ベルギーの工業化学者。ブリュッセルの近くのラベックに製塩業者の子として生まれる。学校教育をあまり受けなかったが、父親が経営する製塩業を手伝うかたわら、物理や化学を独学で修めた。1859年、叔父であるスメーFlorimond Semetの経営するガス会社に入り、経営に参画、そこで、ガスやタールの処理法の改善に従事するようになった。とくに廃棄物として当時適当な処理方法のなかったアンモニアの処理法に取り組み、それがきっかけとなって、ソーダ灰の製造法の研究に着手するようになった。アンモニア水の濃縮過程で発生するアンモニアと炭酸ガスを食塩水に吸収させたところ、重炭酸ソーダ(ソーダ灰)の生成をみたのである(1860)。これに注目したソルベーは1861年に最初の特許をとり、ソーダ灰製造の工業化に着手。1863年にはソルベー社を設立し、1865年操業を開始した。1866年には日産1500キログラムの生産に成功し、工業化への見通しをつけた。やがてソルベー法は各国に普及し、ルブラン法を凌駕(りょうが)してソーダの主要な製造法となる。ソルベーの成功の背景には、彼自身が優秀な技術者であったことや家族縁者から物心両面の援助を受けることができたことに加えて、彼が工場を設立した1863年に、イギリスで最初の公害防止条例であるアルカリ条例が制定されたことがあげられる。当時の主流であったルブラン法は、塩酸などによる環境破壊をもたらし不利な条件下にあった。また、ガス製造によってアンモニア価格が低下していったこともソルベー法を有利にした。
化学工場の経営だけでなく、科学研究の振興にも熱心で、物理学、化学、社会学などの研究所を設立し、1911年、物理学に関する国際会議であるソルベー会議を開始した。また第一次世界大戦後の社会混乱に対処するため委員会を組織するなど、社会改革者としても名声を博している。
[慈道裕治]
ベルギーの化学技術者。アンモニアソーダ法またはソルベー法と呼ばれる炭酸ソーダ(炭酸ナトリウム)の工業的製造技術の確立者。製塩業者の子に生まれ,高等教育を受けずに,父やおじの経営する製塩業やガスの製造業に従事した。そのなかで,食塩とアンモニアを含む水溶液に炭酸ガスを通じると炭酸水素ナトリウムが生成することを知り,これを契機にアンモニアソーダ法による炭酸ソーダの製造技術の確立を目指した。この技術の基礎となる化学反応はすでに知られており,多くの人がこの技術の確立を試みたが,いずれも失敗していた。ソルベーは食塩とアンモニアの製造技術の経験を生かして,高価なアンモニアの回収技術や溶液と気体の混合技術を開発することによって成功をとげた。1863年に最初の工場を建設し,65年から製造を開始。アンモニアソーダ法の確立はそれまでのソーダ製造法であるルブラン法を駆逐し,90年ころまでにヨーロッパ各国に広まった。企業家としての成功に基づき,化学,物理,および社会学に関するソルベー研究所を設立したが,この研究所の開催する〈ソルベー会議〉には,世界各国から著名な科学者が参加し,物理,化学を中心とする基礎科学の発展に大きな役割を果たしてきた。また,彼は社会改良家・社会学者としても知られ,この分野での多くの著書がある。
執筆者:菅 耕作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ベルギーの工業化学者.病弱のため大学には行かず,父親の製塩工場で働いた後,1859年に伯父の経営するガス工場に転じて経験を積んだ.副産物アンモニアの処理がきっかけで,炭酸水素ナトリウムの工業的製法であるアンモニアソーダ法(ソルベー法)の開発に着手した.1863年ソルベー社を設立し,1865年に生産を開始した.おもな貢献は,実用に耐える炭酸化塔(ソルベー塔)とアンモニア回収装置の考案である.ソルベー法は19世紀末までに各国に普及し,ルブラン法を駆逐した.かれは社会改革に独自の視点で取り組み,ベルギー上院議員や国務大臣にもなった.かれの基金提供により,物理学や化学の振興を目的とするソルベー研究所が1912年に設立され,以後,国際的なソルベー会議が定期的に開催されている.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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