精選版 日本国語大辞典
「ドイツ社会民主党」の意味・読み・例文・類語
ドイツ‐しゃかいみんしゅとう ‥シャクヮイミンシュタウ【ドイツ社会民主党】
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「ドイツ社会民主党」の意味・わかりやすい解説
ドイツ社会民主党【ドイツしゃかいみんしゅとう】
1875年アイゼナハ派とラサール派が合同して創立したドイツ社会主義労働者党の後身。1890年現名。略称SPD(エスペーデー)。1891年エルフルト綱領でマルクス主義の立場に立つことを明らかにし,以降勢力は躍進し1912年議会第1党となった。しかし第1次大戦が勃発(ぼっぱつ)するとこれを支持。反戦派の分裂(ドイツ独立社会民主党)によって若干の勢力減退をみたが,ワイマール共和国時代も有力政党の一つで,しばしば政権に参加。ナチス政権下では壊滅状態になったが,第2次大戦後西ドイツでは有力政党として復活。1959年バート・ゴーデスベルク綱領で,市場経済の原則を認め,国防を肯定した新路線を採択,マルクス主義と絶縁した。1969年自由民主党(FDP)との連立政権が成立,ブラントが首相となった。1982年シュミットが連邦議会で不信任され,16年間続いた与党の座を降りた。1989年ベルリン網領を採択し,〈緑の党〉との連携への道をひらいた。1998年選挙で勝って,G.シュレーダー首相のもとで〈90年同盟・緑の党〉と連立政権を樹立した。シュレーダーは2002年独自の外交政策〈ドイツの道〉を提唱,また2003年には,経済のグローバル化と成長戦略を踏まえた〈アゲンタ2010〉という改革プロジェクトを発表,保険制度改革や労働市場改革など,新自由主義的な制度改革の方向に政策の舵を切った。結果として高い失業率と財政削減策が支持基盤である労働組合から批判を受け,2005年の総選挙でキリスト教民主同盟(CDU)に僅差で第一党の位置を奪われ,CDU党首メルケルに首相の座を譲ることとなり,CDUとの大連立を余儀なくされた。2007年採択したハンブルク綱領は,シュレーダーの新自由主義的政策を転換,グローバリズムを否定する左派的な綱領となった。しかし2009年の連邦議会選挙では前回よりもさらに得票を減らし,戦後2番目に少ない146議席に甘んじることとなった。この選挙ではメルケルのCDU/CSUを中心に保守・中道右派が過半数を制し連立に成功,SPDは政権与党から離脱した。しかし,ユーロ危機・ソブリンリスク・欧州債務問題と深刻化するEUの経済・金融の安定化を支えるドイツ経済は,シュレーダー政権による改革の成果ととらえられている。党勢はその後やや回復に向かい,2013年秋の総選挙では,与党CDU/CSUには100以上の議席差をつけられたものの192議席を獲得,過半数に達しなかったCDU/CSUと2ヵ月にわたる連立協議を行い,11月連立協議が成立,CDU/CSUのメルケル首相のもと大連立政権に参加することとなった。
→関連項目オレンハウアー|カウツキー|キリスト教民主同盟|コール|社会主義者鎮圧法|社会民主主義|シューマッハー|シュミット|少数支配の鉄則|スパルタクス団|第二インターナショナル|ドイツ|ドイツ革命|パルブス|ヒルファディング|ベーベル|ベルンシュタイン|ミヘルス|民主社会主義|メーリング|リープクネヒト|リープクネヒト
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ドイツ社会民主党
ドイツしゃかいみんしゅとう
Sozialdemokratische Partei Deutschlands; SPD
ドイツの政党。 1890年社会主義者鎮圧法の撤廃とともに社会主義労働者党を改称して結成された。翌 91年マルクス主義的なエルフルト綱領を採択し,第2インターの中核となった。第1次世界大戦前には修正主義者,急進主義者,その中間のマルクス主義中央派に分裂。 1913年修正主義派の F.エーベルトが党の指導者となった。大戦勃発と同時に党の大多数は戦争協力の態度を明らかにしたが,R.ルクセンブルクや K.リープクネヒトら左翼少数派は反戦革命運動を展開,16年スパルタクス団を結成した。さらに 17年には H.ハーゼや K.カウツキーらのグループが離党し,ドイツ独立社会民主党を設立したため,多数派社会民主党とも呼ばれた。 