ドイツ(読み)どいつ(その他表記)Federal Republic of Germany 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ」の意味・わかりやすい解説

ドイツ
どいつ
Federal Republic of Germany 英語
Bundesrepublik Deutschland ドイツ語

ヨーロッパ中央部にあり主としてゲルマン民族が住む国。「ドイツ」はドイッチュdeutsch(形容詞)の転訛(てんか)で、ドイツ語の国名ドイッチュラントは「ドイッチュの住む国」の意である。ドイッチュは「ローマ的でない人」の意のローマの古語ティウティッシュTiutishからきており、古高ドイツ語のディウティスクdiutiskや中高ドイツ語のディウッチュdiutschに原形がみられる。英語名はジャーマニーGermany。

 近代国家としてのドイツの政治的統一は1871年であって、イギリスやフランスなどよりもはるかに遅かったが、文化の面では、哲学をはじめとするさまざまの学問分野で優れた業績を生み、音楽・文学などの芸術分野でも多くの巨匠・天才が出て、世界の文化史のうえで大きな役割を果たした。

 20世紀に入ってからのドイツは、1914年からの第一次世界大戦に敗れて共和国となり、巨額の賠償と世界恐慌によって大きな打撃を受けたが、ヒトラーの率いるナチスが勢力を得て、1939年第二次世界大戦を引き起こした。当初は有利に戦闘を進めたものの、やがて連合軍に押されて敗退を重ね、1945年5月に無条件降伏した。戦後、オーデル川とその支流ナイセ川以東はポーランドの管理下に置かれ、残る地域はアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソ連の4か国によって分割管理され、ベルリンも4か国で分割管理されることになった。その後いわゆる東西冷戦の激化に伴い、米・英・仏とソ連の対立が激しくなり、1949年9月、米・英・仏の3国が管理する地域が一体となってドイツ連邦共和国(西ドイツ)が誕生した。翌10月には、ソ連地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)が生まれて、旧来のドイツは体制の異なる二つの国家に分割されるという悲運にみまわれた。

 その後西ドイツは、マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)の経済援助によって、「奇跡の復興」を成し遂げ、EC(ヨーロッパ共同体)およびNATO(北大西洋条約機構)の一員として発展を続け、一方、東ドイツは、積極的な工業化政策を進め、ワルシャワ条約機構およびCOMECON(経済相互援助会議)加盟国のなかでは、もっとも著しい経済成長を遂げた。

 両ドイツは当初激しい対立・緊張関係にあり、ことに1961年8月の「ベルリンの壁」構築によって、それはいっそう激化したが、1969年9月、西ドイツに社会民主党のブラントを首相とする政権が生まれてから、両ドイツの間の対話が進み、東西両ドイツ基本条約が調印・批准され、1973年9月には両ドイツの同時国連加盟が実現した。さらに1980年代後半に入ってから、東西両陣営の間の緊張緩和が進み、1989年11月9日、「ベルリンの壁」が開放され、翌1990年10月3日には、ついにドイツ統一が達成されたのである。

 なお、かつての西ドイツの正式名称は、ドイツ連邦共和国Bundesrepublik Deutschland、略称BRD、英語名はFederal Republic of Germany、略称FRGであったが、両ドイツの統一は旧東ドイツの各州が連邦に加入するという形をとったので、統一ドイツの正式名称も略称も、旧西ドイツと同じである。

 面積は35万7022平方キロメートル、人口8225万9540(2000年、2005年の国連年央推計8268万9000)。首都ベルリン。

[浮田典良]

自然

地形

北は北海、バルト海の海岸地帯から、南はアルプスまで、南北約800キロメートル、一方、東はオーデル川、ナイセ川から、西はライン板岩山地まで、東西約600キロメートルに及ぶ。このドイツを南から北へ向かって、(1)アルプスおよびアルプス前地、(2)中位山地、(3)北ドイツ低地の3地域に大きく分けることができる。

[浮田典良]

アルプスおよびアルプス前地

ドイツの南端、オーストリアとの国境には、高くて険しいアルプスがそびえる。アルプスは第三紀の造山運動によって形成された山脈で、全体としてみると、花崗(かこう)岩や片麻(へんま)岩、結晶片岩などでできたアルプス胴体部と、中生代の石灰岩でできた北部石灰岩アルプス、南部石灰岩アルプスの三つに区分される。ドイツ南縁部のアルプスは北部石灰岩アルプスの一部で、最高峰は2963メートルのツークシュピッツェ山である。更新世(洪積世)には氷河によって削られて、多くのU字谷ができ、山地の斜面は絶壁をなして深い谷に落ち込んでいる。ロープウェーやリフトなどの施設もよく整い、夏には観光・保養客や登山・ハイキング客、冬にはスキー客でにぎわう。

 アルプスの北側、ドナウ川までの間は「アルプス前地」とよばれ、緩やかな丘陵や平地が続いている。ここは更新世にアルプスからきた氷河で一面に覆われた所で、それによる堆積(たいせき)物であるモレーンが低い丘をなし、それによってせき止められて多くの湖ができている。最大の湖はスイスとの国境にあるボーデン湖(面積538平方キロメートル)であり、ついでミュンヘン南東のキーム湖(80平方キロメートル)、ミュンヘンのすぐ南のシュタルンベルク湖(57平方キロメートル)である。湖畔には多くの観光・保養地が開けている。アルプス前地の緩やかな丘陵や平地は、主として牧草地として利用され、農業は酪農が中心をなす。

 シュワルツワルト山地の南東部に源を発するドナウ川は、アルプス前地の北縁部を東に流れて、レヒ川、イーザル川、イン川、ナープ川などの支流をあわせ、パッサウでオーストリアへ流下し、最後は黒海へ流れ込む。古くから水運に利用され、レーゲンスブルクの少し上流のケールハイムと、ライン川の支流マイン川との間に運河が通じ、ライン川水運とも結ばれている(ライン・マイン・ドナウ運河)。

[浮田典良]

中位山地

ドナウ川と北ドイツ低地との間を、全体として中位山地という。標高1500メートル以下(大部分は1000メートル以下)の緩やかな山地・丘陵や、その間に横たわる多くの高原、盆地、谷などからなる。比較的高い山地としては、シュワルツワルト山地、オーデンワルト山地、フレンキッシェ・アルプ山地、シュウェービッシェ・アルプ山地、ベーマーワルト山地(ボヘミアの森)、チューリンガー・ワルト山地、エルツ山脈、ハルツ山地、ライン板岩山地などがある。これらはいずれも古い地質時代の岩石からなり、古生代末に褶曲(しゅうきょく)(バリスカン褶曲という)を受けて山地となったものである。中生代には隆起と沈降が繰り返され、古生層の上に堆積が行われて、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の地層が形成された。さらに第三紀にはアルプス造山運動の余波を受けて分断され、断層運動を生じ、多数の高原状の地塁山地や盆地・地溝帯が生まれた。また多くの地域で火山活動も生じ、アイフェル山地、ウェスターワルト山地、ヘッセン山地などでは、火山地形や温泉もみられる。更新世には、中位山地の大部分は氷河に覆われず、ただシュワルツワルト山地の高い部分のみが小さな氷河で覆われたにすぎなかった。山地は全体としてきわめてなだらかで、比較的急な斜面は森林をなすが、そのほかの大部分や山地の間に横たわる高原や盆地は、農地として利用されている。土壌も比較的肥沃(ひよく)な所が多い。

 ドイツ最大の川ライン川は、ボーデン湖から流れ出てほぼスイスとの国境をなしつつ西流したのち、バーゼルで北へ転じ、幅の広いライン地溝帯を北流する。地溝帯の南半部では、ライン川がドイツとフランスの国境をなす。東からネッカー川やマイン川などの支流をあわせたのち、高原状のライン板岩山地に峡谷をうがって北西に流れ、途中で南西から支流モーゼル川をあわせる。ライン地溝帯やマイン川、モーゼル川沿岸の日当りのよい緩やかな斜面にはブドウ畑が開かれ、ワインの名産地ができている。

 エルツ山脈やハルツ山地のように、古くから銀、鉛、亜鉛などの鉱石採掘で知られた所があり、また中位山地北縁部のルール地方、アーヘン付近やザールラントには炭田がある。またカリ塩や岩塩の埋蔵されている所もある。

[浮田典良]

北ドイツ低地

中位山地の北側、北海・バルト海に至る間には、広い北ドイツ低地が広がっている。これは西はオランダから東はポーランド、ロシア西部に至る広大な低地の一部である。オランダとの国境付近のエムス川沿岸地帯や、ウェーザー川下流地帯には低湿地がみられ、泥炭地が形成されているが、大部分は更新世に北東のスカンジナビアから押し出されてきた氷河の堆積物で覆われ、低い台地をなしている。

 この台地のうち、バルト海の海岸に近いメクレンブルク・フォアポンメルン州やシュレスウィヒ・ホルシュタイン州東部は、更新世の最終氷期にも氷河に覆われた所で、氷河の下に堆積したモレーンが緩やかに起伏し、低い所には多くの湖もできている。土壌もそれほどやせてはいない。しかし、それ以外の部分は、最終氷期には氷河に覆われず、ツンドラ(永久凍土帯)をなしていたため、夏には表面だけが融(と)けて、粒子の細かい土壌が流失し、粗い砂だけが残った。そのため、やせた砂質土壌の平坦(へいたん)な台地をなし、かつてはハイデHeideとよばれる荒れ野をなしていた所が多かった。ハノーバーとハンブルクの間のリューネブルガー・ハイデはとくに有名であった。ハイデはいまでは大部分が農地となり、ライ麦やジャガイモを中心とする輪作が行われている。ライ麦はやせた砂地の畑でもよく育ち、ジャガイモは砂地のほうがかえって適している作物である。所によっては植林され、広い平地林をなしている部分もある。

 北ドイツ低地には、スカンジナビア氷河の末端部にできた末端モレーンの列が幾列か認められるが、その南西側には、かつて大量の融氷水が広い川をなして流れたときにつくられた広い谷がみられ、これを原流谷という。現在のエルベ川やウェーザー川の下流部はその中を流れており、ベルリンも原流谷の中に発達した町である。エルベ川とウェーザー川の下流部には、それぞれ港湾都市ハンブルクとブレーメンがある。ハンブルクは河口から約100キロメートル、ブレーメンは約65キロメートルさかのぼった地点にあり、巨大な船舶は遡航(そこう)が困難なので、前者にはクックスハーフェン、後者にはブレマーハーフェンという外港が河口部にできている。

 シュレスウィヒ・ホルシュタイン州西部の北海沿岸地帯は低湿地をなし、コークKoogとよばれる干拓地が開かれている。

 北ドイツ低地の南端部、つまり中位山地のすぐ北側には、かつて氷期に北からの強い風で運ばれてきた細かい土壌が堆積し、肥沃なレス(黄土)土壌地帯が形成されている。ここはドイツでもっとも古くから開拓が進んだ所で、いまでも森林や牧草地は少なく、耕地の占める比率が高い。肥沃な土壌の地帯に適した小麦やテンサイを中心とする輪作が行われている。ケルン、ハノーバー、マクデブルク、ライプツィヒなどは、この肥沃なレス土壌地帯に発達した都市である。

[浮田典良]

気候

ドイツは北緯47~55度という高緯度にあり、東アジアならば樺太(からふと)(サハリン)の緯度にほぼ等しい。ドイツの南端のほうが北海道の北端よりも北方にある。しかし大西洋を流れる暖流、北大西洋海流(メキシコ湾流)や、その大西洋から年中吹いてくる偏西風のため、気候は比較的温和である。北ドイツ低地西部のケルン、デュッセルドルフやブレーメンなどでは、もっとも寒い1月でも平均気温が1~2℃で、日本でいえば仙台、新潟、富山なみである。一方、夏には高緯度のためあまり暑くならず、7月でも平均17~18℃で、東京の5月か10月なみである。年降水量は600~800ミリメートルで、東京や大阪のほぼ半分にすぎず、年中平均して少しずつ雨がある。台風による暴風雨や温帯低気圧による集中豪雨のような、いわゆるどしゃ降りはなく、一日中降り続くようなこともあまりない。

 東および南に向かうにつれ、気候は少しずつ海洋性から大陸性に移行し、冬はやや寒くなる。たとえば東部のベルリンでは1月の平均気温零下0.2℃、南部のミュンヘンでは標高500メートル余りの高原に位置するためもあって零下1.7℃となる(それでも北海道の札幌よりは暖かい)。また降水量は少なくなり、北東ドイツの平野部では年600ミリメートル以下となるが、中位山地の高い部分やアルプスでは地形性降雨のために降水量が多く、年2000ミリメートルを超える所もある。冬には根雪に覆われ、ことにアルプスでは積雪量が多い。

 南西ドイツのライン地溝帯は、ドイツでもっとも温暖な所で、「ドイツの温室」とよばれ、ブドウや果樹の栽培が盛んである。ドイツではリンゴの開花日が春の到来の象徴となるが、ライン地溝帯では通常4月28日までに花が開く。ここから北および東へ向かってリンゴ開花前線が進み、デュッセルドルフでは4月29日~5月5日、ベルリン、ミュンヘンでは5月6~12日が開花日となる。

 アルプスの北麓(ほくろく)部では、春先にしばしばフェーンという暖かい乾燥した南風が吹き下ろすことがある。

[浮田典良]

歴史

古代ローマの時代、ライン川とドナウ川のかなたのドイツの地には、ゲルマン人諸部族がローマ帝国の勢力圏外に独自な社会を営んでいた。4世紀末から始まるゲルマン人の民族大移動を経て、ベルダン条約(843)、メルセン条約(870)による東フランク王国の生誕とともに、今日のドイツにつながる歴史が始まる。この後の神聖ローマ帝国時代の850年間(962~1806)は、宗教改革や三十年戦争などを経るなかで、国家的分裂の状態を深め、18世紀には約300の独立主権国家群が分立した。19世紀に入り、ドイツ統一の事業は北辺の雄邦プロイセン国家を中心に進められた。プロイセン・オーストリア戦争、プロイセン・フランス戦争を通じて、プロイセン中心の統一が実現され、1871年ドイツ帝国が発足した。この過程でオーストリアは統一国家から排除され、ドイツとは外国どうしの関係に置かれることになった。

 ドイツ帝国は宰相ビスマルクのもとでヨーロッパの強国としての地位を固めたが、ビスマルク退陣後、世界の強国を希求し、やがてフランス、ロシア、イギリスとの対立を深め、第一次世界大戦に突入し、敗戦とともに帝国は崩壊した。戦後のワイマール共和国は安定をみることなく、わずか14年でナチスの政権獲得を許した。ナチス支配下のドイツは、国内では一党独裁体制に置かれ、国際的にはヨーロッパ制覇の野望のもとに第二次世界大戦を引き起こした。敗戦後、国際的冷戦のもと、ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国の二つの国家が分立したが、1990年10月二つの国家はふたたび統合された。

[望田幸男]

地誌

ドイツの地域区分には、現在の州(ラント)の区分のほか、自然地域、経済地域、あるいは古い歴史的領邦に基づく地域など、さまざまな分け方があるが、ここでは主として州の区分に従い、若干の自然的・経済的状況を加味して、まず旧西ドイツを八つの地域に分け、ついで旧東ドイツ(ベルリンを含む)を五つの地域に分けて解説する。

[浮田典良]

バイエルン

ドイツの南端、オーストリアとの国境には、険しいバイエルン・アルプスの山々がそびえ、美しい風光に恵まれて、夏には観光・保養客や登山客、冬にはスキー客でにぎわう。アルプスの北側、ドナウ川までは「アルプス前地」とよばれ、緩やかな丘陵や平地が続いている。更新世(洪積世)にアルプスから延びてきた氷河の堆積(たいせき)物が低い丘をなし、それによってせき止められて多くの湖ができている。ミュンヘンは、バイエルン州の行政、経済、交通、文化の中心都市であり、さまざまの工業も盛んで、とくにビール醸造業の町としてわが国では知られる。その北西60キロメートルのアウクスブルクは、ローマ時代に建設された古い町で、中世には商工業都市として栄え、フッガー家などの富豪がここを拠点として活躍した。

 アルプス前地の北縁には、ドナウ川が西から東に流れ、それに沿ってウルム、レーゲンスブルク、パッサウなどの町がある。

 バイエルン州北部は、古くからフランケン地方とよばれ、その中心都市ニュルンベルクは、1835年に郊外のフュルトとの間にドイツ最初の鉄道が通じた町、また第二次世界大戦後にナチスの戦争裁判が行われた町として知られる。その北東80キロメートルのバイロイトは、音楽家ワーグナーの町として有名で、街はずれの丘の上にワーグナーが建てた歌劇場では、いまでも毎年の夏、ワーグナーの歌劇が上演される。フランケン地方の西部、マイン川に沿うウュルツブルクは、古くから司教区が置かれた町で、バロック様式の美しい司教の館(やかた)があり、付近ではブドウ栽培、ワイン醸造が盛んである。

[浮田典良]

バーデン・ウュルテンベルク

ライン川支流ネッカー川の中・上流地方は、古来シュワーベン地方とよばれる。その中心都市シュトゥットガルトは、いまではバーデン・ウュルテンベルク州の州都で、活気のある商工業都市であり、自動車、電気機器、精密機器などの工業が盛んである。ネッカー川は、いまでは運河化され、ライン川の川船がシュトゥットガルトのすこし上流までさかのぼることができる。

 ドイツ南西端部にはライン地溝帯がある。スイスとの国境にあるボーデン湖から西へ流れ出たライン川は、やがて北へ転じ、ライン地溝帯を北流する。地溝帯の東側にはシュワルツワルト山地があり、その麓(ふもと)のフライブルクは、ゴシック様式の壮麗な教会と古い大学で知られる。地溝帯中部のカールスルーエは、1715年にバーデン辺境伯カールが計画的に建設した町で、宮殿を中心として扇形に街路が延びている。ネッカー川が地溝帯に流れ出る谷口のハイデルベルクは、古城と大学で知られ、外人観光客も多い。

[浮田典良]

ライン・マイン地方

ライン地溝帯の北端でライン川最大の支流マイン川が東から合流するが、このあたりをライン・マイン地方という。その中心都市フランクフルト・アム・マインは、経済・金融の中心地、交通の要衝であり、また国際見本市の町、ゲーテ生誕の地としても知られる。その西方、ライン川左岸のマインツは、ローマ時代に建設された古い町で、いまではラインラント・プファルツ州の州都であり、付近のワインの集散地でもある。その北方、タウヌス山地の麓にあるウィースバーデンは、温泉の湧(わ)く静かな保養地であったが、いまではヘッセン州の州都であり、ライン川沿岸部には工場地区もできている。

[浮田典良]

ライン峡谷とモーゼル川流域

ライン地溝帯を流れ下ったライン川は、ライン板岩山地を刻む峡谷に入る。両岸は急傾斜をなすが、上はなだらかな台地状をなす。両岸の斜面には古城が見え隠れし、ブドウ畑もみられる。峡谷のほぼ中央部に古い町コブレンツがあり、ここで南西からモーゼル川が合流する。モーゼル川の谷の斜面にもブドウ畑が多い。モーゼル川をさかのぼると、古代ローマ時代に建設された古い町トリアー(トリール)がある。モーゼル川の支流ザール川に沿うザールラントは、古くからドイツとフランスの間で帰属が争われた地方である。第一次世界大戦後フランスによる国際連盟委任統治ののち、1935年住民投票によりドイツ領となり、第二次世界大戦後ふたたびフランス管理による自治制が敷かれたが、1957年ドイツに復帰して、その一州となった。石炭資源に恵まれ、州都ザールブリュッケンを中心に重工業が盛んである。

[浮田典良]

ノルトライン・ウェストファーレン

旧来のラインラント北部とウェストファーレンからなるノルトライン・ウェストファーレン州は、ドイツの州のうち、人口第1位で、多くの都市がある。ライン川が峡谷から出外れた地点にあるボンは、元来静かな大学町であったが、1949年旧西ドイツの首都となって発展した。ボンの北方約20キロメートル、ライン川左岸にあるケルンは、ローマの植民都市として築かれた町で、ドイツ西部の商業・交通の要衝をなす。その北方約35キロメートル、ライン川右岸のデュッセルドルフは、ノルトライン・ウェストファーレン州の州都で、商工業の中心地でもあり、日本企業の支店・出張所が多い。ケルンの西約60キロメートル、オランダとの国境に近いアーヘンは、8世紀にカール大帝によりフランク王国の首都に定められた古い町で、付近では石炭を基礎に重工業が盛んである。デュッセルドルフの北約20キロメートル、ライン川右岸にライン川最大の河港デュースブルクがあり、ここから東へエッセン、ゲルゼンキルヘン、ボーフム、ドルトムントなどの諸都市が並んでいる。ここがヨーロッパ最大の鉱工業地帯ルール地方であり、産業革命以後、豊かな石炭を基礎に鉄鋼業や化学工業が発展している。

[浮田典良]

ニーダーザクセン

ルール地方から東へ向かうと、ウェーザー山地を越えて、ニーダーザクセン州の州都ハノーバーに至る。肥沃(ひよく)なレスの平野の中心にある商工業都市で、工業見本市でも知られる。その南のゲッティンゲンは大学町として名高い。北東のウォルフスブルクは、大衆車フォルクスワーゲンの工場の町として知られる。

[浮田典良]

ハンブルクとブレーメン

北海に注ぐエルベ川とウェーザー川の下流部には、それぞれ港湾都市ハンブルクとブレーメンがある。中世にはハンザ同盟の有力なメンバーで、都市として強い自治権をもっていた。いまでもこの両都市はそれぞれ独立した州をなしている。両都市は工業都市としても重要で、造船業のほか、輸入原料に依存する各種の工業が行われている。

[浮田典良]

シュレスウィヒ・ホルシュタイン

ハンブルクの北方、デンマークのユトランド半島に続く地方は、シュレスウィヒ・ホルシュタイン州である。西の北海側は低湿地が多く、干拓地もみられる。東のバルト海側は更新世の最終氷期の氷河堆積物で覆われた台地をなし、海岸部には州都キールや、かつてのハンザ同盟の重要都市リューベックがある。キールには大きな造船所があり、また北海とバルト海を結ぶ運河(ノルト・オストゼー運河)の東の出入口にあたっている。

[浮田典良]

ザクセン

旧東ドイツ南東部は、大部分が古来ザクセンとよばれた地方で、1990年のドイツ統一以降、ザクセン州となっている。エルベ川沿いの州都ドレスデンは、古くから「芸術の都」として知られる。第二次世界大戦末期に連合軍の爆撃により徹底的に破壊されたが、戦後復興され、有名なツビンガー宮殿なども旧に復した。その西のケムニッツ(東ドイツ時代にはカール・マルクス・シュタットとよばれていた)は、繊維・機械工業を中心とする工業都市で、工科大学もある。ライプツィヒは古くから商業都市として栄え、伝統ある国際見本市は、旧東ドイツ時代にも毎年開催されていた。

[浮田典良]

チューリンゲン

チューリンガー・ワルト山地と、その北のチューリンゲン盆地を中心とするチューリンゲン州は、中世以来19世紀まで多くの小さな領邦に分かれ、多数の領邦都市や中小商業都市が成立していた。州都エルフルトは美しい旧市街で知られ、そのほか文豪ゲーテやシラーとゆかりの深かったワイマールや、大学都市イエナ、地図製作で名高いゴータなどがある。アイゼナハに近いワルトブルク城は、マルティン・ルターが1521年から翌年にかけて身をひそめ、『新約聖書』をギリシア語からドイツ語に翻訳した所として知られる。

[浮田典良]

ザクセン・アンハルトとブランデンブルク

旧東ドイツの中部は、現在ザクセン・アンハルト州とブランデンブルク州になっている。ザクセン・アンハルト州のハレは、ライプツィヒの北西約30キロメートルにあり、第二次世界大戦で戦災を受けなかったドイツ最大の都市である。ハレ、ライプツィヒ付近や東のブランデンブルク州南部ニーダーラウジッツ地方には、褐炭の炭田があり、褐炭により発電、コークス製造、化学工業などを行う褐炭コンビナートがいくつか成立していたが、現在ではそれによる環境破壊が問題となっている。エルベ川に沿うマクデブルクは、ザクセン・アンハルト州の州都で、マクデブルク沃野(よくや)とよばれる肥沃(ひよく)なレス(黄土)地帯の中心都市であり、そこで栽培されるテンサイの製糖業や小麦の製粉業などの農産加工業、その他さまざまの工業が盛んである。ブランデンブルク州の州都ポツダムは、ベルリンのすぐ西に接する町で、元来プロイセンの宮殿所在地であり、1945年7月から8月にかけてのポツダム会談開催地として知られる。

[浮田典良]

ベルリン

ブランデンブルク州に囲まれたベルリンは、第二次世界大戦まで全ドイツの首都であったばかりでなく、ヨーロッパの政治、経済、文化の中心地の一つとして大きな役割を果たしていたが、戦後、東ベルリンと西ベルリンとに分割された。東ベルリンは旧東ドイツの首都であったが、西ベルリンは実質的には旧西ドイツの一部をなし、周囲を東ドイツに囲まれて、いわゆる「陸の孤島」をなしていた。1990年の両ドイツ統一後、ベルリンは一つの都市として融合され、1991年の連邦議会でふたたび全ドイツの首都と決定された。

[浮田典良]

メクレンブルク・フォアポンメルン

旧東ドイツの北部を占めるメクレンブルク・フォアポンメルン州は、更新世最終氷期には北欧から伸びてきた氷河に一面に覆われた所で、多くの美しい湖がみられる。それらの湖岸やバルト海の海岸には保養地が多く、夏には保養客でにぎわう。港湾都市ロストックは、東ドイツ時代に、その海への門戸として、港湾の大改修工事が行われた。グライフスワルトは大学町として、またドイツ最大の島、リューゲン島(926平方キロメートル)は美しい白亜の海岸で知られる。

[浮田典良]

政治・外交・軍事

憲法体制

統一後のドイツ連邦共和国憲法の出発点は、1949年5月23日発効(成立は5月8日)の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の「基本法」(ドイツ連邦共和国基本法)である。この基本法の草案は、当時イギリス占領地区のキリスト教民主同盟(CDU)の党首であったK・アデナウアーを議長とする「議会評議会」によって作成され、米英仏3国占領軍政府の承認と各州の議会の批准を得て発効した。同法末尾の第146条には、この基本法は、将来の東西ドイツの統一までの「暫定憲法」であるとの趣旨が明記されていたが、1990年10月3日の東・西両ドイツ(ドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国)の統一の結果、新しい事態への対応が必要となり、1994年11月15日に新しい改正基本法が発効した。「基本法」は、その出発時からドイツを「民主的・社会的連邦国家」(第20条)と規定しているが、その具体的規定には、ワイマール共和制からナチス第三帝国に至るドイツ現代史の悲劇的展開から引き出された教訓の数々がにじみ出ている。

 もっとも基本的な点だけを拾い出しておけば、まず第一に、基本的人権の保障が特別に強調され、第1条は、「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ保護することは、すべての国家権力の義務である」という書き出しになっている。第二に、そこでは、とくに政党のあり方との関係において、「自由で民主的な基本秩序」(第21条)の擁護が強調され、ワイマール憲法のような価値中立的な立場は拒否されている。第三に、ナチス時代のような中央集権体制を拒否して伝統的な連邦主義への復帰が選択されているが、それはドイツの強大化を恐れる戦勝国の意向にも合致するものであった。第四に、ワイマール憲法の場合のように強大な大統領が議会と対立することになる可能性が除去され(第63条)、また連邦議会の選挙制度の根幹をなす比例代表制についても、ワイマール憲法と比べてさまざまの修正・補足がなされている。第五に、広範な違憲審査権をもった特別の連邦憲法裁判所が設置されている(第93条)。第六に「社会国家」であることの宣言は一般的性格のものにとどまり、「社会化」条項(第15条)の存在にもかかわらず、経済生活のあり方については現実の展開にゆだねられている。第七に、さらに将来の国際協調のために、主権の一部を国際組織へ移譲することを認めて、「国民国家」の絶対性を限定する可能性を認めている(第24条)。

