百科事典マイペディア 「デリー・サルタナット」の意味・わかりやすい解説
デリー・サルタナット
→関連項目アイバク|パキスタン|パンジャーブ|南アジア
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1206~1526
13~16世紀に,インドのデリーを首都とし,その王がみずからをスルタンと称した五つのイスラーム王朝の総称。デリー・スルタン朝,デリー諸王朝とも呼ばれる。トルコ系の奴隷王朝,ハルジー朝,トゥグルク朝,サイイド朝,アフガン系のローディー朝が継起した。奴隷王朝は,インド最初のイスラーム王朝で,トルコ系のイルバリー族出身者の政権であったが,ハルジー朝,トゥグルク朝はトルコ系雑種部族出身者が樹立し,インド人の改宗ムスリムの登用もふえた。両王朝の頃,その領土は一時インド南端近くにまで拡大したが,その後,領土は縮小し,デカンには別のイスラーム諸王朝が継起した。デリー・サルタナットは宗教的には比較的寛容であったが,イスラーム神秘主義者(スーフィー聖者)の活動などの影響で,しだいに改宗者が増大した。王や高官の都市居住は,都市人口の増大,商品経済の発展を促し,デリーなどで建築,音楽,文学,ウルドゥー語など,インド・イスラーム文化が発達した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
13世紀初頭から16世紀前半までの間、おもに北インドのデリーを首都として続いた五王朝をいう。パターンPathān朝とよばれたこともあるが、この名称は今日では学問的にはほとんど用いられない。奴隷王朝(1206~90)、ハルジー朝(1290~1320)、トゥグルク朝(1320~1413)、サイイド朝(1414~51)およびローディー朝(1451~1526)の五王朝。パターンとは本来アフガン人をいう名称であるが、最後のローディー朝がアフガン系であったのを除くと他はトルコ系である。サルタナットとは、スルタンを首長とするイスラム教徒の王権である。この300年を超す五王朝の支配は、領域や主権の点ではときに強弱はあったが、北インドで初めて長期にわたって存続したトルコ・アフガン系イスラム教徒による支配であったため、インドの伝統的な支配関係や社会、文化に大きな影響を与えた。首都デリーには今日なお、城砦(じょうさい)、宮廷の跡をはじめ多数の墓建築やモスクなど、当時の支配層の造営させた建造物が残っている。
[荒 松雄]
冬期3カ月の平均気温が平年と比べて高い時が暖冬、低い時が寒冬。暖冬時には、日本付近は南海上の亜熱帯高気圧に覆われて、シベリア高気圧の張り出しが弱い。上層では偏西風が東西流型となり、寒気の南下が阻止され...
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