H.フェイヨルとともに管理論の基礎を築いた人物で,〈科学的管理の父〉と呼ばれるアメリカの機械技師。フィラデルフィアに生まれ,18歳で地元のポンプ製造所の見習機械工となり,後にミッドベール製鉄所の技師長になった。これらの経験にもとづいて彼は,作業場の能率化を図るためのいくつかの手法を編み出した。その手法は〈テーラー・システム〉と呼ばれる。内容は,労働者の一定時間内における標準仕事量を決める時間研究・動作研究,差別出来高給制度,計画部門の設置,指図票の考案,機能別職長制度,などを包摂している。彼はこのシステムを採用することによって労働者の組織的怠業を防ごうとしたのである。そして1911年の鉄道運賃値上げ問題のなかで,彼のシステムが〈科学的管理〉と称賛を受け大きな反響を巻きおこした。しかしその後彼のシステムに対する労使,とくに労働者の反発が高まって,しだいに彼の活動も自説の弁護に明け暮れるようになった。
彼はその内容を四つの原則にまとめている。すなわち,(1)工員の古い体験的知識に代わる科学の育成,(2)工員の科学的選考と漸進的育成,(3)科学と科学的に選考・訓練された工員との結合,(4)現場の仕事についての工員側と経営者側の間でのほぼ平等な分担である。彼の考え方は,その後F.B.ギルブレスらによっていっそう精緻(せいち)化された。労働科学,人間工学,経営工学,インダストリアル・エンジニアリングなどの研究の道を開き,工場レベルの管理の科学化の原点としての地位を保っている。
→科学的管理法
執筆者:辻村 宏和
イギリス生れの地理学者。F.ラッツェルの地理思想を発展させ,歴史や人類の移動性を考慮しながら,地理的条件を重視した研究業績,地帯層序論や雨温図(ハイサーグラフ),地平和学geopacificsなどの提唱で知られる。シドニー大学やケンブリッジ大学で地質学や工学などを学び,氷河学に関心を抱き,スコットの南極大陸探検に参加。1916年にシドニー大学より南極大陸の地質に関する研究で博士号を取得。20-28年シドニー大学最初の地理学講座を担当したがオーストラリアの人口,入植問題で政治家と激しく対立し,28年オーストラリアを去り,シカゴ大学地理学講座を担当,45年にはトロント大学に移り70歳で退官。40冊以上の著書,150点をこえる論文等を残した。代表作には,《環境と人種》(1927。邦訳あり),《環境と国民》(1936),《都市地理学》(1949),《われらの進化する文明,地平和学序説》(1946)がある。
執筆者:西川 治
アメリカの黒人ジャズ・ピアニスト。ニューヨークに生まれ,ニューヨーク・カレッジ・オブ・ミュージックを経たのち,ボストンのニューイングランド音楽院でピアノ,編曲,和声を学び,近代音楽を専攻した。卒業後ジャズを演奏する機会が多くなり,56年秋デトロイトでトリオを結成。バルトーク的なジャズ・ピアノを弾き,ジャズ界を驚かせた。セシル・テーラー自身はデューク・エリントンを慕い,ブルースと黒人の伝統に立脚して音楽をつくっていると信じていたが,50年代には伝統から外れたジャズマンとみなされていた。60~70年代のフリー・ジャズ時代に入ると,フリー・ジャズのパイオニアとして特にヨーロッパから人気を得た。日本では初期の山下洋輔(1942- )に影響を与えた。代表作に《カフェ・モンマルトルのセシル・テーラー》(フォンタナ),《ユニット・ストラクチャーズ》(ブルーノート)などがある。
執筆者:油井 正一
イギリスのプロテスタント宣教師。中国名は戴雅各(徳生)。ヨークシャーのバーンズリーに生まれ,佈道会Chinese Evangelization Societyによって1854年(咸豊4)上海に派遣された。まもなく会を離れ独立宣教師として主として寧波(ニンポー)を中心に活動したが,健康を害して60年に帰国,65年に中国におけるプロテスタント伝道の危機と内陸伝道の必要を訴える書物を刊行した。この反響は大きく,力を得た彼は内地会China Inland Missionを設立し,66年に中国へもどり,精力的に内地伝道を指導した。1858年の天津条約では宣教師に内地伝道は許されていたが内地居住権は認められていなかった。しかし彼は11ヵ所に教会を設け既成事実を作ろうとした。この結果,68年の揚州事件などのキリスト教排斥運動(仇教案=教案)を誘発した。
