チベット(読み)ちべっと

日本大百科全書(ニッポニカ) 「チベット」の意味・わかりやすい解説

チベット(自治区)
ちべっと / 西蔵自治区

中国南西部、西南地区西部にある自治区。略称は蔵。自治区人民政府所在地は中南部のラサ。1地区級市(ラサ)、6地区(ナクチュ〈ナッチュ〉、チャムド、ロカ、シガツェ、ガリ〈アリ〉、ニンティ〈ニンチ〉)からなり、さらにこれらが73県級行政地域など(1市轄区、1市、71県)に区分されている。面積122万8400平方キロメートル、人口251万2341(2000)。人口密度は1平方キロメートル当り2.08人で、中国でもっとも人口の希薄な地域である。

[駒井正一]

自然

東西に長い形で、高い高原と山脈からなる。北側西半分は崑崙(こんろん/クンルン)山脈、東半分はタングラ山脈、西はカラコルム山脈の支脈とヒマラヤ山脈、南はヒマラヤ山脈、東は横断(おうだん/ホントワン)山脈に囲まれる。また、南西部から北東部にかけてS字形にガンディセ、ニェンチェンタンラの両山脈が横切る。これらの山脈にはヒマラヤ山脈のチョモ・ランマエベレスト)山(8848メートル)、シシャ・パンマ(ゴサインタン)山(8012メートル)など高峰が多く、氷河も発達している。自治区のほぼ全域にわたって広がる広大な高原は、青蔵(せいぞう)高原の一部をなし、一般にチベット高原とよばれる。地質的には新しい高原で、第三紀鮮新世の約400万~300万年前に標高1000メートルほどの高原の土台ができ、鮮新世末(170万年前)からはネオ・テクトニック運動(第三紀以後の地殻運動)によって第四紀更新世(170万~1万年前)の各期ごとに約1000メートルずつ隆起し、その後急上昇して標高平均4000~4700メートルの高原が形成された。

 自治区北西部は蔵北高原で、北は崑崙、南はガンディセ、南東はニェンチェンタンラ、北東はタングラの各山脈に囲まれる。チベット族チャンタン高原とよぶ。標高4600~4800メートル、緩やかな丘陵状の高原が広がり、沼沢や大小の塩水湖が発達する。なかでもナムツォ(ナム湖)は1940平方キロメートルの塩水湖で、自治区最大でかつ海抜高度のもっとも高い湖である。最暖月の平均気温は6~10℃、年降水量は100~300ミリメートルで、寒冷・乾燥の気候を示す。高山寒冷地砂漠が多く、とくに、北部の崑崙山麓(さんろく)では「白漠」とよばれる植生のない不毛の地域が現れる。また、上空の西風の影響を受け、全体に風速が強く、風砂を伴うことが多い。さらに、永久凍土層も広がり、厚さは平均40~80メートルにも達し、100メートルを超える地域も少なくない。蔵北高原の西部では雨量が少なく、東部では多くなり、それぞれガリ(アリ)高原、ナクチュ(ナッチュ)高原として区別されることもある。ガリ高原はバンゴンツォ(バンゴン湖)周辺およびインダス川上流のセンゲツァンポ(森格蔵市、獅泉河(しせんが/シーチュワンホー))やサトレジ川上流のランチェンツァンポ(ランチェンカバブ、朗欽蔵市、象泉河)の流域である。年降水量は50~100ミリメートルで少ないが、河谷盆地部は標高3800メートルに下降するため、最暖月の平均気温は10~14℃に上る。東部のナクチュ高原は北東の青海(せいかい/チンハイ)省玉樹(ぎょくじゅ/ユイシュー)地域まで延び、年降水量は300~700ミリメートルに達する。

 自治区南部、蔵北高原の南、ヤルツァンポ江(ヤルンズアンボ江)の広い河谷地域が蔵南谷地(やち)で、ガンディセ山脈東部およびニェンチェンタンラ山脈とヒマラヤ山脈との間、標高3500~4500メートルの東西に長い地域である。最暖月の平均気温は10~16℃、年降水量は200~400ミリメートルとなる。とくにヤルツァンポ江南岸は、ヒマラヤ山脈によって南の湿潤な気流が遮られ「雨の影」区となり、一般に雨は少ない。ヤルツァンポ江はブラマプトラ川の上流にあたり、水量が豊富で、なかでもラツェからメンリンまでの中流部はニャンチュ(河)やラサ河などの支流が多く、また、肥沃(ひよく)な河谷の平地が広がるため、ラサやシガツェなどチベットのおもな都市や集落はこの地域に集中する。チベット高原の南部は地殻運動が活発な地域で多数の地熱地域があり、とりわけヤルツァンポ江河谷は地熱エネルギーが豊富である。ヤンパチェン(ヤンバジェン)などでは熱水湖や間欠泉が集中している。自治区東部は蔵東高原で、横断山脈の北部地域である。ヤルツァンポ江の谷地ではギャツァ以東がこの地域に属する。標高2500~4000メートル、最暖月の平均気温は12~18℃、年降水量は500~1000ミリメートルに達する。また、他念他翁(たねんたおう)山脈(怒山(どさん/ヌーシャン)の北部分)やマルカム(旧称寧静(ねいせい))山脈などと怒江(どこう/ヌーチヤン)、瀾滄江(らんそうこう/ランツァンチヤン)などが交互に並び深い峡谷をつくっており、東は四川(しせん/スーチョワン)省西部地域に移行する。自治区南東部とツォモなどの地域はヒマラヤ山脈南麓地域で、青蔵高原の南斜面でもある。標高2500メートル以下で100メートル余りの所もある。ガンジス川の支流やヤルツァンポ江などの河川も急流となって南下する。最暖月の平均気温は18~25℃、年降水量1000~4000ミリメートルに達し、自治区では独特の亜熱帯、熱帯気候を示す。

[駒井正一]

産業

チベットでは改革開放体制のなかで、リンブン開放用水路などの水利建設や農地改良を進めてきた結果、1997年に耕地面積は22万ヘクタールを超え、牧草育成地の面積も4万ヘクタールに及んでいる。また、品種改良を経て40近くの作物が栽培されている。ただ、栽培の種類はかたより、なお、青稞(チンコー)が主で、播種(はしゅ)面積は全耕地の50%を超える。青稞は大麦の変種で、チベット族の主食ツァンパの原料となる。ツァンパは、青稞やエンドウなどの豆を煎(い)って粉にし、酥油(スーユー)茶(バター茶。ヤクやヒツジの乳からつくった油と茶を特製の長い筒状の桶(おけ)で混ぜたもの)でこねて食べるものである。青稞の栽培は最暖月の平均気温が10℃以上あれば可能で、低温に強く、また栽培地高度の上限が高く4750メートルにも達し、4900メートルの記録もあるため、蔵北高原のように自然的条件の悪い地域でも、春まきにより栽培されている。現在、標高4300メートル以上の耕地では80%以上が青稞栽培、標高4500メートル以上では青稞しか栽培されていない。蔵南谷地ではナタネやエンドウをはじめ、小麦の栽培も行われている。また最近は、ラサやシガツェなどの都市やその近郊では、小麦粉を使用した麺(めん)などの粉食(米飯も多い)に移行しており、小麦の需要が多い。さらに、春小麦より冬小麦の栽培の割合が高くなってきている。日照時間が長く、総輻射(ふくしゃ)量も多いので、農作物の成長期が長期に保障される。また、蔵南谷地はおおむね夜に雨が多く、日較差が大きいため、結粒も大きく比較的品質の高いものができる。蔵東高原もまたチベットでは重要な農業区である。ボウォやチャムドなどでは、青稞を主体に小麦やソバを栽培している。ヒマラヤ南麓(なんろく)地域のヤルツァンポ江やブラマプトラ川の支流沿岸のメト(メドッ)やザユル(ザユィ)などでは、河岸段丘や平地を利用して小麦のほかイネやトウモロコシも栽培している。また、低地では茶やサトウキビ、バナナなども栽培しており、1000メートル以下では一年三作が可能である。