18年のドイツ革命では,多数派社会民主党は下からの革命を抑圧し,ドイツ共産党の蜂起や労働者の社会主義革命への動きを弾圧し,ワイマール共和国を樹立し,中央党,民主党などのブルジョア政党や独占資本に対して妥協的になった。この不徹底な態度は労働者の期待を裏切り,29年の世界恐慌に際してもなんら積極的政策を打出しえず,33年ナチスの政権掌握後もヒトラーに対して抵抗しえなかったばかりか,かえってヒトラーのため指導者は次々に投獄されて 33年6月には活動を禁止されるにいたり,一部が国の内外で抵抗運動に参加した。第2次世界大戦後,東ドイツでは共産党と合同してドイツ社会主義統一党となり,西ドイツでは 46年ハノーバー党大会以後正式に復活。キリスト教民主同盟に次ぐ第2党の地位を占め,59年ゴーデスベルク綱領を採択,マルクス主義と絶縁し,国土防衛の肯定と自由競争を是認,国民政党の立場に立つことを示した。また自由と正義と連帯を強調し,キリスト教倫理とヒューマニズムを基礎におくなど,与党であるキリスト教民主同盟との差異はほとんどなくなり,このため選挙では得票が増大し,65年には 202議席,得票率 39.3%に達した。 66年にキリスト教民主・社会同盟との大連合政権 (キージンガー政権) ながら,政権を担当。政権担当能力を証明し,69年からブラント政権 (自由民主党との連合) ,74年からはシュミット政権 (自由民主党との連合) を誕生させ,ドイツ政党政治の重要な政治勢力であることを証明した。 82年 10月総選挙で敗北し,保守中道のコール政権を出現させた。 92年 11月の党大会で政治難民を規制し NATO軍参加を決めるなど政策を転換した。 98年9月の総選挙では 298議席と圧勝し,緑の党と連立を組み 16年ぶりに政権に復帰,G.シュレーダーを首班とする内閣を発足させた。
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ドイツ社会民主党
ドイツしゃかいみんしゅとう
Sozialdemokratische Partei Deutschlands
ドイツの社会主義政党。略称SPD (エスペーデー)
1890年ドイツ社会主義労働者党を改称して成立し,91年のエルフルト綱領によりマルクス主義の立場を明確にした。12年には約35%の得票率により110議席を獲得し,最大政党へ発展したが,この間,顕著な経済発展と社会政策による労働者階級の生活を背景に,1899年ベルンシュタインは「社会主義の前提と社会民主党の任務」の中で,社会革命に代わる社会改良を主張した。その結果,党はベルンシュタインらの修正派・カウツキーらの中央派・ローザ=ルクセンブルクらの急進派に分裂(同党が中核を占めた第2インターナショナルにも影響)し,修正派は党と労働組合で指導権を握り,多数派を形成した。第一次世界大戦に際して戦時予算に賛成し,戦争に協力したが,戦争反対の急進派は1916年スパルタクス団を結成し,17年には左翼中央派と合流して,独立社会民主党を創立した。1918年ドイツ革命の実権は多数派の手中にはいり,19年ヴァイマル共和国が成立すると,ヴァイマル連合の下に政権を握ったが,33年ヒトラー政権の成立を許し,解散させられた。第二次世界大戦後復活し,1959年にはマルクス主義から転換して国民政党となった。
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世界大百科事典 第2版
「ドイツ社会民主党」の意味・わかりやすい解説
ドイツしゃかいみんしゅとう【ドイツ社会民主党 Sozialdemokratische Partei Deutschlands】
ドイツの有力な政党。略称SPD。この党名は1890年以来のものだが,党としてのその歴史はもっと古い。
[1875年まで]
1830年代に始まったドイツの社会主義的ないし共産主義的運動と労働運動は,48年革命期に高揚したが,革命の挫折とともに抑圧され,マルクス,エンゲルス,ボルンStephan Bornなどの指導者は亡命を余儀なくされた。50年代末,政治活動が息を吹き返すと,再び各地に労働者教育協会が設立され始めた。
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世界大百科事典内のドイツ社会民主党の言及
【インターナショナル】より
