トルコ革命(読み)トルコかくめい

精選版 日本国語大辞典 「トルコ革命」の意味・読み・例文・類語

トルコ‐かくめい【トルコ革命】

オスマン‐トルコ帝国を打倒し、トルコ共和国を樹立した革命。第一次世界大戦に敗北して売国的な条約を結んだオスマン政府に対して、ケマル=アタチュルクアナトリア‐ルーメリア権利擁護団を組織して、アンカラにトルコ大国民議会を召集ギリシア軍を小アジアから撃退して、一九二二年に帝政廃止、改めて連合国側と対等の条約を結んだ。翌年、擁護団を人民共和党に改組、ケマルは初代大統領に就任。二四年、共和国憲法が発布された。

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デジタル大辞泉 「トルコ革命」の意味・読み・例文・類語

トルコ‐かくめい【トルコ革命】

ケマル=アタチュルクの指導下に、オスマン帝国を倒し、1923年にトルコ共和国を樹立した革命。以後カリフ制の廃止、文字改革太陽暦採用政教分離などの近代化政策が推進された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「トルコ革命」の意味・わかりやすい解説

トルコ革命
とるこかくめい

ケマル・アタチュルクムスタファ・ケマル)の指導の下に、オスマン帝国を倒し、トルコ共和国を樹立した革命。第一次世界大戦でのオスマン帝国敗戦に乗じ、西アナトリアに侵入したギリシア軍を撃退するために、アタチュルクは1919年東部諸州会議をエルズルム招集、アナトリア・ルメリ権利擁護協会を結成した。20年、オスマン政府が連合国に屈し、セーブル条約に調印すると、アタチュルクはアンカラに大国民議会を開き新政府を樹立し、ギリシア軍に対し軍事行動を起こした。21年、サカリヤの戦いで勝利し、ギリシア軍をアナトリアから追い出した。22年、スルタン制を廃止し、唯一のオスマン政府としてアンカラ政府は翌年連合国と対等の条件でローザンヌ条約を結んだ。小アジアの全領土の保全、カピトゥレーション(治外法権)の撤廃が認められた。23年10月トルコ共和国の成立が宣言され、オスマン帝国は消滅した。アタチュルクは初代大統領に就任、アナトリア・ルメリ権利擁護協会はトルコ人民党となった。24年カリフ制を廃し、4月に共和国憲法を制定した。その後、多くの改革が行われた。トルコ帽およびベールの廃止、神秘主義教団の解散、文字改革、憲法からイスラム教の国教規定を削除、姓氏法の制定などであった。また産業の育成など経済面での改革なども推進され、国立中央銀行を新設し紙幣発行権を確保した。トルコ革命により、近代国家の基礎が確立され、国際的地位も向上した。

[設楽國廣]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トルコ革命」の意味・わかりやすい解説

トルコ革命
トルコかくめい
Millî mücadele

第1次世界大戦後,連合国のトルコ分割に反対して戦われた祖国解放運動とそれに続くトルコ共和国初期の政治的・社会的諸改革をいう。第1次世界大戦後,連合国が首都イスタンブールを占領し,アナトリアの分割が日程にのぼると,アナトリア各地に反帝国主義運動が起った。特に 1919年5月,ギリシア軍がイズミルを占領すると,これらの抵抗運動はケマル・アタチュルクを中心に統合された。アンカラを首都とし,大国民議会に結集した解放軍 (アンカラ政府) は,22年 11月スルタン制の廃止を宣言した。 23年ローザンヌ条約によってトルコの独立は承認され,同年 10月共和制が宣言された。これに続いて世俗主義に基づく諸改革が断行され,カリフ制の廃止 (1924) ,神秘主義教団の閉鎖 (25) ,太陽暦 (グレゴリオ暦) の採用 (25) ,ラテン文字の採用 (28) ,イスラム教を国教とする条項の削除 (28) などが行われた。一方,経済的自立を求めて外国系特権企業の買収,関税自主権の獲得,鉄道の国有化などの措置をとるとともに,植民地化以来の民族資本の欠如を補うためにエタティスム (国家資本主義) 経済を展開した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「トルコ革命」の解説

トルコ革命(トルコかくめい)

1922~23年のスルタン制から共和制に移行した革命をいう。ケマル・パシャの祖国解放戦争の勝利は,22年10月11日ムダニア休戦協定をもたらし,新講和会議がローザンヌで開催される段取りとなり,10月27日,招請状がスルタン政府と大国民議会政府に届いた。この変則的な二元政治を改め国民主権を確立するには,スルタン制の廃止を必要とした。11月1日大国民議会はケマルのイニシアティヴでこれの廃止を決議,17日にメフメト6世は国外に亡命した。ケマルは初代大統領に選ばれ,24年カリフ制度を廃して主権在民,一院制,女性参政権を認めた共和国憲法を発布し,イスラームと政治との分離,ローマ字化,ヨーロッパ法の採用など一連の近代化政策を推し進めた。

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世界大百科事典 第2版 「トルコ革命」の意味・わかりやすい解説

トルコかくめい【トルコ革命】

第1次世界大戦後のトルコ人による祖国解放運動,およびその結果成立したトルコ共和国における一連の改革。ただし,後者のみを指す場合もある。オスマン帝国が第1次大戦に敗北すると,アナトリアはイギリス,フランス,イタリアおよびギリシアの占領下に置かれ,民族的独立を脅かされた。トルコ人は各地にパルチザン運動を組織してこれに対する抵抗を開始。やがてムスタファ・ケマル(のちのケマル・アタチュルク)が,1920年4月23日にアンカラに〈トルコ大国民議会〉政府を樹立してこれらの運動を統合し,連合国の側に回ったオスマン帝国のスルタン・カリフ政府に対して,公然と反乱。

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旺文社世界史事典 三訂版 「トルコ革命」の解説

トルコ革命
トルコかくめい

1922年オスマン帝国が倒れ,23年トルコ共和国が成立した革命
セーヴル条約を受諾した帝国政府に対して,ムスタファ=ケマルがトルコ国民党を中心に勢力を結集し,1920年アンカラに大国民議会を開催,ケマルを総司令官としてアナトリア地方からギリシア軍を駆逐した。1922年スルタン制を廃し,翌年アンカラを首都とする共和国を建設してみずから大統領となり,カリフ制の廃止,太陽暦の採用,婦人参政権の実施,ローマ字の採用などの近代化を進めた。

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