アメリカの政治家。ワシントン市生まれ。プリンストン大学、ジョージ・ワシントン大学に学ぶ。1911年弁護士としてサリバン・アンド・クロムウェル国際法律事務所に入り、1919年のパリ講和会議、1945年の国連創設会議にアメリカ代表団の法律顧問として出席。1950年国務省顧問となり、トルーマン大統領の特使として対日講和を推進し、翌1951年のサンフランシスコ対日講和条約締結に大きな役割を果たした。
大統領選挙期間中の1952年に、トルーマン民主党政権の対ソ封じ込め政策を消極的かつ現状維持的であると批判し、大胆でより積極的な「巻返し(ロール・バック)政策」を提唱した。この提言が共和党選挙綱領に採用され、1953年共和党のアイゼンハワー政権が成立するとともに国務長官に就任。国務長官在任中、外交政策を進めるうえで主導的な役割を果たし、強硬な反共十字軍的外交を展開したことで知られる。1954年1月、「巻返し政策」の具体化として「ニュールック戦略」または「大量報復戦略」とよばれる政策を打ち出し、核兵器に依存した米軍事力の強化と、中ソを包囲する反共軍事同盟網の形成を企図した。ヨーロッパ共同防衛軍の設置を意図したヨーロッパ防衛共同体(EDC)の創設はフランス国民議会の反対により流産したが、アジアにおいては、1953年に韓国、1954年に台湾とそれぞれ相互防衛条約を締結するとともに1954年には東南アジア条約機構(SEATO(シアトー))を成立させて中国を包囲する反共軍事同盟網を実現させた。そしてこの過程で、1954年にはインドシナにおけるフランス軍の敗北を阻止するため米・英・仏などの諸国の統一行動による軍事介入を提唱し、さらに1955年の台湾海峡をめぐる危機にあたっては原爆の使用を示唆するなど、危機に直面した際、いわゆる「戦争瀬戸際」政策を推進した。1959年4月病気のため辞任。同年5月24日死去。
[藤本 博]
『J・R・ビール著、皆藤幸蔵訳『ジョン・フォスター・ダレス』(1957・時事通信社)』▽『J・F・ダレス著、大場正史訳『戦争か平和か』(1958・鳳映社)』
アメリカの政治家。ニューヨーク州ウォータータウン生まれ。アイゼンハワー政権の国務長官J・F・ダレスの弟。プリンストン大学に学び、1916年から外交官として活躍。1918~1919年のパリ講和会議に出席。弁護士業に一時従事したのち、第二次世界大戦期にCIA(中央情報局)の前身であるOSS(戦略活動局)に入る。1951年CIA副長官、1953年アイゼンハワー政権の下でCIA長官に就任。彼の在任中CIAは、世界各地の左翼政権の転覆を画策し、1953年にイランのモサデク首相失脚、翌1954年にはグアテマラのアルベンス政権転覆に関与した。1961年に辞任し、弁護士業に復帰した。
[藤本 博]
アメリカの外交家。プリンストン大学卒業,ジョージ・ワシントン大学で法律を学び弁護士となった。ベルサイユ会議など国際会議への参加の経験をもち,共和党では国際法・国際問題の権威者として知られていた。民主党のトルーマン政権は対外政策に対する共和党の批判を鎮めようとして,1950年ダレスを国務省顧問に任命した。国務省入りした彼は,対日講和の促進役を引き受け,政府内の意見調整,連合国諸政府との交渉,日本政府との対話に精力的に働き,51年9月のサンフランシスコ講和を実現させた。52年の大統領選挙戦に際して,共和党の候補者アイゼンハワーの外交問題の助言者となり,アイゼンハワー政権の発足とともに国務長官に就任,59年病気で辞任するまで在任した。大量報復論など共産主義勢力に対する対決的な数々の言辞で知られるが,実際の政策には柔軟性があった。
執筆者:有賀 貞
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1888~1959
アメリカの国務長官(在任1953~59)。国務省顧問として対日講和条約をまとめたのち,アイゼンハワー政権の国務長官に就任。封じ込め政策に代わる巻き返し政策を唱えた。大量報復,瀬戸際政策などの言辞のゆえに,しばしば硬直した反共主義者とみなされ,1950年代の外交を仕切った印象が強い。だが実際には大統領の指示のもと,封じ込めを踏襲する政策を実施した。国際情勢の判断についても柔軟性があった。
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1888.2.25~1959.5.24
