西アフリカの西端にある国。正称はセネガル共和国République du Sénégal。首都ダカール西郊のベルデ岬はアフリカ大陸最西端の地として知られる。国土の形は大西洋をにらむライオンの横顔に似ており、口にあたるところに、1982年セネガルとともにセネガンビア連邦を結成したガンビアがある。北はセネガル川を境にモーリタニア、東はマリ、南はギニア・ビサウ、ギニアと国境を接している。奴隷貿易時代にはダカール沖合のゴレ島は奴隷貿易の根拠地として知られ、フランス植民地時代にはダカールは西アフリカ植民地行政の中心地であった。詩人で初代大統領のL・S・サンゴールは1960年の独立から1980年に勇退するまで21年間の長きにわたってその地位にあり、親西欧的政策をとってきた。植民地時代のモノカルチュア(単一作物生産)経済が現在も続き、ラッカセイと燐(りん)鉱石が主要輸出品である。面積は19万6712平方キロメートルで日本の約半分、人口は1100万(2006推計)、1335万7492(2013センサス)。首都ダカールの人口は260万(2007推計)。
[藤井宏志]
国土の大部分を占めるセネガンビア低地は起伏が少なく、きわめて低平であることが特徴で、ほとんどが標高200メートル以下の平野である。200メートルを超す山地らしい山地は南東部のニオコロ・コバ国立公園とその周辺の山地のみで、ギニアのフータ・ジャロン山地の北端が入り込んだものである。平野を西流し大西洋に注ぐセネガル川、ガンビア川、カザマンス川の三大河川は農業や交通に大きな役割を果たしている。もっとも大きいセネガル川はフータ・ジャロン山地を水源とし、雨期に増水して下流で氾濫(はんらん)をおこす。河口のサン・ルイからベルデ岬にかけての海岸や内陸には風成砂丘がみられる。
気候は、北部がサハラ砂漠に続く雨の少ないステップ気候、中部と南部が雨期(7月~10月)と乾期(10月~6月)のあるサバナ気候である。年降水量は北部で500ミリメートル、南部で1800ミリメートル程度であり、北部や中部では乾期には灌漑(かんがい)が必要である。年じゅう高温であるが海岸部と内陸部とではかなりの温度差がある。カナリア海流(寒流)が南下するため北部海岸では冬気温が13℃まで下がって涼しくなる。内陸部の夏は40℃以上になり暑い。冬季にはサハラ砂漠から吹き出すハルマッタンとよばれる砂まじりの乾いた風に襲われる。雨の少ない北部では乾燥に強い巨木バオバブが各地でみられ、高温湿潤な南部ではココヤシや熱帯樹林が広がっている。
[藤井宏志]
現在のセネガルの領域は、中世にはアルモラビド王国、マリ帝国の支配下にあり、その後ウォロフ人の国家(14世紀)、フルベ人の王国(15世紀)が栄えた。近世にヨーロッパ人が来航して交易や奴隷貿易を行い、ついには植民地として領有されるに至った。まず1444年ポルトガルが進出し、16世紀にフランス、オランダ、イギリスが進出した。なかでもフランスはセネガル川河口で交易を始め、17世紀なかばには河口のサン・ルイ島に城塞(じょうさい)をつくり根拠地とした。サン・ルイは17~18世紀に都市として発展し、交易の中心地となった。セネガル地域はイギリスとフランスの争奪の対象となり、フランス革命から1815年までの間、サン・ルイがイギリスの手に落ちた。その後総督ファイドエルブのときフランスは内陸部にも植民地を広め、ダカール港を開港してラッカセイの栽培と輸出を進めた。内陸部でイスラム王国がフランスの侵攻に抵抗したが、19世紀末には全域が植民地に組み込まれ、他の領域とともにフランス領西アフリカを形成した。1902年サン・ルイにかわりダカールがフランス領西アフリカの首都となり、行政、経済の中心地として発展した。一部のものにしか市民権が与えられなかったにもかかわらず、第一次、第二次の世界大戦には多数のアフリカ人が徴兵されヨーロッパ戦線に送られた。第二次世界大戦後サンゴールを中心に独立運動が盛り上がり、1958年自治共和国となり、「アフリカの年」の1960年6月、現在のマリとともに「マリ連邦」を結成した。しかし、両国の利害や指導者の考え方が対立して、2か月後の8月にセネガルはマリ連邦を離脱、単独の国として独立した。
