トラキア(その他表記)Thracia; Thrakē

デジタル大辞泉 「トラキア」の意味・読み・例文・類語

トラキア(Thracia)

バルカン半島東部の地方エーゲ海に臨み、ギリシャからトルコにまたがる。古代にはブルガリアも含め、北はドナウ川、東は黒海までをさした。トラーキ。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「トラキア」の意味・読み・例文・類語

トラキア

  1. ( Thracia ) バルカン半島東部の地方名。古代は黒海の南西岸からエーゲ海沿岸部までの地域、現在はその南部地域をさし、ギリシア領、トルコ領、ブルガリア領とに分かれる。紀元前二〇〇〇年頃からトラキア人が居住し、前七世紀からギリシアの植民が行なわれ、前四世紀以後はマケドニア・東ローマ・オスマン‐トルコの支配を経た。バルカン戦争以来、ギリシア・トルコ・ブルガリアの間でその領有が争われた。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トラキア」の意味・わかりやすい解説

トラキア
Thracia; Thrakē

現代ギリシア語ではスラキ。バルカン半島南東部の古代および現代の地域名。範囲は時代により異なるが,古代ギリシア人のトラケーは北はドナウ川,南はエーゲ海,東は黒海とマルマラ海,西はほぼバルダル川東岸の山地までであった。ローマ属州としてのトラキアはこれよりやや小さく,北は現ブルガリアのバルカン山脈,西はネストス川までにすぎなかった。西部特にストリモン川以西は前 480年以降マケドニアに編入された。現代のトラキアは,ブルガリア南部,ギリシアのスラキ地方およびゲリボル半島を含むトルコのヨーロッパ部分に相当する。インド=ヨーロッパ語族に属するトラキア人は優秀な戦士であったが,政治的に分裂し続けていたため近隣諸国を侵すことはなかった。ギリシア人植民都市が沿岸部に発達したが,特にビザンチオンアブデラアイノスが有名。黒海のブルガス湾岸には,イオニアのミレトス人によってアポロニア (前7世紀) が,またビチュニアのカルケドン人によってメセンブリア (前6世紀) が建設された。前 516年頃には大部分のトラキア人はペルシアに服属,一時オドリュサイ族が帝国を築いたが,前 360年に3つに分裂してマケドニアのフィリッポス2世に吸収された。前 197年ローマは大部分をペルガモン王国併合。ヘブロス川以西の海岸部はローマのマケドニア属州に編入された。 46年王国はローマに併合され,サルディカ (現ソフィア) ,ハドリアノポリス (現エディルネ) などのローマ都市が建設された。 300年頃ディオクレチアヌス帝はドナウ川下流からエーゲ海にいたる部分を,トラキア行政区として再編した。1~7世紀には西ゴート人とスラブ族が侵入し,7世紀にはブルガリア国家が建設されて,ビザンチン帝国はバルカン山脈以北を失った。 14世紀には帝国の内乱のためトラキアは分断され,1453年オスマン・トルコ人の4世紀にわたる支配に服することとなった。その後 19世紀の露土戦争,1912~13年のバルカン戦争抗争の場となり,第1次世界大戦後ギリシア,ブルガリア,トルコの国境がほぼ現行のごとく画定した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「トラキア」の意味・わかりやすい解説

トラキア
とらきあ
Thracia

バルカン半島東部の地方。「トラキア」は古名で、現代ギリシア語名はトラーキThraki (Thrake)。トラキアの範囲は時代によって非常に異なる。古代ギリシア時代では、西側はマケドニアに接し、東は黒海の西岸とマルマラ海の北西部、南は沿岸部を除いたエーゲ海に囲まれた地域をさした。現代では古代のそれよりいくぶん南側の地域をさし、マリーツァ川(古名ヘブロス川)を境にして、西側のギリシア領を西トラキア、東側のトルコ領を東トラキアとよんでいる。

