精選版 日本国語大辞典 「ドイツ帝国」の意味・読み・例文・類語
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ドイツで帝制がとられたことは史上二度ある。最初はオットー1世(大帝)の創始した神聖ローマ帝国(第一帝国、962~1806)で、次がビスマルクのドイツ統一により実現した帝国(第二帝国、1871~1918)である。わが国では普通、後者を「ドイツ帝国」とよぶ。この帝国は1871年、プロイセン・フランス戦争の勝利のあと、北ドイツ連邦に南ドイツ四か国が参加して成立した。プロイセン以下22の君主国と三自由都市からなる連邦で、帝国の元首、すなわち皇帝の位にはプロイセン王がつき、政府を代表する帝国宰相はたいていプロイセン首相が兼ねた。プロイセンは面積、人口、経済力、軍事力で他の邦国を圧倒する実力をもっていた。宰相は憲法上皇帝の任命する一大臣にすぎなかったが、その権限は大きく、ビスマルクがその地位にある間、事実上彼の独裁が行われた。しかし彼のあと、歴代の宰相の力は弱く、皇帝の意のままになって、内政に混乱が生じた。一方、立法府である帝国議会の議員は普通選挙で選ばれ、民意をよく反映したが、その権限は予算審議などに限られ、政治を左右する力をもたなかった。しかし時がたつにつれ、社会民主党のような批判勢力が目覚ましく進出し、帝国議会も政治的影響力を増大させた。この時期、ドイツ資本主義は飛躍的な成長を遂げ、工業の生産力は20世紀初めイギリスを追い抜き、アメリカに次いで世界第二位になった。また、学問や文化でもドイツは当時の世界をリードした。このような実力を背景に、ドイツ帝国は対外膨張に努め、世界の強国を目ざした。このため、イギリスはじめ帝国主義列強との対立が激化し、1914年第一次世界大戦に突入した。4年の戦いののち敗れ、革命(ドイツ革命)が勃発(ぼっぱつ)、皇帝が退位して、ドイツ帝国は崩壊した。
なお、ヒトラーのナチス国家(1933~45)も、これに次ぐものとして「第三帝国」を称した。
[木谷 勤]
『木谷勤著『ドイツ第二帝制史研究』(1977・青木書店)』
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1871~1918
ドイツが帝制をとったことは2度あり,最初は神聖ローマ帝国,次がビスマルクのドイツ統一によってなったドイツ帝国である。第二帝制,またビスマルク帝国とも呼ばれる。この帝国はプロイセン以下25国(22君主国と3自由市)の連邦であり,各国を代表する連邦参議院が上院,全国民の男性普通選挙による帝国議会が下院を構成した。しかしプロイセン王がドイツ皇帝を兼ね,政府の首長である宰相は皇帝の任命にかかり議会に責任を負わない。またプロイセンは面積,人口において全国の3分の2近くを占めているので,帝国は事実上プロイセンの支配下にあった。そして帝国宰相の権限が大であったので,ビスマルクのような有力な人物が宰相であるときはその事実上の独裁となり,そうでないときは国の統一意志が見失われた。経済は強力に発展したが,政治の民主化は遅れ,1918年の革命(ドイツ革命)により崩壊。
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…プロイセンという呼称は,最も広い意味では,1871年以来ドイツ帝国の中核を形成したプロイセン王国を指す。しかし,行政区域としては,この王国の北東部,すなわちポンメルン州とブランデンブルク州の東方,ワイクセルWeichsel川(ビスワ川)を越えてメーメルMemel川(ネマン川)に至る,バルト海沿いの地域について用いられる。…
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