[藤井宏志]
政体は立憲共和制で、大統領は直接選挙で選ばれる。独立以後1980年までサンゴールが大統領の地位にあったが、高齢を理由に辞任し副大統領アブドゥ・ディウフAbdou Dioufが第2代大統領となった。ディウフは1983年、1988年、1993年の大統領選のいずれにも勝利し、三選を果たした。しかし、2000年の大統領選挙では、セネガル民主党(PDS)党首のアブドゥライ・ワッドAbdoulaye Wadeが、ディウフを破って当選し大統領に就任、政権の交代は平和裡(り)に行われた。2007年2月の大統領選挙でワッドが再選された。親フランス、親西欧の対外政策をとっている。1980年代から南部カザマンス地方で独立運動が起きている。議会は国民議会の一院制で、議員120名は普通選挙で選ばれる。政党は長らくセネガル進歩同盟(UPS)の一党独裁であったが、1976年に複数政党制となり、1984年には15の政党があった。1993年の総選挙では120議席を六つの政党が占め、UPSの後身のセネガル社会党が第一党となった。2001年の国民議会選挙ではPDS主導の連合が120議席のうち89議席を獲得した。2007年6月、議席数が250に拡大された国民議会選挙で与党PDSを中心とする連立勢力「変革」が圧勝、131議席を得た。全国に10州があり、さらに県、郡、市、村に分けられる。州、県、郡の首長は任命制、他は議会で選出する。州を除いた各自治体に議会がある。司法制度はフランスに倣っている。
独立以来、イギリスの植民地だったガンビアとの合併が検討されてきたが、1981年7月のガンビアにおけるクーデターを機に機運が高まり、1982年2月「セネガンビア連邦」を樹立したが、1989年破棄した。軍備は陸海空の3軍があり、陸軍1万1900人、海軍950人、空軍770人の兵員を有する。フランスと共同防衛協定を結び、フランス軍840人が駐留している。
[藤井宏志]
植民地時代、セネガル地域はフランス領西アフリカの経済の中心地であったが、構成国がばらばらに独立したため市場が縮小し、工業化、商品作物の多角化にも遅れをとり、1人当り国民総所得(GNI)は830ドル(2007)と低い。フランスとの経済関係は依然として強く、貿易は輸出入とも多くを占めている。輸出相手国はマリ(24.0%)がトップで、フランス(9.5%)が第2位である。
農業従事者は就業人口の33%を占める。第一の商品作物であったラッカセイは、1834年乾燥地に適する作物として導入され、せっけん製造原料として輸出されている。生産高は1975年の豊作時には148万トンで世界生産の7.5%(世界第4位)を占めたが、1980年には干魃(かんばつ)で50万トンに落ち込み、1993年には63万トンに回復するなどきわめて不安定であり、2007年には33万トンに減少した。西部の鉄道沿線地域が栽培の中心で、カオラク地方で全体の約半分が生産される。小農による栽培が多いが、最近では大農園も出現している。収穫期にはギニアから季節労働者が流入する。ほかに商品作物として綿花、サトウキビ、野菜が伸びている。自給用の食料作物は、伝統的な主食であるアワ、キビ、近年主食となった米、トウモロコシ、キャッサバ(南米原産の根茎作物。根を食用とし、タピオカの原料となる)、バナナが栽培される。米はセネガル川、カザマンス川下流で栽培される。自給用作物は全般に需要に満たず輸入に頼っている。家畜は、ウシ318万頭、ヒツジ・ヤギ948万頭、ウマ82万頭、ロバ38万頭、ラクダ4600頭が飼育されている。北部の牧畜民による飼育だけでなく、農民の農耕用家畜も多いのが特徴である。沿岸にカナリア海流による好漁場をもち、マグロ、カツオ、タイ、エビ、タコなど年間42万トンの漁獲量がある。魚貝類が輸出額のトップ(20.2%。2007)である。主要漁港はダカール、サン・ルイで、河川での淡水漁業も盛んである。