 「基本法」は成立後たびたび改正されているが、そのなかでは、1956年の再軍備に関係する改正、1968年の非常事態法に関連する改正ならびに東・西両ドイツの統一とその後の事態に対応した1994年11月の改正が重要である。1994年の改正では環境(「生活を支える天然資源」)の保護(第20a条)、男女同権の実現(第3条第2項)、障害者の保護(第3条第3項)が国家の課題として明文化された。またヨーロッパ連合(EU)の誕生をもたらしたマーストリヒト条約に対応して、新しくヨーロッパ連合に関する条項が設けられ、それに関連して、連邦と州の間の立法権の配分に関する新しい規定が加えられた(第23条)。ドイツへの亡命者・避難民の流入を抑制しようとする庇護権条項(第16a条)の改正も重要である。ただし、ドイツ国防軍のPKO等の任務に伴う海外出動は、明文の憲法改正ではなく、憲法裁判所による基本法の新しい解釈によって実現された。

[山口 定]

国家元首

国家元首は連邦大統領で、任期5年、1回だけ再選可とされる。連邦議会と州議会から選ばれた同数の議員からなる「連邦集会」による間接選挙によって選ばれる。国民の直接選挙を避けたのは、強大な権力をもった大統領の出現を避けるためである。したがって大統領の権限も、外国との条約への署名、外国大公使の信任状の受領、そのほか形式的・儀礼的性格のものにとどめられている。歴代の大統領は、ホイス、リュプケ、ハイネマン、シェール、カルステンス、ワイツゼッカー、ヘルツォークRoman Herzog(1934―2017)、ラウJohannes Rau(1931―2006)、ケーラーHorst Köhler(1943― )、ブルフChristian Wulff(1959― )と続き、2012年3月にガウクJoachim Gauck(1940― )が就任している。

[山口 定]

立法

立法機関は連邦議会と連邦参議院からなり、後者は伝統的な連邦主義の原則に沿って、州政府の代表(定数69)で構成される。ただし、立法過程において連邦議会が連邦参議院に優越することは「基本法」の規定上明らかである。連邦議会議員は「普通、直接、自由、平等および秘密選挙」によって選ばれ、任期4年であるが、選挙権は1975年以降は18歳(以前は21歳)以上、被選挙権は21歳(以前は25歳)以上となっている。議員定数は、1965年以来496名(このほかに表決権をもたない旧西ベルリン選出の22名)だったが、統一後は598議席に増加され、現在は超過議席を含めて614名となっている。選挙制度は、比例代表制と小選挙区制からなる2票制だが、各政党ごとの議席数は比例代表制(「州リスト」の得票に基づくドント式による配分)によって決まる。またワイマール共和制期の反省から、小党乱立を避けるために、最低5%の得票率を得るか、三つの小選挙区で当選者を出すかした政党のみが議席を割り当てられることになっている(5%条項)。

[山口 定]

政府

首相は、連邦議会で過半数の票を得た者が大統領によって任命される。首相の地位は強固で、連邦議会があらかじめ後任首相について合意したうえでなければ不信任案の対象とならない(「建設的不信任案」の制度)。これまでの首相は、アデナウアー、エアハルト、キージンガー(以上キリスト教民主同盟)、ブラント、シュミット(以上社会民主党)、コール(キリスト教民主同盟)、シュレーダー(社会民主党)で、2005年11月以降、キリスト教民主同盟のメルケルがその地位についている。

[山口 定]

司法

司法権は、連邦憲法裁判所、連邦最高裁判所、連邦上級裁判所および各州裁判所によって行使される。連邦憲法裁判所(所在地カールスルーエ)は違憲立法審査権をもち、1994年末までに8万件を超える判決を下している。連邦上級裁判所には、連邦通常裁判所(カールスルーエ)、連邦行政裁判所(ベルリン)、連邦労働裁判所(カッセル)、連邦社会裁判所(カッセル)、連邦財政裁判所(ミュンヘン)がある。

[山口 定]

連邦制

ドイツ連邦共和国は16(統一前は11)のラント(州)からなる。ドイツ統一で新たに生まれた州は、ブランデンブルク州、メクレンブルク・フォアポンメルン州、ザクセン州、ザクセン・アンハルト州、チューリンゲン州の五つである(東ベルリンはベルリン州に統合)。人口ではノルトライン・ウェストファーレンが、面積ではバイエルンがもっとも大きい。

 州の構成には領邦国家の歴史的伝統が色濃く残存し、各州はすべて首相と内閣と議会をもつ。とくにハンブルクとブレーメンはハンザ同盟以来の都市国家の伝統を継承している。またバーデン・ウュルテンベルクは、それを構成する2州が州民投票(1952)の結果合併したものだし、ザールラントも州民投票(1957)の結果、ドイツ連邦共和国の一州となったものである。また西ベルリンは、ドイツ統一までは形式的にはイギリス、アメリカ、フランスの3国共同管理下にあり、実質的にはドイツ連邦共和国の一州であるという特殊な地位にあった。

 ブント(連邦)とラントとの関係は、ドイツ独特の分権主義(連邦主義)の延長線上に「基本法」によって定められている。立法の領域についていえば、連邦だけが立法できる事項、連邦および州がともに競合的に立法できる事項、連邦が原則的規定だけを立法する事項がそれぞれ「基本法」に明記されている(第70~75条)。連邦が専権的立法権をもつ領域は、外交、軍事、国籍、通貨、関税と鉄道と航空、郵便と電信・電話、産業上の権利と著作権・出版権の保護、警察、統計である。それに対して、州の仕事は文教政策が中心で、そのため連邦政府には文部省がなく、文教政策の調整は各州の文相が集まった常設文相会議によって行われる。また警察・治安も基本的には州の仕事とされ、連邦法の執行も州にゆだねられている。しかし、連邦の権限と仕事の範囲は、防衛問題や戦後処理(戦時補償、故郷被追放者管轄など)の問題を契機にして拡大傾向を示すことになり、1953年の家庭青少年問題省、1962年の学術研究省の新設などにより、教育・研究の領域での新たな中央集権化の傾向が顕著である。

 なお、財政制度については、連邦に帰属する租税収入と、州または市町村に帰属する租税収入の区別、またそれをめぐる立法への連邦参議院の関与の度合いが、詳細に「基本法」に規定されている。

 市町村は伝統的・地縁的行政単位としてドイツではきわめて重要である。とくに第二次世界大戦直後の混乱期には、上位の行政機構が壊滅していたため、その役割は大きかった。「基本法」は「市町村が、法律の範囲内において、地域的共同体のすべての事項を自己の責任で規律する権利」を認めている(第28条)が、この自治権は19世紀初頭にさかのぼるものである。各市町村は独自の議会と長と吏員をもち、おもに建設、学校、文化、福祉の4分野の仕事を担当する。州と町村との間には郡があるが、郡は町村の上位にあるわけではなく、命令権はない。ただ、州の市町村に対する影響力は、歴史的由来からいっても、連邦の州に対するそれよりもはるかに大きい。

[山口 定]

政党

第二次世界大戦後の歴史全体を通じて重要なのは、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と社会民主党(SPD)の二大政党と、第三党である自由民主党(FDP)である。連邦政府は、連邦共和国の発足から1966年までは、おおむねキリスト教民主・社会同盟と自由民主党の保守中道政権(首相アデナウアー、エアハルト)であり、1966~1969年はキリスト教民主・社会同盟と社会民主党の(保革)大連合政権(首相キージンガー)、1969~1982年は、社会民主党と自由民主党の「社会・自由連合」政権(首相ブラント、シュミット)、1982~1998年は、左派中道政権が倒れ、キリスト教民主・社会同盟と自由民主党の保守中道内閣(首相コール)であった。1998年9月以降は、社会民主党と緑の党の連立政権となり、「赤(社会民主党のシンボルカラー)と緑の連合」とよばれた。首相は社会民主党のシュレーダー、副首相兼外相はフィッシャー(緑の党)が務めた。シュレーダー政権は2002年9月の総選挙で、かろうじて過半数を獲得したが、失業問題や構造改革で批判され、2005年7月に議会を解散した。同年9月の総選挙でキリスト教民主・社会同盟が第一党となったが、社会民主党との議席の差はほとんどなかった。11月には1966年以来のキリスト教民主・社会同盟と社会民主党による保革大連合政権が実現、旧東ドイツ出身のメルケルがドイツ初の女性首相に就任した。

 キリスト教民主・社会同盟は、第二帝制からワイマール期にかけてドイツ独特の宗教政党であったカトリック中央党から発展し、戦後はカトリックに限定されない超宗派的な保守派の国民政党へと脱皮したキリスト教民主同盟(CDU)と、バイエルンにおけるその姉妹党たるキリスト教社会同盟(CSU)からなるブロックである。ともに1945年に結成され、1949年以来、連邦議会では同一の議員団を構成している。カトリック教会を中心に保守諸派を結集し、得票率はほぼ一貫して4割台を維持し、1969年に至る連邦共和国の前半期には一貫して政権の中心にあった。

 それに対して、1969年以降1982年までの13年間に政権の中軸を担ったのが社会民主党である。同党は、1891年のエルフルト綱領以来のマルクス主義的階級政党としての立場を、1959年のバート・ゴーデスベルク綱領以降は脱却し、労働者やホワイトカラーを中心的な基盤とした進歩的国民政党へと変貌(へんぼう)した。そしてその得票率も1960年代中葉から1980年代初頭にかけて4割のレベルに達し、自由民主党との連合政権では、東方政策による東西間の緊張緩和と、共同決定制度の確立を中心とした内政改革に成果をあげている。

 また第三党の自由民主党は、リベラルな共和主義者たちの党であると同時に、経済的自由主義を奉ずる「右派市民」の代表でもあるという二重性をもつ。その二面性のゆえに、連邦共和国の前半期ならびに1982年以降はキリスト教民主・社会同盟と、その中間期には社会民主党と提携するという形で、ほぼ一貫して政権の座にある。宗教政策(宗派共同学校の主張)においてはこの両政党の中間だが、社会政策ではキリスト教民主同盟よりも右、文化政策では社会民主党より左の立場をとることもある。得票率は10%弱。

 そのほか、小政党で重要なのが、初期のドイツ党(DP)と故郷追放民同盟(BHE)、1960年代末に台頭したネオ・ナチ党(国家民主党NPD)と1980年代中葉以降の新右翼を代表する「共和党」、ならびに大学紛争を担った「68年世代」に支えられ、1980年代に入って台頭した環境保護派の「緑の党」、かつての東ドイツの政権政党であった社会主義統一党(SED)の改革派に若干の部外者(たとえば党首のギジ)を加えて再出発した民主社会党(PDS)がある。民主社会党は、2005年に社会民主党の一部と合流して左派党(DL)となっている。このなかの緑の党は1983年の総選挙で反核と環境保護を掲げて連邦議会にも進出して自由民主党と並ぶ勢力となっており、いくつかの州で、社会民主党と「赤と緑」の連合を組んで政権に参加したのち、1998年10月以降は、社会民主党と組んで連邦政府にも参加した。そしてエコロジーの視点からの産業構造の改革を主張して、社民党との連立協定として原子力発電所の段階的廃止と環境税の導入について合意した。なお、緑の党は1993年に旧東ドイツの同盟90と合併して、緑の党・同盟90を結成している。また、統一以前の西ドイツでは、共産党(KPD)は1956年に憲法裁判所によって非合法化されたが、統一後は民主社会党(現、左派党)が旧東ドイツ地域の困難な諸問題の持続を背景として連邦議会での議席を維持している(2005年の左派党の議席数54)。ネオ・ナチ党や新右翼の諸党は、5%条項の壁に遮られて連邦議会への進出の機を逸している。

[山口 定]

外交

ドイツ連邦共和国は、西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)加盟を決めたパリ諸条約(パリ協定)発効(1955)によって、「ベルリン問題ならびにドイツ再統一と平和条約の問題を含むドイツ全体に関する権利と責任」を米・英・仏三つの戦勝国に留保して、主権を回復した。また1955年9月のアデナウアーの訪ソを機会に、ソ連との間にも国交が樹立された。しかしその後もドイツ連邦共和国は全ドイツを代表するという建前(「単独代表権」の主張)を維持し、東ドイツを承認する国家とは外交関係をもたないとする「ハルシュタイン・ドクトリン」を堅持した。こうした態度の背後には、アメリカのダレス国務長官に共鳴して「力の政策」を通じてのみドイツ再統一の展望が開かれるとしたアデナウアーに代表される東西冷戦期の保守派の哲学があった。

 しかし、アデナウアー外交は、1963年の独仏協力条約による独仏友好関係の確立を契機に行詰りをみせ始めた。まず、旧東ドイツの国家としての定着と発展によって、前記の方針は修正されざるをえなくなった。他方、アラブ諸国との間にも、1965年のイスラエルとの国交樹立に伴い、一時国交断絶が生じた。また、ベルリン問題もまた、すでに1961年8月の東ドイツによる東西ベルリン間の「壁」の構築によって改めて深刻な問題となっていた。しかしこれらの問題は、1969年9月に、元西ベルリン市長で社会民主党の党首W・ブラントを首相とした政権が生まれて以来、急速に解決に向かった。ブラントは、西ドイツ首相として初めて、東ドイツをその正式の国名「ドイツ民主共和国」をもってよび、ドイツの現状を「一民族二国家」と規定する立場にたって東西の緊張緩和に踏み出し(いわゆる「東方政策」)、ソ連およびポーランドとの間の武力不行使条約、ドイツ民主共和国との間の「東西両ドイツ基本条約」を調印・批准に持ち込み、その結果、1973年9月には、東西両ドイツの同時国連加盟が実現するに至った。また、ヨーロッパが冷戦から脱却する過程で大きな役割を果たしたヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE)体制確立に対してのゲンシャー外相の寄与は、この東方政策の延長線上に位置づけられる。

 1990年のドイツ統一以降、一方で1999年1月のEUによる通貨統合の実現に主導的役割を演じつつ、他方では旧ユーゴスラビア解体過程でのクロアチア独立の率先承認が国際的に注目を集めた。そのほか、1994年の連邦憲法裁判所によるNATO域外派兵の条件付承認、1999年の新しい首都ベルリンへの政府移転の完了、1999年4月にはNATO軍によるユーゴ(新ユーゴスラビア)出撃に際して、ドイツ連邦軍が戦闘行動に初参加、アフガニスタンへの平和維持部隊の派遣など、政治大国としての新しい動きを見せている。2003年に行われたアメリカのイラク侵攻に対し、ドイツはフランスとともに一貫して反対した。そのため、アメリカとの関係が悪化した。また、国連において安全保障理事会の常任理事国入りを日本などとともに目ざしているが、実現は困難な状況にある。

[山口 定]

軍事

パリ諸条約によって西ドイツはNATOに加盟すると同時に、その枠内での再軍備に踏み切った。1954年2月の「基本法」改正、1955年6月の国防省設置、1956年7月の一般兵役義務法、1958年3月の連邦議会による核武装決議を経て、西ドイツ国防軍は、1964年には陸軍27万4000人、空軍9万2000人、海軍3万人ほか、地域防衛軍を含めて総計43万人に達し(統一時の1990年には西ドイツ国防軍49万人、東ドイツ人民軍17万人となっていた)、ヨーロッパに配備されたNATO軍としては最大の軍隊となった。現兵力(2003年)は、東ドイツ人民軍の解体編入にもかかわらず冷戦終結後の軍縮もあって減少し、陸軍は19万1350(うち徴集兵7万3450)と予備役29万7300、海軍は2万5650(うち徴集兵4950)、空軍は6万7500(うち徴集兵1万6100)となっている。また、アフガニスタン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアに国際治安支援部隊を派遣している。ドイツ軍以外に、アメリカその他のNATO加盟諸国の駐留軍があり、ドイツ軍とともに多国籍部隊を形成する。兵役義務は満18歳以上の男子(期間9か月)にある。ドイツの軍隊は、西ドイツ時代の最初から良心的兵役忌避の承認を制度化(基本法第4条)している点と、議会による国防軍統制の制度の一環として国防受託者(防衛監察官)を設置している点に特色がある。国防支出は、西ドイツ時代の1970年以来、英仏両国を凌駕(りょうが)し、GNP中のその比率は、1960年代末までは6%前後、それ以降は4%前後、1980年は3.2%まで下がり、統一後の1990年代には2%前後になった。2003年にはGDP比で1.5%になっている。戦術核使用可能な兵器を装備しているが、核弾頭はアメリカ軍管理下にある。

[山口 定]

経済・産業

統一後のドイツ経済

人口約8200万人のドイツ経済の規模を示すGDP(国内総生産)は、2004年時点で2兆7405億ドルであり、世界のGDPの6.8%を占めている。これはアメリカ合衆国(29.1%)、日本(11.5%)に次ぎ、国民1人当りに換算しても先進国ではアメリカ、日本などに次ぐ高い所得水準を示している。ドイツ経済の国際的地位は貿易面でいっそう顕著で、輸出額では世界第1位、輸入額ではアメリカに次ぎ第2位であり、世界の輸出入額に占める割合は、輸出10.6%、輸入8.2%と大きい。

[大西健夫]

東西の経済統合

ドイツ経済は過去10数年間、旧東ドイツ地域の再建とヨーロッパ経済統合の完成に全力を傾けてきた。1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊に始まるドイツ再統一は、1990年7月1日の経済・通貨・社会同盟、10月3日の国家統合へと結実した。旧西ドイツと旧東ドイツを統合時点で比較すると、人口で6200万人と1700万人、就業人口で2968万人と859万人でありながら、経済力は10対1であった。これは、7月1日の通貨同盟に始まる通貨供給量の伸びが10%程度であったことからもみてとれる。旧東ドイツ経済の近代化は遅れており、第一次、第二次、第三次産業を部門別就業人口比率でみると、旧西ドイツではそれぞれ5%、40%、55%であったのに対し、旧東ドイツでは11%、47%、42%であった。さらに旧東ドイツ経済の生産設備の老朽化が著しかったばかりでなく、計画経済体制下での生産資源配分の非効率、重化学工業偏重の経済構造、国営・国有企業の生産性の低さが決定的であった。また、旧東ドイツの主たる貿易相手国である旧コメコン諸国も混乱に陥ったことと、ドイツ・マルク受け入れにより通貨切上げが生じたことから、旧コメコン諸国への旧東ドイツ地域からの輸出が極端な不振に陥ることとなった。

 再統一にあたっては政治的判断が優先されたことから、実体的に1対4以上であったドイツ・マルクと東ドイツ・マルクの交換比率を、賃金・家賃などを1対1、現金・預金は1人当り14歳までは2000東ドイツ・マルク、59歳まで4000東ドイツ・マルク、60歳以上は6000東ドイツ・マルクを上限として1対1とし、超過分は1対2とした。企業の債権・債務は1対2であった。社会保障制度においても、年金を含め旧西ドイツなみの水準へ移行させたので、そのための財政補填(ほてん)分を旧西ドイツ側が負担した。社会基盤整備を含めた旧東ドイツ地域の近代化投資は同じく旧西ドイツ側の負担となり、統一国家条約に基づきドイツ統一基金が設置され、1990年からの5年間に1150億ドイツ・マルクを旧西ドイツの連邦政府と州が負担するものとした。こうした負担に対する旧西ドイツ国民の論理は、第二次世界大戦後分断国家時代にもっとも苦しんだのが社会主義政権下の旧東ドイツ地域の同胞であったとの認識である。しかし、5年間で東ドイツ地域経済の再建が完了するとの見込みは満たされなかったばかりか、基金への積み増しがその後も続けられた。2001年の一人当りGDPは、東で1万6514ユーロ、西で2万7004ユーロとなり、東は西の61.2%である。1991年の東の1人当りGDPは西の33.1%にすぎなかったので、差は縮まったものの、東西両地域の経済格差は依然として大きい。

[大西健夫]

国営・国有企業の民営化

社会主義計画経済から資本主義市場経済への体制転換は難航する。体制転換の道筋は、旧東ドイツ国家時代の1990年6月に制定された、やはり5年間の期限立法である信託公社法によってつけられていた。すべての国営・国有企業は資産評価ののち資本会社として民営化され、信託公社はその株式のすべてを所有する巨大持株会社となる。計画経済体制のもとで企業経営が集中管理されていたので、本体業務以外の関連業務をも包括した大コンビナート経営となっており、民営化にあたって信託公社は業務単位で資本会社化し、不採算部門を清算する方法をとった。民営化の対象とされた国営・国有企業の従業員総数は600万人にのぼっている。公社は個々の会社の業績・財務を検査し、存続可能と判断した会社の株式を内外の市場で売却するか、支援によって再建してから売却する。見込みのないものは閉鎖するが、従業員解雇費用等を信託公社が負担する。会社の売却収入で民営化の費用を調達できるとの前提であったが、再建費用が売却収入を大幅に上回ってしまう。5年間における信託公社の収入は400億マルクであったのに対し、負債総額は2040億マルクとなり、負債は連邦政府が引き受けている。

[大西健夫]

経済統合の西ドイツ経済への影響

再統一の旧西ドイツ経済への影響は、1990年から1991年にかけての一時的な統一ブームに現れ、実質経済成長率を1%引き上げた。西側の消費財を自由に購入できることになった旧東ドイツ住民は旺盛な消費意欲を示し、これを満たすことにより西ドイツの輸出余力は減少したばかりか近隣諸国からの輸入に頼るまでに至り、貿易収支黒字も大幅に減少し、1991年以降2000年まで経常収支赤字が続いていた。消費者物価の上昇と雇用不安が92年以降の消費を抑え、1993年には不況に向かい、統一ドイツのGDP実質成長率はマイナス1.2%を記録した。物価抑制と東地域での再建投資のために外国資本を導入したが、外国資本導入のため金利を高く維持したことも景気を抑制した。そして、なによりも財政赤字幅が拡大していった。

 1993年11月に発効したマーストリヒト条約は、EC(ヨーロッパ共同体)をEU(ヨーロッパ連合)へと発展させるとともに、通貨統合への日程と基準を設定した。1999年1月1日のユーロ導入への参加基準のうち最大の難関となったのは、基準年である1997年におけるGDP比国債残高60%以内と財政赤字3%以内とする、という条件であったが、1996年のそれはマーストリヒト基準で60.4%と3.4%であった。その後も財政赤字は続いていて、2004年財政赤字の対GDP比は3.7%と3%以内の基準は達成されていない。政府支出の減少、とくに社会保障費の削減が不可避となる。財政出動に足かせが課せられたこともあり、1995年から1997年までの実質GDP成長率は1.2%、1.3%、2.2%であった。失業率も、後述の五賢人会資料によると、西ドイツ地域で1991年に6.3%であったものが97年には11.0%、旧東ドイツ地域でも10.3%から19.5%へと急速に上昇している。1997年に対GDP比国債残高と財政赤字を61.3%と2.7%で基準をクリアすると、1998年の成長率は、通貨統合への期待もあって設備投資が活発となり、2.8%成長を達成する。しかし、前年までの社会保障費の削減が国民の反発をかい、1998年9月の総選挙でシュレーダーを首班とする社民党が地滑り的に勝利し、イギリス、フランスに次いでドイツも緑の党との連立で中道左派政権が実現した。1999年は東欧と東アジアへの輸出の停滞から成長率は1.4%へと下がるが、2000年には3.0%を達成した。実質経済成長率(IMF資料)は2001年に0.8%、2002年に0.2%に低下、2003年はマイナス成長となっている。ドイツ経済の課題は、依然として遅れている旧東ドイツ地域の経済再建と、高止まりしている失業率であるが、中期的には金融政策がヨーロッパ中央銀行(ECB)に一元化されたなかで、財政政策をどう運用するかである。

 グローバル化の進展とともに競争が激化する国際経済にあって、財政政策を国内経済・社会の保護手段とすることは、中期的にはドイツ経済の競争力を失わせ、投資と雇用機会を減少させる。1999年6月にシュレーダーがイギリスの首相ブレアと共同提唱した「第三の道―新中道」においても、市場と社会保障の関係を新たに構築すべく第三の道を模索している。

[大西健夫]

西ドイツ時代の産業・経済
戦後復興

ヨーロッパにおける第二次世界大戦は、1945年5月8日のドイツ無条件降伏で終了するが、これに先だつ1943年10月のモスクワ会議で米英ソ3首脳はドイツ分割統治に合意し、1945年2月のヤルタ協定でフランスの占領参加が決まる。そして、1945年7月30日に始まり、8月2日のポツダム協定に結実する米英ソ3国首脳の合意により、戦後ドイツの版図が決定される。これにより、東欧各地に居住していたドイツ人の4国占領地域への移住が進む。戦中ならびにポツダム協定以降1950年までに4国占領地域に移動した人数は1500万人に及んでいる。戦後ドイツ経済の復興はこれらの人々を受け入れることから始まる。

 次第に、復興には各占領管理地域を超えた施策が必要であるとの認識が西側戦勝国の間でもたれるようになり、冷戦構造が明白になりつつあったこともあり、1947年にまず米英が両管理地域の経済統合を定めるが、この合同経済地域が後の西ドイツ国家形成の核となる。政治的統合に先だち進められたのが、通貨改革である。まず1948年3月に西側3管理地域の中央銀行であるドイツ・レンダーバンクが設立され、これに続きドイツ側の経済責任者ルードウィヒ・エアハルトは、西側管理地域を対象に通貨改革を1948年6月20日に断行する。戦前からのライヒス・マルクを廃し、100対6.5の比率でドイツ・マルクを導入する通貨改革は、戦後インフレを克服する手段でもあったが、同時にこれにより、旧通貨ライヒス・マルクを維持したソ連管理地域との断絶が生まれ、東西対立が通貨において決定的となる。ソ連管理地域との通貨の断絶は、ソ連が拒否したマーシャル・プラン援助を西側管理地域にも導入するにあたり、その適用範囲を確定するためにも必要な処置であった。そして、米英仏3国の管理地域の各州代表による憲法制定作業を経て作成された基本法(ドイツ憲法)を各州が受け入れ、1949年5月23日に発効する。

 国家形成過程が示すように、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)は、国内行政の主体を州政府とする連邦主義構造をとっており、政治体制のみならず、経済体制と経済運営においても基本原則となっている。これに対抗する形で1949年10月7日には、ソ連管理地域から社会主義中央集権国家としてドイツ民主共和国(旧東ドイツ)が建国され、新通貨を(東ドイツ)マルクとした。

[大西健夫]

社会的市場経済

14年間にわたり首相として旧西ドイツを政治的に指導したのはキリスト教民主同盟のアデナウアーであるが、その西側世界への統合政策を経済面で支え、ドイツ経済の奇跡を実現したのが経済相エアハルトである。彼の経済秩序理念は、ワイマール時代以来フライブルク大学教授オイケンを中心に定着していた自由な競争に立脚する市場経済体制理論に基礎を置き、ナチ時代の管理・統制経済を否定するものである。フライブルク学派の機関誌『オルド』の名をとってオルド学派ともよばれるが、彼らは競争秩序の構築と機能の維持が社会進歩を実現するものと考える。すなわち、社会的・政治的・経済的自由、社会的安全、社会的公正の適正な組み合わせを目ざす秩序理念である。