 牧畜は蔵北高原を中心に広く行われている。チベットでの家畜飼育総数は約2380万頭(1996)で、高山寒冷地域の牧畜三大種といわれるように、ヒツジ(家畜総数の約75%)、ヤギ、ヤクがもっとも多い。蔵北高原の中央部はヒツジが主であるが、風が強く、牧草の種類も単純で、冬の牧草の確保が課題となっている。西部のガリ高原ではヒツジのほか、ヤギの割合が増える。中央部より乾燥し、条件は悪いが、バンゴンツォ周辺には天然の牧場が発達している所もある。湖の東部は淡水のため、家畜の飲料水にも利用されている。東部のナクチュ高原は比較的湿潤なため、ヤクの飼育が盛んである。なお、チベットの農牧業を発展させるために農業や牧畜業の研究・指導機関を積極的に設立してきた。ラサやシガツェにはチベット農業科学研究所や農業試験場があり、農村に科学実験ステーションを設けるなどしてチベット独特の条件を分析し、対応している。

 チベットの国内総生産(GDP)は56億元(1995)であり、中国全国90省級地域では最低で、29位の青海省の34%にあたり、国内最高の広東(カントン)省のわずか1%にすぎない。チベットの非農業人口のうち、工業企業や機関に従事する労働者および職員は、16万7000人(1996)を数える。このうち、国有企業・教育機関に従事する人は、ほかの省、自治区にくらべて著しく高く、92.8%に上る。しかし、企業の規模はおおむね小さく、工業生産では、クロム、リチウムや工業用水晶など特産の鉱工業部門や食料加工などの工業のほかには、チベット族による民族手工業の占める割合が高い。各地に工業の基礎はあるが、おおむねラサ、シガツェなど蔵南谷地の都市に集中している。ラサではプル(羊毛やヤクの毛で織った織物)、ラシャ、衣服の民族的特色をもつ部門のほか、せっけん、農具など農業や日常生活向けのいくつかの部門で郷鎮企業(1980年代以後、農村部に成立した町村個人営の農村企業)や個人の多角経営による形式で行う生産も多い。近代的工業は、1951年に解放された時点ではラサ近郊の水力発電所、製紙工場、造幣所のみであったが、その後シガツェ、ニンティなどにも建設されている。ラサはその中心である。1953年建設のラサ・カーペット工場は、当初ポタラ宮やチョカン(大昭寺)などの寺院のカーペットづくりが目的であったが、59年の民主改革後はチベット族の日常生活用や、チベット伝統工芸品として輸出用に向けられている。そのほか、1990年代に入り、10億元を超える資金を投下し、ラサ近郊のチベット中心地域「一江両河」すなわち、ヤルツァンポ江、ラサ河、ニャンチュ(河)流域の総合開発整備を進めてきた。ラサ河にはガチェン水力発電所があり、その電力を利用する農機具、搾油、製粉などの工場も設けられている。ニンティは1970年代に解放軍の援助も受け建設されたチベットの比較的新しい工業基地で、水力発電所、毛織物、木材加工などの工場がある。シガツェでは衣服、カーペットなどを生産する手工業のほか、農具製造工場などがある。ナクチュでは小型タービン、センゲツァンポでは農具修理、皮革などの工場、ヤンパチェンの地熱エネルギーを利用した発電所では中国最大の施設が建設され、発展している。

[駒井正一]

住民

住民は約95%がチベット族で、チベット各地に居住している。ロッパ族は2322人(1990年第四次全国人口調査による)で、自治区の南東部、メンリンやメト、ザユル県などに居住する。自治区南部にはメンパ族が7421人(同調査)おり、ロッパ族とほぼ同様、ツォナ、ニンティ、メトなどヒマラヤ南麓、ヤルツァンポ江下流部に集中している。そのほか、漢族や回(かい/フイ)族などが比較的大きな都市に居住する。

[駒井正一]

交通

チベットには長い間鉄道はなかったが、西寧(せいねい/シーニン)からの青蔵鉄道の建設が進められ、1998年には、青海省チャイダム盆地のゴルムドの南、南山口まで敷設され、2005年には西寧―ラサ間(1956キロメートル)全線が完成、2006年から旅客営業運転を開始した。自動車道は、すでに、ラサからナクチュ、タングラ峠、長江(ちょうこう/チャンチヤン)(揚子江(ようすこう/ヤンツーチヤン))源流部を経てゴルムド、西寧まで青蔵自動車道が通っており、ゴルムドからは青蔵鉄道を経て蘭州(らんしゅう/ランチョウ)、西安(せいあん/シーアン)、上海(シャンハイ)などに通じる蘭青(らんせい)・隴海(ろうかい)両鉄道へ連絡している。ルトゥ、シガツェなどから新疆(しんきょう/シンチヤン)ウイグル自治区のウルムチ、アクス、ヤルカンドなどに通じる新蔵自動車道や、ラサからチャムドを経て四川省の成都(せいと/チョントゥー)に通じる川蔵自動車道のほか、雲南(うんなん/ユンナン)と結ぶ滇蔵(てんぞう)自動車道、さらにネパールに通じる中尼自動車道も通っている。1990年代なかばには、プランなど一部の国境の町を開放し、1960年代に中断していたインドとの交易・往来を再開している。また、ラサを起点に成都などへの空路があり、いずれも北京(ペキン)、上海などの主要都市に通じている。

[駒井正一]

文化

ラサにはポタラ宮、かつては僧侶1万人を超していたといわれるデプン寺やチベット大学、シガツェにはタシルンポ寺、ギャンツェ(ギャンズェ)にはパンコル・チューデ寺や、寺内のチベット一高い30余メートルの万仏塔などがあり、古い集落には名勝・旧跡や文化機能をもつものが多い。また、中医(漢方)とインドの一部の医学知識を基礎にした独特のチベット医学も発達している。チベット医学院やチベット医学専門病院もあり、住民の支持も厚い。チベット医学の古典籍の整理、研究も急速に進んでいる。また、北京の中国チベット(蔵)学研究センターと協力して、チベット族の研究者や僧侶がチベット仏教の聖典『大蔵経』のコンピュータ編集による出版化を行うなど、経典の公開が可能となってきた。ナクチュには大規模な定期市があり、四川からの物資とラサからの牧畜用具が取引されてきた。また、1990年代なかばから、農業やエネルギーの開発のほか、都市部の基礎的インフラ充実のためのプロジェクト開発が進み、シガツェの上下水道の敷設をはじめとして、遅れていた都市部にも、それぞれ重要な機能が備わってきている。

