精選版 日本国語大辞典 「ディケンズ」の意味・読み・例文・類語
ディケンズ
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イギリスの小説家。2月7日、海軍経理局勤務の下級官吏の長男として南イギリスの軍港ポーツマス郊外に生まれ、のちロンドンに移住した。父のジョンは好人物だが金に締まりがなく、借財の不払いで投獄されたこともある。そのためディケンズは少年時代から貧乏の苦しみをなめさせられ、学校にもほとんど通わせてもらえず、12歳から町工場に働きに出された。資本主義の勃興(ぼっこう)期にあった19世紀前半のイギリスの大都会では、繁栄の裏に恐ろしい貧困と非人道的な労働(年少者の酷使など)というひずみがみられた。こうした社会の矛盾、不正を肌で体験したディケンズは、貧乏の淵(ふち)から抜け出そうと自力で必死の努力を重ね、独学で勉強しながら15歳で弁護士事務所の下働き、翌年裁判所の速記者となり、やがて新聞記者となって議会の記事や、風俗の見聞スケッチを書くようになった。1833年に短編をある雑誌に投稿して採用されたのに力を得て、引き続き短編、小品などをあちこちの雑誌類に発表、これらを集めた『ボズのスケッチ集』が36年に出版されて、24歳の新進作家が華々しく文壇にデビューした。
翌1837年に完結した長編小説『ピックウィック・ペーパーズ』は、4人(途中から5人)の人物が旅する先々で滑稽(こっけい)な事件を巻き起こすという単純な筋だが、その明るいユーモアで爆発的な人気をよび、次作『オリバー・トゥイスト』(1838)もベストセラーとなって、彼の作家的地位は確立した。その後イギリスとアメリカのあらゆる階層、年齢の読者からの声援にこたえて、『ニコラス・ニックルビー』(1838~39)、『骨董(こっとう)屋』(1840~41)、『バーナビー・ラッジ』(1841)、『クリスマス・キャロル』(1843)、『ドンビー父子』(1846~48)など、立て続けに長・中編を発表して文名は高まる一方であった。この高評の原因は、自らの体験で知った社会の下積み生活、その哀歓をリアルに描くとともに、世の不正と矛盾を勇敢に指摘し、しかもユーモアを交えながら批判したところにあった。事実、彼の小説の出現によって、年少者の虐待や裁判の非能率などが改められたほどである。
1850年に完結した自伝的作品『デビッド・カパーフィールド』あたりから、作品の質がすこしずつ変わってきて、ディケンズ後期の特徴が顕著になってくる。次作『荒涼館』(1853)がそのよい例で、前期の作品のように1人の主人公の生い立ちや体験を中心に描くのではなく、かなり多くの人物群を中心に、社会の各層を広く見渡す、いわゆるパノラマ的社会小説に近くなってきた。作品のなかに立ちはだかる、個人の力ではついに改善しきれない社会の体制の壁を前にして、ディケンズ得意のユーモアもどこか苦々しい笑いに変わり、無力感、挫折(ざせつ)感が全編に漂うようになった。しかし創作力は依然として衰えず、工場ストライキを扱った『つらいご時世』(1854)、G・B・ショーによって「『資本論』よりも危険な書」と評された暗い社会小説『リトル・ドリット』(1855~57)、フランス革命を扱った『二都物語』(1859)、やや自伝的な『大いなる遺産』(1861)などの長編のほか、かなり多くの短編、随筆を書き、さらに雑誌の経営・編集、慈善事業への参加、素人(しろうと)演劇の上演、自作の公開朗読、各地への旅行と、休む暇のない精力的な活動が続いたために健康を損じたが、やめようとはしなかった。
そのうえ58年には、20年以上連れ添い10人の子供を産んだ妻キャサリンと別居(性格があわないうえ、20歳そこそこの若い女優エレン・ターナンを愛人にもったためという。しかし世間の評判を気にして離婚はできず、愛人のこともひた隠しにしていた)するなど、精神的な苦労も重なり、70年6月9日、推理小説風の謎(なぞ)に満ちた『エドウィン・ドルードの謎』を未完成のまま世を去った。全世界、各階層の哀悼のなかで、文人最高の栄誉としてウェストミンスター寺院に葬られた。
彼の小説は、一部からは読者に迎合した感傷的で低俗なものと非難されるが、人間味とユーモアに富む数々の登場人物は、永遠に忘れられない溌剌(はつらつ)さをもっており、死後1世紀を通じて各国語に翻訳されて、トルストイ、ドストエフスキーからカフカに至る崇拝者をもち、シェークスピアとともにイギリス文学を代表する作家と認められている。なお、ディケンズ・フェロウシップ日本支部が東京都世田谷(せたがや)区成城(せいじょう)の成城大学英文学研究室内に置かれている。
[小池 滋]
『青木雄造・小池滋訳『世界文学大系29 荒涼館』(1969・筑摩書房)』▽『小池滋訳『リトル・ドリット』(『世界文学全集33・34』1980・集英社)』▽『海老池俊治著『ディケンズ』(1955・研究社出版)』▽『フィールディング著、桜庭信之訳『ディケンズ』(1956・研究社出版)』▽『小池滋著『ディケンズ』(1979・冬樹社)』
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1812~70
イギリスの小説家。ヴィクトリア朝イギリスにおける工業化の進展によって苦しめられた下層中産階級を同情的に描き,ユーモアをまじえ社会を批判した『ピックウィック・ペイパーズ』で熱狂的評判を得る。代表作『デーヴィド・カッパーフィルド』『二都物語』など。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…今日のクリスマスはこのときから始まった。新しいクリスマスの成立に大きく寄与したのはビクトリア女王の夫君アルバート公とC.ディケンズである。アルバート公はドイツからクリスマス・ツリーの習慣をウィンザー城の家庭クリスマスにもちこみ,ディケンズは《クリスマス・キャロル》をはじめいくつかの文学作品を公刊し,クリスマスの楽しさ,陽気さを伝え,同時に,クリスマスのあるべき姿,物質的楽しみを享受するために果たさねばならない慈善などの義務を教えた。…
…イギリスの作家ディケンズの中編小説。1843年のクリスマスにあわせて発表。…
…しかし18世紀を支配したJ.J.ルソーの教育説はたくさんの心酔者を出して,児童文学は型にはまり,C.ラムは姉メアリーとともにこの風潮に反抗して,《シェークスピア物語》(1807)などを書いたが,児童文学が自由な固有の世界となるには,ペローやグリム,アンデルセンの翻訳をまたなければならなかった。しばしば子どもたちの実態を小説に描いたC.ディケンズは《クリスマス・キャロル》を1843年にあらわし,E.リアは滑稽な5行詩による感覚的なノンセンスの楽しみを《ノンセンスの本》(1846)にまとめた。 空想の国へ子どもをさそうファンタジーは,C.キングズリーの《水の子》(1863)を経て,L.キャロルの《不思議の国のアリス(アリス物語)》(1865)でみごとな花をさかせた。…
…このほかに推理小説評論が若干ある。 ポーが試みなかった長編推理小説を,イギリスのディケンズが《バーナビー・ラッジ》(1841),未完の《エドウィン・ドルードのなぞ》(1870)などで,ディケンズの親友W.コリンズが《ムーンストーン(月長石)》(1868)などで実現した。これらの作品では純粋の論理的操作もあるが,それより人間の性格・心理,状況の異常さに力点が置かれ,パズルよりも文学性に特色がある。…
…イギリスの小説家C.ディケンズの小説。1850年刊。…
※「ディケンズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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