 基本法20条1項が「ドイツ連邦共和国は、民主的、かつ、社会的国家である」と定めていることから、エアハルトに代表される西ドイツの経済体制は、彼の下で事務次官を務めたケルン大学教授ミュラー・アルマックAlfred Müller-Armack(1901―1978)の造語によって社会的市場経済とよばれるようになる。社会的国家における「社会」を経済政策の現実においてどのように理解すべきかが政治の場で争われるようになる。野党である社会民主党は社会保障の充実を強調する立場にたち、「政府は市場を優先している」と批判した。すなわち、個々の政策における「市場」と「社会」の位置づけが問題となるのであるが、1954年7月20日の連邦憲法裁判所は、基本法は特定の経済体制を明示的に決定してはいない、それは中立的であり、個々の政策は時々の議会が決定する、との判断を下している。ミュラー・アルマックの主張は、市場と社会、競争と社会保障は対立するものではなく、相互補完的でありうるとの立場にたった。たとえば、公共住宅の建設よりも住宅手当を優先するのは、消費者による市場での選択権を拡大することであり、供給側が市場で競争するのでより市場整合的であるとする。また、公正な市場秩序と市場整合的な施策が市場と社会の進歩的な共存をもたらすと考え、政府の役割は独占禁止法をはじめとする秩序政策にあるとする。彼は、市場と社会の架け橋たるべき政府の政策に学識者の意見を制度的に取り入れるべく経済省に学術顧問委員会を設置し、世論形成と自由な答申の場を設置するのでもあった。市場と社会の関係は、資本主義社会において永遠の課題であるが、ドイツの社会的市場経済理念はグローバリズム時代における「第三の道」論議においても一つのコンセプトを提供しているといえよう。

[大西健夫]

経済発展と政策

通貨の安定による市場機能の回復は、マーシャル・プラン援助や朝鮮戦争景気とも相まってドイツ経済の復興を強力に推進した。朝鮮戦争後の反動不況などを経験するものの、1960年代中葉までのドイツ経済は高い成長、安定した物価、貿易黒字、完全雇用を実現し、ドイツ経済の奇跡とよばれるに至る。しかし、その後のドイツ経済は幾度かの構造危機に直面するのであり、これを克服する過程において政権の交替と政策の転換が明白にみられるのがドイツの特徴である。

 好況の最中、1961年8月のベルリンの壁構築により東からの労働力流入がとだえ、賃金の上昇が目だつとともに消費者物価も上昇に転じ始める。外国人労働者の導入を積極的に進めるが、賃上げとともに労働時間短縮などもあり、生産面での弾力性が失われ、ドイツ経済の国際競争力が低下する一方、連邦主義構造のもとで財政の独立性をもつ各州で好況期における財政の放漫化が進み、1967年には復興後最初のマイナス成長を記録するに至る。ドイツ経済が転機に直面しつつあった1963年にエアハルトはアデナウアーの後を継ぎ首相に就任するが、経済成長率は下降局面に入っており、高成長よりも安定化政策が課題となった。経済運営に連邦政府や州政府の個別的立場のみならずドイツの全体経済に関する判断と提案をすべき機構の必要性が認識されるようになり、経済省学術顧問委員会の提案に基づき、5人の経済学者からなる「経済諮問委員会」(通称五賢人会)を設置するのもアデナウアー政権最後の1963年である。1966年の経済安定・成長促進法制定とともに五賢人会の役割と権限がより明確に規定された。五賢人会は全体経済に関する年次所見を毎年11月15日までに議会と政府に提出し、これに対する回答を政府は8週間以内に議会に提出するものとしている。この所見と回答をあわせたものが、たとえば日本における経済白書にあたるものと考えてよい。

 1966年の総選挙の結果、エアハルトは退陣し、キリスト教民主同盟はキージンガーを首班として野党第一党の社会民主党と大連立内閣を形成する。この時期の経済政策を主導するのは社民党の経済相シラーであるが、エアハルトの秩序政策にマクロ経済運営における経過政策を加え「オイケンとケインズの総合」を目ざし、経済の総合的誘導を主唱する。不況の最中の1967年に発効する経済安定・成長促進法は、その第1条で「市場経済の枠内で、適正な経済成長を維持しつつ、物価水準の安定、高い雇用水準そして対外経済均衡に資すること」を明示し、いわゆる「魔法の四角形」(成長、物価、雇用、貿易の調和的発展)の適正な達成を政策目標とするに至る。具体的には財政・金融政策における中期財政計画が導入され、連邦・州政府財政の協調が実現するとともに、労・使・政府の協力のための「協調行動」が制度化される。財政政策を中心に総需要管理政策と所得政策が政策手段として定着し、1969年の社民党政権とともにミュラー・アルマックのいう社会的市場経済の第二局面の時代となる。

 1968年以降ふたたび成長軌道に戻った西ドイツ経済は、社民党政権のもとで二つの石油危機を経験し、1974年のマイナス成長以後成長率の鈍化と失業率増大に苦慮し、経常収支赤字が1979年以降続くとともに、1982年には三度目のマイナス成長を記録するに至る。構造危機が鮮明であり、ドイツ病といわれた時期である。1982年にふたたび政権に返り咲いたキリスト教民主同盟は、コール首相のもとで社民党政権下で肥大化した政府機能を縮小するとともに、社会的市場経済理念の原点に立ち戻り、市場機能活性化を目ざす。世界的に小さな政府が志向された時期であり、すでに40%に達していた国民負担率を主として社会保障費の削減によって引き下げ、投資優遇策を実施してサプライサイド(供給側=企業)からの経済回復を政策理念とした。

 1983年以降の西ドイツ経済は順調な回復を示し、1985年のプラザ合意でのマルク切上げが一時的なショックとなったものの、1986年のEC単一欧州議定書に基づく1992年末に予定されていた共同市場完成を先取りする投資ブームが起こり、1980年代後半は失業率は高止まりしつつあったものの西ドイツ経済の好況期となる。そして共同市場ブームに陰りをみせ始めていたさなかの1989年11月のベルリンの壁崩壊に始まるドイツ再統一は、ドイツのみならず近隣ヨーロッパ諸国にまで統一ブームをもたらした。再統一にはソ連への賠償支払いと弱体化した旧東ドイツ経済の吸収を必要としたのであるから、1980年代に旧西ドイツ経済の体力が回復し、硬直化していた公共財政の改善が進んでいたからこそ、再統一は可能となったのである。

[大西健夫]

ドイツの産業・経済構造
経済構造

産業を西ドイツ時代からの一次、二次、三次の部門別就業人口構造でみると、一次産業は1960年に14%であったものが1980年には6%となっており、二次産業は48%と45%、三次産業は38%と49%であった。五賢人会1999年11月の「年次報告」に基づく1998年の3部門の就業人口比率は3%、31%、66%であり、GDP比率では1%、31%、68%となっている。

 国民経済計算の総支出勘定の項目をGDP比率で1998年についてみると、民間消費57%、政府消費20%、設備投資8%、建設投資14%、海外経常余剰(財・サービス輸出入尻)1%である。最大の項目は民間消費であり、1993年以来低迷していたが、1998年には伸び率を回復し、成長寄与度を高めている。輸出入依存度は輸出25%、輸入22%であり、輸出が伝統的にドイツ経済の牽引(けんいん)役を果たしてきた。

 民間消費を決定する家計可処分所得をみると、家計貯蓄率は1991年の13.2%から1998年の10.1%に低下している。家計消費を支出項目別比率で分類すれば、住宅・内装・家具が25%、旅行・余暇・文化・教養が22%、交通・通信・自動車購入と食費がそれぞれ16%と主要項目となっており、ドイツ人の経済生活の特徴を表している。

[大西健夫]

主要産業と主要企業

(1)農林水産業 ドイツ経済における農林水産業は生産額で1%、就業人口で3%と大きな意味をもたないが、前記の比率が物語るように労働生産性の低さとこれに伴い他の産業に比べて所得の低さが問題である。第二次世界大戦後の食糧難の時期から製造業を中心とする奇跡の経済復興の時期に入ると所得格差解消が農業政策目標となり、日本の農業基本法の原型となった農業法が制定されるのは1955年である。これによって所得と生活条件の格差解消と農漁村での生活基盤整備が図られた。具体的には家族経営が中心となっている農業経営に規模の拡大と機械化が進められたが、農業人口の減少は著しく、専業農業人口は1950年の510万人から1980年には120万人となっている。

 農業政策においてはさらに、1962年からのEC共通農業政策に基づき域内共通保証価格が導入されたので、経営の大規模化と機械化が進んでいたドイツの農業は域内で相対的に有利となり、ドイツ農業も恒常的に過剰生産に陥る。しかし、農業市場の自由化が進むとともに国際競争力の弱さが顕著になり共同体財政への負担を大きくする。そこで、1992年にEU共通農業政策の修正がなされ、価格保証の削減と減反による生産調整がなされるようになった。農業経営にはいっそうの合理化圧力が課せられている。とくに、戦前からの穀倉地帯であった旧東ドイツ地域では、社会主義時代に農業にもアウタルキー(自給自足)政策がとられ、共同経営体が形成され手厚く保護されていたので、再統一後の市場経済化に伴う競争圧力に対応できず、経営の民営化とともに農業人口は大幅に減少した。2003年の農業就業人口は130万3300人、経営体数は42万0697、農地面積は1700万8000ヘクタール(うち旧東ドイツ地域は555万4000ヘクタール)である(『ドイツ統計年鑑』による)。

 ドイツの地勢は、北海・バルト海沿岸に始まる北ドイツ低地、ほぼマイン河を中心とする中位山地、アルプスに向けてのアルプス前地に区分されるが、北ドイツ低地の肥沃(ひよく)な砂質、泥土質、粘土質の地帯では穀物とサトウダイコン(ビート)が栽培され、これが森林豊かな中位山地から南ドイツの粘土質地帯まで広がっている。北部の低湿地帯、中位山地岩盤地帯、アルプス前地は牧畜のための緑草地として利用されている。自給率は、小麦、大麦、ライ麦などの穀物だけでみると90%を超えており、ジャガイモ、砂糖、ミルクなどは100%である。輸入依存度が高いのは果実、野菜、奢侈(しゃし)品である。また、気候が温暖なライン川中・上流とその支流はドイツワインの産地である。歴史的にはより北部や東部までワイン栽培がなされていたが、北部や東部地域のワインはフランスやイタリアとの競争の結果消滅した。特筆すべきは、旧東ドイツでは奢侈品への高率課税の結果、国産ワインに価格競争力があることで、ザール川の支流ウンストゥルート川地域でワイン栽培が存続し、再統一後も続いている。

 ドイツの国土の3分の1は森林であり、森の国ともいわれている。林業用地は898万4000ヘクタール(2001)であり、このうち国有林が50%、自治体所有林と個人所有林が残りをほぼ折半している。地域的にはバイエルン州やバーデン・ウュルテンベルク州がある南ドイツとベルリンを抱えるブランデンブルク州が大きい。

 漁業は沿岸が中心で、2002年の漁獲量22万4451トン、養殖量は4万9852トンである。主要な漁場は北海とイギリスの西側にあたる大西洋であり、これにバルト海が続く。漁獲量と売上高で主要なものはカニとタラで、漁獲量は大きいが金額に反映していないのが大衆魚であるニシンと貝である。高級魚サケは売上高で大きな位置を占めている。

(2)製造業 2002年では、第二次産業の生産比率27%のうち、大きいのは製造業の20.6%、建設業の4.2%、電気・ガス・水道の1.8%である。第三次産業では、金融・保険・不動産が28.2%、卸売・小売が10.9%、運輸・通信が5.8%などとなっている。

 サービス社会化は進行しているものの、ドイツ経済を支えているのはやはり製造業である。売上高で20大企業を並べてみるとわかるように、ドイツ経済を代表するのは、自動車、化学、電子・電気、鉄鋼・機械である。自動車産業を代表するのは、ベンツ(ダイムラー・クライスラー)、フォルクスワーゲン(アウディを系列下におく)、BMWであり、これに外資系のフォードとオペル(GM)と高級車のポルシェが加わる。化学業界には、世界的に事業を展開しているBASF、バイエルがある。かつては、この2社にヘキストが加わり、ドイツ三大化学メーカーとよばれていたが、ヘキストは現在、フランスに本社を置くサノフィ・アベンティスとなっている。電子・電気業界を代表するのはジーメンスで、これにボッシュ、グルンディヒが続く。しかし、情報機器の分野ではアメリカ、日本に後れていると指摘されている。鉄鋼・機械ではティッセンクルップ、マンネスマン、プロイサーグ、マンがある。このうちマンネスマンは、携帯電話などの情報機器への比重を高め、2000年には鉄鋼部門を売却している。エネルギー業界の大手は、VEBA(フェーバ)、REW(レーベ)、ルール炭鉱、VIAG(フィアグ)、ルール・ガスであるが、VEBAとVIAGは2000年に合併してE.ON(エーオン)となり、E.ONはさらにルール・ガスも買収している。一次エネルギー消費量を種類別比率でみると、石油が37.2%、石炭・褐炭が24.6%、天然ガスが21.8%、核エネルギーが12.4%となっている(2002)。1998年総選挙で社民党と緑の党の連立政権が成立し、政策合意に原子力発電廃止があるものの、具体的な廃止時期や手順は先送りされている。

(3)商業・金融 商業企業の多くは第二次世界大戦後に成長したもので、持株会社化し本部をスイスに置くとともに大規模小売店カウフホーフを傘下にもつメトロ(ドイツ本社デュッセルドルフ)をはじめとして、スーパー・チェーンのEDEKA(エデカ)(本社ミュルハイム)、スーパー・チェーンのプルスに代表されるテンゲルマン(ハンブルク)、スーパー・チェーンであるとともに食品・化粧品メーカーでもあるREWE(レーウェ)(ケルン)が上位を占めている。そして、ヨーロッパ最大の通販業者がクエレ(フュルト)である。しかしクエレは、消費低迷による業績悪化のため、2004年に経営危機に陥った。ドイツ銀行、ドレスナー銀行、コメルツ銀行が、第二次世界大戦後フランクフルトに本拠を置き三大銀行としての地位を築いてきた。それに続く地銀最大手のバイエリッシェ・フェラインス銀行が、同じミュンヘンに本拠を置くバイエルン抵当・振替銀行と合併して第2位の銀行となった。

[大西健夫]

地域経済構造

第二次世界大戦後の西ドイツ経済は重化学工業を中心に高度成長を実現したが、その原動力となったのは、19世紀以降ルール地方の炭坑を背景に発達した鉄鋼業と、ここから生まれた機械産業である。長い間南北格差がいわれてきた。人口1800万人のノルトライン・ウェストファーレン州はドイツ最大の州であり、州都デュッセルドルフには日本企業が集中している。その基盤は鉄鋼業のルール工業地帯であるが、さらにケルン(フォード)、アーヘン地域の機械産業を抱え、ドイツ最大の経済中心地である。産業構造が加工組立型に移行するにつれて、自動車、電子・電気およびその関連産業が南を中心に発展し、中心地であるバーデン・ウュルテンベルク州のシュトゥットガルト(ベンツ、ポルシェ)、バイエルン州のミュンヘン(BMW、ジーメンス)、ヘッセン州のフランクフルト(オペル、ヘキスト、銀行)の比重が急速に高まった。これに州都ハノーバーを中心とするニーダーザクセン州中部が主要工業地帯の一つとして加わるが、その中心となるウォルスブルクのフォルクスワーゲン工場や1998年にプロイサーグ(ハノーバー)が全株式を取得する鉄鋼のザルツギッターは、第一次・第二次世界大戦の戦間期に空爆を避けるため内陸部に政策的に設置されたものである。

 第二次世界大戦前の中心地であったベルリンは旧東ドイツ領内の飛び地となったことにより、ジーメンス、フォード、ドイツ銀行がそうであったように、企業がその本拠を西側に移したので経済的地位を失った。再統一により、旧東ドイツ時代の工業中心地であった東ベルリンと西ベルリンが合併するとともにふたたび首都の地位を獲得したことにより、同市は経済中心地としての復権を目ざすことになった。

 旧東ドイツの計画経済は経済アウタルキー(自給自足)政策と企業経営の集中管理を行ったので、地域産業にモノカルチャー構造(特定の分野に片寄った産業構造)を生みだしていた。製造業の伝統のない穀倉地帯に計画的に工業地帯が移植されたのである。鉄鋼、化学、機械、造船などが特定の地域で集中管理されたので、国営・国有企業の解体や清算とともに雇用の受け皿が地域に存在せず、高い失業率をもたらした。再統一後の10年間で、地域経済成長率格差が明白となってきた。工業生産の伸びが高い地域は、多様な生産財、消費財産業を抱えるベルリン-ポツダム地域、機械工業のドレスデンとプレンツラオ、光学・精密機械のイエナなどのある地域である。このほかに戦前からの機械産業の中心地であったライプツィヒやケムニッツがある。これに対して、アウタルキー政策から設置された北海沿岸の造船業地域は根本的な構造転換には成功していない。

[大西健夫]

交通・通信

ドイツはヨーロッパの中心部に位置することから、交通網でみると小国であるベネルックス三国に次ぐ整備網を有している。国土1000平方キロメートル当りでみると、アウトバーン(高速道路)で31.2キロメートル、鉄道で50.9キロメートル、内陸水運で21.0キロメートルとなっている。

 歴史的にみて大量輸送手段は鉄道から始まったし、19世紀中葉のドイツの産業革命に鉄道建設と鉄道輸送は決定的な役割を果たした。大量人員輸送手段は、鉄道、路面交通、航空に分類できるが、1998年の総輸送人員数は、鉄道が18億2000万人、バス等の路面輸送が78億7000万人、航空が10億7000万人であった。私鉄から発達したドイツの鉄道の国有化が完成するのは1920年代であるが、民営化政策のもとで旧東ドイツ国鉄を合併して、1994年1月発効の法律により連邦政府100%株式所有のドイツ鉄道株式会社(DB(デーベー))が発足する。鉄道の営業路線距離は4万2168キロメートルで、このうち貨物専用路線は7523キロメートルである。貨物輸送においては、鉄道が30億0600万トン、自動車が29億6800万トン、内陸水運が2億3600万トン、海運が2億1400万トン、航空が200万トン、パイプラインが9000万トンであった(1998)。ライン川、エルベ川、ドナウ川が流れるドイツにとって内陸水運の果たす役割は大きい。内陸水運に従事している船舶数は貨物用と曳船(ひきふね)で2500隻、これに観光船の750隻が加わり、従業員数は8140人である。

 1960年代に始まるモータリゼーションの結果、人員ならびに貨物輸送の主役は自動車に移った。自動二輪を含めた登録台数は4959万台(1998)であるが、このうち自家用車が4167万台、貨物自動車が237万台である。道路の延べ距離数は23万1074キロメートルであるが、このうち連邦政府が建設・管理するアウトバーンは1万1309キロメートルで、一般国道にあたる連邦道が4万1419キロメートル、州道が8万6819キロメートル、市町村道が9万1527キロメートルとなっている。

 郵便と通信は連邦郵政省が所轄する国営事業であったが、1989年に郵便、通信、郵貯の3部門に分割され民営化することが決定された。とくに通信に関しては、1995年のドイツ・テレコム株式会社化を受け1996年に株式市場に上場している。1997年のドイツ・テレコムの売上高は676億マルクで年次利益は35億8800万マルクであった。同じく民営化されたドイツ郵便の従業員数は26万7000人で、売上げが271億3600万マルク、年次利益は3億8400万マルクの赤字であった。

[大西健夫]

開発と環境保全

国土整備の基本原則は1965年に制定され、その後たびたび改正されてきた連邦国土総合整備法に基づいている。この法律は、第1条で「既存の自然環境および経済的、社会的ならびに文化的要件に配慮すること」とうたっているように、経済目的での開発にあたっては農業、林業の保全とともに自然保護・保全との調和のとれた土地利用計画をたてることを目ざしたものである。

 ドイツは連邦主義原則に基づく行政の分権主義が確立しているので、国土整備の主体は州政府となっており、各州は国土整備法に対応した州国土法を制定している。そこでは、自然の産物、植物と動物、景域・景観、それらの保護・保全などにつきその内容を具体的に指定し、その実現のための法的拘束性や行政手続きを明記している。こうした大枠に基づき、農村地帯であれば耕地整理法、都市開発には建設法典、自然保護・保全には自然保護法、環境管理には水管理・整序法、公害防止法などが制定されている。とくに建設法典では市町村に開発にあたっての土地利用計画書の作成が義務づけられており、交通手段、廃棄物処理、環境保全、緑地確保、水利用などに厳格な計画性を要求する。こうした幅広く、かつ、細部にわたる規定の存在がドイツの美しい地域景観と環境保全を確かなものとしている。

 国土開発や環境規制については国内法で規定できるが、環境破壊に国境はない。それゆえ、複数の国にまたがって流れる川や大気汚染については国際基準と協定が必要であり、EU加盟国はEU環境法を制定している。国境を越えた大気汚染の影響とみられているドイツの森林汚染についてみると、1990年代初頭まで悪化の進行が目だったが、大気汚染対策が進むにつれて1990年代後半に入り安定ないし改善している。森林汚染度は、1984年の連邦・州政府の合意のもとに観察地点を特定し、そこでの観察によって汚染の進行がみられない(0)、わずかであるが汚染の進行がみられる(1)、汚染が明白にみられる(2)、強くみられる(3、4)を基準にして判定されている。汚染度2以上を基準にみると、とくに汚染が激しい旧東ドイツのチューリンゲン州で観察地点総数に占める割合が1996年に37%であったものが、1998年には31%に改善しているし、旧西ドイツのバーデン・ウュルテンベルク州でも35%から24%と、汚染度は低下している。旧東ドイツ地域で環境汚染が激しいのは、社会主義時代に環境規制を行わなかったからである。そのため土壌汚染が進行した。再統一後、政府の責任で汚染処理を進めている。

 生産活動が環境に影響を与えるのは避けられないことである。それをいかに小さくし、抑えるかである。産業界も努力しており、第二次産業の環境関連投資総額は50億マルクで、総投資額の4.1%を占めている(1996)。環境投資比率が高い鉱業は1億6250万マルクで総投資額の5.5%、製造業は39億4600万マルクで4.4%、エネルギーは9億7200万マルクで3.1%であった。いずれも大気・排水関連投資が中心であるが、環境投資額が最大の自動車(合計7億2000万マルク)でみると、大気関連が5億マルク、排水関連が1億2700万マルク、騒音関連が3000万マルクなどとなっている。それでも環境関連の違法行為は増大しており、起訴件数は1993年の2万9732件から1997年の3万9864件となっている。このうちもっとも多いのが、汚染廃棄物処理に関するもので、2万9559件にのぼり、これに続くのが土壌汚染の1888件であった。

 ドイツは環境先進国といわれているように、環境対策は早くから始まっている。製造・販売者責任原則をとっており、1972年の廃棄物処分法、1986年の廃棄物発生規制・処理法、1994年の循環型経済廃棄物法と続き、これらの法律に基づき個別分野の政令が発布されている。1991年の包装廃棄物規制令は輸送用包装材のメーカー引き取り、商品包装の回収と再利用の流通業者負担などを定めており、民間企業はこれに対応するため1990年に共同出資で包装紙やプラスチック容器の回収とリサイクリングの専門会社デュアルシステム・ドイチュラント(デュアル=二重、すなわちごみ回収と処理を行う行政と並行する業務)を設立している。国内包装材メーカーと契約を結び、メーカーが包装材に印刷したグリーン・ポイントがあるものを回収し、リサイクリングし、再生品を販売する。電気・電子製品や自動車についても、メーカーが引き取り、解体・リサイクリングするのが原則である。それゆえ、メーカーは、環境規制に対応するとともに解体とリサイクリングを前提として製品設計にあたらなければならない。1992年に第一次草案が作成され、1998年4月発効の廃車規制令では、メーカーないし認定業者が廃車解体とリサイクリング義務を負う一方、所有者は回収業者に廃車を持ち込み廃車手続きをしなければならない。この手続きが完了しない限り自動車税支払いが継続する。この規定は外国車を含め国内で新車登録されるすべての車種に適用される。

[大西健夫]

国際収支と貿易

第二次石油危機の影響を受けた1979年から1981年を除き黒字基調であった経常収支は、1990年の黒字を最後に赤字を続け、1998年は74億マルクの赤字となっている。貿易収支は1260億マルクの黒字であるものの、サービス収支は617億マルクの赤字であり、このうち536億マルクが旅行収支赤字であるように、ドイツ人の旅行好きが反映している。民間では外国人労働者による祖国への送金や公的支払いなどの移転収支も532億マルクの赤字であるが、公的移転収支のうち238億マルクはEUへの拠出金である。所得収支も161億マルクの赤字となっている。資本収支の持ち出しは1102億マルクであるが、このなかで金融機関による対外貸し付けが456億マルクと最大であり、対外直接投資は153億マルク、証券投資は44億マルクとなっている。その後、2001年より経常収支は黒字に転じたが、資本収支の持ち出しは増え続けている。

 貿易立国であるドイツの特徴は、19世紀以来鉄鋼と機械を産業基盤としてきた伝統を反映し、近隣ヨーロッパ諸国への資本財、中間財と耐久消費財の供給にある。商品貿易の相手国をみると、輸出の56.5%が対EU諸国であり、ユーロ圏に限っても43.2%となる。これに続くのがアメリカの9.4%、スイスの4.5%であり、日本は1.9%となっている。2004年にEUに加盟したポーランド、チェコ、エストニア、ハンガリー、スロベニアの1998年時点の総計は6.6%である。輸入では、やはりEU諸国が54.6%、ユーロ圏に限ると43.7%と最大であり、アメリカ、スイス、日本はそれぞれ8.2%、3.9%、5.0%である。前記2004年EU加盟国の総計(1998年)は6.4%となっている。輸出を商品別でみると、自動車をはじめとする輸送用機器の21.2%、機械の15.9%、化学製品の12.9%、鉄鋼・非鉄製品の5.2%が主力であり、輸入では先進工業国との産業内貿易構造を反映して、輸送用機器、繊維製品、化学製品、事務・OA機器が中心となっている。

[大西健夫]

金融・資本市場

銀行制度は伝統的にユニバーサル・バンキング・システムであり、銀行は銀行業務とともに証券業務を取り扱うことができる。大蔵省所轄で銀行を監督する銀行監督庁はベルリンにあるが、中央銀行であるドイツ連邦銀行が置かれているフランクフルトが金融センターとなっている。ヨーロッパ中央銀行もここに置かれている。企業金融は銀行を通じての間接金融が中心なので、株式市場の発達が後れ、金融市場の中心は債券取引である。証券取引所ベースでの時価総額は株式市場でアメリカの10分の1、日本やイギリスの2分の1であるのに対し、債券市場ではアメリカをさえ上回っている。

 ドイツ連銀は、設立目的として「独立性と通貨の安定」を明記した1957年の連銀法により設置されており、この政策目標はヨーロッパ中央銀行に受け継がれている。日常業務を施行するのは役員会であり、最高決定機関はこれに州中央銀行総裁が加わった理事会となっている。理事会は隔週木曜日に開催され金融政策の決定を下す。連銀は中間政策目標としてマネーサプライ(通貨供給量)のM3(現金通貨、預金通貨、定期性預金、貯蓄性預金の合計)を用い、その伸び率目標値は以下のように算定されている。1998年の例でみると、実質潜在成長率約2%、物価上昇率1.5~2.0%、貨幣流通速度低下による通貨発行増1%を予測し、年平均M3伸び率を約5%としている。

 ドイツの銀行制度の特徴の一つに株式寄託制度があり、顧客所有の株式の寄託を受け、企業の株主総会でその権利を代行できる。この結果、銀行は企業に対して融資、自己保有株、寄託株を通じてさまざまな影響を及ぼすことができるのであり、人的には企業の監査役会に代表を送り込んでいる。銀行による企業支配ともよばれるが、企業合併・買収にあたって迅速・有効な対応がとれるという利点も大きい。

[大西健夫]

