トリエステ(その他表記)Trieste

デジタル大辞泉 「トリエステ」の意味・読み・例文・類語

トリエステ(Trieste)

イタリア北東部の港湾都市アドリア海北岸にあり、工業が盛ん。トリエステ地方は14世紀以来オーストリア領。第一次大戦後イタリア領となり、第二次大戦後、1954年にロンドン協定で、北部と港はイタリア領、南部はユーゴスラビア(現スロベニア共和国)領となった。

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精選版 日本国語大辞典 「トリエステ」の意味・読み・例文・類語

トリエステ

  1. ( Trieste )
  2. [ 一 ] イタリアの港湾都市。アドリア海北岸にあり、バルカン半島・中央ヨーロッパへの門戸として繁栄。造船・機械・化学工業が盛ん。
  3. [ 二 ] アドリア海の北岸、イタリアとスロベニアとの国境にまたがる地方。一四世紀からハプスブルク家の領地で、第一次大戦後イタリア領。第二次大戦後の一九五四年、イタリア領とユーゴスラビア(現スロベニア共和国)領とに分割。

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改訂新版 世界大百科事典 「トリエステ」の意味・わかりやすい解説

トリエステ
Trieste

イタリア北東部,フリウリベネチア・ジュリア州の州都で同名県の県都。アドリア海に面した港湾都市。人口20万7069(2004)。ケルト人によって建設され,前1世紀ころローマ人の支配下に入り,2世紀にトラヤヌス帝が,地中海と中央ヨーロッパの接点にあたるこの都市を港として発展させた。古名はテルゲステTergeste。948年にイタリア王ロタリオ2世によって独立を認められ,自治都市となった。一時ベネチアの支配に屈したこともあったが,1382年ハプスブルク領となり,オーストリア帝国の海への出口として重要な役割を担った。とくに1719年に自由港となってからの発展は著しく,海運業が栄えた。しかし市とその周辺部にイタリア人が多く,19世紀後半に,統一を達成したイタリアへの帰属を望む声が強まり,第1次大戦後の1918年,この地方はイタリアへ併合された。しかし,後背地のドナウ地方と切り離されたことは,トリエステ市の港としての機能には打撃を与えた。第2次世界大戦終結直後の45年5月,ユーゴスラビア軍と英米軍が相前後してドイツ軍に占領されていたこの地方に入り,〈トリエステ問題〉と呼ばれる領土紛争が引き起こされた。両軍の合意により,市を含むA地域を英米軍,それ以外をB地域としてユーゴ軍がそれぞれ占領することになった。47年のパリ講和条約で,この地域を非武装中立の〈トリエステ自由地域〉として,国際連合の管轄下に置くことが決まったが,翌48年に西側諸国は全地域のイタリアへの返還を要求し,それを拒否するユーゴ,ソ連側と対立した。その後ソ連とたもとを分かったユーゴと西側との外交折衝が再開し,54年に英米側がA地域のイタリア帰属,B地域のユーゴ帰属を提案して,同年10月のロンドン協定で合意に達した。これにより,若干の国境の変更を行い,両地域のそれぞれの少数民族の権利保障を確認して,英米軍はA地域から撤退し,〈トリエステ問題〉は解決した。

 こうして成立したトリエステ県は,西端がゴリツィア県に接している以外は,カルスト台地に沿ったユーゴとの国境とアドリア海奥のトリエステ湾に挟まれて,狭く細長い地域を形成している。第2次世界大戦で破壊された港湾施設を再建した市は,それを背景にした臨海工業都市として,造船,製鉄,機械,石油精製,化学,食品加工(ビール)などの工業が立地している。貿易港としての機能は,近隣のユーゴの港リエカと競合関係にあるが,かつてロイド海運会社の興隆に代表された海運業は依然その重要性を失っていない。ここで積みおろされる石油は,パイプラインを通じてドイツやオーストリアに送られている。州や県の行政機能のほか,大学を有し,かつてのオーストリア帝国の文化の香りを残す文化的都市としての側面ももつ。さらに,ユーゴやオーストリア方面への交通の基地としても重要である。
執筆者:

トスカナ地方語を基盤にする文学活動(ダンテ,ペトラルカボッカッチョに始まり,マンゾーニに至るまで)をイタリア文学の主流と考えるとき,19世紀後半の近代国家統一以降に,二つの大きな潮流が加わった。すなわち,ベルガを祖とする南イタリアのベリズモとトリエステを中心とする心理主義の文学であり,両者はいわば辺境の文学である。

