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バルカン半島東部の地方。「トラキア」は古名で、現代ギリシア語名はトラーキThraki (Thrake)。トラキアの範囲は時代によって非常に異なる。古代ギリシア時代では、西側はマケドニアに接し、東は黒海の西岸とマルマラ海の北西部、南は沿岸部を除いたエーゲ海に囲まれた地域をさした。現代では古代のそれよりいくぶん南側の地域をさし、マリーツァ川(古名ヘブロス川)を境にして、西側のギリシア領を西トラキア、東側のトルコ領を東トラキアとよんでいる。
古くからインド・ヨーロッパ語族のトラキア人が居住していたが、彼らは好戦的で野蛮な民族としてギリシア古典期に知られた。初期の歴史は不詳で、沿岸各地に紀元前8世紀ごろよりビザンティオン(現イスタンブール)など幾多のギリシア人植民市が設立されると、ギリシア人を通して彼らの実態が知られるようになった。彼らの宗教は原始的で、人身御供(ひとみごくう)や動物崇拝、来世信仰が行われており、神々としてはベンディスやディオニソスの崇拝がとくに有名である。前6世紀以後何度かペルシアの侵入を受けたが、ペルシア戦争後はオドリサイ人のテーレース王のもとにトラキア人のほとんどが統一された。彼の息子シータルケースはギリシアでも有名であった。前2世紀から漸次ローマの支配下に入り、当初、自治を保持していたが、紀元後1世紀にはローマの属州となった。古代末期にゴート人やフン人が、中世にはブルガリア人が侵入し、15世紀トルコのコンスタンティノープル(現イスタンブール)制圧後は、完全にトルコ領となった。その後、19世紀のロシア・トルコ戦争、20世紀初めのバルカン戦争、そして第一次世界大戦と幾多の戦争を通じて列強の利害の衝突地ならびに国民主義の舞台として重要な地域であったが、1923年以後、ギリシア、トルコ、ブルガリアの3国に分割され、今日に至っている。
[真下英信]
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バルカン半島の東側,ほぼ現在のブルガリアにあたる地域の古代名。約20の種族が独立抗争していたが,前6世紀から黒海沿岸にギリシア人が植民市を建設,その後ペルシア,マケドニアの一時的支配がつづき,前2世紀以降ローマの侵略にさらされた。ローマはここを対ミトリダテス戦争の重要拠点とみなして,圧力を強め,その将M.ルクルスは,諸種族の抵抗を排して前72年全土を支配した。しかしトラキア諸族の抵抗はやまず,1世紀にローマは動揺をおさえ,北部をモエシア,中南部をトラキアとして属州に組織した。ローマはダキアを征服して北方からの脅威を除き,セルディカ(現,ソフィア),アブリトゥスなどの都市をつくり,軍隊を配備,軍用路を建設し,ローマ支配下で〈平和と繁栄〉が維持された。3世紀後半からゴート族の侵入がはじまり,ローマのダキア放棄後,ドナウ川沿いに防壁がつくられたが,4世紀の西ゴート,5世紀のフン,東ゴートの侵入を防ぐことはできず,6世紀以降に進入したスラブ人,原ブルガリア人によって,東ローマからの独立国家がつくられた(681)。
執筆者:土井 正興
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バルカン半島の南東部地域。時代によりそのさし示す領域は異なるが,マリツァ川流域のトラキア平原,エーゲ海,黒海に囲まれたギリシア,トルコ,ブルガリアに広がる地域。トラキア人諸族が先住民として住んでいたが,前6世紀以降ギリシア人が植民市を建設し,前2世紀以降ローマが進出し1世紀には属州となった。ビザンツ帝国時代にはバルカン半島で最初にセマ制度が導入された。以後オスマン帝国期も含め帝都の食糧供給地としても重要な位置を占め,中心都市エディルネ,フィリベは繁栄した。1878年ベルリン会議で北部が東ルメリア自治州となると,残された地域がトラキアと呼ばれ,バルカン戦争後東部はトルコ領,西部はブルガリア領となったが,第一次世界大戦後西トラキア南部はギリシア領となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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