財政・租税

連邦主義国家構造をとっているので、行政の主体は公共財政支出の40%強を占める州政府と3分の1弱の地方自治体であり、中央政府である連邦政府の財政規模は公共財政全体の3分の1程度である。財政支出の面で連邦政府予算でもっとも大きい項目は、3分の1を占める社会保障関係と5分の1弱にあたる国防・治安であり、これに続くのがそれぞれ約6%の連邦アウトバーン(高速道路)などの交通関係と教育・研究・文化である。

 歳入面でも連邦主義構造が明白であり、基本法(ドイツ憲法)により各種租税収入の帰属ないし配分割合が定められている。連邦税は関税、取引税、奢侈(しゃし)品消費税などであるが、税収がもっとも大きい給与所得税、付加価値税(一般消費税)、法人税、営業税などは、州、ないしは州と地方自治体の間で配分する。

 五賢人会資料によると、1998年における国民経済計算基準での公共財政全体での歳入は1兆7645億マルク、歳出は1兆8290億マルクであり、財政赤字645億マルクはGDPの1.7%である。対GDP比での租税負担率は23.1%、国民負担率は48.3%となる。

 ヨーロッパ通貨統合加盟国は、マーストリヒト条約での財政基準を達成するため財政赤字縮小に努めてきたが、その基本理念は、放漫財政によるインフレーション阻止と、各国が国内産業と雇用保護のために行う財政出動の阻止であった。ユーロ導入後のドイツにおいても、財政手段に頼らない経済運営が求められており、経済構造改革を通じての国際競争力強化が必要となっている。

[大西健夫]

経営参加と労使団体

ドイツの商法では、株主総会が選出するのは監査役会であり、監査役会が業務執行の取締役会を任命する。経営責任をもち、最高決定機関である監査役会の半数ずつを経営側と労働側から選出するのが共同決定法をはじめとするドイツの経営参加方式である。案件が賛否同数の場合、経営側が選出することになっている監査役会会長にもう1票が与えられている。経営側監査役が株式所有などによって資本参加している企業や銀行の代表として選出されるのに対し、雇用者側監査役は企業内従業員の代表と所属する産業別労働組合組織の代表からなっている。また、企業内には従業員の利益を代弁する経営協議会が設置されており、雇用、解雇、労働条件などについての経営側提案はここでの承認を必要とする。共同決定法の適用を受けるのは株式会社と有限会社であることから、合資会社や合名会社の形態にとどまっている著名企業が多いのもドイツの特徴である。

 労働条件や賃金などについては労働協約により決定される。労働協約の交渉は、州レベルで産業別の経営者団体と労働組合の間でなされ、その合意を最低基準としてさらに企業単位での交渉がなされる。

 ドイツの労働組合は、1産業1組合、1企業1組合の原則にたっており、産業別組合である。企業の組合は、どの産業別組合に加盟するかを決定し、所属する組合組織を通じて経営側と労働協約を結ぶ。産業別組合の全国組織として最大なのが、16の産業別組合を統合するドイツ労働総同盟(DGB)であり、組合員数は約850万人である(1998)。しかし、旧西ドイツ時代の1990年における組合員数が960万人であったことからもみてとれるように、脱退者増と若年層の未加入という問題を抱えている。これに続くのがドイツ官吏連盟で組合員数約190万人。ほかにドイツ職員労働組合、キリスト教労働組合連盟などがある。

 労働協約のもう一つの当事者である経営側は、その企業の組合が所属する産業別組合組織と交渉することになる。使用者側の団体組織としては、ケルンに本部を置くドイツ経営者団体連盟(BDA)とドイツ産業団体連盟(BDI)がある。主として、前者は社会・労務問題、後者は経済・通商問題に経営側の利益を代弁している。地域の使用者団体として各地商工会議所があり、地域での職業訓練の実施と職業資格認定を行っており、その統合組織であるドイツ商工会議所はボンに置かれている。

 本来の意味での労使団体ではないが、ドイツ独特の職能団体として手工業がある。ナチ時代の1930年代に制定された手工業法が原型となりいまも続いているが、同法が認定する125職種が建築、金属加工、木工、繊維・衣服、食品、保健、ガラスの7分野に分けて列挙されている。ここには、日常生活に不可欠なパン、食肉、調髪、縫製、自動車修理、電気工事、大工、左官などが含まれており、各手工業団体が資格を認定し、手工業名簿に登録された者のみが業務を行うことができる。マイスター(親方)、熟練工(職人)、養成工(徒弟)からなる職能団体で、職業の自由を侵害しているとの訴訟もあったが連邦憲法裁判所は合憲の判断をくだしている。

[大西健夫]

労働市場

西ドイツ時代の1961年にベルリンの壁が構築されて以来、ドイツにおいては労働力不足が一気に顕在化した。東からの労働力供給がとだえ、賃金が高騰し、すでに1955年にイタリアとの間で結ばれていた外国人労働者受け入れ協定を、1961年のトルコをはじめとして1960年代に8か国と締結する。しかし、1973年の第一次石油危機以降失業率の上昇がみられ、2000年の現在に至るまで失業率の高止まりが続いている。

 五賢人会の1999年11月「年次報告」によると、1998年の就業者3594万人、失業者371万人である。労働人口3965万人で、総居住人口8200万人に対する労働人口比率は48.3%である。これを15歳から65歳までの労働力人口への比率でみると71.7%となる。就業者における被傭者(ひようしゃ)は3194万人となっている。失業者の算定については、連邦統計局と失業保険を所轄する連邦雇用庁で方式が異なるので失業率等の数字が一致しないが、連邦雇用庁に求職登録している者を登録失業者とすると、その数は428万人である。失業者を男女別にみると、男性280万人、女性200万人となっている。1年以上の長期失業者数は145万人であるから、ドイツの高い失業率は構造的なものであることがみてとれる。

 ドイツの労働市場に大きな影響を与えているのは、1980年代末に始まった東・中・南欧諸国での政治的、経済的混乱である。1989年以降100万人規模での人口流入があり、再統一時に8000万人弱であった居住人口は現在8200万人となっている。1998年における外国人居住者数732万人のうち就業者は203万人であるから、ドイツ人にとって労働市場圧迫要因となっている。

[大西健夫]

市場経済を支える社会保障

市場経済の機能を支えるには充実した「社会保障の網」が必要である。ドイツの社会保障制度の基本原理は、保険、養護、扶助としてきた。制度的にも財政的にも基幹となっているのは自助互助の原則に基づく社会保険であるが、これを補う形で児童手当などの養護、公的生活保護としての社会扶助がある。国民の社会保障はまた、こうした公的制度とともに教会などの民間団体の活動により補われている。ドイツは、社会保険制度を確立し、社会保障制度の根幹に据えた最初の国である。現在の社会保険制度の端緒は、宰相ビスマルクの時代に制定された1883年の疾病(健康)保険、1884年の災害(労災)保険、1889年の老齢・廃疾(年金)保険であり、失業保険はワイマール時代の1927年に導入された。さらに第五の保険として1995年に導入されたのが介護保険である。高齢者への保障は従来補完制原理に基づき、基本的には本人とその家族、そして地方自治体のものとされてきたが、1994年制定の介護保険法により疾病保険団体が管理する社会保険に移行した。

 第二次世界大戦後の西ドイツにおいて、経済力の躍進とともに社会保障制度の多様化と内容の充実が進み、これを社会保障の網とよんだ。多様化した社会保障の網を、1976年に当時の社会民主党政府は国民の社会権にかかわるあらゆる法律を一冊の法典にまとめ、社会法典として刊行するに至る。ここには、社会保障にかかわる直接的給付のみならず租税軽減措置などの間接的給付をも収録している。社会法典に基づきあらゆる社会保障給付を収録したのが社会予算であるが、1996年時点での給付総額は1兆2361億マルクとなっている。このうち、給付においてもっとも大きいのはいうまでもなく以下の五つの社会保険であり、給付総額に占める各社会保険の比率は、年金保険が30.4%、疾病保険が20.0%、失業保険および手当などが11.2%、介護保険が1.7%、労災保険が1.6%となっている。

[大西健夫]

EUにおけるドイツ

ドイツ経済が1998年時点で、EU加盟15か国の総計に占める割合は、上記五賢人会資料によると、人口で21.9%であるのに対し、GDP規模では25.5%に達しており、1人当りのGDPもEU平均(1998)の2万1347ドルに対し2万6325ドルと高い所得水準を示している。民間最終消費支出と総固定資本形成は25.1%と27.2%である。輸出入金額の割合は、輸出が23.2%、輸入が23.1%となっている。

 1991年1月に、ドイツを含むEU加盟国中11か国の参加(2001年から12か国)により導入された通貨ユーロの流通以前は、強い通貨ドイツ・マルクの地位はユーロ市場でも他のヨーロッパ通貨を圧倒していた。ユーロ・カレンシー市場(ヨーロッパにおける外国通貨取引市場)での取扱額の比率でみると、いうまでもなくアメリカ・ドルが47.4%と圧倒的であったが、ヨーロッパ通貨のなかではイギリス・ポンドの4.5%に対しマルクは12.6%であった。同じくユーロ・ポンド市場(同、外国債券市場)でも、ドルが45.2%と圧倒的であるものの、マルクは10.3%、ポンドは7.9%であった。

 当時のEU予算においてもドイツの拠出金比率は29.2%であり、これに続くフランスの17.5%、イタリアの12.7%、イギリスの11.5%に大きく水をあけており、ドイツがEUを財政面でも支えていた。

 なお、1998年ヨーロッパ中央銀行がフランクフルトにおいて設立され、2002年1月よりEU統一通貨ユーロ(ドイツ語では「オイロ」と発音)の紙幣・硬貨の流通が始まっている。

[大西健夫]

社会

ドイツは、ドイツ語ではドイッチュラントDeutschlandというが、直訳するとドイッチュ国となる。ドイッチュDeutschは古高ドイツ語のディウティスクdiutisc/diutisk(diotは民衆)や西フランケン語のテオディスクtheodisc/theodisk(theodaはゲルマン語で民衆、isc/iskはラテン語の接尾語-iscus風/的)から派生した形容詞(ラテン語でテオディスクスtheodiscus)で、ラテン語を話す人々に対して「民衆語/土地のことばを話す人々」という意味で使われた。11世紀末に付加語でディウッチュ ラントdiutsche lant(民衆語を話す住民の領国、ラントlantは古高ドイツ語でラントLandの意味)ということばが現れ、さらにアイン ドイッチェス ラントein deutsches Land(単数)やディ ドイッチェン レンダーdie deutschen Länder(複数)が使われた。固有名詞としてのDeutschlandが文書にみられるようになったのは17世紀に入ってからである。その後もドイツは国家統一が遅れ、ドイツという名称の国家誕生は1871年まで待たなければならなかった。

[福沢啓臣]

ドイツ民族とその言語

ドイツ人と聞くとゲルマン民族を想定しやすいが、歴史上ゲルマン民族という単一民族も人種も存在したことはない。まずゲルマン民族とよばれる人々の唯一の共通項はさまざまなインド・ゲルマン語派に属する言語を話すことであり、これらの部族は現在のドイツ、スカンジナビア、イギリスまで広範囲に分布していた。ゲルマンという名称だが、古代ケルト語で「ケルト人ではない」という意味の他称である。また、ゲルマン民族の大移動とよばれる歴史上有名な現象は、ゲルマン語派の言語を話すさまざまな集団・部族が4世紀から5世紀にかけて他民族の圧迫や食料事情などから南あるいは西の地域(おもに旧ローマ帝国領およびその国境)にそれぞれ移住した現象をいう。現代において彼らを祖先とする人々はドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどの国々を構成し、さらにイギリスのアングロ・サクソン人、フランスのアルザス人、イタリアの南チロル人と多岐にわたっている。

 ドイツ語は大きく分けて、北部の低地ドイツ語、中部ドイツ語、南部の上部ドイツ語のグループに大別される。16世紀初頭、宗教改革者のマルティン・ルターが聖書を中部ドイツ語系のザクセン語をもってドイツ語に翻訳した経緯により、中部ドイツ語が標準文章語の基礎となった。現在ハノーバー市およびチューリンゲン地方で話されているドイツ語がもっとも標準ドイツ語に近いとされている。

 ドイツ語はインド・ゲルマン語派の言語のなかの西ゲルマン語群に属し、現在はドイツ、オーストリア、スイス、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、東ベルギー、南チロルで話されている。EU(ヨーロッパ連合)内でドイツ語を母語とする話者人口は1億3000万人でもっとも多い。世界におけるインターネットの使用人口の約7%がドイツ語を使い、5番目に多い言語である。ウェブページ数においては全サイトのうち約8%がドイツ語で、英語に次いで多い。

[福沢啓臣]

ドイツ社会の多様性

ドイツ社会の多様性は地理的、歴史的な要因による。中部ヨーロッパという地理的条件のなかで、フランス、オランダなどの西ヨーロッパ、スイス、オーストリア、イタリアなどの南ヨーロッパ、スラブ系の東ヨーロッパ、バルト海を挟んでスカンジナビア諸国(北ヨーロッパ)に囲まれ影響を受けた。もう一つの歴史的な要因は、国民国家としての統一が1871年と遅かったことである。多くの独立主権国家群が自国の軍事的・経済的・文化的発展を追求した結果、18世紀には300あまり、19世紀前半でも39の国家に分かれていた。そのなかでプロイセンが絶大な軍事的・政治的な力を利用して、1871年に国家統一を達成したが、ベルリンを中心とする中央集権的な体制に対する反発もあり、自らの地域の特色を尊重していく傾向が強く残った。現在16の州が連邦国家を形成しているが、政治・経済・文化の予算および政策決定が州の管轄下にあり、連邦政府の関与できない仕組みも各地域の豊かな多様性に寄与している。文化面では多くの都市が地域文化振興の中心拠点としてアンサンブル(常勤座員)付きのオペラハウスや市営劇場をほかの都市や地方と競い合う形で運営している。さらにスポーツもサッカーをはじめとして地域のスポーツクラブが組織し、試合は都市対抗という形で行われるので、各地の特色づくりと郷土愛の涵養(かんよう)に大きく貢献している。

 各地の特色だが、ベルリンを中心とする東の地域ではプロイセンの首都であったこともあり、歴史的にユンカー(地主貴族)を基盤とする伝統が続き、権威的、官僚的で、形式ばっているといわれている。それに対するライン川沿いのケルンを中心とする地方は、古くはローマ帝国の都市であったことから生活態度は享楽的ともいえる。代表的な例が2月から3月にかけて数週間も続くカーニバル(謝肉祭)のお祭り騒ぎである。南のミュンヘンを中心とするバイエルン地方は風光明媚(めいび)な山と湖を抱え、もっとも郷土色豊かな地域といえる。外国ではしばしばバイエルン地方の習慣・風俗・服装がドイツの代表的な特色として受け取られているが、ドイツ全体からみれば一地域の風俗にすぎない。長い間農業中心であったが、2010年までの20年ほどでハイテク産業が育ち、経済的にも非常に豊かな州に脱皮した。隣のバーデン・ウュルテンベルク州は昔から機械工業の発展が著しく、自動車産業などの一大集積地として名高い。同地方の住民の倹約ぶりは有名で、それにまつわる笑い話がたくさんある。2010年時点ではこの2州(バイエルン州、バーデン・ウュルテンベルク州)が経済的に豊かである。ヘッセン州の州都であるフランクフルト・アム・マインは金融の町として栄えてきた。ノルトライン・ウェストファーレン州は19世紀の重工業の中心地であったルール工業地帯を抱え、20世紀の後半までドイツ産業を支えてきたが、ここ20~30年(1980年代以降)は炭坑および重工業の斜陽化という産業構造の変化により経済的に後退し失業率も高い。19世紀来炭坑労働者、工場労働者が多い土地柄として、物作りに対する誇りと仲間意識が住民の気質を形成している。ルール地方のカーニバルも有名である。北のハンブルクを中心とする北ドイツ人はどちらかというと理性的でとっつきにくいといわれている。旧東ドイツのなかでザクセン自由州はドレスデン、ライプツィヒの古都を抱え、古くから文化・学問が栄えた地方である。

[福沢啓臣]

ドイツ人の国民性と生活

ある国の住民を国民性という形で一般化することは簡単ではないが、強い自己主張、家庭中心、清潔好き、質素さ、合理性などがドイツ人の国民性としてあげられるだろう。主張、意見がない人は存在を無視されるといえるほど、ドイツ人はどんなテーマに関しても一家言をもっている。無駄なものは買わないという精神も徹底している。衣食住のなかでもっともお金をかけるのは住居である。衣服はできるだけ長い期間(四季の変化にかかわらず)身につけられるように、地味で長もちする物が多い。食事はとても質素で、朝食はもちろんだが夕食も料理しないでカルテス・エッセン(冷たい料理)とよばれるパン食で済ませる場合が多い。自宅の定期的な掃除や手入れ、ベランダや出窓などの花、庭の手入れなど、ドイツ人のきれい好きは際だっている。

 時間にも几帳面(きちょうめん)なのも国民性といえる。サービス残業などは論外で、就業時間が終了すればただちに職場を去る。まっすぐ帰宅し、家族といっしょに過ごすか、趣味に時間をかける。ホームパーティーが盛んで、誕生日などには、親類、友人、同僚などを自宅によんでいっしょに祝う。夏にはバーベキューが盛んだ。19世紀末から広まった家庭菜園は相変わらず人気があり、1区画200平方メートルほどの菜園を集めたコロニー(数十から数百の菜園を収めた土地)が中都市以上の市内に点在している。市の所有地が多く、賃貸料は年間5万円ぐらいである。面積の10%までの規模なら小屋を建ててもいい。ただし住むことは禁止されている。

 法的に定められている年次有給休暇日数は年に最低20日間だが、実際は労使協定により30日が多い。法定最低休暇日数の消化は義務づけられている。夏になると交代で数週間の休暇をとる。学校は、アウトバーン(自動車高速道路)や列車などの交通機関および休暇先の宿の混雑を避ける目的で、いくつかの州がまとまって1週間ずつずらして夏休みに入る。ドイツの緯度は北緯47度16分から55度3分(日本は北緯20度25分から45度33分)と高く北海道の北に相当する。そのため日光に対する欲求は強く、夏の休暇には太陽を求めて地中海まで出かける国民が多い。バルト海や北海の海水浴場には裸体主義者用に区切られた砂浜が古くからある。また市内の公園や湖畔の芝生で日光浴をしている水着姿の男女がよく見られる。

 ドイツ人にとって自動車はきわめてだいじな生活必需品といえる。路上駐車が許されているので、購買時に駐車スペースを確保する必要はない。ドイツ製の自動車は信頼性が高く、また高速走行時のパフォーマンスのよさで世界的に評価が高い。アウトバーンの走行は昔から無料で、原則的に速度制限がない。ただし時速130キロメートルが推奨されている。一般道路では市外が時速100キロメートル、市内が時速50キロメートル、さらに住宅地域内で交通量の多い道路では夜間10時から朝の6時まで30キロメートルときめ細かく規制されている。全自動車のなかでディーゼル・エンジン(燃費のため)とマニュアル車(価格と燃費のため)が半分以上を占めているのもドイツ人の合理性を表している。なお、ドイツの自動車免許証は書き換えが不要で終身有効である。ドイツ人の自己主張の強さは運転にも見られる。たとえば、信号や交通標識のない交差点では左ハンドルのために右側優先だが、優先権のある車が優先権のない車に対して譲ることはまずありえない。ここ数年地球温暖化のために車社会を見直す動きは、大都市における自転車レーンの著しい伸びに示されている。また電車や地下鉄内に自転車をそのまま持ち込めるので、遠出の際に便利である。

 日曜日に教会へ礼拝に行く習慣を守っているドイツ人は年年減ってきており、生活に占める教会の影響は小さくなっている。だが、キリスト教の伝統から出発したさまざまな行事・習慣は今日も生活のリズムを律している。最大の行事がクリスマスで、12月24日のミサには日ごろ教会に足を向けないドイツ人も家族で参加する。日曜日は安息日であり、労働は例外(農民の収穫時など)を除いて認められていない。アウトバーンも日曜日は家族のためにという理由で貨物トラックは走行が禁止されている。売店、スーパー、百貨店もあいていないので買い物もできない。なお、スーパーなどは平日には夕方6時で閉店していたが、グローバル化の一環として2006年以来夜10時まであけるようになった。

 博士、教授、貴族などの称号は公の場ではもちろんのこと、日常生活でも頻繁に用いられているが、これはドイツの階級社会あるいは権威主義的社会の残存物といえる。ドイツ人は一般に保守的とみられがちだが、さまざまな面で積極的に改革を行っている。たとえば2001年以来、同性同士による伴侶契約(結婚に準ずる)が可能になり、緊急の場合や社会保障、遺産相続などの面で同性パートナーにほぼ夫婦同様の権利が認められている。

[福沢啓臣]

人口構成と多文化社会

2009年のドイツの人口は8200万人で、旧西ドイツ(古連邦州)には6550万人(80%)、旧東ドイツ(新連邦州)には1310万人(16%)、首都ベルリンに340万人が住んでいる。東西統一時の1990年にはそれぞれ6372万人と1602万人、343万人だったから、旧東ドイツでは292万人減少したことになる。国民の31%が人口10万人以上の都市に住んでいて、ベルリンの340万人、ハンブルクの177万人、ミュンヘンの135万人と百万人都市が続く。ケルンは99万人、フランクフルト、シュトゥットガルトはそれぞれ60万人の人口である。州別にはノルトライン・ウェストファーレン州が最大で1800万人、次にバイエルン州が1250万人、バーデン・ウュルテンベルク州が1070万人。これら3州に国民の半数が住んでいる。もっとも人口の少ない州はブレーメン市特別州で66万人である。

 年齢別人口構成であるが、20歳以下が20%、就労人口にあたる21歳から65歳までが60%、66歳以上が20%である。性別人口構成は男性が49%、女性が51%である。50歳までは男性のほうが多く、50歳から60歳の間は均衡しているが、60歳を過ぎると女性のほうが多くなる。80歳以上は72%が女性で、平均寿命の延びはもちろんだが、戦争(第二次世界大戦)の影響がまだみられる。

 ドイツに在住する外国人は2008年現在で734万人で、全人口の8.9%を占めている。1960年代のガストアルバイター(外国人労働者)の世代と彼らの呼び寄せ家族(2世と3世を含む)のグループ、さらに1990年代の難民および亡命者によるグループと三つに分けられる。もっとも多いのがトルコ人の187万人で、外国人全体の25%を占めている。次にイタリア人の60万人、旧ユーゴスラビア人の57万人、ギリシア人の35万人と続く。多くは都市に集中し、ベルリン、ハンブルク、フランクフルトなどでは人口の15%近くを占めている。彼らは一つの地域に集中する傾向があるので、外国人子弟がクラスの過半数を占める学校も少なくない。ドイツ語が授業言語なので、生徒と教師にとって深刻な問題になっている。とくにトルコ人の場合はイスラム教徒が多いので、キリスト教文化の伝統を持つドイツ社会への溶け込みが困難である。さらに1世は伝統的な価値観を保つが、2世以降になるとドイツ社会の価値観の受容が進むので世代間の葛藤(かっとう)につながるケースが多い。ちなみに、外国人総数734万人のうち4分の3が国外からの移住で、4分の1がドイツ生まれである。

 なお、1950年から1990年までに110万人、さらに2006年までに330万人、あわせて440万人が帰化している。現在470万人が帰化条件(有効ビザに加えて定職および8年以上の定住)を満たしているが、2006年に帰化を申請したのは12万5000人にすぎない。外国人の平均滞在期間は17.7年、1992年時の12年より延びている。外国系市民との共生に関連して、政党間や世代間で、ドイツ的な価値観をあくまでも保持すべきなのか、あるいは多文化社会に発展していくべきなのかが、21世紀に入り激しく議論されている。前者の立場はキリスト教民主同盟などの政党や高年齢層が主張し、後者は社会民主党や緑の党、若い世代が主張している。保守党(保守政党)政権下の州では、ドイツの伝統的な文化と価値観の喪失を防ぐと称して、数年前から帰化申請者に対してドイツ語およびドイツ文化に関する試験を実施している。

 さらに、多文化社会は低い出生率による人口減少傾向への対策として議論されている。出生率はさまざまな政策によって1.39と少しは持ち直しているが、長い目でみると人口減少は避けられない。2050年のドイツの人口は6500万人から7000万人と予測されている。経済成長を困難にし、さらに年金の財源確保などにも悪影響を与える人口減少への対策として、多文化社会への脱皮によって外国系市民の増加に期待する考えである。

[福沢啓臣]

就業構造

ドイツの産業別就業人口をみると、1950年の第一次産業、第二次産業、第三次産業に占める比率はそれぞれ24.6%、42.9%、32.5%であった。以後1980年には5.1%、41.1%、53.8%、1996年には2.6%、31.7%、65.7%、2006年には2.2%、25.5%、72.3%と変化している。2009年7月現在でドイツの全就業者は4020万人だが、そのうち社会保険負担就労者の数は2744万人(国民の33%)である。残りの1276万人は被扶養家族の一員か、国が肩代りしている勤労者(求職者および低賃金労働者)である。2009年7月の失業者の数はドイツ全体で345万人、失業率は8.2%(EU平均9.4%)である。その内訳は旧西ドイツ236万人、旧東ドイツ109万人で、失業率はそれぞれ7%と13%である。失業者数は、短期間および長期間の失業者を網羅している。前者に対しては失業手当金(最終手取りの65%、子供がいる場合は67%)が給付される。さらに失業手当給付期間中に再就職できなかった場合に引き続き求職活動ができるように失業扶助金が無期限に支給される。

 失業手当金の支給期間は12か月就労で6か月、20か月就労で8か月、24か月以上就労で50歳以上なら15か月、55歳以上なら18か月、48か月以上就労で58歳以上なら24か月となっており、高齢者の再就職の困難さを考慮している。失業者の数が最大に達したのは1998年から2002年にかけての4年間で一時は500万人を超えた。そのうち3分の2が長期失業者だったため、当時のシュレーダー社民党政権が抜本的な社会保障制度改革「アジェンダ2010」を導入し、長期失業者(改革提案者の名前にちなんでハルツⅣ受給者とよばれる)への扶助金支給額をそれまでの最終手取り額の50%から生活保護レベル(住宅手当360ユーロと生活費360ユーロ合わせて720ユーロ、子供がいる場合は年齢により215ユーロから287ユーロまで支給。さらに健康保険および年金保険も国庫負担)まで下げた。このハルツⅣ労働市場政策はさらに職業再訓練の積極化、独立資金の提供などに加えて低賃金勤労者には最低生活水準維持に必要な差額を支給するなど幅広い内容を含み、セーフティーネットの役割を果たしている。受給者は600万人を前後している。改革が功を奏し、失業者は2008年には300万人まで減少したが、金融危機の結果2009年6月時点で345万人に増えている。

[福沢啓臣]

職業団体・労使関係

ドイツの経済団体には、企業家を会員とするドイツ産業団体連盟(BDI)と経営者・雇用主を中心とするドイツ経営者団体連盟(BDA)がある。両組織とも第二次世界大戦後ケルンに本部があったが、ベルリンへの首都移転に伴い、ベルリンの中心に位置する「経済館」にドイツ商工会議所とともに入っている。BDIは36の職能別組織と15の州連盟を傘下に収め、10万の企業とその従業員数800万人を網羅している。ドイツ経済界を代表する機関としてドイツ経済の国際競争力を高める環境・政策づくりのために国内およびEU内で積極的に活動している。連邦政府および州政府の政策決定においてBDIの同意は欠かせない。BDAは14の州連盟と100万の企業を傘下に収め、全勤労者の70%強を網羅している。BDAの重要な役割は州単位で結ばれる賃金協定など労使間協定における交渉、締結の際に組合の相手方となることである。そして、労働および社会問題に関して労働組合を意識した発言をし、加盟企業に必要な情報を提供している。両組織とも加盟は自由意思による。

