モデル女のフィケHortense Fiquetを知り,翌年父親にはないしょでいっしょに暮らしはじめる(正式に結婚したのは1886年)。またこのころから印象派の画家たちと接触し,とくにピサロからは多くの教示をうける(1874,77年,印象派展に参加)。こうして,《首つりの家》(1873)のような,静謐な風景が描かれる。とはいえ,この作品にすでに明らかなように,印象主義的な色彩理解のもと,あくまでも自然に即しながらも,古典主義的な秩序感覚を画面に取り戻す方向にむかう。色彩と形は互いに支え合いながら--〈色彩が豊かになれば,形は充実する〉と,のちに彼は言っている--幾何学的ともいうべき強固な世界を築きあげていく。それはしかし,印象主義全盛の当時にあって,セザンヌの孤立をますます際だたせるものでしかなかった。こうして82年以降,郷里のエクサン・プロバンスに引きこもり,その画面も,自然をより内面的に再構築したものになっていく。風景も静物も人物も,その内的構造を明らかにしつつ,重なり合う色彩の輝きのうちに秩序づけられる。純粋絵画ともいうべきこれらの作品には,一見したところなんの主観的な意味づけもないように思える。しかし,たとえば彼の描く果物はときに,その性的コンプレクスを反映してか,女体のようになまめかしい。また,不動のようにみえる画面そのものも,彼自身の屈折した感情のうねりをおもわせる一種の動勢--形態の差異,ゆがみ,傾斜--によって震動している。こうして,80年代前半から頻繁に描かれるサント・ビクトアール山は,セザンヌにあって,生動する自然の大いなるイメージであるばかりか,孤高で気位の高い彼自身の象徴として現出してくる。86年ゾラと絶交。この痛手は,暗い室内で2人の人物が向きあっている《トランプをする人々》(1890-92)に影を落としている。こうした内奥性は晩年に特徴的なものであり,80年ころから描かれる一連の,森の中で《水浴する人々》にしても,しだいに重苦しいものになってゆく。この傾向は最晩年にますます強まり,暗い小さな色面を構築的に重ね合わせただけの,ほとんど抽象絵画ともいうべき,事物そのもののような画面が登場することになった。

 セザンヌは,いわば絵画の始源を問いつづけた。それだけに生前はなかなか正当な評価を得られず,画商ボラールによって最初の個展(150点出品)が開かれたのは,1895年のことであった。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「セザンヌ」の解説

セザンヌ
Paul Cézanne

1839~1906

フランスの画家。印象派出発点として,対象を単純化された幾何学的形態としてとらえようとする独自の作風をつくり出す。生前は不遇であったが,立体派などの運動に大きな影響を与えた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「セザンヌ」の解説

セザンヌ
Paul Cézanne

1839〜1906
フランスの画家で,後期印象派の巨匠
初期印象派から出発したが,色彩より構成を重視するようになり,厳粛・荘重な風景や静物,人物を描いた。モネとともに現代絵画に大きな影響を与えた。代表作「水浴」「ナポリの午後」「赤いチョッキの少年」など。

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ASCII.jpデジタル用語辞典 「セザンヌ」の解説

セザンヌ

日本語PostScriptフォント。M、DB、B、EBの4ファミリーがそろっている。【開】【販】フォントワークス

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世界大百科事典(旧版)内のセザンヌの言及

【有島生馬】より

…1905年イタリアに渡り,ローマでカロリュス・デュランに師事した後,パリでR.コラン,プリネーに学び,彫刻の修業もする。07年のセザンヌの回顧展に感銘を受け,以降アカデミックな様式を離れ,後期印象派の作風に親しむ。10年帰国し,滞欧作70点を発表。…