[駒井正一]

歴史

吐蕃(とばん)王国

漢文史料に、「氐(てい)」とか「羌(きょう)」とよばれる民族が今日のチベット高原にいたとされるが、チベット系民族であったかどうかは確かでない。隋(ずい)の時代にその存在が知られ、唐代に「吐蕃」とよばれたのが、チベット人の建てた最初の王国であった。吐蕃は王国の体制を7世紀初めに整え、吐谷渾(とよくこん)が隋・唐2代の攻撃によって滅亡に瀕(ひん)していたのにかわり、7世紀なかばころから東西交通路の東口支配を目ざして唐と戦い始めた。安禄山(あんろくざん)の乱以後は唐に対して優位にたって、現在の甘粛(かんしゅく/カンスー)省東部を除いたほぼ全域と新疆(しんきょう/シンチヤン)ウイグル自治区南縁を支配下に入れた。そのころから仏教を国教として取り入れ、9世紀初めころになると、教団の指導者が国政の頂点にたち、仏教国家の理想を追い、8世紀ごろから定着した外戚支配機構の欠陥と相まって、843年に政権が南北王朝に分裂して王国は崩壊した。

[山口瑞鳳]

青唐王国

南朝は、祖先の拠(よ)ったヤルルン渓谷に移ったが、さらに零落して、遠祖由来の地であるラトゥやガリに逃れ、それらの地で勢力の回復を待った。11世紀に入ると、西夏(せいか)の西遷によって河西(かせい)回廊地帯が押さえられ、青海南岸から西域(せいいき)南道に出る通商路が開け、その基地として西寧(せいねい/シーニン)(ツォンカ)周辺が繁栄した。この地域に西夏に対抗する軍事力を組織するため、ラトゥに脱出していた吐蕃王家の末裔(まつえい)が首長として招かれ、ゲーセー(厮囉、菩薩(ぼさつ)の意味)とよばれていたが、やがてこの地に青唐王国を建てた。国中に仏寺を建てて、往年の吐蕃王国を小型に再現したかのようにみえた。

[山口瑞鳳]

仏教教団の繁栄

同じころ、ガリに拠った他の末裔も、勢力を回復すると、インドから学僧を招き、若者をインドに留学させて仏教を再興した。中央チベットでは、国家的保護と同時にその規制も失った仏教が民間に広まり、ボン教や、シバ教系のタントラ仏教、中国の禅宗などと混交した。諸氏族の勢力が均衡して安定してくるとともに、仏教の混乱に対する反省が生まれ、サムイェー(サムエ)に拠った北朝系の末裔が後援して、青唐方面から戒律の伝統を受け継がせ、教団再建を促進した。教団は僧と信者を集めると、通商の拠点になった。才能のある僧はインドに留学し、インドからは僧アティーシャ(982―1054)が招かれ、仏教が復活した。有力な氏族は、教団にまつわる権益に注目して、その身内を教団の中枢に入れ、しだいに教団を氏族単位で支配し、系列化していった。これらとは別に、15世紀ごろから迷信を利用して選ばれた転生活仏を法主とする教団が発生した。教団の支持者として望ましい氏族の間に幼児を求めてそれに指定し、教団の長として徹底した教育を施した。そのような教団は氏族の私有から解放され、宗派的結束を倍加させた。もちろん、一般的な師資相承による教団もあれば、親子相伝した教団もあった。

[山口瑞鳳]

モンゴルの侵入

13世紀なかばころモンゴル軍がチベットに侵入した。チベットに統一権力はなかったが、諸氏族が会談して最大の氏族教団であったサキャ派の長老を彼らの代表としてクデン王のもとに送り、貢納を約束した。元(げん)朝がチベットを支配することになると、サキャ派のパクパ(パスパ)がフビライ・ハンの信任を得て統治を代行し、1270年には帝師となり、教団のために多くの特権を設けたので、教団を中核とする特異な社会形態が定着した。その間に元の宮廷は、彼らの説くタントラ仏教に惑溺(わくでき)し、征服者から施主にと変わっていった。

[山口瑞鳳]

パクモドゥ派の政権

元朝の衰退と並行してチベット国内でも東部のパクモドゥ派が西部のサキャ派を軍事的に押さえて君臨した。元にかわった明(みん)朝は15世紀に入ると、チベット国内の勢力均衡を追認する形で積極的な懐柔政策をとり始めた。これに便乗して、チベットの氏族教団が経済的な利益を求めて競って朝貢した。なかにはタントラ仏教の官能的な側面を強調して宮廷に迎合したものもあって、チベット仏教に消えぬ汚名を残した。

[山口瑞鳳]

ゲル派(ゲルク派)とカルマ派

16世紀に入ると、パクモドゥ派の家臣で西部に拠ったリンプン氏一族が実権を掌握し、17世紀にはその家臣シンシャク氏に権力が移った。その間、15世紀初めに青海の僧ツォンカパ(1357―1419)によって中央チベットにゲル派(ゲルク派、黄帽派、徳行派とも)が開かれ、改革的気風が確立されると、既成宗派の権威が薄れ、宗派的権益が脅かされたため、転生活仏の法主制度によって宗派的結束の堅かったカルマ派の2派(紅帽派、黒帽派)が中心となって抵抗した。ゲル派のうちでも対抗する政治的勢力が生まれ、それぞれ西部、東部の諸氏族と結んでしばしば軍を動かして争った。後年ダライ・ラマ2世に数えられる古派系の自称活仏ゲンドゥンギャツォ(1475―1542)がデプン僧院の長となり、ゲル派を指導して1518年に自派の権益を回復したが、争いの終わらないうちに没したので、この派でも宗派的結束のためにその後継者を転生活仏によって補った。新しい活仏ソナムギャツォは周囲の期待に反して新旧2派の融和を図った。1578年、彼は青海に赴いてモンゴルのアルタン・ハンを教化し、ダライ・ラマの称号を受けた。さらに、モンゴリアに入って教化を進め、かの地に没した。ゲル派の政治的勢力は、アルタン・ハン一族の軍事力を期待して、その甥(おい)の子を新しい転生者に指名した。そのためカルマ派との対立が再燃し、後者はシンシャク一族と結び、さらに、モンゴルのチャハルやハルハ(カルカ)の一部と連携した。17世紀に入り、このダライ・ラマが没し、その一族がチャハルに滅ぼされたので、ゲル派は、危機を乗り越えるために漠北オイラートのグシ・ハンと盟約して、その軍を招き、カルマ派支持の青海のモンゴル人とカムのチベット人勢力、さらに中央チベット西部に拠ったシンシャク政権を壊滅させ、その支持によって1642年ダライ・ラマ5世を教主とする政権が樹立された。5世は1645年からポタラ宮の造営を始め、モンゴル人に対するダライ・ラマの権威を高め、チベット王であったグシ・ハンの子孫に対しても1660年ごろから優位にたち、実権確立に成功した。しかしその没後の摂政(せっしょう)支配が破綻(はたん)し、18世紀初めにグシ・ハンの曽孫(そうそん)、ラサン・ハンが復権を目ざし、ダライ・ラマ政権に不信の念を募らせていた清(しん)朝と結んで政権を挫折(ざせつ)させ、自ら王となった。これに反発した漠北のジュンガル軍がラサに侵入してラサン・ハンを滅ぼしたが、清軍がダライ・ラマ7世を擁してラサに入り、彼らを追い払ってチベットの貴族と軍人による連合政権をたてた。この政権の分裂に際してふたたび清軍が至り、ダライ・ラマに動乱の責任をとらせ、パンチェン・ラマの俗権を強化して、1728年ポラネー政権を出発させた。ポラネー(1689―1747)が没し、その子が権力を手にすると、清の権威を否定したので駐蔵大臣に謀殺され、後者も報復殺害されたが、ダライ・ラマ7世(1708―1757)が混乱を処理して清朝関係者を保護したので、清朝はダライ・ラマ政権を18世紀後半から再出発させた。しかし、次のダライ・ラマ8世(1758―1804)が政治を実力者の摂政に任せたため、権力をめぐる争いが続き、9世から12世までのダライ・ラマが不自然に夭折(ようせつ)した。その間にチベットはグルカ戦争3回とドクラ戦争とを経験して、強力に援助できなかった清朝の権威をしだいに軽んじ、ダライ・ラマ13世(1876―1933)が即位すると、ロシア、イギリスと接近したため、清末には宗主権の回復工作が画策され、ダライ・ラマはインドに亡命した。