 企業にとって地元の身近な団体として79の地方商工会議所(IHK)がある。個々の企業の相談から始まり、職業訓練先の斡旋(あっせん)および終了証明書の発行、さらに商工業界の利益を守るための発言と活動をしている。なお、IHKへの加盟は全企業に義務づけられている。これらを代表してドイツ商工会議所会(DIHK)がベルリンにある。銀行業界には約230の私立銀行をまとめたドイツ銀行全国連盟(BDB)がある。ドイツ農民連盟は18の地域別連盟と42の関連組織を抱え、組織率80%、会員数37万人を誇る。そして、農民の利益を守るためにドイツ国内だけでなく、EU内においてもロビイストおよび広報活動を行っている。そのほかに41万人の医者を擁する連邦医師会議所は社会的発言力が大きい。公立、私立を問わず病院に勤務している医者はマールブルク連盟という独自の組織(10万人の会員)に属し、数か月のストを打ち抜くなど結束が固い。

 労働側のナショナルセンターとして8の産業別組合、9の地域別組織の連合体であるドイツ労働総同盟(DGB)があるが、組合員数が1997年末の736万人から2008年末には640万人に減少している。最大の産業別組合は金属産業労働組合(IG Metall)で、組合員数は2006年末で233万人である。2001年にDGB内のサービス関係の産業別組合とサラリーマンの組合であったドイツ職員組合とが合併して220万人(2008年末)の会員数を誇る2番目に大きな組合、ドイツ統一サービス産業労組(Ver.di)が誕生した。ドイツ官吏同盟(DBB)は、組合員数が1997年の112万人から2005年末の127万人と微増している。ドイツ・キリスト教労働組合連盟(CGB、28万人)もある。ここ10年間の傾向として組合の組織率は全体的に下がっている。

 労働協約は産業別組合とBDAの間で州ごとに結ばれる。スト権は州単位で確立され、ストライキは産業別組合の州連盟の指示に従って行われる。労使関係は共同決定制度の下で比較的安定しており、ストライキも少ない。ただ、一度ストライキに入ると、スト基金が豊かな背景もあり長期化する傾向が強い。組合がかちとった成果は非組合員にも適用される。個個の企業における労使間の問題は産業別組合の活動の対象にはならず、従業員を代表する事業所従業員代表ないしは同委員会(9人以上の代表の場合は委員会を組織し、委員長を選ぶ)が経営者と話し合い、解決する。この事業所従業員代表は共同決定法が定める制度で、ドイツの労使関係の大きな特徴といえる。共同決定制度には二つのレベルがある。まず、従業員が5人以上の企業には事業所従業員代表の任命(企業の規模によって複数の代表が4年ごとに従業員によって選ばれる。20人の従業員に対して代表1人の割合)が義務づけられている。事業所従業員代表は人事(採用、転勤、解雇を含む)、労働条件(ラインの変更や新設を含む)などに関して労働側の利益を守りながら経営者と協議し共同で決定を下す。日本の企業内組合に似た組織といえる。ただし争議権はない。さらに大企業のレベルでは労働側の代表が監査役会に入り、企業の経営および役員の業務を監査する。企業の規模が従業員2000人以上の場合は監査役会の構成員の半数を、500人から2000人の場合は3分の1を労働側の代表が占める。この共同決定制度は経営者の足かせになりかねない一面もあるが、労使間の安定に貢献していると評価されている。

[福沢啓臣]

生活水準と社会保障

IMF(国際通貨基金)の統計によれば、2008年の国内総生産(GDP)は3兆6675億ドル(推定値)で、日本の4兆9237億ドルの74%にあたる。2008年の1人当りGDPは4万4660ドル(日本3万8559ドル)である。購買力平価で換算した場合は3万5442ドル(日本3万4100ドル)である。社会保障制度は充実しているが、それに見合い国民の社会保険料負担率も非常に高い。にもかかわらず社会保険の財源は十分ではなく、国庫からの補填(ほてん)を必要としている。国庫の財源である税金だが、年間所得7834ユーロ以下の場合は無税である。課税率をみると1万2000ユーロで6.2%、2万4000ユーロで16.2%、4万8000ユーロで25.3%、9万6000ユーロで33.6%、25万ユーロ以上は一律45%と累進されている。さらに所得税あるいは法人税の5.5%がドイツ再統一費用をまかなうための連帯税として徴収される。消費税は現在19%と高いが、さらなる引き上げも検討されている。

 社会保険料だが、まず年金保険料は給与の19.9%で雇用主と折半である。健康保険には公立保険と私立保険があり、公立保険加入者の保険料は14.9%で同様に雇用主と折半である。公立保険には5000万人が加入しており、家族も含めると7005万人が適用を受けている。私立保険(保険料金は加齢とともにあがる)の加盟者は860万人(約10.5%)。現金払いに近いので、待ち時間が少なく、よりていねいに医者に診てもらえるという利点がある。失業保険料は3%(雇用主との折半)である。これらの社会保険料をあわせると被雇用者の負担は給与の約20%になる。年間所得が4万8000ユーロ(2010年2月換算レートで580万円)の場合、手取りは2万5440ユーロ(税込み給与の約53%)になる。医療費は基本的に3か月ごとに支払う受診料の10ユーロと薬品の部分負担(5ユーロから10ユーロ)がある。入院の場合はさらに1日10ユーロを支払う。特別な治療は自己負担になることもある。ホームドクター制度になっており、まず近くの一般医院で簡単な診察を受けて、必要に応じて専門医あるいは病院に紹介される。歯科医にも3か月ごとに受診料として10ユーロ支払う。治療は無料だが、入れ歯などは自己負担になる。

 年金は40年納付で最終手取り額の65%が男女とも65歳から支給される。将来の人口減少による年金基金の減少を見越して20年後に67歳から支給するように、2012年から毎年1か月ずつ支給年齢を延ばす決定がなされている。

[福沢啓臣]

教育

ドイツの教育制度は、日本のように六・三・三・四制の単線式とは異なる複線式のうえに、州独特の制度もあり複雑である。枠組みから紹介すると、小学校にあたる基礎学校に全児童が4年間(6年間の州もある)通った後、学力に加えて学習態度、集中力も含めた総合的な成績により3本の進路に振り分けられる。第一の進路は、肉体労働が中心の職業につく可能性の高い若者を教育するための基幹学校(5年間)で、日本の中学校に相当する。第二の進路は、頭脳労働を主とする職業につく可能性の高い若者を教育するための実科学校(6年間)で、日本の中学校プラス高等学校1学年に相当する。第三の進路は、大学へ進学する若者を教育するギムナジウム(8年から9年間の一貫教育)で、日本の進学校に相当する。卒業すると大学入学資格(アビトゥーア)が与えられる。進路決定には、基礎学校の内申書が決め手になり、入学試験に類するものはない。義務教育は9年間だが、10年間の州もある。後に述べる職業教育をほとんどの一般学校卒業生(少数のギムナジウム卒業生も)が受けるので、準義務教育ともいえる。そのため、12年間とみなすこともできる。

 基幹学校では義務教育としての学習内容を学び、卒業後は3年間の職業教育を受ける。彼らの受ける職業教育には、おもにブルーカラー、たとえば女子は美容師や売り子、男子は大工、左官、自動車修理工に代表される職種が多い。実科学校では、義務教育よりレベルの高い学習内容を学び、卒業後にホワイトカラー、たとえば会社員、銀行員、一般公務員などの職業につくための職業教育を受ける。成績がよければ、さらにギムナジウムへの進学も可能である。3本目の進路であるギムナジウムは通常9年間学習し、卒業後は大学に進学する(職業教育を優先させる生徒もいる)。2000年ごろから8年間の短縮学習期間(急行アビトゥーアとよばれている)を導入する州およびギムナジウムが増えている。

 ドイツの学校教育のもっとも大きな特徴は、10歳という非常に早い時期における進路決定である。これに対して、10歳までの学力は親の社会階層と教育レベル、つまり親の学歴と密接な関連があり、学校教育への出身階層による影響からの解放という近代学校の理念に反すると内外の進歩的な教育関係者から批判されている。この問題はすでに1970年代から保守党と進歩的な政党の間で争われ、社会民主党政権の州では3本の進路に分けない統合学校の導入が進められたが全国的な広がりはみせておらず(全生徒の約10%)、2010年時点でも複線式が一般的である。早期進路決定制度は、成績の差の大きいクラスの授業が成績のよい生徒にも悪い生徒にもよい教育効果をもたらさないからだと理由づけられている。前者の場合は勉強をしなくてもよい成績がとれるので怠け者が育ち、後者の場合は成績の差が開くにつれ勉学意欲をなくしてしまう。そのため、生徒の学力に見合った学校の選択がだいじであるといわれている。ちなみにタイプの異なる学校間の移動は可能だが、基幹学校からギムナジウムへの移動は非常に少ない。逆は多い。二度落第すると下のレベルの学校に転校させられるからである。落第は基礎学校の段階からあり、日常茶飯事といえる。成績のよい児童が上のクラス(学年)に行ける飛び級も少なくない。落第予防も含めてきめ細かい学習指導には、現在の1クラス20名から25名の生徒数を15名に減らすことを教員組合などは求めている。さらに生徒への指導を強める目的でこれまでの半日制(午後1時、2時で下校)を全日制に改める改革が進められている。

 ドイツは連邦制なので、教育についても州がそれぞれ独自に改革を進めている。ベルリンやブランデンブルク州などでは、基幹学校は落ちこぼれの通う学校とみなされ、生徒数が激減している(15%以下)ので、その廃止が2009年に決まった。だが、バイエルン州などでは正常に機能している(30%以上)として、3本線制度を維持している。ギムナジウムは全国を通じて評価が高いため、この数十年間生徒数が増え続けている(40%以上)。教育方針としては暗記力に頼る正解主義ではなく、思考力の強化に重点を置き、レポート、つまりあるテーマについて書かせる試験が多い。さらにドイツでは受験勉強がないのも大きな特徴といえる。ギムナジウム卒業時に取得するアビトゥーア(大学入学資格)のみで原則的にすべての大学、かつ学科に入学できるからである。ただ、医学部など志願者が殺到する学科ではアビトゥーアの成績順に選ばれる。なお、大学入学資格は一生有効なので、何歳になろうと入学可能である。

 もう一つの特徴は、学校教育を学習はもちろんだが、職業への準備段階ととらえる面が強いことである。そのため、8、9年生(14、15歳)からインターンシップが学習要項に取り入れられている。さらに一般学校卒業後にデュアルシステムとよばれる職業訓練制度の下で企業でのインターンシップ(週に3日間)と職業学校への通学(週2日間)という3年間の職業教育期間が設けられている。習得職種は実社会における職種がほとんど網羅されている(約400種)。受け入れ企業は訓練期間中、訓練生に月400ユーロから800ユーロ(職種および訓練年度によって異なる)の見習い手当を支給し、社会保険料も負担している。商工会議所が企業における訓練ポスト(毎年約60万人)を学校卒業者(6月に卒業し、9月あるいは10月から訓練開始)に斡旋(あっせん)し、修了後は職業教育修了書を発行する。修了者は訓練を受けた職種に沿って就職先を探す。

 大学は2008年時点で、学生数193万人、391校をかぞえるが、そのうち90%以上が州立大学で残りは私立大学である。私立大学と分類されていても学生からの授業料収入をおもな財源とする日本型私立大学と異なり、公立大学に近い(連邦政府による防衛大学なども私立に含まれる)。州立大学は2007年から七つの州(保守党政権)で年間1000ユーロ程度の授業料を徴収し始めたが、残りの州は徴収していない。大学には総合大学(176校)と専門大学(215校)があり、前者はより理論に、後者は応用に重点をおいた教育を行っている。ドイツの大学は2004年ごろまで修士卒業(学士卒業はなし)が一般的で、4年から5年間のカリキュラムが組まれていた。ところが、EU内における高等教育制度の統一化を目的としたボローニャ・プロセスが1999年に決定され、2010年までに実施されることになった。そのため、2005年ごろ(州や大学や学科によって取り組み方が異なるため一斉にスタートとはならない)3年間の学士課程(BA)が導入され始めた。6学期間(3年間)の勉学後学士号を取得し卒業する。その後で、マスター(旧修士に準ずる)課程(MA)に入り、4学期(2年間)で卒業する。ただし、大学あるいは学科によってはBA課程4年、MA課程1年、あわせて5年間のところもある。医学部と法学部は国家試験の合格をもって卒業とみなされるので、別のカリキュラムが組まれている。

 ドイツの大学は、入学は容易だが卒業は難しい。その結果卒業率が70%弱と低い。そのうえ旧修士課程における卒業年齢は男子学生の徴兵期間も影響し、28歳と非常に高い。さらに大学間移動が自由なこと、人文科学や社会科学系での複数学科専攻(主専攻と副専攻)が特徴にあげられる。複数学科専攻のため、BA課程終了後、MA課程において専攻学科の変更も比較的自由である。卒業論文提出および卒業試験が終了した段階でそれぞれ卒業していくので、全員で祝う卒業式はない。入学式もない。就職活動は卒業後大学のサポートなしで、個人が行う。学内組織は、「1968年世代」(全共闘世代に相当)による政治闘争の後、民主化が進み、学部評議会(日本の教授会に相当)をはじめほとんどの学内組織に学生代表が参加し、票を投じている。教授の招聘(しょうへい)、学長選挙などの人事に関しても同様である。なお、大学も含めて学校教育は州文科省の管轄下にあるが、州の間での合意および連絡事項の交換の場として、州文科大臣会議(KMK)がある。連邦文科省は学術研究および育英資金、全国横断的な問題への対応、さらに教育制度に関する外国機関との連絡事項、協定の締結などを管轄業務としている。

[福沢啓臣]

女性・青少年

女性に関して戦後の歴史を振り返ってみると、1950年代まではさまざまな形で差別されていた。1957年までは夫が一方的に妻を退職させることが可能であったし、バイエルン州では1950年代まで、女性教師は結婚すると退職を余儀なくされていた。それが1957年の基本法(ドイツ連邦共和国基本法)および夫婦財産法において男女同権がまず法的に整備された。その後「1968年世代」の学生闘争をきっかけに生まれた女性解放運動と1970年代の社会民主党政権による進歩的な政治とが相まって女性の意識を高め、多くの分野で男女同権が実現した。とりわけ進んだのは教育の分野で、高等教育に占める女性の割合は大きく伸びている。アビトゥーア(大学入学資格)試験の合格者の男女比率では女性が56.3%と男性を圧倒し、大学では学生数の49%を占めるようになっている。大学卒業率も52.2%、さらに博士課程においても43%と高い比率を示している。だが、大学教員の比率になると31.4%と下がり、教授にいたっては15.2%と低い。

 労働の世界においても、女性の平均賃金は男性に比べて24%も低い。女性の従事する職種にはもともと低賃金が多いからである。さらに派遣労働に占める女性の割合は85%と非常に高い。女性の就業率は64%(男性76%)である。ドイツでは出産休暇を14週間(出産前6週間、後8週間)、さらに育児休暇を3年間とることができる。育児休暇は男親にも認められているが、女親が圧倒的に多い。育児休暇後の職場復帰は法的に保証されているが、女性の出世のチャンスは男性に比べて低い。ドイツではこれまで全日制学校が少なく、子供が昼過ぎには帰宅するので、家計に余裕があれば子育てと家事のために出世をあきらめる女性が少なくない。女性の社会進出と出世の可能性であるが、上場企業における女性役員の割合は13%で、イギリス12%、フランス9%、EU平均の11%より多い。だが、憲法や男女平等法が要求するレベルにはまだほど遠いといえる。

 選挙権も含めて法律による成人年齢は18歳である。ただ、半分以上の青少年が大学で学ぶか、職業教育を受けているので、実際の社会人になるのは20歳を過ぎてからである。青少年のライフサイクルは階層によって大きな違いがある。中流層の場合、11歳からギムナジウム(8年から9年間の中高一貫校)あるいは実科学校に通い、受験勉強もないうえに、大学に進学すれば28歳ぐらいで卒業するので、非常に豊かな青春期を過ごすことができる。残り(約3分の1)の青少年は基幹学校卒業後16歳から18歳までの間に職業教育を受けて、修了後職業につくので早い時期に人生の厳しさを経験するといえる。さらに男子の場合は18歳になると10か月の徴兵がある。徴兵を拒否すると代替役務という形で同じ期間奉仕活動を行う義務がある。女子(男子も可)にも社会奉仕ができるように社会年という制度が設けられている。申請後、社会年が青少年局に認められると、社会保障費の肩代りおよび生活費の一部が国庫によって負担される。このように、ドイツでは若者の社会奉仕を奨励する制度が整っている。青少年にとっても社会にとっても大きな問題は、成績が極端に悪いか、不登校などによって学校を卒業できなかった場合(8%)である。職業教育も受けられず、就職のチャンスがないからである。そのため、犯罪者予備軍になるか、ネオナチなどのグループに参加するなど問題を引き起こしやすい。一般にドイツでは、未成年の飲酒や喫煙に関しては学校側や青少年局も含めて厳しくない。そのせいか14歳、15歳からの喫煙はよくみかける。また、飲酒も15歳、16歳を過ぎてからは大目にみられている。

[福沢啓臣]

宗教

ドイツ社会におけるキリスト教および教会の存在は21世紀に入っても大きい。それは社会を形成する根本的な価値観と多くの制度上の催し事がキリスト教に由来していることでわかる。祝日はクリスマス(キリストの誕生)から始まってキリストの受難日と復活祭(イースター)、昇天祭、精霊降臨祭と続く。政教分離がうたわれているにもかかわらず、教会税(所得税の8~9%)が源泉徴収されている。さらに、重要な政治や社会の問題に関する教会関係者の発言は重くみられ、マスコミにも頻繁に登場している。その反面、最近の10年間における国民の教会離れの傾向は顕著である。ドイツのあらゆる都市、村に教会があるが、全席が埋まるのはクリスマスのミサぐらいで、普段は日曜日の礼拝でも空席が目だつ。ただし、葬式はキリスト教のしきたりに則(のっと)って行われるのが多い。その場合霊園の礼拝堂で故人の好んだ音楽を聴かせた後、牧師あるいは司祭が家族や友人から聞き取った話をもとに故人の一生をなぞり、故人をしのぶ。

 歴史をさかのぼってみると、宗教改革者ルターが生まれた国であるドイツでは、近世以来プロテスタントが多数であった。ところが第二次世界大戦後、プロテスタントが多数を占める東ドイツが分割されたために、西ドイツではカトリックの信者数が上回った。1990年の再統一後ふたたびプロテスタントが過半数を占めるようになった(1997年はプロテスタント41%、カトリック35%)が、近年のプロテスタントの退潮(2009年までの12年間で10%減)で拮抗(きっこう)している。2009年現在、それぞれ国民の31%を占めているが、数的には2510万人対2568万人とわずかにカトリック信者の数が上回っている。2005年にドイツ人のローマ法王(教皇)選出(ベネディクト16世)もありカトリックへの改宗者が増えている。教会組織は、プロテスタントはルーテル派、連合プロテスタント教会派、改革派に属する22の地区教会の連合体であるドイツ福音派教会(EKD)に、カトリックは23の司教区を含む五つの大司教区に組織されている。

 21世紀になって、多文化社会への意識が強まるにつれて、公立学校では宗教の授業が倫理の授業にとってかわられた。10年前までは、カトリック教会の影響力が強いバイエルン州などでは公立学校の教室には十字架がかけられていたが、政教分離を推進する保護者の抗議で裁判になり、取り除かれた経緯がある。また、多文化社会への傾向が強まり、イスラム教信者の多い大都市ではモスクなどがみられるようになった。

[福沢啓臣]

マスコミ

ドイツ社会におけるもっとも重要なマスコミ媒体はテレビである。テレビには公共放送局として第1(ARD)総合チャンネルと第2(ZDF)チャンネルの二つがあり、それぞれ24時間放送を行っている。第1総合チャンネルは各州(2州合併局もある)の放送局が構成する全国ネットワークだが、各地方局も自前のチャンネルをもち独自の番組を放送している。さらに芸術放送局(Arte)などもあり、10局以上の公共放送が受信できる。日本の教育テレビ並みの番組がゴールデンタイムに放送されることもありレベルは非常に高いといえる。スポーツなど生中継の場合、途中での打ち切りがない。民放は20年ほど前にスタートし、現在10局ほどある。60分の番組で12分間のCMが放送されている。民放の番組内容は娯楽性が高く、スポーツ専用チャンネルも2局ある。大都市においてはデジタル放送が開始され、2010年時点で地上アンテナで29チャンネル受信できる。衛星アンテナを使えばヨーロッパ中の局の受信が可能で、その数は数百局にものぼる。ラジオは中波、長波もあるが、地元放送局(FM放送)がおもに聴かれている。全国放送局にはクラシック、ポップス、ジャズなど音楽の専門局(FM放送)が多い。

 プリントメディア(印刷媒体)では知識層向けの「ディ・ツァイト」(50万部)、ニュース性の強い「デア・シュピーゲル」(105万部)、リベラルな「シュテルン」(96万部)などのニュース週刊誌はよく健闘しているが、日刊紙はテレビとインターネット、さらに携帯電話による速報網の充実により厳しい状況におかれている。とくに若年層における新聞離れは著しい。全国紙には大衆紙の「ビルト」(290万部)と「ディ・ウェルト」(25万部)の2紙があるが、両紙とも保守寄りである。中立系の高級紙といわれる「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥンク」(36万部)と「ジュートドイッチェ・ツァイトゥンク(南ドイツ新聞)」(42万部)は本来フランクフルトやミュンヘンを中心とする地方紙であったが、レベルの高さからクオリティーペーパーとして政界、経済界、文化人の間で全国的に読まれている。代表的な経済紙は「ハンデルスブラット」(15万部弱)である。

[福沢啓臣]

真の統一への課題

1990年に、西ドイツによる東ドイツの吸収という形で東西ドイツが再統一された当時は、一党独裁政治による抑圧から解放されると同時に長年待ち望んだ自由が得られ、旧東ドイツの住民は喜びに沸き立った。また旧西ドイツの政治家や専門家は一世代もあれば東西間の格差は解消され、真の統一が達成されるだろうと楽観的な発言をしていた。それ以来、総額4000億ユーロもの巨大な額が公共投資あるいは税制優遇措置として新連邦州(旧東ドイツ)につぎ込まれてきた。さらに1991年以来連帯税が課せられ、当初所得税あるいは法人税の7.5%、現在は5.5%が徴収されている。2019年までさらに1600億ユーロの援助措置が準備されている。このような努力にもかかわらず、ドレスデンやライプツィヒなどの大都市およびその周辺を除いて自立的な経済発展があまりみられない。構造的な経済停滞地域が多く、多くの若手および中堅勤労者が仕事を求めて古連邦州(旧西ドイツ)に移住してしまっている。その数は家族も含め300万人弱といわれている。中堅勤労者を失った地域は消費も伸びず、企業やスーパーの進出も望めないので、失業者、とくに長期失業者が増えている。また、長期失業中の若者が不満を募らせ極右政党に共感し、外国人排斥などの行動に走る例が少なくない。そのため、外国からの投資にも影響し停滞の連鎖に陥っている。2009年7月の失業率は、全ドイツで8.2%(345万人)、古連邦州で7%(236万人)、新連邦州では倍近い13%(109万人)となっている。

 統一以来20年を経た2010年時点では、多くの面で格差はなくなったが、旧東ドイツ住民の多くは不満を抱いている。イエナ大学(新連邦州の大学)の統一20周年をきっかけに行われた調査によると、旧東ドイツの人たちの58%が昔の東独時代のほうがよかったと感じ、さらに23%が社会主義に戻りたいと答えている。これからも連邦政府による優遇措置を継続して行い、企業の生産性を改善し、できるだけ早く東西の賃金格差を是正する必要がある。新連邦州の学校および大学のレベルの高さはPISA調査(OECD生徒の学習到達度調査)などにより周知のことなので、優秀な人材確保の面から企業の進出が伸びる可能性がある。これらの課題が達成されたうえで、旧東西時代を知らず、意識もしない年齢層が住民の過半数を占めるようになれば、真の統一がなされたといえるだろう。

[福沢啓臣]

文化

伝統と特質

古代地中海世界が崩壊して西欧世界が成立する過程で、今日まで続く西欧の社会的・文化的特質が形成された。それは近世国民国家に分断されたのちも、ドイツを含めた西欧諸国群に共通している。「ドイツ」の文化的伝統といっても、それはこの共通性を基盤としたうえで生じた、相対的な「差異化」のプロセスである。その出発点にはもちろんキリスト教と古代文化の遺産の亀裂(きれつ)をはらんだ同化過程があった。ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの文化的伝統と特質は、すべてこの同じ同化過程の偏差である。しかし西欧が近世において世界の文化的中心となったため、この偏差の文化的価値もそれ自体が普遍的な意味をもつほど大きなものとなった。

 そうした観点で「差異化」されたドイツの文化的伝統をみていくと、キリスト教と古代文化の直接の継承者であるラテン的文化世界に対するアンビバレンス(両面価値性)の意識のうえに、理想主義的な普遍的「クルトゥーア(文化)」意識と民族主義的なゲルマン「ガイスト(精神)」との、矛盾した結合をつくってきたことに、その特質がある。それはまた、ドイツの政治・社会が分権的傾向をエスカレート(拡大)させ、ドイツが国家としての実質をもたなかったこととも相まって、具体的・外面的性格よりも理念的・内面的性格を、場合によっては著しく観念的・超越的・神秘的性格を特徴とする文化を育てた。絵画ひとつとっても、世俗的・官能的性格の人間主義が可視的なものになったイタリア・ルネサンス絵画を、「原理」として賛美しながら、超俗的、心的な傾向との葛藤(かっとう)のなかから、極度に計算され、手法化されたフォルムを生み出したドイツ・ルネサンス絵画のアンビバレンスは、フランス絵画に対立する現代ドイツ・アバンギャルド(前衛)絵画の逆説にも受け継がれている。

 こうした傾向は一般にドイツ文化の観念性、内面性と規定されているが、それは両面価値的・弁証法的葛藤のドイツ的現象形態が、社会にも国家にもよりどころを求めることのできないドイツ人の自意識に投影された標識である。理念的・思想的・哲学的傾向がドイツ文化の著しい特徴であるが、それはドイツ人一般の生活意識の俗物性からみれば、まったくの逆説である。ルネサンスのヒューマニズムを前提としながら、それと対立する形で西欧近代の新しい精神を成立させたマルティン・ルターの内面性の教義、その西欧近代ブルジョア社会を、徹底したニヒリズムによって否定するニーチェの超人の教義、同じく徹底的に弁証法を駆使する唯物論によって資本主義を否定したマルクスの教義は、その逆説と標識によって、ドイツの文化伝統の特質を体現している。

[平井 正]