執筆者:春名 徹
イギリスのプラトン学者。近代のプラトン主義者は数えきれないが,彼だけが特に〈プラトニスト〉と呼ばれているほど,一生をプラトンの研究,翻訳,注釈,祖述に打ちこんだ。貧しい家庭に生まれ,正規の教育を受けなかったが,銀行員として暮しを立てながら独学でプラトンを学び,キリスト教以前の密儀文明の解明と復興を志した。生前,学界からは完全に孤立し,無視されていたが,少数の熱心な後援者を得て,プラトン哲学の背後にある霊的伝統そのものの鼓舞と発揚を行った。この意味で,彼は〈プラトン主義者〉というより〈プラトン教徒〉と呼ばれる方がふさわしい。ロマン派の詩人,W.ブレーク,コールリジ,P.B.シェリーはその霊感を受けた信徒であり,エマソンやW.B.イェーツも彼から圧倒的な影響を受けている。彼の業績は今でも欧米の秘教結社の中で,きわめて高く評価されている。
執筆者:大沼 忠弘
アメリカの舞踊家,振付家。オレゴン州生れ。1953年,〈浮浪者バレエ〉で最初の振付を行い,54年自分の舞踊団を創設したが,55年から61年までM.グラーム舞踊団のソロイストも兼ねた。彼の踊りは絶えず変貌し,初期は因襲打破の前衛で,率直,純粋なアンチ・ダンスともいうべき作風だったが,のちに筋のない新古典主義的な作品もつくった。その後,しだいにユーモアを織り交ぜた想像力豊かなものとなり,人間関係,社会のたてまえ,偽善を風刺した。また,その舞踊は性的できわめて退廃的に見えるときもある。《三つの墓碑銘》(1956),《オーリオール》(1962。ヘンデル曲),《エスプラナード》(1975。バッハ曲)など作品は70を超える。
執筆者:木村 英二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…近代になって洋服が普及すると,洋服の仕立職人が別に生まれ,〈舶来仕立屋〉と呼ばれたこともある。【遠藤 元男】【鈴木 晋一】
[西洋]
一般に男子服を扱うものをテーラーtailor,婦人服を扱うものをドレスメーカーdressmakerという。今日では,服飾デザイナー(フランス語ではクチュリエcouturier)の職種が現れ,デザイン,縫製,販売を行う服飾専門店が普及している。…
…日本の洋服業は,幕末の開港後の横浜で来航西洋人によって開かれた。1867年(慶応3)に,テーラー(男子洋服仕立業)の〈ラダーゲ=オエルケ商会〉(ドイツ),〈ロートムンド商会〉(ドイツ),ドレスメーカー(婦人洋服仕立業)の〈ミセス・ピアソン〉(イギリス)が開業した。これらに入店して技術を習得した増田文吉,関清吉らの洋服屋開業は明治初年であった。…
…中でも,産業の発展が急速であったアメリカにおいては,人手不足,多民族性,激しい企業競争という問題をかかえて,工業経営を効率的に進める必要性が強く認められていた。そのようなときに,F.W.テーラーが自分の勤務していた鉄鋼業に適用した経験をまとめた《工場管理Shop Management》という論文を1903年に発表した。その中で彼は,ストップウォッチを用いて作業を分析し標準時間を設定する方法,標準時間をもとにして能率給を支払う方法,監督者を機能別に配する方法,作業の指示を標準化されたカードを用いて具体的に行う方法などを提唱した。…
…F.W.テーラーを始祖とする工場管理の方法。狭義には,テーラーが提唱した工場労働の時間研究time studyによる標準時間と作業量の設定,職能別職長制度に,ギルブレスFrank Bunker Gilbreth(1868‐1924)が開発した作業方法の研究(動作研究motion study)による作業簡素化・標準化を加えた管理方式をいい,しばしばテーラー・システムと同義に用いられる。…
…こうして,標準作業方法,標準作業時間が定められ,その結果,標準作業量すなわち課業が科学的に設定される。以上のような動作研究,時間研究による課業の科学的設定を最初に試みたのは,F.W.テーラーの科学的管理法である。19世紀末のアメリカの多くの工場では,単純出来高給制度(能率給)が採用され,しかも出来高賃率の切下げがしばしば行われ,労働者はこれに組織的怠業systematic soldieringという手段をもって対抗したため,生産能率の低下が大きな社会問題となった。…