[山口瑞鳳]

ダライ・ラマの支配

清朝崩壊後、亡命生活からラサに帰ったダライ・ラマ13世は「五か条宣言」によって独立を表明したが、中国側は認めず、まもなくパンチェン・ラマ9世(歴史的には6世、1883―1937)との不和を募らせたので、1925年後者が中国に亡命した。ダライ・ラマ13世の晩年、中国側と結んだパンチェン・ラマが帰国を申し出たが、実現しないうちにダライ・ラマ13世が没し、パンチェン・ラマも帰国を許されないまま4年後に没し、争いは二大ラマの転生者に受け継がれた。中国では1949年共産党がチベットの領有を宣言し、翌年チベットに軍を進めた。このとき、先に国民党に選ばれていたパンチェン・ラマ10世がまずその支配下に入った。1951年ダライ・ラマ14世もその支配を受け入れたが、1959年多くのチベット人とともにインドに逃れ、やがてダラムサラにいわゆる亡命政権を構えた。

[山口瑞鳳]

ダライ・ラマ政権の崩壊と新中国による統治のはじまり

このラサ事件とダライ・ラマのインド亡命を契機として、新中国はそれまで少数民族の特殊地帯ということで社会主義改革を見送ってきたチベットにおいても強引な改革を行うようになった。1951年の十七か条協約締結以来、新中国の主権下にありつつもかろうじてその伝統政府を維持してきたダライ・ラマ政権はここに解体され、チベットの全域が中国共産党の直接行政下に入ることになった。この1950年代における共産党とダライ・ラマ政権の共存状態は、異なる政治体制の並存という点で後に香港で実行される「一国家二制度」を思いおこさせるものではあったが、結果としては10年ともたずにダライ・ラマ政権の崩壊と改革の強行という結末に終わった。

 政府が解体された中央チベットにおいては1956年にすでに成立していたチベット自治区準備委員会によってその職権が代行された。自治区準備委員会の名目上のトップである主任委員をつとめていたダライ・ラマの不在という事態において、このシンボル的な役職を代行したのは同委員会の副主任であったパンチェン・ラマである。とはいえそのパンチェン・ラマもすぐに四川、青海、雲南、甘粛といった周辺チベット地域での強硬な改革や過酷な反乱鎮圧の実態などを中央に訴えて共産党のチベット政策を批判する『七万言書』を提出し、これがもとになって批判を受けて失脚、1964年末からは北京に軟禁され、さらに後の文化大革命の時代には9年8か月にわたって投獄されることになる。

[大川謙作]

チベットにおける文化大革命

パンチェン・ラマの失脚からまもなく、1965年9月にはチベット自治区の成立が正式に宣布されることになった。ついで翌1966年から文化大革命が始まり、チベットにもその影響が及んだ。1966年5月に毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)が文化大革命の呼びかけをおこない、文化大革命小組が北京で成立すると、早くも5月末にはラサでチベット自治区党委員会文化大革命領導小組が成立した。また6月初めに北京大学の教員と学生がいわゆる「大字報」を貼り出し始めるとラサもこれにならい、6月6日には自治区でも大量の大字報が貼り出されることとなった。このようにチベットの文化大革命は北京の動向を迅速に後追いするものであった。8月にはラサで文化大革命祝賀会が開催され、ラサ中学とチベット師範学校の教員と生徒たちを中心とするチベット初の紅衛兵が組織された。以後、ラサ中学の紅衛兵が中心となってチベット仏教の中心地であるチョカン寺を破壊した8月25日の事件を皮切りにチベット各地で文化大革命の嵐が吹き荒れた。

 古い伝統を破壊するという建前をもつ文化大革命において、こうした被害は中国全土でみられたが、とくにチベットでは寺院や経典などが古い伝統の象徴とされて破壊の対象となり、貴重な文化遺産の多くが失われた。また僧侶、旧貴族階層といったものがその批判の対象とされ、大きな被害をこうむった。北京などから大量の漢族紅衛兵がチベットにやってきてこうした行為を扇動していたとはいえ、実際にこうした文化破壊を行った実行者の多数はやはりチベット人自身であり、そのことがチベット人たちに文化大革命について語ることをためらわせ、今日もなお深い傷を彼らの中に残している。1970年代後半にいたって、毛沢東の死と四人組の追放によって文化大革命は終焉(しゅうえん)に向かい、中国は開放政策を標榜するようになる。その過程でかつて誣告(ぶこく)によって批判され告発されたものたちの多くが名誉回復を果たしていったのはその他の中国全土と同じである。このときに投獄されていたパンチェン・ラマらも名誉回復を果たし、また1959年のラサ事件以降に拘束され、文革期間を通じて投獄されていた大量のチベット人たちが釈放されていった。

[大川謙作]