 古くからインド・ヨーロッパ語族のトラキア人が居住していたが、彼らは好戦的で野蛮な民族としてギリシア古典期に知られた。初期の歴史は不詳で、沿岸各地に紀元前8世紀ごろよりビザンティオン(現イスタンブール)など幾多のギリシア人植民市が設立されると、ギリシア人を通して彼らの実態が知られるようになった。彼らの宗教は原始的で、人身御供(ひとみごくう)や動物崇拝、来世信仰が行われており、神々としてはベンディスやディオニソスの崇拝がとくに有名である。前6世紀以後何度かペルシアの侵入を受けたが、ペルシア戦争後はオドリサイ人のテーレース王のもとにトラキア人のほとんどが統一された。彼の息子シータルケースはギリシアでも有名であった。前2世紀から漸次ローマの支配下に入り、当初、自治を保持していたが、紀元後1世紀にはローマの属州となった。古代末期にゴート人やフン人が、中世にはブルガリア人が侵入し、15世紀トルコのコンスタンティノープル(現イスタンブール)制圧後は、完全にトルコ領となった。その後、19世紀のロシア・トルコ戦争、20世紀初めのバルカン戦争、そして第一次世界大戦と幾多の戦争を通じて列強の利害の衝突地ならびに国民主義の舞台として重要な地域であったが、1923年以後、ギリシア、トルコ、ブルガリアの3国に分割され、今日に至っている。

[真下英信]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「トラキア」の意味・わかりやすい解説

トラキア

エーゲ海北東岸の地方。マリツァ川をはさんで,ギリシアの北東端とトルコのヨーロッパ部分(ルメリア)にまたがる。古代のトラキアはブルガリア南部をも含む地域で,金,銀,木材の産で知られた。前6世紀から黒海沿岸にギリシア人が植民市を建設,前1世紀にはローマの属州となるが,10世紀ころにはブルガリア帝国の版図に含まれた。1453年オスマン帝国(トルコ)の支配下に入り,1878年北部は東ルメリア自治領として分離され,トルコ領に残された部分がトラキアと呼ばれた。その後2度のバルカン戦争の結果,その西半分(マリツァ川以西)はブルガリア領になったが,第1次大戦の結果この地はギリシアに帰属する。セーブル条約(1920年)でギリシアは東トラキアまで領土を広げたものの,トルコとの戦争に敗れて1923年これを失った。
→関連項目エディルネオルフェウスバルカン戦争プロブディフロドピ[山脈]

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「トラキア」の意味・わかりやすい解説

トラキア
Thracia

バルカン半島の東側,ほぼ現在のブルガリアにあたる地域の古代名。約20の種族が独立抗争していたが,前6世紀から黒海沿岸にギリシア人が植民市を建設,その後ペルシア,マケドニアの一時的支配がつづき,前2世紀以降ローマの侵略にさらされた。ローマはここを対ミトリダテス戦争の重要拠点とみなして,圧力を強め,その将M.ルクルスは,諸種族の抵抗を排して前72年全土を支配した。しかしトラキア諸族の抵抗はやまず,1世紀にローマは動揺をおさえ,北部をモエシア,中南部をトラキアとして属州に組織した。ローマはダキアを征服して北方からの脅威を除き,セルディカ(現,ソフィア),アブリトゥスなどの都市をつくり,軍隊を配備,軍用路を建設し,ローマ支配下で〈平和と繁栄〉が維持された。3世紀後半からゴート族の侵入がはじまり,ローマのダキア放棄後,ドナウ川沿いに防壁がつくられたが,4世紀の西ゴート,5世紀のフン,東ゴートの侵入を防ぐことはできず,6世紀以降に進入したスラブ人,原ブルガリア人によって,東ローマからの独立国家がつくられた(681)。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「トラキア」の解説

トラキア
Thraki[ギリシア],Trakija[ブルガリア],Trakya[トルコ]

バルカン半島の南東部地域。時代によりそのさし示す領域は異なるが,マリツァ川流域のトラキア平原,エーゲ海,黒海に囲まれたギリシア,トルコ,ブルガリアに広がる地域。トラキア人諸族が先住民として住んでいたが,前6世紀以降ギリシア人が植民市を建設し,前2世紀以降ローマが進出し1世紀には属州となった。ビザンツ帝国時代にはバルカン半島で最初にセマ制度が導入された。以後オスマン帝国期も含め帝都の食糧供給地としても重要な位置を占め,中心都市エディルネ,フィリベは繁栄した。1878年ベルリン会議で北部が東ルメリア自治州となると,残された地域がトラキアと呼ばれ,バルカン戦争後東部はトルコ領,西部はブルガリア領となったが,第一次世界大戦後西トラキア南部はギリシア領となった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android