… アメリカ経営学の最初の問題意識は,分業を進行させていた生産活動を体系的に管理するための労務管理と生産管理にかかわっていた。1880年代から20世紀初頭にかけて,これらの問題に直面していた機械技師たちによってさまざまの議論がなされたが,そのうちの代表的なものの一つがF.W.テーラーによる科学的管理法である。これは企業経営の問題に初めて科学的に接近したものとして広く注目を集め,実践面にもまたその後の経営学の発達にも大きな影響をもった。…
…かつての内部請負人は,その蓄積した所得をてこに企業家に上昇転化するものと,熟練労働者,さらに生産管理のベテランとして企業の職長になるものとに分かれていった。後にとりあげるF.W.テーラーが科学的管理の名のもとに工場管理の合理化を行ったのは,ちょうどこのころにあたる。彼は,こうしてできた職長制度を,ありとあらゆることを1人でしなければならないが,結局はなにひとつ十分にできない万能式職長制度であると批判し,今まで1人の職長がやっていた仕事を職能別に分化させ8人の職長に代替させる職能的職長制を提案した。…
…この優れた作業システムの実現が作業研究の課題である。 作業研究は人間行動の歴史とともに存在してきたが,工場生産においてこれを組織的に行ったのがF.W.テーラーである。彼は20世紀初めころ,出来高賃金制度の基準となる作業量が1日の公正な仕事量として客観的に存在するはずだという思想に立って,これを見いだすため,時間研究time studyをはじめとする各種作業への実験科学的研究を行った。…
…こうしたなかで,経営体の人事・労務管理の基本単位として登場してきたのが職務jobという概念である。当時(1900年代初頭)の工場管理は職長に全権が集中し,採用・解雇や賃率の設定が恣意的に行われていたが,その現状を科学的に分析し,大量生産方式による大規模経営の管理に原則を与えたのは,F.W.テーラーである。彼の提唱する科学的管理法の手法は,同時代の能率技師であったF.B.ギルブレスやその後継者によって生産工学的な管理技法に展開されていった。…
…アメリカで19世紀末ころから始められた工場生産の作業能率を高めるための運動をいう。能率増進運動の最初の体系的提唱者は,アメリカのF.W.テーラーである。彼はアメリカ産業界における現場管理のシステム化について実験し研究してきた成果をまとめ,1903年に《職場管理Shop Management》,さらに11年に《科学的管理法の原理The Principles of Scientific Management》を出版した。…
…労働科学では人間の肉体的ないし精神的活動,たとえば特定の機器操作の手指作業やシミュレーターによる情報処理作業,温湿度,照明,振動,騒音等環境条件の人間の心身に及ぼす影響や特定の化学物質の有害性などについて実験室内の実験的研究も重視されるが,それは現実の労働をめぐる諸関連について科学的認識をより確実とするためで,なによりも各種産業の現場研究が最も重視される。F.W.テーラーは公平な1日の仕事量決定のため作業を単純な要素動作に分解し,その一々の要素動作を熟練者についてストップウォッチで計測し,最大の仕事の効率を収めるための標準作業動作を提唱し(1911),その流れが今日に至っているが(〈科学的管理法〉の項参照),このテーラー・システムに対し労働科学は労働の結果としての疲労とパフォーマンス(実際の仕事の質・量,生産高など)をともに客観的に把握し,労働力保全の視点を重視して望ましいパフォーマンスを収めうるような労働の組織と内容を問題とする。
[労働科学の起源]
産業はその発達の過程で人間労働の機械への従属や生産至上主義の経営管理を生みだし,働く人間にとって好ましくないさまざまな要素を労働条件の中に現出させてきた。…
…横軸に相対湿度,縦軸に湿球温度をとった直交座標において,各月平均値に基づいてプロットされた12点を月順に結びつけた線図。1915年G.テーラーが白人移住の際の気候適応の問題として体感気候を表現するために考案したもの。資料入手の便宜上,湿球温度の代りに乾球温度を用いることもある。…
※「テーラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...