…参加者は各国各地域の運動体験について報告を聞き,労働者保護立法,労働組合の組織,ストライキ,農業問題,教育問題,そして軍国主義,戦争に反対する社会主義者の態度などについて議論を行った。しかし,この時期,最大の焦点となったのは,社会主義の実現のために〈立法・議会行動を必須の一手段〉と考えるドイツ社会民主党をはじめとする人びとと,反議会主義的でゼネストを重視するオランダのドメラ・ニーウェンハイスDomela Nieuwenhuis(1846‐1919)のような,いわゆる〈アナーキスト〉との対立であり,この問題は,ロンドン大会で〈アナーキスト〉の排除決議が採択されてようやく決着がついた。それは,1890年の帝国議会選挙に際し得票率では早くも第一党になり,同年〈社会主義者鎮圧法〉が失効してから急速に党勢を伸ばしたドイツ社会民主党が,国際的な場で主導権を取っていく過程でもあった。…
【社会主義】より
… ドイツでは,ラサールを指導者として労働者階級に基盤をおいた全ドイツ労働者協会が1863年に結成されていたが,69年にはマルクスの影響を受けたベーベルやリープクネヒトが社会民主労働党を設立した。この党は,宰相ビスマルクの社会主義者鎮圧法と社会主義を懐柔しようとした社会福祉政策にもかかわらず発展をつづけ,社会主義者鎮圧法が廃止された後の1890年には,さらに党名をドイツ社会民主党と改め,翌91年にはラサール主義を排して〈階級支配と階級そのものの廃絶〉を目標にしたマルクス主義的なエルフルト綱領を採択した。この党は第1次大戦前の最後の選挙となった1912年の選挙では,425万票,全投票数の3分の1以上を獲得して,ドイツ帝国議会で最強の政党となった。…
【社会民主主義】より
…この名称は1848年の伝統を継受すると同時に,政治的民主主義ばかりでなく社会問題をも重視するという彼らの立場を表すものであった。同様にドイツにおけるマルクス派の組織は最初社会民主労働者党と名のり,ラサール派との合同を経て1890年にはドイツ社会民主党と改名するに至っている。1889年に結成された第二インターナショナル(インターナショナル)に加盟した各国の組織の多くも社会民主主義の名称を採用していた。…
【ドイツ】より
…この過程で,ユンカーの支配する東エルベの農村からの農業労働者の離脱とルールやベルリンなど工業地帯への労働力の集中が進んだ。それとともに労働者も階級的な結集を強め,89年の炭鉱ストライキ,90年の総選挙におけるドイツ社会民主党の躍進をかちとった。同年のビスマルクの失脚と新宰相カプリービの〈新航路〉政策(社会主義者鎮圧法の撤廃と労働者保護立法,また輸出拡大に向けた通商条約政策)は,こうした労働運動の発展やドイツの穀物関税引上げに起因する独露関係の悪化に対するドイツ第二帝制のいわば前向きの対応であり,それを通して労働者の体制への再統合をはかるものであった。…
【ドイツ革命】より
…
[大戦中の大衆行動と反戦諸派]
1914年8月,第1次大戦が勃発すると,ドイツでは,戒厳状態が布告される一方,〈防衛戦争〉遂行のための一致協力の体制として〈城内平和Burgfriede〉が成立した。それまで第二帝制と敵対関係にあったドイツ社会民主党も,戦争予算に協賛し戦争体制の一翼を構成した。その重要な推進力となったのは,戦時のストライキ中止を打ち出したレギーンら労働組合指導部であった。…
【ドイツ帝国】より
…しかし帝国議会は,帝国の諸政治機関のうちいちばん社会や世論の動向を敏感に反映する場であり,帝国政府もしだいにその意向を無視できなくなった。そのうえ,19世紀の末以降,帝国議会へのドイツ社会民主党のめざましい進出は,ドイツ帝国の保守的な支配体制を根底から揺るがすこととなった。
[ビスマルク時代]
このような支配体制の上にドイツ帝国の政治は幾度か流れを変えた。…
【ドイツ連邦共和国】より
…おもな政党としては,キリスト教民主同盟(CDU),キリスト教社会同盟(CSU。バイエルン州のみ),ドイツ社会民主党(SPD),自由民主党(FDP),環境政党として出発した緑の党,極右の共和党などで,共和党は連邦議会に議席を有しない。FDPは,右派政党,中道政党としての性格を交互に示している。…
【フォアウェルツ】より
…元ドイツ社会民主党機関紙。100年余にわたり週刊紙としてドイツの社会主義運動と変遷をともにしてきたが,1982年2月に財政難のため廃刊された。…
※「ドイツ社会民主党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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