アメリカの法律家・政治家。ワシントン生れ。プリンストン大学,ジョージ・ワシントン大学法科大学院卒。1911年ニューヨークで弁護士となる。パリ講和会議賠償委員会委員を務めた。第2次大戦中は共和党の対外政策立案に関わり超党派外交を推進,サンフランシスコ会議代表として国連創設に尽力。50年からたびたび来日,国務省顧問として対日講和交渉をまとめた。53年アイゼンハワー政権の国務長官に就任,巻き返し政策を展開する。
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…原著からラテン訳成立に至るまでのこうした経緯は,従来まったくの虚構として顧みられることがなかったが,19世紀末,本書の一部を記したギリシア語のパピルス断片(3世紀前半)が発見されるに及んで,ディクテュス原作者説は論外にせよ,少なくとも本書のギリシア語原本が2~3世紀ころに書かれたことは確実視されるにいたっている。このほか,《トロイア戦争記》よりは少し後の作品で,これまたラテン訳で伝わる同種の偽書に,フリュギア人ダレスDarēs作と称せられる《トロイア滅亡史De excidio Troiae historia》があり,いずれも文学的価値こそ乏しいものの,10年にわたるトロイア戦争の一部始終を委細をつくして語っているところから,1160年ころ,フランスの詩人ブノア・ド・サント・モールの《トロイ物語》に利用されたのを皮切りに,両書はトロイア伝説に筆を染めた中世ヨーロッパの文学者たちにきわめて大きな影響を及ぼした。トロイア戦争【水谷 智洋】。…
…抑止の思想は,1949年8月ソ連が原爆実験に成功,アメリカの核独占が終わり,米ソ間で核兵器競争の激化が見込まれ始めた1950年代に入って生まれた。抑止の思想は53年7月,まずイギリス総参謀長スレッサーJohn Slessor空軍元帥が採用,つづいてアメリカで国務長官ダレスが〈大量報復〉という形で導入した。それ以降,現在まで多くの核戦略理論が現れたが,すべてこの抑止の思想を中心に構築されてきている。…
…50年2月,中ソは中ソ友好同盟相互援助条約を結び,日本軍国主義の復活に共同で対処する決意とともに対日講和の早期実現を強調した。アメリカは4月,J.ダレスを国務省顧問に任命し,対日講和の推進に当たらせた。 6月,朝鮮戦争が開始され,アメリカ軍が日本を根拠地として出撃するようになると,アメリカは日本の軍事基地としての重要性を認め,日本国内に反米的世論が強まるのを防ぐため講和の促進を図るようになり,11月,対日講和七原則を発表し,極東委員会構成国との個別協議を開始した。…
…たとえば第1次世界大戦当時の大統領T.W.ウィルソンは長老派牧師の息子で,プリンストン大学学長からニュージャージー州知事となりホワイト・ハウスに入っている。その学生の一人がやはり長老派牧師の長男で,のちに国務長官となったJ.F.ダレスである。南北戦争のとき奴隷解放問題をめぐっていわゆる北長老派教会と南長老派教会に分裂して今日にいたっているが,現在再合同をめざして動きつつある。…
…前者にはアメリカ軍配備の条件を定める〈日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定〉(日米行政協定,1952年4月28日発効)および吉田=アチソン交換公文が付属し,後者には〈日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定〉(日米地位協定,1960年6月23日発効),および二つの交換公文,すなわち(1)条約第6条の実施に関する交換公文,(2)吉田=アチソン交換公文等に関する交換公文(岸信介首相とC.A.ハーター国務長官との間で作成・交換された)が付属している。
【条約改定と日米安保体制】
[旧条約の締結と内容]
1950年4月にアメリカ国務長官の政策顧問となったJ.F.ダレスは就任当初から日本の安全保障政策として占領軍の段階的撤退と日本再軍備の意図をもち,51年初の来日時に日本政府に再軍備を勧説した。これに対し占領軍司令官マッカーサーに支持された吉田茂首相らは大規模な再軍備を不適当と主張し,アメリカ軍の駐留を求めた。…
※「ダレス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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