改訂新版 世界大百科事典 「タタールのくびき」の意味・わかりやすい解説
タタールのくびき
Tatarskoe igo
キプチャク・ハーン国による中世のロシア諸公国の間接支配のこと。すなわち,1236-41年にわたり,モンゴル軍がロシアを侵略した時から,1480年にハーン国軍が,それまで何度か占領・略奪を繰り返してきたモスクワの都に迫りながら,攻撃を断念して兵を引き揚げた時までの約250年間を,後世のロシア人が形容した言葉。ロシア語のイーゴ(〈軛(くびき)〉の意)は,ラテン語のjugumに由来する。
モンゴル将軍バトゥは,征服したキプチャク・ハーンの国土と人民をしたがえ,ボルガ河口にサライの都をつくって新たにキプチャク・ハーン国を建設した。ロシアの支配にあたっては,ロシア諸公にサライ伺候を義務づけながら,各地に派したモンゴル人司政官(バスカク)に行政,徴税,軍事の権限を与えたが,ロシア人の抵抗が強く,13世紀末に司政官制度が廃されていく。それと前後して,貢税(上納金)や特別税の徴収その他の権限をロシア諸公国の大公に委託し,収奪をより間接的で安定したものに変えていった。また,ハーンの特許状(ヤルリク)授与による大公位の認定操作には,諸公を競いあわせ,ハーンに反対するロシア人支配者の出現を阻む政治的ねらいがこめられていた。
旅程のきびしさと風俗習慣のちがいにより,伺候中または途中で病死したり(初めの100年間に6人),意図的に処刑,殺害されたり(10人以上)したロシア諸公も,14世紀にはむしろ,ロシア支配層の勢力削減をはかるハーンの介入政策を逆手にとって,諸公国・ハーン国間の複雑な対立と同盟関係のなかで自己の地位の強化をはかっていく。たとえば,モスクワ公ユーリーは,中傷によってトベーリ公ミハイルをハーン国で刑死させるが,自分もまたミハイルの息子に復讐されて,1325年ハーンの宮廷で落命する。まもなくトベーリ公国に反モンゴル的な民衆蜂起が起こると,ハーンの命令に応じてタタールの大軍とともにトベーリに侵入し,これを徹底的に弾圧したのは,ユーリーの弟でモスクワ公のイワン・カリタ(1世)であり,彼はその翌年,ハーンからウラジーミル大公位を許される。
東方の大ハーンやサライのハーンが差し向けてくる徴税吏や戸口調査吏など,各種の役人が諸公国(主として中央ロシア)に出入りした。各地の司政官は彼らを統轄しながら貢税,関税,犂税(すきぜい)などを徴収し,兵士を徴募し,宿場から宿場へ役人や郵便物を送り届け,荷車で物品を運ばせ,馬糧を供出させるなど,各種の権限を行使した。しかしハーン国は,教会,修道院などに対しては完全な免税特権を与え,財産を保護し,ハーン国伺候の義務も免除し,サライの都に主教管区をつくり,教会を建立することさえ容認した。民衆の信仰や慣習にもいっさい干渉しなかった。たとえそれが政治的配慮によるにせよ,こうしたタタール・モンゴルの宗教的寛大さは,当時ハーン国を見聞したカルピニやルブルクなど,西欧のキリスト教修道士の,ことさらに彼らの野蛮と残虐を強調する排他的な記述ときわめて対照的であった。
修道院数が増大し,ロシア府主教をはじめとする正教聖職者の指導性も向上して,ロシアの国土と歴史に対する有識者の自覚もたかまった。しかし,現実にタタールのくびきからの解放が人びとの確信となりだすのは,1380年のクリコボの戦におけるモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイを中心としたロシア諸公連合軍の勝利からである。わずか2年後に,今度はモスクワ自体がハーン軍に蹂躙(じゆうりん)され,1万数千人の戦死者を出すが,大公ドミトリーはそれでも遺書の中で自分の長男を大公位の後継者に指定して,ハーンの意向を無視した。他方,ハーン国では,ティムール帝国の興起にともなって内訌が激化し,15世紀になると,クリミア,カザン,アストラハンの3ハーン国が分離独立し,モスクワの対ハーン政策を有利にした。貢税納付の復活,停止を繰り返しながら,1480年モスクワ懲罰のハーン軍が一冬の対峙ののち,戦わずしてモスクワ近郊のウグラ河畔から退却していった時,ロシアはハーン国の間接支配から完全に解放され,16世紀半ばには,逆にカザン,アストラハンの両ハーン国を征服,併合するに至る。
中国,イランなど文化的先進地帯を直接統治したモンゴル人の安定した統治能力は,間接支配のロシアでもほぼ同様に発揮された。タタールのくびきは,反面からいえば,アラブ,ペルシア,トルコなどの東方文化のロシアへの恒常的な浸透を可能にした。カズナ(国庫),カバラ(負債,契約,人身隷属),バザール(市場),バリシ(利益)などの経済用語から,アルミャク(厚ラシャの農民外套),バシマク(短い長靴),バシリク(防寒用ずきん)など,民衆の生活に密着した外来語がこの時期にロシア語の中にとけこんでいくことからみても,民衆のあいだでの異種文化の共存と交流は明らかな事実であった。
執筆者:田中 陽児
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報