工業は、特産のラッカセイと燐(りん)鉱石を加工するラッカセイ油、肥料などの工業が中心である。工業都市としてダカール(石油精製、ラッカセイ油、肥料、せっけん、製紙、製鉄、プラスチック、船舶修理、繊維、セメント)、サン・ルイ(食品、繊維、化学)、カオラク(ラッカセイ油)、ティエス(ラッカセイ油、繊維、肥料)、リュフィスクなどがある。資源は、燐鉱石を年180万トン(2007)産出し、タイバ、パロが主産地である。東部のファレメで埋蔵量9億8000万トンの鉄鉱山が発見され有望視されている。このほかチタン、銅、天然ガス、石灰石などが産出される。
主要輸出品目は魚貝類、石油製品、化学薬品、セメント、植物油などで、主要輸出相手国はマリ、フランス、インド、ガンビアなど。主要輸入品目は石油製品、穀物、原油、一般機械などで、主要輸入相手国はフランス、ナイジェリア、オランダ、中国などである。貿易収支は慢性的に大幅な輸入超過である。
鉄道は1885年西アフリカで最初に敷設されたダカール―サン・ルイ間をはじめ、ダカールとマリを結ぶ国際鉄道など4路線がある。道路は総延長1万4500キロメートルのうち3000キロメートルが舗装道路、未舗装道路は雨期に通過困難となる。河川も古くからの重要な交通路である。ダカールはヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ中継点にあり、航空路、海上航路ともに集中している。13の都市に空港があり、ダカール国際空港(サンゴール国際空港)は各国からの路線が乗り入れている。
[藤井宏志]
人口密度は1平方キロメートル当り64人(2009)である。人口密度の高い地域は、ダカール、ティエス、ディウルベル、カオラクの諸都市のある西部地域とカザマンス川下流地域である。近年人口は都市部へ流入する傾向にある。またフランスへの労働移民も多く、6万人に達している。人口増加率は2.6%(2000~2006)であるが、医療水準が低く、平均余命も男56.9歳、女60.2歳である。国民は約20の民族集団から構成され、主要部族はウォロフ(43%)、フルベ(プールともよばれる、24%)、セレル(15%)のほかトゥクルール、マンディンゴ、ディウラである。ウォロフ人、セレル人は人口密度の高い西部地域に、トゥクルール人はセネガル川流域に、フルベ(プール)人は北部とカザマンス川上流域に、マンディンゴ人は南部に、ディウラ人はカザマンス川下流域にそれぞれ居住する。各部族はそれぞれ伝統的な文化をもち、サンゴールはその発展に努めたが、都市部ではフランス文化の影響も強い。公用語はフランス語、国語はウォロフ語、フルベ語、セレル語、ディウラ語、ソニンケ語であり、日常には各部族語が用いられる。学校教育にはフランス語を使用している。宗教はイスラム教徒(ムスリム=イスラーム信者)が94%を占め、至る所にモスクがみられる。キリスト教徒が5%、残りは伝統的な部族宗教である。教育制度はフランスに倣っており、小学校6年間が義務教育であるが、就学率は80%(2006)。最高学府はダカール大学である。
ユネスコ世界遺産には、文化遺産として「ゴレ島」「サン・ルイ島」「セネガンビアのストーン・サークル群」「サルーム・デルタ」「バサリ地方:バサリ族、フラ族、ベディック族の文化的景観」、自然遺産として「ニオコロ・コバ国立公園」「ジュッジ国立鳥類保護区」が登録されている(「ニオコロ・コバ国立公園」は、密猟やダム建設計画による環境悪化の懸念などから、2007年に危機遺産リスト入りしている)。
[藤井宏志]
日本への輸出品としてタコ、イカ、アワビ、ホタテ、タチウオなどの魚貝類、日本からの輸入品として自動車、鋼板、機械、織布がある。日本の経済、技術協力は水産関係が多く、青年海外協力隊員も派遣している。日本の西アフリカ研究者は一度はダカールのブラック・アフリカ研究所(IFAN)を訪れる。
[藤井宏志]