【印象主義】より

…(3)主題 主題の選択においては,一世代前の写実主義の画家たちが宗教画,神話画,歴史画に背を向けたのを受けて,彼らは特に同時代の風俗や,肖像,静物といった市民的なジャンル,身辺のありふれた風景などをその主題として取り上げた。
[グループ展]
 印象派のグループとなる画家たちが知り合ったのは,1863年ころグレールCharles Gleyre(1806‐74)のアトリエ(モネ,シスレー,ルノアール,バジール)であり,それにアカデミー・シュイスAcadémie Suisseでかねてからモネと知り合っていたピサロ,セザンヌが合流した。ピサロを通じてモリゾも参加し,彼らはマネやバジールのアトリエ,またブラッスリー・デ・マルティール,ゲルボア,ヌーベル・アテーヌといったカフェで出会い,批評家たちとも親交を結び,戸外に制作に出かけるなど,しだいにグループを形成していった。…

【キュビスム】より

…〈キュビスム〉の名は,1908年にG.ブラックが描いた風景画中の家が立方体(キューブ)に近い形態に簡略化されていたことに由来し,本来嘲笑的な呼称であった。 20世紀の初頭,印象主義の諸特徴を温存しながらも自然の構造を概念的にとらえようとしたセザンヌの芸術への注目が,パリの若い画家たちの間に急速に高まった。ピカソが1907年に完成した《アビニョンの娘たち》を皮切りに,彼らは事物の細部や情緒的ニュアンスを捨てて,印象派の見失った対象の基本的形態や量感を強調する傾向を強めていった。…

【後期印象派】より

…日本では,〈後期印象派〉という訳語はすでに大正期にみられたが,適切とは言えず,〈印象派以後〉と理解すべきものである。展覧会の出品作家は,マネを特例として,ゴーギャン,セザンヌ,ゴッホ,ルドン,ナビ派(ドニ,セリュジエ),新印象主義の画家たち(スーラ,シニャック,クロスHenri‐Edmond Cross),フォービスムの画家たち(マティス,マルケ,ブラマンク,ドランら)といった,印象主義から出発し,それをこえようとした雑多な画家たちであり,そこには表現主義的な傾向が顕著とはいうものの,格別の枠組みがあるわけでもなく,〈Post‐Impressionists〉は,フライ自身も言うとおり,あくまでも便宜的な呼称にすぎなかった。この呼称が主として英語圏でしか用いられないのはこのためである。…

【静物画】より

… こうした状況が一変するのは19世紀の半ば以降であり,静物画は親しみやすい画種としてフランスなど先進各国で成熟した市民層の支持を受けるかたわら,〈絵の主題と価値は無関係である〉とする〈芸術至上主義〉の立場からも,画家が題材の束縛を受けず最も自由に創作できる分野として脚光を浴び,〈純粋絵画〉を志向する先進的な画家の間でとくに愛好される分野の一つとなった。この見地からとくに重要なのはセザンヌであり,〈リンゴ一つでパリを驚かせたい〉という彼の発言は,かつての歴史画に代わる近代絵画の中核としての静物画の意義を如実に語っている。20世紀にはいるとキュビスムなど,この分野に取り組む画派も登場して,静物画の重要性はいっそう増した。…

【ドラン】より

…1898年からアカデミー・カリエールで学ぶが,そこでマティスと出会い影響を受ける。マティスとともに,セザンヌ芸術の重要性を最も早く認識した画家で,1903‐14年ごろの作品にはその感化が各所にうかがえる。しかし,05‐06年には,ブラマンクとともに最も鮮烈な色彩を用いる典型的なフォービスムの画家であった。…

【プッサン】より

…ふるえる手で,没するまで,汎神論的世界観にもとづく《四季》の連作(1660‐64)や,幻想的な寓意的風景画を残す。フランスでは時代を超えて長く敬愛され,新古典主義の画家のみならず,E.ドガや〈自然にならってプッサンをやり直し〉たP.セザンヌなどの手本ともなった。 義弟ガスパール・デュゲGaspar Dughet(1615‐75)も画家で,プッサンを崇敬し,ガスパール・プッサンGaspar Poussinと名のった。…

※「セザンヌ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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