 海港トリエステはユーゴスラビア,オーストリアとの国境に近く,政治的に東西両世界のはざまにあるため,ユダヤ人をはじめとして多種類の人種が生活し,文化的にはイタリア,スラブ,ドイツの3圏の交点に位置する。このためトリエステの文学は中欧の文学と結びつき,フロイトの精神分析を取り入れるなど,早くから心理主義的傾向をみせ,同時にイタリア文学を近代ヨーロッパの文学に結びつけた。その核として働いたのがズベーボサーバらユダヤ人の活動である。ユダヤ人同士の人種的結合による文学サークルは存在しないが,現代作家のA.モラビアN.ギンズブルグG.バッサーニ,あるいは文芸批評家デベネデッティGiacomo Debenedetti(1901-67)らを含め,トリエステを拠点とするユダヤ人の文学はイタリアで隠然たる力をもっている。

 無意識と分裂する意識とを最初に小説作品に組み入れたイータロ・ズベーボ(筆名でイタリアとスワビアの人を意味する)が英語の家庭教師であったJ.ジョイスと親しく交わり,汎ヨーロッパ文学をめざしたのに引き換え,トリエステの中心街で古本屋を営んだ詩人サーバはあくまでもトリエステに拠ってその風土を描きつづけた。このサーバの系列に属する,トリエステ地方主義の文学者たちは,ベンコSilvio Benco(1874-1949)を旗頭としてイレデンティズモ(未回収地回復運動)をめぐり,愛国主義精神を作品の基調にした。ズラタペルScipio Slataper(1888-1915),ストゥパリヒ兄弟Giani Stuparich(1894-1961),Carlo S.(1894-1916)などは,第1次大戦時に志願兵として対オーストリア戦線に参加し,トリエステ後背地の守備にあたり,うち2人は戦死もしくは捕虜になるまえに自殺したが,戦時下の緊迫した精神の日記や断想を書き残しイタリアの文学界に衝撃を与えた。他方,G.ストゥパリヒやジョッティVirgilio Giotti(本名ビットリオ・シェーンベック。1885-1957)ら,第1次大戦を生き延びた者たちや,それにつづくクアラントッティ・ガンビーニPier Antonio Quarantotti Gambini(1910-65)らの世代は,人種問題による弾圧を受けながら,第2次大戦下に反ファシズム闘争を展開した。サーバの詩集《1944年》はファシズム下のユダヤ人の証言としての詩集である。
イレデンティズモ
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「トリエステ」の意味・わかりやすい解説

トリエステ
とりえすて
Trieste

イタリア北東部、フリウリ・ベネチア・ジュリア自治州の州都で、港湾・工業都市。人口20万9520(2001国勢調査速報値)。アドリア海の北部、潟湖(せきこ)グラード湖とクロアチアのイストラ半島との間に挟まれたトリエステ湾の奥に位置し、スロベニアとの国境付近を占める。精油、造船、製鉄、化学、薬品、製紙、食品など多方面にわたる工業が行われている。トリエステ港は、国際的な貨物の取扱い量ではイタリア第2位(1978)であったが、オーストリア向けの港湾業務を停止、かつての活気はみられない。輸入された石油は、パイプラインによってオーストリアやドイツにも運ばれる。市街はサン・ジュストの丘を中心に広がり、14世紀のサン・ジュスト大聖堂、1470年から1630年にかけて建てられた城、1938年に発掘された古代ローマの劇場、市立歴史・美術博物館、1924年創設の大学などがある。近郊のミラマーレには、ハプスブルク家のマクシミリアン大公によって築かれた広い庭園と城(1856~1860建設)がある。冬、ボラとよばれる冷たい北東風が、台風のような激しさで吹き荒れることで知られる。

[堺 憲一]

歴史

ケルト人によって建てられたといわれ、紀元前2世紀にはテルゲステTergesteとよばれるローマの植民地となった。西ローマ帝国の末期にキリスト教が普及した。中世には、ランゴバルド王国、東ローマ帝国、フランク王国によって順次その支配下に置かれた。1060年からコムーネ(自治都市)となるが、15世紀以後はハプスブルク家の支配下に置かれた。1719年に自由港が建設されて商人や職人が集まるようになり、オーストリア・ハンガリー帝国の主要な商業の中心地となった。フランス革命後、1797年、1805年、1809~1813年の三度にわたってフランスが支配したが、その後はオーストリア支配に戻り、1897年からはオーストリア議会に議員を送った。このころから、この地域の住民であるイタリア人とスラブ人との間の対立が激化するようになり、イタリアと旧ユーゴスラビアの係争地となった。