思想と学問

それは歴史的に形成された標識にすぎないが、ドイツ近代の政治的・社会的後進性と、それと表裏一体をなす社会的・文化的中心をもたない地方的郷土意識は、抽象的な西欧個人主義と共同体感情が結合したドイツ的「ゲミュート(心情)」を育ててきた。寒い冬の荒涼とした風土のなかで、赤々と燃える暖炉のそばに集う家族だけのくつろぎを何よりもたいせつにする心である。それは、普遍的なドイツ文化を担うドイツ特有の教養市民層にも、偏狭な小市民的郷土意識に生きるドイツ的俗物にも共通した性格として、ドイツ的内面性と称されてきた。それが近世ドイツ観念論に始まるドイツ思想界の体質となった。カントやハイデッガーの思想は、ドイツ的郷土意識に深く根ざしている。都市の物質文明に対立する「精神文化」というのが、ドイツの文化をはぐくんだ教養市民層の自意識だった。一般にはドイツ人の「自然」志向となって現れ、「森」を心の故郷とし、徒歩で野山を歩き回るワンダーフォーゲルのような運動が、都市住民の「大地」への回帰を促した。歴史的・社会的条件の帰結として、ドイツにはベルリン以外には巨大都市が一つもないが、そのベルリンすら基層においては水郷と森林と砂地で、市民の心のよりどころは窓辺の花と郊外の家庭菜園である。一木一草もない石畳で固められたイタリアの都市が西欧市民の生活の場の原型であるとすれば、ドイツの市民は、都市住民ですら反都市的性格の都市民である。「森」はカオスでありデーモン(魔神)の住み所でもある。内にそうした神秘的、非合理主義的な暗い衝動を宿したドイツ人の心情は、マイスター・エックハルトの昔から神秘主義の思想を育ててきた。その伝統は19世紀のロマン主義の哲学から20世紀の神話的思考につながっている。そうした意識が近代西欧合理主義と結合したとき、その合理主義は非合理主義的にエスカレートし、抽象的に形式化された「秩序」感覚となって、「ドイツ的徹底性」と称される。「時間厳守」「秩序維持」を非人間的なまでに強調する国民性、理屈で割り切った抽象的計画性の支配は、東西分裂時代を通じても変わることはなかった。ドイツ科学も非合理主義的心情を基盤として、逆説的に合理主義を徹底したことによって、かえって抽象的、無機的なテクノロジーの巨大科学を成立させた。19世紀の段階ではまだそれが、アカデミックな大学を中心とする教養市民層の思想と学問のなかに包摂されていたが、学問と技術の乖離(かいり)が進行した20世紀においては、ドイツ的基盤の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈し、ドイツ的教養と学問は転機を迎えている。

[平井 正]

文化施設

ドイツの文化施設は前述のドイツ的学問と地方分権主義を二つの柱として発展してきた。ドイツは博物館王国であるが、私立の施設も国立の施設も少なく、ほとんどが州と地方自治体によって設立されたものだった。東西に分裂したあともその性格は続き、大英博物館のような巨大な施設はないが、自然、民族、絵画、いずれをとっても、全体としては科学的に組織された世界有数の文化施設である。

 ドイツはまた出版王国であった。その中心はライプツィヒで、そこで開かれる書籍見本市は世界最大のものだったが、東西分裂の結果、出版社は各地に分散し、見本市もライプツィヒとフランクフルトが併存するようになった。

 図書館も国立の中央図書館はなく、書籍業者の設立したライプツィヒのドイッチェ・ビューヒェライ(ドイツ図書館)がその機能を代行してきた。第二次世界大戦後はフランクフルトにもつくられ、ミュンヘンの州立図書館なども、全体としてその役割を果たしている。伝統あるベルリン州立図書館は、東西分裂時代に旧西ベルリンにつくられた館を統合し、統一後、役割分担によっていっそう拡大された。そして教養的文化から大衆的文化への移行という局面に対応すべく、組織的努力がなされている。

[平井 正]

文学・芸術

ドイツの文学は、イデアリスムス(観念論)の思想が開花したドイツ古典主義・ロマン主義の時期に、西欧市民ヒューマニズム文学のドイツ的形態を成立させた。それは、ゲーテ、シラーに代表されるワイマール宮廷の教養貴族共同体、シュレーゲル兄弟やノバーリスらのロマン派の小サロン共同体を基盤とする普遍的な精神の王国の文学だった。社会の枠組みが大衆文化社会へ変容し、この古き良き時代が過去のものとなったとき、ドイツ文学は東西分裂という次元を超えた亀裂(きれつ)を露呈し、その傷あとの上に現代の文学的諸傾向が生まれている。しかしドイツを代表する芸術は文学ではなく、なんといっても音楽である。文学も小説よりはむしろ演劇に中心があった。19世紀に西欧音楽の支配的地位を確立したドイツ音楽の基盤は、その源流にあるバッハから今日に至るまで、やはり中小の宮廷や都市に散在している。地方の市民生活に根ざした多元的な音楽環境こそ、ドイツ音楽の養い親である。ワーグナーの楽劇はそうしたドイツの文化的伝統と状況の音楽的集大成として、ドイツ的特質をもっともよく体現している。

[平井 正]

東西ドイツ統合の文化的影響

ドイツ統合が、東ドイツの西ドイツへの吸収という結果に終わったことは、東ドイツの硬直した社会主義体制に対する反体制的抗議運動の希望した路線とは違うものであった。このことは社会的に旧東ドイツ地域住民の二級市民意識を生み、さらに所得格差の持続と相まって、東西ドイツ人の心理的壁が容易に消えない状況を継続させている。文化的にみても東ドイツでは党政治による規制が消えたものの、劇場や映画は財政的危機に直面し、民衆は反体制的文化に興味を失い、さらに伝統音楽の世界が維持していた人間味のある伝統をも動揺させ、文化的統合の困難を認識させた。国としてアイデンティティを失った東側は精神的にも地方化した。

 この東西の文化的違和感の克服こそが、統合後のドイツの重要な課題の一つである。政府は財政的支援などを通じて文化的融和を図っているが、現在でも、その課題は新世代の意識変革に託されているといえる。

[平井 正]

新しい文化状況

西側では消費文化の浸透と文化のレジャー産業化が、イデオロギー的に大衆福祉社会として謳歌(おうか)されている。また文化も福祉として、スポーツ施設の組織化と同じ意識で組織化されて、「余暇社会」の制度に組み入れられ、それが文化制度のニュー・スタイルとして習俗化している。そのことを東側が資本主義的頽廃(たいはい)とけなして、社会主義的国民文化の優位を誇示し、対峙(たいじ)していた時代は、ベルリンの壁崩壊によってだけでなく、バブル経済の崩壊による福祉国家の後退によっても過去のものになった。

 たとえば分裂時代においてもドイツは音楽文化の国として、東西が競合するようにオーケストラやオペラに手厚い保護を与えていた。また現代的音楽状況に対応して、前衛的、大衆的なニュー・ミュージックにも市民権を与えて、東ドイツ出身の歌手も含めたジャーマン・ロックの隆盛が注目を受けていた。しかしこのような状況は、東西統一のコストの重圧の下で泡のように消え去った。「ニュー・ジャーマン・シネマ」や「ニュー・ジャーマン・ペインティング」として世界的な評価を受けたが、その名声の割に国民の支持を得なかった分野、あるいは反体制的姿勢を存在理由とした分野は、補助する側が採算重視の姿勢をとったこと、また統一による社会的基盤の変化のなかで、その意味を失ってしまい、過去のものとなった。

 こうした喪失状況を踏まえて、ギュンター・グラスのような有力な作家が、「ドイツ統一」は災いを呼び寄せるとした『鈴蛙(すずがえる)の呼び声』(1992)のような作品を発表した。また旧東ドイツで党のイデオロギー的硬直に対峙し続けた作家クリスタ・ウォルフは、ドイツのアメリカ化、コンピュートピア化に対する批判を展開し、ハイナー・ミュラーは『ハムレット/マシーン』(1990)や遺作『ゲルマーニア3 死者にとりつく亡霊たち』(1995)のようなドラマで、政治の季節に言語で挑戦した。一方、作家マルティン・ワルザーは「救助のテンポ」には速さが必要であるとして、ドイツ再統一の急展開を歓迎しており、論議は白熱している。

[平井 正]

文化機関の再構成

博物館王国ドイツは、フランクフルトに新たに「建築博物館」が加わって、博物館地区の充実が図られるなど、文化機関の整備が進んでいる。統一によって旧東西ベルリンの博物館群も、「プロイセン文化財財団」の下での統合が進み、長く切り離されていた作品の合体も進展し、再編成と復旧が急テンポで展開している。問題の解決に手間どった「ユダヤ博物館」も開館した。同時に建築文化財保護も旧東ドイツ地区を加えて、地域全体をアンサンブルとみる立場で、記念物の新しい景観をつくりだす作業が進められている。

 書籍見本市は西のフランクフルト、東のライプツィヒと、二つの見本市が併立することになったが、前者のショー的性格に対して、後者は東欧とのつながりを重んじるスタイルをとり、共存の道が模索されている。また1992年に発足したライプツィヒの「中部ドイツ放送」が、東部の有力な放送局に成長するなど、新しい連邦制度のなかでの文化機関の再編成も、しだいに軌道に乗ってきており、ドイツは文化の多中心性を統一性のなかに位置づける方向を模索しつつ、再編成の動きを進めている。

[平井 正]

日本との関係(第二次世界大戦前)

江戸時代の日独関係

幕末の黒船来航まで鎖国していた日本は、長崎出島のオランダ商館を通じてわずかに世界とつながっていた。そのようななかで、オランダを介して西洋の諸科学を日本に紹介し、日本についての詳細な知識をヨーロッパに提供した二人のドイツ人がいた。一人は東インド会社の船医E・ケンペル(1690~1692年滞日)で、ドイツ系医学を日本に伝えるとともに、来日中に収集した膨大な資料をもとに『日本誌』(1727年遺稿の英訳出版、ドイツ語版1777~1779刊、今井正訳著・1973・霞ヶ関(かすみがせき)出版)を著した。もう一人は、P・F・B・v・シーボルト(1823~1828年、1859~1862年滞日)で、英仏の東洋進出に伴い対日関係を強化するために優れた博物学者である彼に白羽の矢が立てられ、医師として派遣された。彼は西洋のあらゆる知識を日本に伝え、高野長英(ちょうえい)など蘭学(らんがく)の門弟を育成し、洋学興隆に大きな役割を演じた。帰国後の1832~1851年に名著『日本』(全9巻・岩生成一監修・1977~1979・雄松堂書店)を刊行している。また、杉田玄白(げんぱく)がオランダ語を介して翻訳した『解体新書』(1774刊)は、ドイツ人J・A・クルムスJohann Adam Kulmusの手による解剖学の名著である。開港後の1860年(万延1)にはプロイセン艦隊が来日し、当時はまだドイツ統一国家が建設されていなかったため、日本・プロイセン修好条約を締結した。

[姫岡とし子]

明治国家体制とドイツ

明治新政府にとって最大の課題は新国家体制の整備であり、まず幕末の政局に大きな影響を与えた英・米・仏にその先例を求めた。しかし、1870年のプロイセン・フランス戦争でフランスが敗北し、1871年にプロイセンを中心にドイツ帝国が成立すると、ドイツがにわかに注目の的になった。1873年3月には岩倉使節団がベルリンに到着し、宰相ビスマルクと歓談するなど3週間滞在したのを契機に、日本のなかで君主制国家ドイツの比重は非常に大きくなる。

 1882年に伊藤博文(ひろぶみ)は憲法制定の準備を進めるためドイツに滞在し、R・v・グナイストやL・v・シュタインの講説を受けた。大日本帝国憲法草案作成にあたっては、1878年(明治11)に外務省公報顧問として来日したK・F・H・ロエスレルやドイツ在日大使館顧問を経て1886年に来日したA・モッセの協力によるところが大きかった。モッセは地方自治制度の制定に、ロエスレルは商法典作成に関与し、ビスマルクの推挙で来日した法律顧問は民事訴訟法案や裁判所構成法案の作成にかかわっている。

 さらに、当初はフランス式の採用が決定していた陸軍軍政においても、ドイツ軍政を詳細に研究した桂太郎(かつらたろう)の進言のもとに1878年に参謀本部条例や陸軍職制が施行され、ドイツ式への移行が始まる。1885年に来日したJ・メッケル少佐は陸軍大学校教官として後に日清・日露両戦争を指導することになる参謀科将校を養成し、野戦型の近代陸軍の創出をはじめドイツ式の軍事組織確立に多大な貢献をした。このようにドイツは、日本の新国家体制確立の際に教師として決定的な役割を果たしたのである。

[姫岡とし子]

ドイツ学とドイツ文化の受容

教育組織の整備でも科学技術や思想などの分野でも、ドイツの影響は多大であった。ドイツの学問のなかで明治初期にいち早く日本に移入されたのは医学で、1871年(明治4)にドイツ軍医ミュラーとホフマンTheodor Eduard Hoffmann(1837―1894)が東京大学医学部の前身である大学東校(とうこう)に教員として招聘(しょうへい)され、その後、1876年にかけて薬学、解剖学、博物学、生理学など十数人のドイツ人教官が来日して日本医学の基盤構築に関与した。なかでも若き森鴎外(もりおうがい)の師でもあり、30年近く日本に滞在したE・v・ベルツの日本近代医学発展への貢献は大きく、明治日本の社会・文明批評である『ベルツの日記』(岩波文庫)が公刊されている。明治政府内でドイツの比重が高くなるとともに1876年から東京大学文学部および理学部でドイツ語が必修となり、同年に青木周蔵、品川弥次郎(しながわやじろう)ら在独経験者による独逸学協会(どいつがくきょうかい)が設立されて日本のドイツ学派の拠点となった。

 それとともに人文科学系でもドイツの影響が強くなり、アメリカ人だが東京大学でドイツ古典哲学を講じたE・F・フェノロサ(1878年来日)や1893年(明治26)の来日以降、21年間東大に在職したR・v・ケーベルらによってドイツ哲学が浸透し、英仏哲学を圧倒するようになった。軍医としてドイツに留学して1888年に帰国した森鴎外は、『舞姫』(1890年)など「ドイツ三部作」を執筆するとともに、ゲーテやシラーなどのドイツ文学の本格的紹介と普及に貢献した。明治末期にはドイツの思想や文芸は広く受容され、知識人や学生の必須の教養となるとともに、多くの日本人がドイツに留学するようになる。

[姫岡とし子 2018年9月19日]

外交関係

日本のなかでドイツの評価は高かったが、19世紀末になると、対外膨張の道を歩み始めた日独両国の間で東アジアの権益をめぐる政治的・軍事的対抗関係が生じた。ドイツは日清戦争後の戦後処理に介入し、日本が1895年(明治28)に講話条約で割譲させた遼東半島(りょうとうはんとう)を三国干渉によって返還させた後、1898年に膠州湾(こうしゅうわん)を租借する。日本は日清・日露戦争勝利による対外的地位の上昇を背景にして、明治政府の悲願であった通商関係の不平等条約改正を実現させ、ドイツとの間では1886年に治外法権を撤廃し、1911年には関税自主権を獲得している。

 大陸進出をねらう日本は、第一次世界大戦時に日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して膠州湾要塞(ようさい)を陥落させ、太平洋上のドイツ植民地も制圧した。旧ドイツ領土をめぐる葛藤(かっとう)はその後も継続したが、他方で敗戦後も日本におけるドイツ評価は低下せず、両国間の関係は比較的平穏に推移していた。1933年のナチス政権の誕生はこうした日独関係の転換点となり、1931年(昭和6)の満州事変以来、軍国主義の道をひた走っていた日本ともども拡大志向をとったため、両国は政治的にも外交的にも接近し、1936年には共産主義ソ連への対抗という共通の関心に基づき日独防共協定を結ぶことになる。それでも両国には中国をめぐる対立や、英米との関係悪化という懸案事項があり、緊密な関係は形成されなかった。

 しかし、1940年6月のドイツの対フランス戦勝利を契機として日本は再度ドイツに接近し、対米戦争の危険性を認識したうえで9月に日独伊三国同盟を締結するに至る。第二次世界大戦において日独は枢軸国として連合国と戦ったが、それぞれの国の状況に規定されて同盟関係は大きな実質的効力を発揮したわけではなかった。また戦時経済協力においても期待された成果はあがらなかった。

[姫岡とし子]

日本との関係(第二次世界大戦後)

ドイツは第二次世界大戦後にソ連および英米仏に分割占領されたため、1949年の独立の際にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)に分裂した。西ドイツとの国交は1952年(昭和27)に再開したが、東とは1973年(昭和48)まで待たねばならず、日独関係は同じ自由主義陣営に属する西ドイツを中心に展開した。日(西)独両国はともに敗戦国として瓦礫(がれき)の状態から復興事業に取り組み、飛躍的な経済成長を達成している。しかし、西ドイツは戦後の四半世紀あまり戦前から引き続いて日本に対して経済的に優位な状況にあり、これに学問の師であった伝統やカント、ゲーテ、ベートーベンに代表されるドイツ的教養の流れ、さらに日本の欧米志向などが重なって、文化交流においては日本側のドイツへの関心がドイツの日本への注目をはるかに凌駕(りょうが)していた。

 1963年の海外渡航自由化以前にフンボルト財団やドイツ学術交流会の援助でドイツに留学した人は数多い。1970年代初頭までは、ドイツにとって日本はアジアにおける近代的な国ではあったが、経済力よりもむしろ西欧と異なる異文化の地としての関心が強く、黒澤明の映画や禅、碁などが知識人を中心に静かに浸透していった。日本への関心が飛躍的に増大するのは1980年代後半以降のことで、日本的経営やトヨタ生産方式など経済的側面が脚光を浴びた。それまでは一握りにすぎなかった大学での日本語学習者の数も著しく増加し、現在ではわずかとはいえ中等教育段階において日本語の履習プログラムを設けているギムナジウムもある。とはいえバブル経済崩壊後の「失われた10年」の間にドイツの日本経済への関心は薄れ、かわって21世紀にはアニメーションを中心とする文化的なものに移行している。

 東ドイツに対しては、1973年の国交回復時には東西の経済格差が著しかったため、日本は経済や技術援助も含めて鉄鋼や電気製品などの工場建設支援を行ってきた。日独関係は以前のドイツが先達という立場から対等なパートナーへと移行したが、それでもドイツは多くの事柄で存在価値を示している。

 第二次世界大戦期の戦争犯罪の克服に関しては、ドイツのほうが先行かつ徹底していて、1970年に当時の首相ブラントがワルシャワ・ゲットーの慰霊碑の前に跪(ひざまず)いて行った謝罪を契機に、1979年には西ドイツ国会におけるナチス戦犯の時効廃止の決定、1985年には良識派保守のワイツゼッカー大統領による連邦議会での「過去の責任」に関する演説などが続き、こうした対応は日本にも大きな感銘を与えた。1990年代に入っても現在まで、強制労働者への補償、ホロコースト犠牲者の記念碑の建設、独ポーランド・独仏共通教科書の策定など、過去の償いと記憶、国際相互理解促進のための事業が続き、戦争責任をめぐり隣国との争いが絶えない日本としばしば対比されている。

 1968年学生運動世代に支えられて1983年に連邦議会に進出した緑の党が先鞭(せんべん)をつけたことにより、女性の政治参加や環境問題において抜本的な意識変革が浸透し、とりわけ環境政策ではゴミの分別収集などで日本のモデルとなった。社会福祉に関しては、日本で2000年(平成12)に施行された介護保険がドイツ(1995年)の例を参照している。福祉制度は日独ともに男性稼得と専業主婦という保守型モデルが基盤になっており、女性の就業増加や家族の多様化により見直しを迫られているが、夫婦別姓や婚外子の法的平等は、ドイツではすでに1990年代に導入済みである。

 ドイツは貿易相手国としても重要で、1990年代にはEU内ではトップ、世界でも5位(1995年4.4%)の位置を占めていたが、21世紀になると比率は低下し、2008年度は10位(2.9%)に後退している。貿易収支は日本の黒字で、2008年度は輸入(自動車、医薬品、有機化合物など)2.2兆円、輸出(自動車、半導体等電子部品、化学光学機器など)2.5兆円であった。ただし、EU内での貿易比率の高いドイツでは対日比重は下がり、輸入が13位、輸出が18位となっている。

 全体として日独関係はきわめて友好的に推移し、政府および民間レベルでともに相互交流を強化してきたが、2000年(平成12)には日独協力の新たな基盤として「21世紀における日独関係、七つの協力の柱」が合意され、政治、経済、文化の各領域における関係強化とグローバル時代の国際貢献が推進されている。1999年1月から2000年9月までの「ドイツにおける日本年」に続き、2005年から2006年にかけて「日本におけるドイツ年」が開催され、良好なドイツイメージをとりわけ若い世代に拡大していくために、文化、経済、科学を中心に多くの行事が行われ、メディアを通じて情報が発信された。開幕にあたっては、ケラー大統領夫妻が来日している。同じ敗戦国からアメリカにつぐ経済大国へと変化した日独は、21世紀の新たな国際秩序形成にあたり、PKOへの参加や国連安保理事会の常任理事国入りをめぐり共通の課題に直面している。

[姫岡とし子]

『E・ヨーハン、J・ユンカー著、三輪晴啓・今村晋一郎訳『ドイツ文化史』(1975・サイマル出版会)』『加藤雅彦著『ドイツとドイツ人』(1976・日本放送出版協会)』『佐々木博著『現代のドイツ――風土・民族・産業』(1977・二宮書店)』『出水宏一著『戦後ドイツ経済史』(1978・東洋経済新報社)』『出水宏一著『日独経済比較論』(1981・有斐閣)』『前川恭一・吉田敬一著『西ドイツの中小企業』(1980・新評論)』『A・グロセール著、山本尤他訳『ドイツ総決算――1945年以降のドイツ現代史』(1981・社会思想社)』『大西健夫編『現代のドイツ3 経済とその安定』(1981・三修社)』『大西健夫編『現代のドイツ8 職場と社会生活』(1982・三修社)』『大西健夫編『現代のドイツ10 文化と伝統』(1982・三修社)』『大西健夫編『ドイツの政治――連邦制国家の構造と機能』(1992・早稲田大学出版部)』『大西健夫編『ドイツの経済――社会的市場経済の構造』(1992・早稲田大学出版部)』『西尾幹二編『ドイツ文化の基底』(1982・有斐閣)』『九州大学経済研究会著『統合ドイツの経済的諸問題』(1993・九州大学出版会)』『大野英二著『ドイツ問題と民族問題』(1994・未来社)』『W・グラッツアー著、長坂聡・近江谷左馬介訳『統一ドイツの生活実態』(1994・勁草書房)』『高橋俊夫・大西健夫編『ドイツの企業』(1997・早稲田大学出版部)』『渡辺重範編『ドイツ ハンドブック』(1997・早稲田大学出版部)』『足尾正敏著『現代ドイツ経済――統一からEU統合へ』(1997・東洋経済新報社)』『星野智著『現代ドイツ政治の焦点』(1998・中央大学出版部)』『羽森直子著『ドイツの金融システムと金融政策』(1998・中央経済社)』『W・レンチェ著、伊東弘文訳『ドイツ地方財政調整発展史――戦後から統一まで』(1999・九州大学出版会)』『大西健夫、U・リンス編『ドイツの統合』(1999・早稲田大学出版部)』『ドイツ連邦統計局『統計年鑑』(1999・ドイツ連邦統計局)』『経済諮問委員会(五賢人会)『年次報告』(1999/2000)』


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改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ」の意味・わかりやすい解説

ドイツ
Deutschland

ヨーロッパのほぼ中央部に位置する地域。ドイツ語のドイチェラントとは,〈ドイツ人Deutscheの国Land〉を意味し,英語ではジャーマニーGermany,フランス語ではアルマーニュAllemagneと呼ばれる。

 現在〈ドイツ語〉ないし〈ドイツ人〉を意味するDeutscheという言葉は8世紀ころから用いられていたが,元来はtheudiskという形容詞に由来し,〈民衆本来の〉という意味をもっていた。すなわち,ローマ風にラテン語を語るのではなく,〈民族古来の言語を話す〉という意味であり,ここから,ドイツ語を語る人々,ドイツ人を意味するようになり,さらにその人々の国をさす言葉としても用いられるようになった。したがって〈ドイツ〉という概念は,まず第1に言語ないしはそれを用いる人々を意味するのであり,国境とはかかわりなかった。しかも〈民族古来の〉〈民衆本来の〉という意味には,民族・民衆という概念のもつあいまいさや多様性が必然的につきまとっていた。

 たしかに,歴史的にみても,ドイツをある定まった民族や国家とみることはできない。たとえば,中世のドイツ王国(神聖ローマ帝国)は,現在のオーストリア,スイス,さらにはイタリアまでをも含んでいた。したがってこの項目では,ドイツとは何かという定義を初めから下すのではなく,ドイツと呼ばれてきた地域や人々の社会のあり方を歴史的にたどることによって,ドイツとは何を意味し,それがヨーロッパないし世界史のなかでもってきた意味を考えたい。

 なお,1990年10月に再統一される前のドイツ人の二つの国家,ドイツ民主共和国(東ドイツ)とドイツ連邦共和国(西ドイツ)については,それぞれ別の項目を設け,さらに,両ドイツ統一後の経過については,〈ドイツ連邦共和国〉の項目に記した。第2次大戦後の歴史や両国家において〈ドイツ〉とはどのように考えられていたかはそこで扱った。また,文化については,本項目では各時代の文化の特徴を論述するにとどめたが,〈ドイツ文学〉〈ドイツ美術〉〈ドイツ音楽〉などの項でさらに詳述されている。
オーストリア →スイス

ドイツは地表面の起伏とその成立ちの点から3地域に区分されることが多い。それらは北ドイツ低地Norddeutsches Tiefland(北ドイツ平原),中山山地Mittelgebirge,アルプスである。中山山地は地塊山地地域と南西ドイツ階段状山地地域に,アルプスはいわゆる高山のアルプスとアルプス前縁地Alpenvorlandとにさらに細分されることがある。ドイツ全体を概観すると,アルプスから北海へ向かってしだいに低くなることが明瞭に認識される。

 上記3区分のうち,最も古く,地質的にも複雑なのが中山山地である。ここでは山地や低地,河川の方向によって示される構造に系統性がある。それらは,オーバーライン地溝によるほぼ南北(ライン)方向,ハルツ山地による南東~北西(ハルツまたはズデーテン)方向,およびライン片岩山地またはエルツ山脈による南西~北東(バリスカンまたはエルツ)方向である。より大局的には,西はアルデンヌ高原から東はポーランド中山山地に連続する中部ヨーロッパ中山山地の一部をなしている。中山山地とは,高度の点において最高1500m前後(たとえば最高はシュワルツワルトでは1493m,ボヘミア(ベーメン)の森では1456m,エルツ山地では1244m,ハルツ山地では1142m,ただしチェコ・ポーランド国境のリーゼン山地では1608m)であること,あるいは景観においても高山とは趣を異にするということの両方を意味している。地形,地質の点から,ドイツ中山山地は,(1)結晶岩類または古生層より成る地塊(ハルツ山地,ライン片岩山地,オーデンワルト,ボヘミアの森,シュワルツワルト,チューリンゲンの森,エルツ山地など)と,(2)これらの間の主として中生代・三畳紀,ジュラ紀の地層から成るケスタ台地状地域,の二つに大別され,上記の細分の根拠となっている。中山山地は古生代末のバリスカン造山帯の中核地域に相当するが,当時の大山脈はすべて削剝されて地形としてはまったく残っておらず,現在の起伏は,アルプス造山運動に伴う構造運動(サクソニア変動)によって,いったん平坦化されていたものが地塊山地として分断されて生じた。したがって中山山地域には,断層運動でおちこんでシュワルツワルトとボージュ山地を分けたオーバーライン地溝,その北方への延長であるライネ地溝などをも包括している。また,構造運動に伴って火山活動も生じ,ヘッセン地方のフォーゲルスベルクVogelsbergは現在もその外形を残し,レーン山地,ライン片岩山地のウェスターワルトには玄武岩台地のなごりが山地の高所を占めている。アイフェル丘陵地方のマール(火口)は1万年前ころまでに形成されたもので,現在まで火山活動が引き続いている証拠である。