『本城靖久著『セネガルの3年』(1977・実業之日本社)』▽『日本貿易振興会編・刊『セネガル・モーリタニア』(1981)』▽『勝俣誠編『セネガルの農業――現状と開発の課題』(1997・国際農林業協力協会)』▽『小川了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』(2010・明石書店)』
基本情報
正式名称=セネガル共和国République du Sénégal
面積=19万6712km2
人口(2010)=1251万人
首都=ダカールDakar(日本との時差=-9時間)
主要言語=フランス語,ウォロフ語
通貨=CFAフランFranc de la Communauté Financière Africaine
西アフリカの西端に位置する共和国。西は大西洋に面し,北はセネガル川でモーリタニアと接し,東はその支流ファレメ川がほぼマリとの国境をなしている。南部のガンビア川に沿ったガンビア共和国を三方から包み込むように囲んでいる。首都ダカールはアフリカ最西端のベルデ岬にある。
執筆者:大林 稔
地形はきわめて単調で,起伏に乏しい。国土のほとんどは標高100m以下の低地で,わずかに南東部のマリとの国境に近い地方に標高500mほどの丘陵地帯がみられる。ギニアのフータ・ジャロン山地に源を発するセネガル川は,ファレメ川と合流して北西方に流れ,モーリタニアとの国境をなしている。また,南部にはガンビア川が西流してガンビア国内に入り,大西洋に注いでいる。
気候,植生はきわめて変化に富んでいる。北部のモーリタニア国境付近では,サハラ砂漠の南縁に連なる半砂漠状のサヘル地帯となり,乾燥は激しく,サハラ砂漠から吹き寄せる熱風ハルマッタンの影響が強い。南部のガンビア川の南のカザマンス地方では,年降水量も2000mmを超え,熱帯雨林が卓越する。こうしてセネガルの自然は砂漠から熱帯雨林まで変化するが,中央の大部分はサバンナである。なお首都ダカールの位置するベルデ岬は,沿岸流の運ぶ土砂の堆積によって形成された陸繫島である。
執筆者:端 信行
国民の1人当りGNP600ドル(1995)という数値は,サハラ以南のアフリカ諸国のなかでも高いほうにはいる。都市人口は総人口の約42%(1995)を占め,アフリカでも最も都市化の進んだ国の一つであり,首都ダカールをはじめ,ティエス,カオラク,サン・ルイなどの都市が発達している。住民ではウォロフ族が最も多く,総人口の3分の1以上を占める。次いでフルベ(フラニ,プール)族,セレル族,トゥクロール族,ディオラ族,マリンケ族などが有力な部族である。セネガル,ガンビアを含むこの地域(セネガンビア)は,サハラ以南のアフリカでも早くからイスラムが普及した地域で,西アフリカとくに西スーダン地域のイスラム化の中心となった。13世紀から14世紀にかけてウォロフ族はジョロフ(ウォロフ)王国を形成し,当時西スーダンを支配していたマリ帝国の属国となっていた。後,ジョロフ王国の支配はジョロフ,カヨール地方からワロ地方に及び,16世紀にはシヌ・サルーム地方のセレル王国まで及んだ。
住民の4分の3は農業に従事し,伝統的な作物としてはミレット,モロコシ,ゴマ,アブラヤシ,イネ(とくに南部のカザマンス地方)などを栽培し,羊,ヤギ,牛などの家畜を飼養した。ところが19世紀になると,この地域にラッカセイが商品作物として導入され,シヌ・サルーム地方やバオル地方から始まった栽培が急速にひろまり,今日では国の耕地の半分以上を占めるにいたっている。農民の伝統的社会は,貴族,平民,職業カースト(鍛冶師,機織職人,木工芸職人,靴職人など),奴隷からなる階層分化が明確であった。しかし,ラッカセイの栽培によって現金収入の増大した下層農民は,政治的・経済的な力を得て,19世紀後半のイスラムに基づく社会改革運動の社会的基盤となった。住民の大部分はイスラム教徒であるが,セレル族,ディオラ族にはカトリック教徒も多い。フランス語が公用語であるが,ウォロフ語も共通語として広く話されている。都市化とともに部族間の交流が進み,深刻な部族対立はみられない。