[藤澤房俊]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トリエステ」の意味・わかりやすい解説

トリエステ
Trieste

セルボ=クロアチア語ではトルスト Trst,ドイツ語ではトリエスト Triest。イタリア北東部,フリウリベネチアジュリア州の州都,港湾都市。トリエステ県の県都を兼ねる。ベネチアの東北東約 120km,ベネチア湾奥,スロベニアとの国境付近に位置する。前 177年頃ローマ支配下に入り,のち港と城壁が建設された。 1202年ベネチアの,1382年オーストリアの支配を受け,1719年神聖ローマ帝国の直轄都市となった。 1918年以後イタリア領となったが,第2次世界大戦時には相次いで外国軍に占領された。戦後その帰属をめぐってユーゴスラビア,イタリア間に対立があったが,54年イタリア領が確定。同時に港は自由港となり,その後,貿易額はふえている。木材などが輸出され,石油,工業原料などが輸入される。また造船,製鉄,石油化学などの工業も盛ん。石油パイプラインがオーストリアやドイツの製油所まで延びている。市内には古代ローマの神殿跡に建てられた城 (1470~1680。現博物館) ,14世紀に建てられたサンジュスト聖堂などがある。リルケの詩で有名なドゥイノ城も近い。人口 20万5535(2011推計)。

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百科事典マイペディア 「トリエステ」の意味・わかりやすい解説

トリエステ

イタリア北部,フリウリ・ベネチア・ジュリア州の州都。アドリア海に面する港湾都市。古代ローマの植民地として繁栄。10世紀に自治都市となる。1382年ハプスブルク家の治下に入り,のちオーストリア領となって海運業が栄えた。市とその周辺にはイタリア人が多かったため,統一されたイタリアへの帰属を望む声が強く,第1次大戦後イタリア領となったが,ユーゴ系の住民も多く,第2次大戦後トリエステ港を含む北部(A地区)を英・米軍が,南部の後背地(B地区)をユーゴ軍が占領。1954年A地区の主要部分(210km2)がイタリア領,他の全域(551km2)がユーゴ領に決定。現在イタリア領トリエステは自由港で,20万2123人(2011)。海運業のほか造船,製鉄,機械,石油精製,化学などの工業が行われる。ユーゴ領はユーゴ解体により,現在はスロベニアに属する。
→関連項目フリウリ・ベネチア・ジュリア[州]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「トリエステ」の解説

トリエステ
Trieste

アドリア海北岸の港湾都市。元来オーストリアの支配下にあったが,19世紀以来イタリア統一運動の目標の一つとなり,第一次世界大戦後イタリアに併合された。しかし,ユーゴスラヴィア人も居住することから,第二次世界大戦直後の1945年5月,ユーゴスラヴィア軍と英米軍がドイツ軍に占領されていたこの地方に入り,紛争が起こった。47年のパリ講和条約によって国際連合が管理する自由地域となったが,48年西側諸国は全地域をイタリアへ返還することを要求,ユーゴスラヴィア,ソ連はそれを拒否し,対立が起こった。54年にイタリア,ユーゴスラヴィア間に同地域を両国で分割する合意が成立し,解決に至った。

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旺文社世界史事典 三訂版 「トリエステ」の解説

トリエステ
Trieste

イタリア北東部,ユーゴスラヴィアとの国境近く,アドリア海北部に面する港湾都市
ローマ時代から交通の要衝となり,特にドナウ川周辺の物資の集散地となった。14世紀以来オーストリア領となり,同国の海上への出口となっていた。「未回収のイタリア」の1つとされ,第一次世界大戦後はイタリア領,第二次世界大戦後はその帰属をめぐってイタリア・ユーゴスラヴィア間に紛争が続いたが,1947年2月の対イタリア講和条約で国連の管理下に置かれることになり,さらに54年には両国で同市を分割して,港を含む市の北部はイタリア領,南半部はユーゴスラヴィア領,ただし港は自由港とすることで決着した。

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世界大百科事典(旧版)内のトリエステの言及

【深海潜水艇】より

…本格的な深海潜水艇としては,A.ピカールによって48年に建造された直径2mの耐圧球を使ったFNRSIIが最初であり,そして,同艇を改良したフランス海軍の4人乗りのFNRSIIIは53年に2100m,翌年4050mの潜航深度を記録した。53年にはイタリアでFNRSIIと同じ形式の深海艇トリエステTriesteが建造され,同艇は,その後,アメリカ海軍の所有となり,60年ピカールの息子であるJ.ピカールによりマリアナ海溝で潜航深度1万0916mの世界最深記録を樹立している。 FNRSIII,トリエステいずれもいわゆるバチスカーフ型と呼ばれる形式で,浮力材としてガソリンを用いるため大きな船体を必要とした。…

【バチスカーフ】より

…バチスカーフの水平運動の範囲は30mくらいである。最初のバチスカーフは1948年にベルギーの国立科学研究財団(FNRS)の援助でつくられたFNRS2で,このほか53年にトリエステ市の援助でつくられたトリエステTrieste(その後1959年にアメリカ海軍が購入),フランス海軍が53年に建造したFNRS3,61年に建造したアルシメドArchiméde,アメリカ海軍が64年に建造したトリエステIIがある(図)が,現在ではいずれも使用されていない。バチスカーフはその潜航深度は大きいが,取扱いがきわめて不便であり,行動も乏しいのでその後は新たにつくられていない。…

※「トリエステ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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