改革・開放政策下のチベットとチベット問題の国際化

中国中央では、文化大革命の終焉とともに、民族政策についても大幅な見直しがはかられていった。1980年には胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)がチベットを視察して従来の共産党のチベット政策を批判することで本格的な締め付けの緩和がはじまった。また外国人旅行者の受け入れもはじまり、文化大革命で被害を受けた寺院などの修復も行われるようになった。こうした雰囲気のもと1987年からチベット問題は国際的な注目を集めるようになった。この背景にはアメリカ議会の人権派議員の活動に加えてペレストロイカに代表される共産圏諸国の開放化という国際情勢、さらに後の天安門事件につながる中国国内における革新派の勢力増大がある。ダライ・ラマは1987年にはアメリカ下院にて演説し、国際舞台に踊り出た。いわゆる「五項目の提案」である。その内容は漢民族のチベット移住などの中国のチベット政策を批判してその平和的解決を提案したものであって、かならずしもチベットの独立を訴えるものではなかったが、国際的に注目され、それに触発されたかのように同年10月にはラサでチベット独立を求めるデモが行われた。ラサでのデモ事件はこれを皮切りに1989年まで頻発し、1989年3月には大規模なデモが行われ、ラサでは全中国でも初となる戒厳令がしかれることになった。また1988年にダライ・ラマはストラスブールの欧州議会において「ストラスブール提案」とよばれる演説を行ったが、この演説においてダライ・ラマは中国の主権下におけるチベットの「高度な自治」を提案しており、チベット独立の要求がここに正式に取り下げられたという点で注目に値する。しかし、1989年の天安門事件によって政治改革と同様にチベット政策もふたたび強硬路線に戻った中国中央は、こうした和解の提案に対して冷淡であり、問題解決に向けた進展というほどのものはみられなかった。

[大川謙作]

西部大開発と経済成長下のチベット

1980年代末の体制崩壊の危機を持ちこたえた中国は、1990年代から驚異的な経済発展を遂げたが、その結果として上海などの沿海部と内陸部の経済格差が拡大した。中国国務院は2000年、これに対応して西部地域の経済発展を軌道に乗せるための大型の経済政策を発動させた。これが西部大開発である。チベットにも大量の資金が投入され、また観光客の誘致も本格化してホテルやスーパーマーケットなどの建設ラッシュがおこった。従来漢民族はチベットを貧しい後発地域とみなしてきたが、近年では外国人観光客と同様に神秘的な「聖地」としてある種の憧れをもってイメージするようになってきたことも観光業の発展を後押ししている。また2006年7月に開通した青海省とラサを結ぶ青蔵鉄道の建設もまたこの計画の大きな柱であった。この過程においてビジネスチャンスをつかんだ富裕なチベット人たちが一種の中産階級を形成しつつあることは見逃せない。こうした人々やその子弟らはテレビドラマやマンダリンポップなど中国のサブカルチャーを享受し、中国語で仕事をするなど、現体制の存在から利益を得ている者たちであり、現代チベットにおいて一定の厚みをもった既得権益集団を形成した。彼らは中国の政策と経済発展の恩恵を受けている人々であり、こうした層からは中国のチベット統治に関する不満や疑問がきかれることは少なくなった。

 とはいえ、こうした経済成長はあくまでも中央主導の輸血型のものであり、中央による大型の資本投下がなくなった後も持続的に発展できるかどうかは不明なところも多い。また急速な発展がある種のゆがみを生んでもいる。鉄道の開通によって大量の物資が流入することでチベットの物価は下がるといわれていたが、実際には中国の急速なインフレに加えて観光客や漢民族の移民の増加のために、鉄道開通以降のラサは物価が急速に上昇している。また現金経済が浸透することによって村落部の農民たちは都市へと出稼ぎに出ざるをえず、出稼ぎに出てみても漢族や回族の出稼ぎに仕事を奪われて結局最低賃金で働く下層労働者として固定されるという現象も観察される。統計の数字に表れる現金収入と消費水準は増していても、実感される生活水準という点ではむしろ落ちこんでいるということになる。結果としては、チベットにおいても中国のその他の地域同様、富める者がますます富み、貧しい者はますます窮するという二極分化が起こっており、都市と村落部の格差が問題となりつつある。

[大川謙作]

『R・A・スタン著、山口瑞鳳・定方晟共訳『チベットの文化』(1971、決定版1993・岩波書店)』『河口慧海著『チベット旅行記』(1978・白水社)』『佐藤長著『チベット歴史地理研究』(1978・岩波書店)』『中国人民美術出版社編『中国カラー文庫(3) チベットの旅』(1981・美乃美)』『中国人民美術出版社編『チベット自然・生活・ラマ教』(1982・美乃美)』『貞兼綾子編『チベット研究文献目録 日本文・中国文編1877~1977年』(1982・亜細亜大学アジア研究所)』『貞兼綾子編『チベット研究文献目録2 1978~1995』改訂版(1997・高科書店)』『長野泰彦・立川武蔵著『チベットの言語と文化』(1987・冬樹社)』『山口瑞鳳著『チベット』上下(上1987、下1988・東京大学出版会)』『ラマ・アナガリア・ゴヴィンダ著、山田耕二訳『チベット密教の真理――その象徴体系の研究』(1991・工作舎)』『ジャンベン・ギャツォ編著、池上正治訳『パンチェン・ラマ伝』(1991・平河出版社)』『トム・ダマー著、井村宏次訳『チベット医学入門――ホリスティック医学の見地から』(1991・春秋社)』『ダライ・ラマ著、山際素男訳『ダライ・ラマ自伝』(1992・文芸春秋)』『W・D・シャカッパ著、三浦順子訳『チベット政治史』(1992・亜細亜大学アジア研究所)』『加々美光行著『知られざる祈り――中国の民族問題』(1992・新評論)』『松本高明著『チベット問題と中国』(1996・アジア政経学会)』『頼富本宏監修『西西蔵(チベット)石窟遺跡』(1997・集英社)』『D・スネルグルーゴ、H・リチャードソン共著、奥山直司訳『チベット文化史』(1998・春秋社)』『水原渭江監修・撮影『佛者の目(チベット仏教写真集)』(1998・大空社)』『毛里和子著『周縁からの中国――民族問題と国家』(1998・東京大学出版会)』『A・L・ストロング著、西園寺公一訳『チベット日記』(岩波新書)』『アラン・ウイニントン著、阿部知二訳『チベット』上下(岩波新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「チベット」の意味・わかりやすい解説

チベット
Tibet

ヒマラヤ山脈の北側,崑崙山脈の南側に横たわる山岳地帯を地理的にチベットと称する。東は大雪山脈で中国本土と区切られ,西端はカラコルム山脈に接している。このうちのヒマラヤ山脈沿いの南縁とその北東に伸びた延長線上の南北に走る渓谷,および青海以南の四川省西縁の土地に住する民族がチベット人である。漢文史料で〈氐(てい)〉とか〈羌(きよう)〉と呼ばれていたものが古い時代のチベット系民族であるともされるが,確かではない。隋の時代にその存在が漢土に伝えられ,唐代に〈吐蕃(とばん)〉と呼ばれたのは,このチベット人が建てた最初の統一王国であった。