執筆者:赤阪 賢
この地方は10世紀ころにガーナ王国の,14世紀にはマリ帝国の勢力圏に入るが,現在のセネガルの版図を統一した国家はなかった。セネガル川流域は北アフリカとの交易で栄え,1000年ころにテクルール王国が成立し,11世紀にはモロッコに強大な王朝を樹立したムラービト朝がテクルールの支配者をイスラム化した。13~14世紀にはセネガル中央部から沿岸にかけてジョロフ王国が,その南縁にはセレル族のシヌ・サルーム王国が成立した。ジョロフ王国は16世紀半ばに解体し,16~17世紀を通じて分かれた姉妹国家同士が相争った。16世紀後半にフルベ族とマリンケ族の連合軍が旧テクルール王国を倒してデニアンケ王国を建て,1776年まで続いた。一方,ヨーロッパからは1444年ころポルトガル人が来航して沿岸各地に商業拠点を設け,次いで16世紀にオランダ人がゴレ島に,イギリス人がガンビアに拠点を築き,フランス人は1659年サン・ルイに城塞を建設した。17~18世紀の間,イギリスとフランスがこの地を激しく奪い合った末,1814年フランスはサン・ルイ,ゴレ島などを最終的に獲得し,57年ガンビアを放棄した。
フランスが本格的な植民地化を行ったのは総督フェデルブ(在任1854-65)の時代である。フェデルブは現地の小王国の抵抗を打ち破り,イスラムの聖戦を広げていたトゥクロール族のハジ・ウマルを撃退して,のちのフランス領西アフリカの基礎を築いた。しかし,その後もアフリカ人の抵抗は続き,南部のカザマンス地方をも平定したのは1903年にいたってであった。1890年南部河川地方(現,ギニア),スーダン(現,マリ)がセネガル植民地から分離され,現在のセネガルの版図が確定した。95年フランス領西アフリカ植民地がサン・ルイを主都に形成され,1902-04年にはその行政組織が最終的に確立した。1902年主都がダカールに移り,ダカールはフランス領西アフリカ全体の文化,政治,経済の中心として発展をとげることになった。1848年以来サン・ルイとゴレ,後にダカールとリュフィスクの4地区出身者のみがフランスの市民権,参政権を与えられていたが,1946年この権利は全セネガル人に拡張された。58年フランスの第五共和政憲法により,ギニアを除く他のフランス領西アフリカ諸国同様,フランス共同体内での自治共和国となった。59年同じ自治共和国のスーダン共和国(現,マリ)と合邦し,60年6月20日マリ連邦として独立した。しかし指導者間の意見の相違から連邦は2ヵ月で解体し,8月20日あらためてセネガル共和国として独立,初代大統領にサンゴールが選出された。
1950年代から独立以後も詩人にして学者の政治家サンゴールが,穏健な自由主義を基調にしながら諸勢力の懐柔,統合,弾圧によって巧みに政治をリードしてきた。セネガルはフランス領西アフリカの政治的中心であり,主要都市の住民は政治的権利を与えられていたため,近代的政治の基礎が発展した。50年代に諸政治勢力が台頭したが,サンゴールは保守派,イスラム教徒,社会主義者などを統合したり,あるいはその支持を取り付けてセネガル進歩同盟(UPS)を創立し,独立後はUPSが権力を握った。62年クーデタを企てたとして社会主義者のM.ディア首相を投獄し,63年には大統領権限を強化した改訂憲法を成立させて反対派の一部を非合法化,他をUPSに統合し,66年以降UPSの一党制支配に移行した。しかし68年の学生スト,ゼネストの広がりを前にサンゴールは大きく譲歩し,69年大統領権限の縮小を行ったが,73年の選挙でUPSが圧倒的支持を受けると,学生,教員組合への弾圧に転じた。他方でサンゴールは限定つきの自由化に踏み切り,74年ディアを釈放,76年には政党数を3党に制限した多党制に移行し,同時にUPSはセネガル社会党(PS)と名称を変更した。さらに78年政党数を4党にふやした。しかし左翼勢力の非合法活動はおさまらず,イスラム運動も政府を脅かした。