 北ドイツ低地は中山山地に比べて単調な平野地形を呈する。それはほぼ全域が,第四紀を通じてスカンジナビア氷床の氷河作用をくり返し受けてきたからである。この北ドイツ低地には,地形的に異なる三つの地帯が識別される。その最も北東部にあたるのが,新期モレーン(氷堆石)地域で,最後の氷河期(北ドイツではバイクセル氷期と命名されている)のスカンジナビア氷床による新鮮な氷河地形により構成されている。ほぼユトランド半島中央部を縦断してベルリン,ワルシャワを結ぶ線を西~南縁とする。第2の地帯は,より古い氷河期(ザーレ氷期,エルスター氷期)の氷河地形の発達する範囲である。ここでは,氷河から解けだした水を集めて流れた谷(ウルシュトロームタール)の示す北西~南東方向の低地とそれらの間の高燥な土地(ゲーストと呼ばれる)の組合せより成る。ウェーザー川エルベ川オーデル川などは上記のウルシュトロームタールによってその流路を決められていることが多い。ゲースト縁辺の低湿地・泥炭地(マルシュと呼ばれる)もこの地帯を特徴づける。第3の地帯はすでに中山山地北縁にかかり,レスに覆われて,ドイツで最も肥沃な土壌を生みだす地域である。北ドイツ低地は,全体として標高100m以下の地域の多い低平な平野であるが,かつての氷河縁辺部はその堆積物(エンドモレーン)によって100mを超えることのある起伏に富んだ波状の地形を呈する。

 アルプスはドイツ領内では幅20~40km,延長240kmで,いわゆる石灰岩アルプスの北側斜面を占めるにすぎない(最高峰はツークシュピッツェ山の2963m)。一方,アルプスとドナウ川の間の地域,すなわちアルプス前縁地はアルプスの隆起に伴って供給された第三紀の砕屑物質(モラッセ,その厚さは最大3000mにも達する)とそれを覆う第四紀にくり返しアルプスから流れ出て山麓に広がった氷河の堆積物によって形成されている。20世紀初頭から最近まで氷河時代の研究の世界的模式地とされていた。かつて氷河を山麓へ導いた谷を流れるレヒ川,イーザル川イン川などドナウ川の支流は山麓ではこれらの氷河地形を掘り込んで台地化している。アルプス前縁地や山麓の湖沼群はいずれも最終氷期の氷河が占めていた相対的凹所に起源を持つ。

大局的に見ればドイツ各地の年平均気温は8~10℃,夏の最暖月17~20℃,冬の最寒月0~-2℃,年降水量は600~800mmの狭い範囲に入る。これはドイツの気候が第1に海洋性気候と大陸性気候の両面を持ち,南北方向ではなく東西方向に変化が大きいこと,第2に,南へ向かって高まる地形によって南北差が相殺されることによる。たとえば,年平均気温についてみると,ほぼ同経度に位置するバルト海沿岸のリューベック(北緯約54°,標高11m),中山山地のノルトハウゼン(北緯51°30′,標高210m),ウルム(北緯約48°30′,標高470m)はすべて8.1℃を示す。年較差は東へ向かって増し,海洋性から大陸性気候への変化は南東方向に進む。北海に近いドイツ北西部では1月の平均気温は0℃以下にはならない。一般に高度の高い地域は内陸でも海洋性気候が残りやすく,盆地において気温の年較差増大,冬季寒冷・乾燥の傾向が現れる。例外はライン川沿いの低地で,冬季も温暖である。降水は年間を通してあるが,東方~南東方へ大陸的になるにつれて夏季に集中する。中山山地の高所では積雪量は150cm前後,積雪期間は150日に達する。アルプス北縁部では降水量は多く(すでにミュンヘンで年降水量964mm),標高1100m前後のアルゴイ地方で2500~2850mm,積雪期間は6ヵ月以上となる。ドイツでは,秋から冬にかけて南西風が多いのに対し,夏は西~北西風が卓越し,春には北東風が多い。相対湿度は冬に最も高く,最も低いのは北西部で5月,南東部で7月である。このように夏乾燥し冬湿潤となるので日本の夏のようなむし暑さが少ない一方,冬は陰湿な寒さを感じるのである。

ドイツ全土は本来森林に覆われていた。標高1000m前後まではブナ,オークなどの落葉広葉樹,より高所ではモミ,ドイツトウヒなどであったが,15~16世紀に開墾・伐採され,一時は広い範囲にわたって森林が失われた。現在の豊かなドイツの森林は,ほとんどすべてがその後に造成された人工林である。リューネブルクハイデなど北ドイツ低地の砂質氷河堆積物上ではエニシダ,ハイデソウ,ビャクシン類などが見られ,さらに北部,東部地方ではナラ林にマツ類が混じる。土壌は北ドイツ低地砂質地域のポドゾル土壌,海岸低湿地の泥炭,ヒース土壌,中山山地の褐色森林土壌,石灰岩地方のレンジナなどである。北ドイツ低地南縁のレスは黒色土壌の発達を促し,この地帯はドイツ最良の農業地域となっている。
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日本人にとってドイツという国は独特な魅力をもっている。カントやヘーゲルを筆頭とする観念論哲学とマルクスに代表される唯物論,バッハやベートーベン,ゲーテなどに代表される芸術,学問の分野だけでなく,精密科学の先進国として,またかつては軍事大国としても日本の範となった時期があった。ドイツが西欧先進諸国のなかで国家統一の後れのために,近代化においても後れをとったことも同じく鎖国後に突然近代化の波に洗われた日本にとって親近感をもたせる理由となった。ドイツの東部に中世以来農場領主制(グーツヘルシャフト)が残存し,そこに基盤をおくユンカー貴族とライン川流域に台頭しつつあった産業資本家との間に緊張感があったことも,地主制をかかえたまま近代化をすすめた日本にとっては同じ問題をかかえた国として関心の的となり,比較史研究の格好の課題となっていた。こうした事情の背後にはドイツが長い間分裂した状態にあり,19世紀後半にようやく国家統一をはたしたという事情があった。しかしながらドイツの中世史によせる日本人の関心は,近代化の後れの原因を中世に探るという面だけでなく,ドイツ中世都市が享受したといわれる市民の自由に対する憧憬があり,ゲルマンの素朴な農村に生きていたといわれる村民の自由に対する関心もあった。そしてドイツの中世社会を母体として生まれたと考えられるメルヘンの世界は子どものころからわれわれに親しいものであり,ドイツの町や村で展開される昔話のなかにわれわれはゲーテやヘッセなどの作品の原型をすらよみとるのである。ドイツの歴史,なかでも中世社会は以上のような点でわれわれの関心をひきつけてきたのだが,それはいったいどのような社会であったのだろうか。

ドイツという国のはじまりを問う前に,後になってドイツとなる地域全体に目を向けると,古くはハイデルベルク人の存在やデュッセルドルフ近くのネアンデルタールで発見された人骨などから,すでに旧石器時代に人間が住んでいたことが明らかである。紀元前800年ころにはドナウ川流域で鉄器時代に入ったケルト人によってハルシュタット文化が生み出され,紀元前500年ころにはギリシアやイタリアの文化の影響をうけて,ラ・テーヌ文化がスイス,中部ヨーロッパにひろがる。

 このころにはすでにスカンジナビア半島に北ゲルマン,エルベ川以東に東ゲルマン,エルベ川,ライン川,マイン川間に西ゲルマンの三つのゲルマン人の集団が形成され,ラ・テーヌ期のケルト人を追い出してガリアに進出した。とくに西ゲルマン内部ではフランク,アラマンネン,バイエルン,チューリンガー,ザクセン,フリーゼンなどの部族が形成されていた。なかでもフランク族はメロビング,カロリング両朝の下で西ゲルマンの他の諸部族を統合し,東ゲルマンの一部をも従えた。カロリング朝のカール大帝(フランク国王,在位768-814)は800年にローマで皇帝に即位し,ローマ帝国を〈復活〉させたのである。

 カール大帝の帝国は現在のドイツ,フランス,イタリアにわたる広大なものであり,カール大帝の死後843年のベルダン条約と870年のメルセン条約で東フランク,西フランク,イタリアに3分割され,そのうち東フランク王国が後のドイツの前身であるといわれてきた。しかしながらこの段階ではまだドイツ王国regnum Teutonicumの成立を語ることは難しく,11世紀初頭のとくに叙任権闘争期にはじめてドイツ王国という名称が生まれてくるといわれている。

 東フランク王国においては911年にフランク族のコンラート1世が即位し,カロリング期の伝統から離れ,919年のハインリヒ1世の即位によってザクセン朝の支配がはじまった。962年にオットー1世(在位936-973)は皇帝の冠を戴き,ローマ・カトリック教会に対する庇護権をもつ神聖ローマ帝国が成立した。オットー1世は東から侵入しつつあったマジャール人に対して辺境伯領Markを設置し,レヒフェルトの戦(955)でその進出をはばみ,帝国の統一に努力を傾けた。しかしながら部族が割拠するドイツ国内の統治に当たってオットー1世がとった帝国教会政策は後のドイツの命運をも定める大きな意味をもっていた。すなわちオットー1世は,高位聖職者に土地や特権を与えて帝国行政の重要な担い手とし,いわば聖職者を官僚とする行政組織によって封建諸侯の台頭を抑え,一大帝国を築いたが,まさにこの政策のためにローマ教皇権と衝突するにいたった。それが叙任権闘争である。その端緒となったのは10世紀に南フランスのクリュニー修道院で起こった教会改革運動であった。聖職売買の批判からはじまったこの運動はやがて私有教会制の否定にまですすみ,世俗君主が聖職者を任免してきたゲルマン諸国の慣習と全面的に対立することになった。ゲルマン諸国では国王は司教や大修道院長をみずから任命し,帝国統括機構の重要な支柱としていたから,その任免権がローマ教会に移ることは国家の存亡にかかわる問題であった。グレゴリウス7世が俗人による聖職者の任命を禁止し,ハインリヒ4世と全面的に対立するにいたったのもこのような事情があったからであった。いわゆるカノッサの屈辱(1077)をへて,1122年のウォルムス協約によって司教や修道院長などの高位聖職者の任命については教会法によることが定められ,叙任権闘争は一応の決着をみた。しかしながらドイツ国内では皇帝による高位聖職者の任免は存続しつづけた。いずれにせよ叙任権闘争はドイツの国家統一を妨げただけでなく,後の国家の性格にも大きな歪みを残したのである。

11世紀における以上のような政治の動きは,この時代にドイツで進行しつつあった社会の編成替えの過程と対応していた。9世紀から10世紀にかけて農業技術の改良(三圃農法の成立と有輪犂の普及)によって穀物生産高は増大し,その結果生じた人口の増加はおりから商業の復活とともに成立しつつあった都市に吸収されていった。古ゲルマンの社会以来の贈与・互酬の関係のなかで氏族間の関係を結んでいたゲルマンの人々は,この段階ではじめて貨幣を媒介とする人間関係のなかに全面的に組みこまれることになった。このころにキリスト教はようやく村落のなかにも浸透し,13世紀半ばには教会のない村はみられないほどになっていた。キリスト教の浸透は単に教会制度が導入されたというだけではない,大きな転換をもたらした。古ゲルマン人の世界で時間は季節の移り変りと同じく,周期的にくり返すものと考えられており,生者と死者の関係も密接であり,死者は生者のそばに居所をもつと考えられていた。しかしながらキリスト教はこのような時間意識や死生観に決定的な転換をもたらしたのである。キリスト教の教義においては人間は1回生き1回死ぬのみであり,死後は現世における善行の程度に応じて天国か地獄か煉獄に赴くことになっている。したがって人間は現世において何よりもまず善行を積むよう努めなければならず,善行の代表的なものが貧民への喜捨と教会への寄進であったから,人々は競って教会に寄進し,教会は膨大な富を蓄積していった。ドイツにおける世俗君主は,このような死生観の転換をもたらした聖職者の富と権威を利用してみずからの支配権を掌握したのであり,世俗君主といえどもどこかで彼岸を見通すことのできる位置に身をおかねばならなかった。都市ですら例外ではなかった。都市の市参事会員は俗人であるが,市参事会員になるときにはキリスト教の儀式による誓約が求められ,都市行政すら教会の機能をみずから併せもつこと(貧民救済など)によって公的権威としてみずからを主張することができたのである。

12~13世紀には,都市共同体だけでなく農村にも村落共同体()が成立する。いずれも以後のドイツ人の生活の基盤となるものであるが,これらがいわば小宇宙として成立していったことに注目しなければならない。11世紀以前においては人々の生活の単位はであり,たとえ部族や氏族の枠組みのなかにあったとしても,一歩家の外に出ればそこは人間が制御しえない諸力にみちた大宇宙であった。死や病,戦争や嵐,不作などは人間が制御しえない天体の運行によってもたらされると考えられていたから,大宇宙から小宇宙である共同体に向かって襲いかかってくるものと考えられていた。したがって占星術が処世のうえでも病気の治療のうえでも不可欠なものであった。小宇宙としての共同体は大宇宙としての世界と呪術的な関係によって結ばれていたのである。ここにドイツのメルヘンが成立する土壌があったといえる。村落共同体や都市共同体の成立とともに家は軒を接して立ち並ぶようになり,もはやそれぞれの家ではなく,何軒もの家が集まった一つの空間が小宇宙(共同体)となったのである。とくに都市は貨幣経済の展開とともに豊かになり,市壁で囲まれた内部において独自な文化を誇るまでに発展した。貨幣を媒介とする世俗的な生活を営む市民の団体(ギルドなど)が,全体としてはキリスト教共同体として位置づけられたところに中世都市の特異な位置があり,聖と俗とのこの特異な関係が後にドイツの神学や哲学の形成にも大きな影響をのこすことになった。小宇宙としての共同体に理論的な根拠を与えたのがキリスト教であったからである。市民の日常生活は国家という次元を経ることなく無媒介に世界,宇宙と結びつくことになったのである。

 キリスト教はゲルマン以前の諸霊の多元的な世界を否定し,時空を貫く一貫した創世神話によって小宇宙と大宇宙の対立を理論上止揚してしまった。たしかに神の国と地上の国という分類は残るが,地上の国は神の国に従うべきものとして位置づけられており,両者は結びついている。その限りで小宇宙と大宇宙の関係は非呪術化されたのである。

ドイツの国王は,キリスト教会とその一元的な理論を支えとして国家統一を遂行しようとして,まさにそのキリスト教会の本山であるローマ教皇と叙任権闘争を闘って敗れた。その結果都市や村落共同体は小宇宙として存続しつづけ,それらを統一する仕事は領域君主にゆだねられることとなった。12~13世紀には増加した人口は都市に集中しただけでなく,東ドイツ植民(東方植民)の波にのって東方に進出し,東部に大領国が建設されていった。ドイツ騎士修道会によるプロイセンの植民やブランデンブルクプロイセン,オーストリアなど後のドイツ史において大きな役割を果たす大領国の基礎がつくられていった。しかし西部ドイツの領域では,領主制は,土地領主制,体僕領主制,裁判領主制などに分かれ,一円的支配領域を形成しにくい状況にあった。こうしてドイツは11~12世紀から大空位時代を経て宗教改革を迎えるときにいたってもなお,神聖ローマ帝国という擬制的帝国の名の下で実質的には割拠する諸侯の支配(ランデスヘルシャフト)の下におかれ,これらの諸侯も領域(ラント)内において中世末までは都市を完全に掌握するだけの力をもっていなかったのである。しかしながら,これらの領域支配圏のみが実質的には中世後期から近世にかけてドイツ国家の実体をなしており,このことは領域内の私闘(フェーデ)を禁止し,平和の確保を目的とするラント平和令がラントの範囲内でまず出されていたことにも示されている。ラント平和令が,まず〈神の平和〉として教会が発起者となって始められたものであることもこの時代の領域支配の性質を物語っている。中世末期には各ラントの君主は,特定のや都市に定住し,大学を創設して官僚を育成し,文書に基づく行政によって支配の近代化を図っていた。ドイツの近代化はプロイセンをはじめとするこれらのラント内でまず始められたのである。他方,帝国権力の不在の間に北ドイツの諸都市はハンザ同盟を結び,みずからの政治・経済上の権益を守ろうとしていたし,シュワーベン都市同盟も結成され,諸侯と都市が対立したまま宗教改革を迎えることになる。

 12~13世紀から15~16世紀までは,ドイツは古代的,呪術的なものを多く残しながら市壁に囲まれた都市内では合理的な生活が営まれ,古いものと新しいものとが決着をみないまま並存している状態であった。宗教改革はローマ・カトリック教会が認めていた現世における聖と俗の区分を否定し,より一貫した形で小宇宙と大宇宙の区分を消滅させた点で,近代化への道を大きく一歩進めたものといえる。しかし,そこでは宗教が精神化され,内面化された分だけ,現世の世俗君主を制約するものが弱まっていった点で近世社会に大きな問題を残したともいえる。宗教改革を遂行した北東ドイツとローマ・カトリックにとどまった西南ドイツとの間には以後大きな溝がのこり,今日に至っている点が無視しえないところである。
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ルターの宗教改革は,本来純粋に宗教上の問題であるはずであった。しかしこの世における教会制度の改革は世俗の権力と深くかかわり,しかもドイツにおいては,世俗権力が皇帝の下に一元化されてはいないという特殊な事情があった。ドイツの領邦国家はこの時代にローマ法の継受をも利用してその国家体制を整えつつあったのである。したがってルターが,一方においてローマ・カトリックならびにそれと結びついた皇帝に抗し,他方ミュンツァーなどの過激派を否定して,騎士戦争ドイツ農民戦争の動乱の中で秩序ある改革を推し進めようとするとき,彼は反皇帝的な諸侯権力と結びつかざるをえず,ルター派の教会は,諸侯を保護者とする領邦教会という形で実現することになる。その際諸侯は教会財産を接収して財政上の利益を得たのみならず,その管理下の領邦教会を通じて領民の精神生活をも支配しえたのである。かくして宗教改革は,政治的には諸侯権力=領邦国家の強化発展に役だつ結果となったのであった。なおカトリック諸侯の下においても事態は大同小異である。16世紀後半から始まる反宗教改革の運動は,ドイツにおいてはやはり諸侯権力と結びつかざるをえず,それは領内の教会に対するカトリック諸侯の管理権を強化したのであった。1555年のアウクスブルクの宗教和議は〈住民の信仰はその地の領主の信仰に従う〉原則を定めたが,これは以上の流れからする当然の帰結であったといえよう。なおこの原則は,三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約において,カルバン派諸侯をも公認してもう一度確認されるが,このときにはすでに,宗派を問わず,ドイツの領邦国家体制は動かし難く確立していた。皇帝はこの事実を認め,この条約においてドイツの諸侯と独立の諸都市に対し,外国との同盟締結権をも含む完全な領邦主権を承認する。中世に始まる領邦国家の発展は,この条約に加わったフランスを保証人として,ここに国際的な承認を得たのである。

 ウェストファリア条約以後,神聖ローマ帝国は国家としての内実を失って〈妖怪じみた〉(17世紀の法学者プーフェンドルフの言葉)存在と化する。そしてドイツの国家的活動は,形式上帝国を構成する300余の領邦国家を単位として行われることになるが,この領邦諸国家の存在条件は,領邦によってもとより同一ではない。皇帝の国オーストリアは,ドイツの一領邦というよりはヨーロッパの強国である。18世紀にはプロイセンが台頭し,七年戦争を戦い抜いてヨーロッパ列強の一角を占める。これに続くのがイギリスと同君連合の関係に入ったハノーファー,またポーランドと同君連合を結んだザクセンである。その他の群小の諸国は個々においてはほとんど政治的な力を持ちえない。しかしこれら諸小国は,それだけに相互に連合して自己の存在を維持しようとし,また諸小国の連合が,これらの国の存在根拠たる帝国国制の改革運動にも連なったことは留意されなければならない。18世紀において〈帝国(ライヒReich)〉という言葉は,西南ドイツを中心とする諸小国圏の別称ともなっていたのである。

17~18世紀におけるドイツの領邦諸国家の国制は,西欧諸国と同様に絶対主義のそれであり,18世紀後半には絶対主義は啓蒙絶対主義の段階に入る。啓蒙絶対主義はプロイセンのフリードリヒ2世,またオーストリアのヨーゼフ2世など大国の君主の統治様式に見られるのみならず,ザクセンのフリードリヒ・アウグスト3世義人公Friedrich August Ⅲ der Gerechte(在位1763-1827)やザクセン・ワイマールのカール・アウグストKarl August(在位1775-1828)等中小国にも数多くの例をもって,18世紀後半のドイツ諸国の政治を特徴づけている。しかし〈啓蒙された〉君主の上からの指導力が大きな役割を果たしたことは,反面,国民の下からのイニシアティブの欠如をも意味するのであって,このことはドイツの経済の後進性と,それに由来するブルジョアジーの未成熟の問題と関連している。

 近世初頭の宗教改革の時代は,経済的には〈フッガー家の時代〉といわれるように,その時代ドイツの商人は,アルプス越えに地中海と北西ヨーロッパの経済圏を結ぶ通商路を制し,フッガー家やウェルザー家等の豪商を輩出して,ヨーロッパの経済に大きな役割を果たしたのであった。しかし新大陸との交通の発達によって,ヨーロッパの経済の中心はその後しだいに西欧の大西洋沿岸に移り,また三十年戦争はドイツの人口を半減させる打撃となってドイツの経済を荒廃させた。そのうえ北海とバルト海に面したドイツの主要海港は,ウェストファリア条約によってスウェーデンの領有に帰したのであった。ドイツの経済は西欧の発展に対して後れをとらざるをえず,加えてドイツの領邦分立体制が広域経済の発展を阻害したのである。領邦都市の経済生活は多くの場合その地の宮廷の需要に依存し,また領邦国家の経済政策は,フリードリヒ2世の啓蒙絶対主義の下においてさえ,国庫の充実を海外貿易によってではなく国内市場の収奪によって行うという,矮小化した重商主義(国庫主義)に立脚するものであった。住民の大多数を占める農民は聖俗の土地領主の支配下にあり,とくに東エルベにおいては,三十年戦争以後グーツヘルシャフト(農場領主制)が発達して,農民の貴族領主への隷属が強められたのである。このような状況においては,ブルジョアジーの成長と自立化は望むべくもない。ただ各国で絶対主義の統治体制が整えられるとともに,大学出の官僚に対する需要がふえ,また小国も学校の整備には比較的多く意を用いたため,18世紀の末には,各国の官僚層を中心に,ドイツ独特の教養市民階級が形成されていたことは注目に値する。世紀末のドイツの思想と文学の興隆は,この教養市民階級をその社会的基盤としていたのである。

フランス革命とナポレオンの時代は,ドイツにおいては,文化的にはカントの哲学,ゲーテとシラーの古典主義文学,また音楽におけるベートーベンの時代である。それはドイツの文化史上最も豊饒な時代であったといえよう。国家の分裂にもかかわらず,それを超えた普遍性,人間性といった問題を提起することとなった。しかし政治的にはこの時代は,ドイツ諸国が革命の衝撃を受け,次いでナポレオンの支配に屈服した屈辱の時代である。ドイツの領邦諸国家の世界は大きな変動を被った。300余の領邦群は約40の国家に再編成され,ナポレオンに追随する西南ドイツ諸国がライン同盟を結成したことによって,1806年,神聖ローマ帝国もついに消滅する。しかしこの激動の時代はまた,各国における改革と再出発の時代でもあった。新領土統合の必要から,あるいはまたプロイセンのように,ナポレオンに敗れて存亡の危機に瀕した国家再建の必要から,各国は,多かれ少なかれフランスの影響下に,新国家の建設にも匹敵する根本的な改革を行うことになった。その最も有名な例はシュタインとハルデンベルクの指導下に行われたプロイセン改革だが,他の国でも,多くは開明的官僚の指導で大々的な国制改革が行われており,バイエルンバーデンビュルテンベルク等,今日の西ドイツの連邦州(ラント)に連なる中堅諸国も,この時代の改革を通じて新たに発足したといってよい。ナポレオンに対する解放戦争ののちウィーン会議で組織されたドイツ連邦は,このような諸国家の連邦である。

 1815-48年の間,ドイツ諸国はドイツ連邦の枠の中で,政治的にはオーストリアの宰相メッテルニヒに指導されて保守的な政治をしく(ウィーン体制)。ブルシェンシャフトの学生運動や,七月革命後の〈青年ドイツ派〉の反体制的文学運動など,体制変革を願望する運動もないではなかったが,カールスバート決議以後,革命的運動に対する弾圧はきびしく,穏健な自由主義者もその活動の場を,おおむね西南ドイツ諸国の議会に限定されていた。オーストリアやプロイセンは憲法をもたず,全国議会もなかったのである。しかしプロイセンは,保守的な政治とは裏腹に,経済的には先進的な自由主義路線をとり,ドイツ諸国の中で最も早く自国の経済体制を資本主義に順応させたのであった。1834年発足のドイツ関税同盟もプロイセンの関税政策を他国に拡大したものであり,48年には,プロイセンはドイツで最も工業の発展した国になっていたのである。48年の三月革命の過程でいわゆる小ドイツ主義が力を得たのも,経済力に裏打ちされたプロイセンの自己改革能力に対する期待があったからこそのことである。

 1848-49年の革命(48年革命)の決算は二様に評価しうる。農民解放など社会経済体制の近代化のための改革は,19世紀初頭の改革の時代に始まって,この革命によって立法上の完結を見た。ただしこの種の内政上の改革,また国制立憲化の改革は,いずれも各国別に行われ,それは各国独自の存在をさらに強化する結果になった。反面,諸国の統合=ドイツ統一は,よりいっそうむずかしくなったのである。フランクフルト国民議会はこの難問を解決しえず,ドイツ統一憲法が作成されたにもかかわらず,統一は成らなかった。この統一問題は,革命を通じて現れてきた社会問題とともにその解決はこの後の政治の大きな課題として残されたのである。
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48年革命から第三帝国の崩壊にいたるドイツ近・現代史の1世紀は,〈ナショナリズム〉と〈社会主義〉を二つの軸として展開したといっても過言ではない。しかもこれら二つの問題は,ナチズムNationalsozialismusのドイツ征覇に端的に示されているように,相互に深くかかわるものであった。19世紀におけるドイツ・ナショナリズムの形成と発展は,ナポレオン戦争とイギリス産業革命に大きく規定されており,中世の〈帝国(ライヒ)〉の栄光に立ち帰ろうとするロマン主義的ナショナリズムと,国民的統一市場を形成して先進資本主義国に対抗しようとする経済的ナショナリズムとが分かち難く結びついていた。それは,近代〈国民国家〉の形成にさいして〈近代〉と〈伝統〉とがどのように結び合うかという問題でもあったが,その〈伝統〉が,ドイツにおいては,ライヒとラント,カトリックとプロテスタント,また西部のグルントヘルシャフトと東のグーツヘルシャフトといった,重層的ないし多元的な性格を強く帯びていたところに,ドイツ・ナショナリズム固有の困難があったといえよう。48年革命の前後に大きく浮かび上がった社会問題においても,〈近代〉と〈伝統〉の相克は深刻であった。中世以来の都市と農村のローカルなたたずまいを色濃く残したまま急激な近代化・工業化に乗り出したドイツでは,広範な手工業者・商人また農民層の守旧的・身分制的意識が強く,近代化・工業化に伴うブルジョアジーとプロレタリアートの台頭に対して国家の保護を求め,かつ国家の柱石たることを自負する独自の〈中間層〉意識が形成されることとなった。また,近代化・工業化とともに増大の一途をたどるホワイト・カラー層の間にも,領邦国家の官僚制の伝統と相まって,中間層意識が涵養されることとなる。そして,貴族出身の官僚・軍部を軸とした強国プロイセンを中心に形成・確立の途上にあったドイツ国民国家にとって,新旧中間層のこうした意識は,ナショナリズムともども,支配秩序確立の重要なてことなったが,その一方では,国家権力によって抑圧され中間層からも疎外された,工業労働者を中心とするプロレタリアートを,社会主義の思想・感情が広くとらえていき,そこに独自の〈労働者文化〉の世界がくりひろげられることとなった。しかも,社会主義は,万国の労働者の連帯というインターナショナルな広がりをもった運動として発展を遂げることとなる。こうして,労働者を国家へと統合することは,ドイツ・ナショナリズムの重要な課題とされていくのである。その中で,労働者また社会主義の側もまた,ドイツ〈国民国家〉における〈近代〉と〈伝統〉の問題にあらためて直面することとなる。