この国はソンツェン・ガンポと呼ばれる王によって七世紀前半に建てられ,隋・唐2代の圧力によって滅亡の危機にあった吐谷渾(とよくこん)を併合し,代わって7世紀後半から東西通商路の東端と南縁の支配に乗り出した。それ以前に,彼らは固有の文字をつくり,官位十二階を定めて,その階層構造の中で諸部族を統合支配する法令を定め,王の君臨を受けた。また,軍戸,民戸を分けて徴兵,徴発を制度的に完備させたうえで唐との戦いに臨み,安禄山の乱以後は優位に立って,現代の甘粛省東部を除いた大部分と新疆ウイグル自治区南部を9世紀前半までその支配下に置いた。761年以来ティソン・デツェン王(742-797)が仏教の国教化をすすめると,知的選良である僧が新しい支配階級として現れ,たちまち国政の頂点に立った。彼らは戦いを止めさせて822年唐と和平条約を締結,翌年ウイグルとも手を打った。以来,この王国はもっぱら仏教国家の理想を追ったので,財政負担がかさみ,宮廷勢力の分裂から843年南北王朝に分かれて崩壊した。

 南朝は祖先の拠ったツアンボ(蔵布)川南岸ヤルルンの地に移ったが,権威を保てないで,10世紀後半には彼らの遠祖由来の地ラトゥーやガリにのがれ,それらの地で勢力の回復をまった。11世紀に入り,西夏の西遷によって東西交通路の東口がふさがれると,青海周辺から西域南道に出る新道がひらけ,青海南東のツォンカ(西寧)付近が隊商の基地としてにぎわった。その地で西夏に対抗する軍事力の組織化が要請されたとき,チベット人に対する結束の中核として,ラトゥーにのがれていた吐蕃王の末裔ティデが招かれた。彼は唃厮囉(こくしら)(菩薩の意味)と呼ばれていたが,やがてみずから王となって青唐王国を興し,国中に仏寺を建てて往年の吐蕃王国を小型に再現した。

同じころ,西方のガリでも吐蕃王の子孫たちが勢力を回復して,インドから優れた僧を招き,若者をかの地に留学させて仏教を再興した。中央チベットでは,王朝の崩壊以来仏教は,国家的援助とともに制約も受けなくなったので卑俗化したが,民間に広くまんえんした。民族宗教のボン教や,禁教になっていたタントラ仏教,中国由来の禅宗などが一部に混交しながら民衆の間に基盤を厚くしていった。時とともに諸氏族の勢力に均衡がとれ,安定がもたらされると,おのずから卑俗化した仏教に対する反省が生まれた。そのころサムイェー寺を支配していた北朝の末裔が後援して,青唐王国に若者を派遣し,その地にもたらされていた吐蕃王国時代の戒律の伝統を受け継がせ,中央チベットに仏教教団を復活させた。教団は各地に再興され,僧と信者が集まって集落をつくり,通商を盛んにした。才能のある若者がインドに留学して流行の仏教を学んで帰り,インドから優れた僧が招かれた。このようにしていくつかの宗派が発生した。有力な氏族は,教団にまつわる利権を捨てきれないで,サキャ派のように僧にならないうちに子をもうけて親子で教団を相続したり,身内のものを教団の中枢に送りこんで,枢要な地位をおじ・おいの間で相続して教団を私有化し,氏族単位で系列化して氏族の名を冠する宗派が発生した。この傾向は教団の質を低下させる結果を生じたので,転生活仏を法主とする教団も後年現れるようになった。この方は,教団の支持層として望ましい氏族の間に有望な幼児を求め,先代の生れかわりに指定して徹底した教育によって次代を担う者にした。そのため,教団は氏族の私有から解放されると同時に質的にも向上したので宗派的結束を倍加させる功も伴った。

13世紀半ばにモンゴル軍がチベットに侵入したとき,氏族教団はモンゴル軍とひそかに接触して災厄を免れたが,師資相続の大寺院は大きな被害にあった。このときチベットに統一権力はなかったが,中央チベットの諸氏族は吐蕃王家の後裔を中心に対策をはかり,当時最大の氏族教団であったサキャ派のパンディタと呼ばれた長老を派遣してクテン(闊端)王の命令に答えた。その後,元朝がチベットを支配することになると,そのおいのパスパ(1235-80)がフビライの信任を得て,1270年には帝師となった。彼は元のチベット支配を代行しながら,この国の教団社会のために多くの特権をフビライに認めさせ,特異な社会構造の安定に寄与した。サキャ派から続いて選ばれた帝師たちは,元の宮廷をタントラ仏教に惑溺させ,多大の布施を引き出して,その支配を名のみのものとしていった。

 元朝支配の末年,チベット国内では,中央チベット西部に拠ったサキャ派一族が,東部のパクモドゥ派一族に軍事的に圧倒されたので,1354年(至正14),元は後者に司徒の印を授けた。このようにしてパクモドゥ派政権が生まれ,実力によって中央チベット諸氏族の勢力均衡を維持し,警察権を保った。元に代わった明朝は,15世紀に入ると,チベット国内の勢力均衡を追認する形で積極的な懐柔政策をとりはじめた。パクモドゥ派の首領のほかに,サキャ派本家と中央チベット北東部のディグン派一族に王の称号を与え,他方,宗教界からカルマ・カギュー派,サキャ派,それに当時新興のゲルー派の代表を明都に招いて,それぞれ法王の称号を贈った。東方のカム地方でも2人の王が任命された。このような明の方針を感知すると,各地の氏族教団,とくにカムから四川・甘粛南部にかけての僧徒が,朝廷の下賜物を目的に朝貢し,なかには茶の密貿易で利を得るものも現れた。また,宮廷に入って寵を得るためにタントラ仏教の卑猥な側面を強調して成功するものも現れ,一世紀余り明の後宮を惑乱したため,チベット仏教に邪教淫祠としての千載の汚名を遺した。

16世紀に入ると,チベット国内では,西部に拠点をもったリンプンパ一族がパクモドゥ派政権から離反して実権を掌握し,17世紀には,同じ西部に拠ったその家臣シンシャーパに権力を奪われた。その間の15世紀初めにツォンカパによってゲルー派(黄帽,徳行派)が開かれ,改革的気風がみなぎると,既成宗派の権威が薄れ,カダム派の多くが転宗したので新カダム派とも呼ばれた。カダム派のうちで,密教的修習を重んじてカギュー派とも呼ばれていたものに,かねてから転生活仏制によって法主を立て,宗派的結束を誇っていたカルマ派2派(黒帽派,紅帽派)があった。彼らは立ち上がってこの動きに抵抗したので,ゲルー派の中でもこれに対抗する勢力が生じた。後者は中央チベット東部を本拠としていたため,パクモドゥ派一族や,その配下にあったこの地域の諸氏族と結びついた。これに対し,前2者は,パクモドゥ派一族と対立して西部に拠ったリンプンパ一族と連携した。結局,西部勢力が軍を動かして東部に圧力を加え,ツォンカパが創始してゲルー派が主催し続けていたラサのムンラム大祭からゲルー派を締め出すなどの実力行使に及んだ。ときに,後年ダライ・ラマ2世に数えられるゲンドゥン・ギャツォ(1475-1542)が現れてゲルー派の支援勢力を糾合し,対抗措置を講じて1518年にそれらの権益を回復し,ラサ近郊のデープン寺の住職になった。このような争いが終わりきらないうちにこの傑僧が没した。