80年12月31日,サンゴールは74歳の高齢を理由に引退し,首相のディウフAbdou Diouf(1935- )が大統領に昇格した。新大統領ディウフは81年に政党数の制限を撤廃した。同年7月,隣国ガンビアでクーデタが起こるとセネガルは軍事介入し,クーデタを制圧した。この事件を契機に同年11月セネガル,ガンビア両国大統領は両国の合邦に合意,82年2月1日セネガンビア連邦が発足した。同連邦は連邦議会を形成し,軍事・経済の統合,外交政策の調整などを行いつつ,互いに独立と主権を維持するものとされたが,89年9月30日,両国の合意のもとに解体された。
セネガルは低所得国に分類されており,1人当りGNPは600ドル(1995)である。独立後30年間に1人当り所得は減少した。また各種社会指標は同程度の低所得国と比較してもさらに低い。農業は雇用の76%(1990)を占めるが,GDP内の割合は農林水産畜産業全体で20%(1995)に低下している。ラッカセイは長く最大の輸出品目であった。しかしその生産は,1960年代末から干ばつ,土地の劣化と不足,国際市況悪化により最高時の半分以下の水準に低迷している。しかし現在もラッカセイは農民の現金収入の60%を占める。このため農産物の多様化(米,綿花,サトウキビなど)が図られているが,十分な成果はあがっていない。伝統的食糧はモロコシ,ミレット,キャッサバなどであるが,生産は人口増に追いつかず,輸入の29%(1995)を食糧輸入にあてている。なお,GDPの7%を占める畜産も重要な産業である。漁業はGDPに占める割合は小さいものの,水産物は総輸出の25%を占めている。
製造業は独立時には比較的発達していた。しかし1970年代をピークに生産は低迷しGDPの12%(1995)に落ちこんだ。タバコ,繊維,セメント,肥料,石油精製などの輸入代替産業,ラッカセイ搾油,魚加工などの輸出用加工場がある。リン鉱石を中心とした鉱業はGDPの2%を生産するにすぎないが,総輸出額の17%を占める。1988年をピークに生産は頭打ちとなっている。1970年代に発展をみた観光業は重要な外貨獲得源である。運輸部門は比較的整備されており,良港のダカールを中心に航空,鉄道(延長約900km),道路が延びている。
1985年以降,構造調整プログラムを導入し,経済の自由化,対外開放と財政再建を図った。しかし構造調整の不徹底な実施のため経済状況はかえって悪化した。94年1月のCFAフラン切下げ以降,1人当り成長率はようやくプラスに転じた。貿易収支は大幅な赤字が続いている。最大の貿易相手はフランスである(輸入の37%,輸出の22%,1992)。1980年代後半より対フランス輸入依存度は増加しつつあるが,逆に対フランス輸出は低下傾向にある。通貨面でもフラン圏に属する。ECとのロメ協定,西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA),西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS),セネガル川開発機構(OMVS)に参加している。
執筆者:大林 稔
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
西アフリカ,セネガル川南側地域を主領域とする共和国。19世紀後半,フランスはセネガル内陸部に進出し,1886年カヨール王国の王を倒し本格的なフランス植民地時代に入った。サン・ルイ,ダカールなどの都市化が進み,都市民にはフランス市民権が与えられた。1950年代以降,サンゴールのもとで政治的統合がなされ,60年共和国として独立した。サンゴールの穏健な思想が独自の政治風土をつくり,イスラームを主な基盤にした開かれた民主政治が続いている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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