百科事典マイペディア 「ディアドコイ」の意味・わかりやすい解説
ディアドコイ
→関連項目アレクサンドリア(古代)|ヘレニズム|マケドニア王国
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ギリシア語で「後継者」の意。とくにアレクサンドロス大王の急逝(前323)後、それぞれ大王の後継者と呼号してその遺領を争ったマケドニアの部将たちをいう。またその抗争をディアドコイ戦争(前323~前280ころ)とよぶ。
抗争は、まず中心勢力であったペルディッカスおよびエウメネス、摂政(せっしょう)アンティパトロス、アンティゴノス(1世)らの間に繰り返された(~前316ころまで)が、この段階では遺領の一体性を保全しようとする理念(統一派)が強かった。このころまでに大王の弟フィリッポス3世アリダイオス(前317)も太后オリンピアス(前316)も弑(しい)された。ついで、勝ち残ったアンティゴノスに、リシマコスやカッサンドロス、プトレマイオス(1世)、セレウコス(1世)らの分離派が対抗。紀元前301年イプソス(小アジア)の戦いに後者らが勝って、旧帝国保持の夢が完全に失われた。この間、大王の妃ロクサネと遺児アレクサンドロス4世とが毒殺されて大王の王統が絶え(前310/309)、前306年以降ディアドコイらは一斉に後継者としての王号をとなえるに至る。この段階で王朝の形成が始まったといえよう。その後、抗争はなお分離派相互の間で熾烈(しれつ)に続けられ、前281年クルペディオン(小アジア西部)でリシマコスが敗れて、過渡的なトラキア王国が滅亡した。最終的には、アンティゴノス2世のマケドニア、プトレマイオス1世のエジプト、セレウコス1世のシリアというヘレニズム三国が確定した。
[金澤良樹]
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「後継者」を意味するギリシア語。特にアレクサンドロス大王の遺領の争奪戦を繰り広げた部将たちをさし,彼らの間の戦いを「ディアドコイ戦争」という。また大王の死んだ前323年から,イプソスの戦いの行われた前301年,リュシマコスが敗死した前281年,あるいはマケドニアにアンティゴノス朝が確立した前276年までを「ディアドコイ時代」と称する。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…セレウコス王国とも呼ぶが,前300年オロンテス河畔にアンティオケイア(アンティオキア)を建設し首都としてより,終始北シリアを王国の核心部分としたのでこの名がある。
[歴史]
セレウコス1世はアレクサンドロス大王の死後バビロニアの総督となり,前312年地歩を確立(セレウコス朝暦第1年),大王の後継者たち(ディアドコイ)の争いの渦中で勢力を拡大し,西は小アジアから東はインド国境におよぶ広大な領土を獲得した。しかし,その後はたび重なる戦争(とくにプトレマイオス朝とのシリア戦争),王家内部の紛争,王国内各地の離反独立(ペルガモン,パルティア,バクトリアなど)によって弱体化し,アンティオコス3世(在位,前223‐前187)のとき,内政改革と再征服遠征によって一時的に衰勢をたてなおし大版図を回復したが,東地中海に力を伸ばしたローマに敗れて頓挫し,アンティオコス4世(在位,前175‐前164か163)の膨張政策と国内改革も,ローマの介入やユダヤの反乱などによって挫折を余儀なくされた。…
※「ディアドコイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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