 そこで,ゲルー派系の支援勢力でも,宗派の結束のためにデープン寺住職をこの人物の転生者によって補い運動の中核とすることを考えた。このようにしてカルマ派の拠点に近い有力氏族の子供にそれを指定した。ゲルー派の新しい転生活仏ソーナム・ギャツォは,優れた僧として成長したが,周囲の期待に反して,対立する2派の勢力を融和させる努力を続けた。1578年,彼は青海の南岸に赴いて,彼を招いたアルタン(俺答)・ハーンと会い,ハーンを教化してダライ・ラマの称号を受けた。その後,カム地方の教化に従い,さらにモンゴリアに向かい,ハルハ部族も教化してその地に没した。ゲルー派の宗派指導層は,カルマ派との融和策を捨て,対決策をとってアルタン・ハーンのおいの子をダライ・ラマの転生者に指定した。その一族トゥメト部の軍事力を利用したかったのである。その露骨な態度がもとになり,カルマ派との対立が再燃すると,後者は,内は新しい支配者シンシャク一族と結び,さらに,ゲルー派にならって外はチャハルやハルハのモンゴル人を教化して連携した。17世紀に入り,モンゴル人のダライ・ラマが没し,やがてその一族がチャハルや青海のハルハに滅ぼされると,ゲルー派は危機に立った。彼らは急きょ漠北のオイラートに使いを遣わし,グシ(顧実)・ハーンと盟約を交わし,その軍を導入して,カルマ派支持の青海のモンゴル人を討たせた。さらに,中央チベット西部に拠っていたシンシャーパ政権(蔵巴汗)も覆滅させて1642年グシ・ハーンの軍事力を後ろだてとしてダライ・ラマ5世を法王とする政権を樹立した。45年からポタラ宮を造営してダライ・ラマの権威を象徴させ,モンゴル人一般に対する支配をしだいに強め,広く俗権の授受にまで権威としてかかわっていった。そのようにしてグシ・ハーンの没後には,その子孫を任免する形をとることができた。

ダライ・ラマ5世の晩年から18世紀はじめまで摂政サンギェー・ギャツォ(1653-1705)が実権をとり,オイラートのガルダンを繰って全モンゴル人に対する支配を,彼の軍事力によってさらに固めようとしたため,清朝との対立を深め,モンゴルの人心をかえって失う結果になった。18世紀はじめ,グシ・ハーンの曾孫ラサン・ハーン(?-1717)が復権を志し,クーデタを起こして摂政を殺し,清朝と結んでダライ・ラマ6世を廃し,1705年みずから政権を取った。このときパンチェン・ラマ2世と相談して新しいダライ・ラマ6世を立てたので青海のモンゴル人や漠北ジュンガル人の反発を招き,後者はひそかに軍を派遣して17年にラサン・ハーンを滅ぼした。清朝は,青海のモンゴル人がダライ・ラマ6世の転生者として擁していた幼童をかねて青海に保護していたが,これを正式に7世と認め,軍隊とともにラサに送り,ジュンガル軍を追って,20年にカンチェンネーらに政権を担当させたが,新ダライ・ラマを象徴的存在にとどめた。27年カンチェンネーが清の命令を受けて古派仏教徒を弾圧し,殺害されると,ポラネー(1689-1747)は清に通報し,兵を起こして主謀者たちを捕らえ,清兵の到着を待って断罪した。こうして28年,清の駐蔵大臣監視のもとにポラネーの独裁政権が出発した。ダライ・ラマの父がこの事件に関わったところから清はダライ・ラマを四川のガルタルに送って謹慎させ,35年までラサに帰還を許さなかった。さらにダライ・ラマの特権の一部を削ってパンチェン・ラマに付与し,後者の勢力を清朝側に引き付けておくのを忘れなかった。

ポラネーは清朝の信任を得て40年郡王に任命され,1747年に没した。後を継いだ次子ギュルメー・ナムギェル(?-1750)は,父と一変した態度をとり,清軍の撤退を求める一方,チベット人の軍隊を準備したため,50年2人の駐蔵大臣に殺害された。激高したギュルメー・ナムギェルの徒に駐蔵大臣らが殺されると,ダライ・ラマは異変に驚きながらも民衆をなだめ,清朝側の係累をポタラ宮に保護して清軍の到着を待った。清はダライ・ラマの処置を評価して51年からダライ・ラマを主権者とし,駐蔵大臣との協議を条件に4大臣合議の行政組織を出発させた。これが近年まで続いたダライ・ラマ政体の出発であった。まもなくダライ・ラマ7世は没し,8世が立つと,成年に達するまで新たにダライ・ラマの名代職が設けられた。最初の名代職が没したとき,8世は20歳に達していたが政治に関心が薄く,次々に摂政を置いたので権力争奪に新たな道を開くことになった。8世没後,13世が登場するまで,その間のダライ・ラマは20歳前後もしくはそれ以前に世を去り,実権は摂政や名代職の間で授受された。その間に,ネパールを支配したグルカがチベットを侵略し(1788,1791-92),さらに,1841年にはドクラ戦争が起こり,西チベットがゾラワル・シングに攻撃された。このときチベット軍は反撃したが翌年ラダックで敗れた。当時,清はアヘン戦争のため,援軍を送ることができなかったのでその監督力が無視され,チベット国内ではさらに露骨な権力争奪が繰り広げられるようになった。たとえば,名代職ラデン活仏とシェーダワ・ワンチュク・ギェーポ(?-1864)が権力を争い,後者に協力してチキャプ・ケンポ(内閣指導僧)にまでなったペンデン・トゥンドゥプは,みずから権力を掌握するとダライ・ラマ12世を廃そうとまでして,摂政ケンラプ・ワンチュクに追われた。こうした謀略が多年渦巻いた後にダライ・ラマ13世が登場した。

 13世の生まれた1876年,チベットの知らないうちに清とイギリスの間に芝罘(チーフー)条約が結ばれ,以来イギリスはチベットへの入国権を主張した。13世が実権を手にした95年は,清が日本との戦いに敗れた後であったため,チベットは清の宗主権を否定してイギリスの要求を拒んだ。そのころから帝政ロシアがチベットに往来し始めたため,いらだったイギリスは1904年ヤングハズバンドによる武装使節団をラサに派遣した。ダライ・ラマは外モンゴルのウルガに亡命し,使節団は留守をあずかるガンデン寺座首とチベット・インド条約(ラサ条約)を結んで帰った。清はチベット・インド条約に調印しなかったが,宗主権確認のためラサ政府の代表をインドに呼び出し,その手に賠償金を手渡してイギリスに支払わせた。ダライ・ラマはたび重なる帰還要請にこたえないで,青海から北京に向かい,08年その地に至った。清はその間に宗主権確認の外交工作を完成し,10年初め清から帰国するダライ・ラマを追うようにして軍をラサに送った。13世は旅装を解くいとまもなく,今度はインドに亡命した。清はダライ・ラマを罷免し,カム地方に西康省を建てて直轄地とした。清に占領されたラサではパンチェン・ラマ6世が迎えられて清に協力した。翌11年辛亥革命で清が滅び,13年1月ダライ・ラマは帰国したが,袁世凱の呼びかけを拒んで独立を宣言した。14年イギリスはシムラ会議を開き,中国の宗主権下で大幅なチベットの自治を求めた。しかし,中国はこれに調印しなかった。

 以来ダライ・ラマは東部チベットから中国勢力を駆逐して実効支配に至ることを志してほぼ成功した。その間に,財政負担をパンチェン・ラマにも求めたが,清に協力したパンチェン・ラマは報復をおそれてひそかにチベットを脱出し,25年北京に至った。以来,パンチェン・ラマの帰国とチベットの中国への帰属が国民党から繰り返し呼びかけられたが,13世は拒み続けて没し,パンチェン・ラマもまもなく世を去った。後者の転生者は,ラサ政府とは別に国民党でも選出され,共産党に引き継がれていたが,51年チベットに入ったので,正式に身分が定まった。同じ青海出身のダライ・ラマ14世は59年中国共産党との協力をやめてインドに亡命し,今日に至っている。
チベット自治区
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百科事典マイペディア 「チベット」の意味・わかりやすい解説

チベット

中国南西部,チベット人を中心とする民族自治区。漢字では西蔵。簡称は蔵。古くは吐蕃(とばん)と呼ばれた。主都はラサ。古くからチベット人はカム(東部,チャムド地区),ウェイ(中央部),ツァン(西部),アムド(北東部)の4区に呼び分け,カムは自治区に入っていなかったが,1965年これを含めて正式に自治区とされた。南はヒマラヤ山脈,北は崑崙(こんろん)山脈,東は青海・四川・雲南各省に接し,西はパミール高原に連なる。標高4000〜7000mの高原上にあり,降水量少なく,寒冷で荒野が多く,小塩湖,湿地が点在する。南部にはヤルンズアンボ川(ヤルツァンボ川とも。ブラマプトラ川の上流)が東流し,その流域で農業が行われ,麦類・チンコー(ハダカムギ)・野菜・果物を産するほか,羊・ヤギ・ヤクなどの遊牧が行われる。また金・塩・ホウ砂・麝香(じゃこう)・ダイオウなどを産する。道路はラサを中心にダージリン,カシミール,成都などに通じる。 古くから,ラサを中心としてダライ・ラマによるラマ教(チベット仏教)に基づいた政教支配が続いたが,18世紀以後,清の統治下に入るとともに,インドを経由して英国の勢力が侵入した。その力を背景に辛亥(しんがい)革命後は中国の宗主権を否認,独立を主張した。1950年中国は軍隊を送って協定を結び,1951年ダライ・ラマを首班とする自治政府をつくり,チベットは中国の版図に入ったが,1959年これを不満とする武装蜂起(ほうき)が起こり,ダライ・ラマは亡命した。 中国の五つの民族自治区のうち,チベット自治区は最も遅れて1965年に成立したが,中国支配下の459万人余に及ぶチベット人人口(1990年)のうち,自治区の人口は263万人弱で,残りの約250万人は青海・四川・甘粛・雲南など各省のチベット族自治州・県に分布している。1966年からの文化大革命による混乱をへて1980年代以降新たな民族政策がチベットでは採られたが,漢族官僚による統治に対して1987年以後寺院を中心にチベット人の異議申立てが活発化している。122万8400km2。310万人(2014)。→チベット問題
→関連項目シムラ会議ソンツェン・ガンポチベット[人]中華人民共和国

チベット[人]【チベット】

おもにチベット高原に住み,チベット語を話しラマ教(チベット仏教)またはポン教を信仰する人びと。遊牧民もいるが,河川流域地帯で麦類,トウモロコシの栽培を行う。中国では蔵族と記し,人口約460万人(1990),そのうち約半数がチベット自治区に住む。→チベットチベット問題

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「チベット」の解説

チベット
Bod[チベット],Tibet[英]

長江,黄河,ガンジス川,メコン川などアジアの諸大河の源流域であり,北の崑崙(こんろん)山脈と南のヒマラヤ山脈の間に挟まれた平均標高3500mのチベット高原をさす。漢文史料によると紀元前より,チベット高原東部には氐(てい),羌(きょう)という民族が住んでいた。チベット語史料から確認できる歴史は,7世紀に中央チベットのヤルルン地方出身のソンツェンガムポ王がチベットに初の古代王朝(吐蕃(とばん))を開いてからである。この王朝のもとでインドと中国から仏教が導入され,その結果成立した僧院勢力はこれ以後のチベット史の主役となった。9世紀に古代王朝が滅んだのち,僧院は各地の氏族と結びつき,聖権と俗権が支え合うチベット特有の社会を構成した。13世紀にはクン氏と結びついたサキャ派が元朝の保護のもとでチベットを支配し,その後,ラン氏と結びついたパグモドゥ・カギュ派が勢力を張った。17世紀に入り,ダライラマ政権が成立すると,チベットの社会は仏教が世俗の優位に立つ完全な神権国家となった。ラサにはチベット仏教を奉じるモンゴル人,満洲人の巡礼者が雲集し,両民族はダライラマを支持するポジションを争って抗争を繰り返した。19世紀になると,チベットはカシュミール,中国から侵略を受けたが,1913年,清朝の崩壊に乗じてダライラマ13世は事実上の独立を果たした。しかし,51年中華人民共和国軍が進駐し,チベットは中国に併合された。現在,伝統的なチベット人の居住域は西蔵自治区,青海省,四川省,甘粛省,雲南省,ネパールとインドの北部山岳地帯とに分断されている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「チベット」の解説

チベット
Tibet

パミール高原の東,崑崙 (クンルン) 山脈とヒマラヤ山脈にはさまれた中国の自治区。中国では西部と中部のチベットのみを西蔵 (シーツアン) という
高原農耕地と遊牧民を含み,漢代から氐 (てい) ・羌 (きよう) の名で知られ,7世紀に吐蕃がおこって民族の統一がなった。吐蕃は唐やネパールと交通し,チベット仏教やチベット文字を創始したが,9世紀半ば以後分裂して各地に諸侯が割拠した。13世紀にモンゴルに征服されると,紅帽(サキャ)派の僧が重用され,明代にも優遇された。14世紀にツォンカパが出て堕落したチベット仏教を改革し,黄帽(ゲルク)派を創始した。以後,代々ダライ=ラマが宗教上・政治上の首長となったが,18世紀には清朝の支配下にはいり,また19世紀後半からはイギリスの圧力も加わった。辛亥革命後,ダライ=ラマは中国の宗主権を否認して完全独立を主張したが,中国政府はこれを認めなかった。第二次世界大戦後,国民政府はチベットに自治権を認めたが,中華人民共和国が成立すると,1951年チベットに軍を進めて「和平解放に関する協定」を結び,ダライ=ラマは59年インドに亡命した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「チベット」の解説

チベット

チベット学者、山口瑞鳳による著作。1987年~1988年刊行。上下巻からなる。1988年、第42回毎日出版文化賞(哲学・宗教・思想・法律)受賞。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のチベットの言及

【多田等観】より

…チベット学者。秋田市土崎港旭町浄土真宗本願寺派西船寺出身。…

※「チベット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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