プロイセンは,1850~60年代に産業革命をほぼ完遂してドイツ関税同盟におけるその指導権をいっそう強める一方,首相ビスマルクの〈鉄血政策〉のもとに陸軍の増強に努めた。そして,64年にはシュレスウィヒ・ホルシュタイン問題でオーストリアと組んでデンマークを,66年には普墺戦争でオーストリアを破り,次いで70-71年には普仏戦争でフランスを圧倒して,ドイツ帝国を成立させた。こうしてドイツの統一は,オーストリアの排除のもとにプロイセン国王ウィルヘルム1世を皇帝に頂く〈小ドイツ〉の帝国として達成された(ドイツ第二帝制)。この過程でドイツ市民階級は,統一の指導勢力としてプロイセンに期待をかけつつも自由主義・立憲政治を掲げて同国政府・軍部と対決する路線から,統一を重視しビスマルクを支持する路線へと転換する。これは,市民階級を中心とする広範なナショナリズムに注目し,政治紛争を外にそらすことによって王権の維持をはかったビスマルク,またプロイセンを中央ヨーロッパの強国とすることによって王権を強化しようとした陸相ローンAlbrecht von Roon(1803-79)の路線の勝利を意味した。しかも,統帥権を掌握した皇帝のもとに,男子普通選挙制にもとづく帝国議会が設けられたことは,長期的にみて,帝国への民衆の統合に重要な役割を果たすこととなる。

 ドイツ帝国成立の過程は,また,プロイセンによる他のドイツ諸邦の征服・併合ないし従属化の過程でもあった。バイエルン王国は,プロイセン,オーストリア両強国の間にあって中小諸邦を第三勢力として結集しようとしたが,プロイセンの軍事力・経済力と,バイエルンの市民階級をも巻き込んだドイツ・ナショナリズムに圧倒され,ドイツ帝国の従属的な一構成要素となった。しかし,同国のカトリックには反プロイセンの空気が強く,プロイセンのライン地方と並んで,連邦主義的なカトリック政党中央党の重要な地盤となった。そのさいカトリックの聖職者・貴族とともに同党を支えたのは,プロテスタントのプロイセンを中心に前進する工業化・近代化に反発する,農民・手工業者であった。帝国宰相ビスマルクは,〈文化闘争〉を通してカトリック教会の影響力を打破し〈帝国の敵〉中央党を打倒しようとしたが,逆にカトリック側の結束を固める結果に終わった。

ビスマルクによって〈帝国の敵〉とされたもう一つの勢力は,形成途上の社会主義労働運動であった。とりわけ,プロイセンの反自由主義に鋭く反発するその指導者ベーベルとW.リープクネヒトが,独仏戦争に際し戦費協賛に保留,次いで反対の態度をとり,さらにパリ・コミューンに共感を表明したことは,ビスマルクに大きな衝撃を与えた。しかし,1878年の社会主義者鎮圧法,また83年に始まる一連の労働者保険も,労働者街とりわけ酒場での仲間づきあいや各種の文化(合唱,演劇など)・スポーツ団体を中心に独自の〈労働者文化〉と相互扶助の世界を形成しつつ発展するこの運動を抑え込むことはできなかった。

 1873年に世界大不況が始まると,ドイツはそれまでの自由貿易政策から,79年,〈穀物と鉄〉(ユンカーとルール重工業)を軸とした保護関税政策に転換する。ルール重工業はこのもとで技術革新を進め,新興の電機・化学工業の躍進とあいまって,ドイツは世界的な重化学工業国へと発展した。この過程で,ユンカーの支配する東エルベの農村からの農業労働者の離脱とルールやベルリンなど工業地帯への労働力の集中が進んだ。それとともに労働者も階級的な結集を強め,89年の炭鉱ストライキ,90年の総選挙におけるドイツ社会民主党の躍進をかちとった。同年のビスマルクの失脚と新宰相カプリービの〈新航路〉政策(社会主義者鎮圧法の撤廃と労働者保護立法,また輸出拡大に向けた通商条約政策)は,こうした労働運動の発展やドイツの穀物関税引上げに起因する独露関係の悪化に対するドイツ第二帝制のいわば前向きの対応であり,それを通して労働者の体制への再統合をはかるものであった。しかしこれら一連の政策は,それまで帝制の支柱として保護されてきた農業界の不安と反発を呼び,ユンカーの主導下に広範な農民層を結集した農業者同盟や,バイエルンの農民同盟など,農本主義的な運動がくりひろげられることとなる。

他方,全ドイツ連盟を中心とする帝国主義的ナショナリズムの運動(パン・ゲルマン主義)は,ドイツの世界経済への進出にともないドイツが世界強国として発展することをめざすものであり,なかでも艦隊協会は,皇帝ウィルヘルム2世,海相ティルピッツらの〈世界政策〉と相呼応しつつ,工業界と都市中間層を広く結集して発展した。こうした中で,世紀の変り目ころから,高度保護関税と艦隊建設とを軸とした〈結集政策〉が展開されるが,それは,いっそうの発展を遂げる社会主義労働運動に対抗して〈穀物と鉄〉の同盟を再編成するとともに,農本主義的ないし全ドイツ主義的な諸運動に結集した広範な中間層を体制へと統合して,帝国主義的世界政策の基盤を確保しようとするものであった。

第1次世界大戦の前夜,ドイツ帝国主義は,みずから呼び起こした英仏露の三国協商の包囲体制と激化する軍拡競争のもとで孤立化と危機感を深めた。他方,社会民主党は軍拡のための増税や物価の上昇に対する民衆の不満を結集して党勢を拡大したが,帝国主義的ナショナリズムは同党にもしだいに影響を及ぼしていった。1914年8月大戦が勃発すると,労働者の多くも国土防衛の愛国的空気にまき込まれ,労働組合のストライキ停止と社会民主党の戦費協賛によって〈城内平和〉が成立する。この〈8月4日〉の挙国一致の感激の経験は,前線における死と欠乏の前の平等という〈塹壕社会主義〉の体験とともに,ドイツ・ナショナリズムに新たな活力とダイナミズムを与えることとなる。そして,ドイツが広大な占領地を維持し,さらに18年3月のブレスト・リトフスク条約でロシアにポーランド,バルト地方,ウクライナの主権を放棄させてこれらの諸地域を経済的に収奪する体制をうち立てたことは,ドイツの支配層と民衆の双方に帝国主義者支配と英雄崇拝(ヒンデンブルクルーデンドルフの軍事独裁)の体験を刻みつけることとなった。しかし,大戦はまた,とりわけその長期化・総力戦化のもとで,多くの民衆にとって,前線での死と苦難,軍艦内での将校の特権的生活と水兵に対する不当な扱い,また銃後での食糧不足とインフレ,軍需産業の高利潤と労働者の労働強化を意味した。民衆は,こうした現実への怒りの中から,食糧騒動や山猫ストライキなど新しい行動性をくりひろげ,ついに18年11月には革命に立ち上がって第二帝制を倒し,各地に労働者・兵士評議会(労兵レーテ)を成立させた(ドイツ革命)。これに対して軍部・重化学工業界と社会民主党・労働組合は,反労兵レーテの〈共和国〉と労使協調の〈中央労働共同体〉とを軸として提携し,民衆の下からの行動性,またこの行動性を〈レーテ共和国〉の実現へと導こうとするドイツ共産党(スパルタクス団)と対決,これらを抑え込むことに成功する。そして,労働者を中心とした革命の展開に疎外感を抱いた都市・農村の中間層(そのうち,旧中間層には戦時の軍拡景気によってうるおった者も少なくなかった)の多くも,憲法制定国民議会の選挙や反革命義勇軍への参加を通して上記の方向に支持を与え,ここにワイマール共和国が成立する。しかし,彼らの間からは,賠償問題をはじめドイツに厳しい戦争責任を課したベルサイユ条約に衝撃を受けて,敗戦の責めを革命に帰する〈匕首(あいくち)伝説〉にとらえられていく人々も数多く出てくるのである。バイエルン・レーテ共和国崩壊(1919年5月)後のバイエルンでは,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を率いたヒトラーが,反ユダヤ主義でいっそう先鋭化された匕首伝説を唱えて,激しいインフレに苦しむ都市中間層の支持を集めたが,23年11月のミュンヘン一揆の挫折とともに,新しい模索の時期を迎えることとなる。

革命とインフレ,そして1923年の〈ルール闘争〉に続いた〈相対的安定期〉には,外相シュトレーゼマンが国際協調外交を展開し,ドイツ経済の再建と秘密再軍備を外交面から保障するとともに,国際的地位の回復に努めた。この時期,産業界はドーズ案体制のもとでアメリカから資本を導入しつつ〈合理化〉運動を進め,その中で合同製鋼やIGファルベンなど巨大企業が成立。首都ベルリンでは,アメリカの機械文明・消費文明に共鳴する新中間層を主要な受け手としつつ,〈ワイマール文化〉がいっそう華やかにくりひろげられた。しかしその一方では,旧来の伝統や生活慣習を根強く残しつつ繁栄に取り残された地方の農村を中心に,ワイマール共和国・ワイマール文化への反感が蓄積され,28年には,シュレスウィヒ・ホルシュタインで農民の納税拒否や強制競売阻止の直接行動が展開された。翌29年世界恐慌が勃発すると,ナチスは〈血と土〉〈民族共同体〉を掲げた激しい現状批判とダイナミックな行動力で,都市や農村の中間層の没落への危機感と救済への期待をとらえ,飛躍的な発展を遂げる。他方,労働者は,大量失業の打撃を受け,失業者を中心に共産党が支持者をひろげたが,失業あるいは失業へのおそれに制約され,全体として革命前後の行動性を回復するには至らなかった。この間,軍部,重化学工業界,ユンカーを中心とする支配層は,恐慌からの脱出と再軍備の推進を求めて,大統領ヒンデンブルクの特別権限(ワイマール憲法48条)に依拠する一連の大統領内閣(首相ブリューニング,パーペン,シュライヒャー)による権威主義的統治を推進し,さらには,その大衆的基盤を求めてナチスとの提携を模索することとなる。結局33年1月,ヒトラー内閣が,ナチスの主導下に支配層がこれと提携する〈国民革命〉内閣として成立する(ドイツ第三帝国)。そのもとで,共産党の弾圧,労働組合の解体,ナチス以外の全政党の解散が進められ,34年,ナチス突撃隊長レームの粛清と大統領ヒンデンブルクの死とともに,〈総統〉ヒトラーの独裁体制が完成する。

ヒトラーは,元ライヒスバンク総裁シャハトを〈経済独裁者〉に据えて失業の解消と再軍備を進め,〈生存圏〉〈東方帝国〉のための戦争準備に邁進した。1936年,軍拡景気の局面にはいり,4ヵ年計画も発足すると,重化学工業への資本と労働力の集中はいっそう進み,38年のオーストリアとの〈合邦Anschluss〉やズデーテン地方の併合などヒトラーの外交政策の一連の成功もあって,労働者の間にもナチスの帝国主義的ナショナリズムの影響がしだいにひろまった。また都市新中間層の間には,〈国民車(フォルクスワーゲン)〉の夢に象徴されるアメリカ文明のいっそうの浸透の中で,私的な享楽の世界への逃避が進んだ。そしてこうした動きは,余暇を享受する機会をひろげたドイツ労働戦線の〈歓喜力行団〉の活動もあって,労働者のかなりの部分をもとらえていった。こうした中で,社会民主党とりわけ共産党の側から繰り返し試みられた抵抗の動きも,社会主義者鎮圧法の時代以来の労働者独自の世界がナチスによるたび重なる弾圧で寸断されていったこととあいまって,その基盤を掘り崩されていくのである。一方,都市・農村の中間層がナチスに期待した〈身分制国家〉の建設は,経営への干渉を嫌う重化学工業界の反発にあい,また再軍備推進を至上命題として身分制的自治を排するヒトラーによって退けられた。しかし,軍拡景気にうるおう部分も少なからずあり,また世襲農場法の制定や全国手工業身分の設定などの諸施策に支えられて,ナチスの影響力は相当程度維持された。その中でナチスへの非同調の動きが表面化したのは,プロテスタント系の告白教会の〈教会闘争〉,そしてとりわけ,バイエルンのカトリックの,学校教育の強制的画一化や農村の生活慣習への干渉に対する抵抗のひろがりであり,後者の背景には,軍拡景気に伴う労働力の流出と統制経済の進展へのバイエルン農民の不満があった。しかしこれらの動きも,体制への正面からの対決には至らなかった。

1939年9月の第2次世界大戦の勃発に際しては,前大戦の勃発時とは異なり国民的高揚は見られず,とくに農村では,軍隊への動員によって労働力の不足がいっそう進むことへの憂慮が大きかった。ドイツ第三帝国は,国防軍が占領地を東西に大きく広げる中で,原料,食糧,そして労働力の収奪を進め,戦争捕虜ほかの外国人労働力は,ドイツ本国の労働力の相当部分を占めるに至る。ドイツ人労働者は,戦争を機とした労働条件の悪化に一定の抵抗を示したが,工場へのゲシュタポの配備の強化で抑え込まれた。しかしその生活水準は,革命再現へのヒトラーの恐れもあって,被征服諸民族の犠牲の上にかなりの程度維持された。他方,東部戦線での戦況の悪化,また〈親衛隊国家〉と化した第三帝国によるユダヤ人の虐殺に直面して,ショル兄妹を中心としたミュンヘン大学生の〈白バラ抵抗運動〉や保守的支配層の一部をバックとしたヒトラー暗殺の試み(44年の〈7月20日事件〉)がくりひろげられたが,いずれも流血の弾圧に終わった。こうしてドイツは,多くの都市が空襲で廃墟と化しつつも,内部からナチズムを清算する力を生み出しえないままに,連合軍の力で〈解放〉されることとなるのである。それはまた,〈大ドイツ〉の解体にとどまらず,残されたドイツの東西への分割の起点でもあった。
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13世紀末ころには,法律家Jurist(法曹)という新しい社会集団がドイツに成立した。彼らは中世の封建社会に存在した〈民衆の共有財産としての法〉の担い手であった審判人Schöffeといった法名望家とは異なり,特殊専門化された外国法(ローマ・カノン法)の学識者として,それまでの〈慣習法〉〈民衆法〉と対立する新しい〈学識法〉〈法曹法〉を創造していったのである。これが,従来〈ローマ法の継受〉とよばれてきたものであり,この中世後期から近代初頭にいたる一連の歴史的発展は,じつは,12世紀にイタリアのボローニャ大学で再興されたローマ法を,その地で学び〈万国教授資格〉を得た留学生たちが,その母国に知識を持ち帰り,母国でローマ法を講じあるいは法実務に参入することによって達成されたものなのである。多くの場合,法学生の社会的出自は高いものではなかったが,彼らはその学識性のゆえに,身分制的社会構成の原理である〈血統〉の制約を超え得たのであり,これを一種の社会革命と評することもできる。したがって,新たに獲得されたそのような優位性を保持・強化するために,法律学・法実務の分野で,かつて大学で学びいまや〈共通の学識の基礎〉ともなったローマ法の原則へと法律家が立ち戻り,ローマ法大全の権威に依拠しようとしたのはある意味で当然のことであった。そしてこのような〈学識法曹階層〉の出現と彼らに担われた学識法の社会的浸透は,〈普通法〉の成立という事態をもたらし,その後のドイツの法発展を決定づけたのであった。

 ローマ法の継受の結果,ドイツの法生活はローマ法を基礎とするようになったのであるが,その妥当を担保する統一的な政治的権威や近代的な意味での中央裁判所が存在していなかったために,それはもっぱら学問的権威によって担保され,〈書かれた理性〉として妥当したにすぎなかったのである。このためドイツにおける法の発展は,法学によって,とくに大学の法学者によって担われることになり,たとえば,疑わしい問題については,裁判所は〈博士の共通見解〉,つまり学者たちの通説をもって適用することになっていたのである。だがいずれにせよ,17世紀ころまでは,ドイツの法生活はイタリア法学の圧倒的な影響下にあり,そうした〈ヨーロッパ法学〉に匹敵しうるような固有のドイツ法学は存在していなかったのである。

 しかし17世紀に入り,フランスの文化的影響力が高まり,さらにユグノー移住と解放戦争後はオランダの人文主義的な法律学たる典雅法律学や体系的方法といったものが知られるようになると,状況は若干変化を示すようになった。法律家もローマ法大全のごとき〈書かれた理性〉とそうした〈権威的典籍〉に呪縛された思惟様式から解放され,諸々の生きた法制度についての総合的な観察や叙述を試みるようになったのである。〈パンデクテンの現代的慣用〉の時代と総称されているこの時代は,それゆえに,多様な思惟様式と傾向とが錯綜したドイツ法学の真の意味での揺籃期だったといえる。

 こうした新しい思惟様式と傾向に決定的な方向を与えたのは近代自然法論であった。理性法論ともよばれるそうした議論の特徴は,法哲学=国家哲学それ自体が,専門的学問の媒介をへることなく,立法者たちの法理論となり,法律学の精神的課題を代表するようになったことにある。哲学自体が道徳神学から解放されたのと同様に,法律学もユスティニアヌス法典という典籍の権威から永久に解放され,やがて,自然科学的ないし数学的方法に立脚して法体系を構築(概念構成)しようとする新しい法律学が成立した。ドイツにおいては,そうした法律学はいくつかの〈自然法法典〉,たとえばプロイセン一般ラント法を生みだすにいたった。しかし,啓蒙絶対主義のもとでの立法(〈相対的自然法〉)に対する批判は,それまでのドイツ法の発展を担ってきた大学法学部の専門法律家のあいだには根強いものがあり,フランス革命の招来した恐怖政治などに如実に示された無批判的理性法論の哲学的破算とともに,そうした批判は,19世紀前半の歴史法学という形態をとって出現したのである。

 歴史法学は,近代自然法論(理性法論)による法の恣意的定立を強く批判し,法形成の淵源を〈民族の精神〉に求め,法の伝統的有機的発展を説いたことで知られているが,その表面的な言表はともあれ,その実質において方法的には自然法論の体系学を,内容的には普通法論の現代的慣用を継承しつつ,〈現代ローマ法体系〉,すなわち統一ドイツ市民法体系を構想しようとするものであり,資本主義的要求を掲げるドイツの市民階級の法学的世界観に合致するものであった。そしてこれは,パンデクテン法学およびその嫡子たるドイツ民法典(1900)を生み出すにいたったのである。学識法の伝統は,この点で,終始ドイツ近代法史を特徴づけるものとなっていたのである。
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日本とドイツの国家間の関係史に限って言えば,それは1871年(明治4)のドイツ帝国成立から始まる。だが江戸時代,長崎出島のオランダ商館にはすでにドイツ人が勤務しており,彼らと日本人との間に文化交流が生じていた。1635年(寛永12)来日した砲術家ブラウンHans Wolfgang Braunが平戸で臼砲を鋳造し,49年(慶安2)にはカスパルが外科医として江戸に招かれたのは,その初期の例であるが,日本の事情を広くヨーロッパに伝えた人物としてケンペルがいる。彼は1690年(元禄3)オランダ商館医師として来日,2年間の滞在の間に《日本誌》を著した。次いで1822年同じく医師として来たシーボルトは,鳴滝に塾を開き,多くの門人に医学をはじめ西洋の科学技術を伝授して,日本文化に大きな影響を与えた。また彼は,長崎から江戸への参府紀行を記すとともに,弟子たちに日本の歴史,地理,神話,動植物等についての報告書を提出させ,それに基づいて名著《日本》《日本植物誌》《日本動物誌》を世に問うた。53年(嘉永6)アメリカ艦隊の浦賀来航,次いで58年には幕府がアメリカをはじめ5ヵ国と通商条約を結ぶと,プロイセン政府も,日本,清国,シャム(タイ国)との通商を企図して,艦隊を東アジアに派遣することになった。使節団長にはオイレンブルク伯Friedrich Albrecht Graf zu Eulenburg(1815-81)(のちプロイセン内相)が任ぜられ,アルコナ号ほか3隻は59年出航,そのうちの1隻フラウエンロープ号は日本近海で遭難したが,その他の船は翌年9月あいついで江戸沖に到着し,使節団は芝赤羽根(今の東麻布)の接遇所に入った。幕府は外国貿易によってすでに物価の値上りなど経済の混乱が生じたことを理由に,プロイセン側の通商要求を拒否した。オイレンブルクは,プロイセン一国のみならず,関税同盟諸国ほかハンブルクなどハンザ同盟諸都市の名において,日本との条約を提案したので,幕府はそれほど多くの国家との貿易などまったく考えられぬとし,これが原因で応接掛の外国奉行堀織部正が自決するという悲劇まで生じた。当時の日本は攘夷運動が盛んで,通訳のヒュースケンが暗殺されたりしたが,ともかく61年(文久1)1月24日,プロイセン一国のみを相手とした修好通商条約が調印された。この使節団には,外交官のほか地理,動植物学者,画家などが随行しており,一行の帰国後,条約交渉の経過のみならず,遠征記録全般が各部門にわたってまとめられ,《プロイセン東アジア遠征》《日本・中国・タイ国図録》《動物篇》《植物篇》として刊行された。これを機にドイツ語を本格的に学んだ加藤弘之は,のちハイデルベルク大学教授ブルンチュリの国家学を《国法汎論》として訳出し,ドイツの国家制度を初めて日本に紹介することになる。

 明治に入ると,日本には多くのドイツ人が御雇外国人として招かれた。化学のワグネル,医学のベルツ,地理学のE.ナウマン,歴史学のリース,哲学のケーベルなど,それぞれの分野で日本人の教師としての役割を果たした。また日本人青年も明治初年から留学生となってドイツに渡った。青木周蔵(山県有朋内閣外相),品川弥二郎(松方正義内閣内相),平田東助(桂太郎内閣内相),森鷗外など,彼らの中には政府高官・文化人として活躍した者も少なくない。明治維新政府は〈富国強兵〉の名のもとに,近代国家の建設に努めたが,そのモデルとしては,はじめイギリスが考えられたが,明治14年(1881)の政変以後,伊藤博文らの主張するプロイセン・ドイツ型の国家がその模範となった。伊藤は翌年ヨーロッパ各国の憲法制度調査のため渡欧し,主としてベルリン大学のグナイスト,モッセ,ウィーン大学のL.vonシュタインのもとで研究を進め,また1878年から15年間にわたって日本政府の法律顧問として滞在したレースラーの協力もあって,ドイツ帝国に範をとった明治憲法および国家体制が整えられた(法典編纂)。兵制に関しては,1870年には海軍はイギリス式,陸軍はフランス式の方針であった。同年フランス留学を志して出国した桂太郎は,たまたま普仏戦争のためパリ行きが不可能となり,目的地をベルリンに変え同地の陸軍大学でドイツ兵学を学んだ。プロイセン・ドイツがナポレオン3世のフランスを一方的に破ったこともあって,79年帰国した桂は,陸軍の兵制をドイツ型に切り替えていくことになった。85年には,ドイツからメッケルが来日し,陸軍省・参謀本部・教育総監部の3部門制の確立など陸軍制度の方針に大きな影響力を及ぼした。このほかドイツの文化は,文学,教育,学術,美術,音楽などさまざまな面で近代日本に影響を与えた。ドイツ帝国政府と日本との外交関係は,オイレンブルクやその随員でのち日本公使となったブラントMax August Scipio von Brandt(1835-?)が,宰相ビスマルクと親しかったこともあって,初めは良好のうちに推移した。だがビスマルクが引退してウィルヘルム2世の親政の時代になると,96年の三国干渉や〈黄禍論〉などが原因して両国の関係は冷却化し,第1次世界大戦では日本はドイツに宣戦している。その後,ベルサイユ体制の時代に入ると,〈持たざる国〉としての両国の共通性やいわゆる〈ボリシェビズムの脅威〉の影響のもとで,日本とドイツの接近が始まり,ことにナチス・ドイツは軍国主義の日本とともに国際連盟から脱退し,さらに〈防共協定〉を経て軍事同盟(日独伊三国同盟)を結び,枢軸国を形成して第2次世界大戦を起こすに至るのである。
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百科事典マイペディア 「ドイツ」の意味・わかりやすい解説

ドイツ

◎正式名称−ドイツ連邦共和国Bundesrepublik Deutschland/Federal Republic of Germany。◎面積−35万7340km2。◎人口−8022万人(2011)。◎首都−ベルリンBerlin(350万人,2011)。◎住民−ほとんどがドイツ人。◎宗教−プロテスタント,カトリックなど。◎言語−ドイツ語(公用語)。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,ガウクJoachim Gauk(2012年3月就任,任期5年)。◎首相−メルケルAngela Merkel(1954年生れ,2005年11月就任,2009年10月再選,2013年11月三選)。◎憲法−1949年5月制定の基本法。◎国会−二院制。連邦議会(定員598,任期4年),連邦参議院(定員69,各州政府が選出)。2013年9月連邦議会選挙結果,キリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟311,社会民主党193,左翼党64,90年連合・緑の党63など(ただし,調整議席を含め,631議席)。◎GDP−2兆9104億ドル(2008)。◎1人当りGDP−3万5441ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−2.2%(2002)。◎平均寿命−男77.7歳,女82.7歳(2009―2011)。◎乳児死亡率−3.3‰(2012)。◎識字率−100%。    *    *ヨーロッパ中央部に位置する共和国。第2次大戦後ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)に分割されたが,1990年10月西ドイツが東ドイツを吸収する形で再統一された。〔自然・住民〕 地形的に北ドイツ低地,中部山地,南部高原に3区分される。北ドイツ低地はオランダとポーランドの間に広がり,標高約50m。北海,バルト海に面し,小丘をなす洪積世の氷河堆積物におおわれる。中部山地は標高600〜700m。西部にライン山地(アイフェル丘陵,フンスリュック山地,ウェスターワルトなど)があり,南西部のライン地溝帯に沿ってシュワルツワルト,オーデンワルトなどの山地がある。東部はハルツ山脈,チューリンガー・ワルト,エルツ山地。肥沃なロームの土壌におおわれる。南部高原は標高1000m以上。東西にのびるアルプスの前山をなし,氷河湖が多い。最高峰はツークシュピッツェ(2963m)。主要河川はライン川,エルベ川,オーデル川,ウェーザー川,ドナウ川など。気候は西部が海洋性で,東になるほど大陸性が増す。旧西ドイツ地域ではプロテスタントとカトリックがほぼ拮抗するが,旧東ドイツ地域ではプロテスタントが圧倒的に多い。〔歴史〕 きわめて早くケルト人など先住民族を駆逐してヨーロッパに広がったゲルマン人のなかから民族大移動期を経て,次第にドイツ人諸部族が形成された。カール1世のフランク王国が843年3分裂,東フランク王国が成立した時から国家としてのドイツの歴史が始まる。962年オットー1世の戴冠(たいかん)で神聖ローマ帝国が生まれたが,教皇権の介入などで国内統一は難しく,13世紀以降帝権は衰退,選帝侯制度が始まり,封建諸侯の割拠時代に入った。15世紀以後ハプスブルク家が君臨したが,宗教戦争,三十年戦争を経てプロイセンが台頭,ナポレオン時代にはその支配下に置かれ,ウィーン会議の結果,1815年ドイツ連邦が成立した。1848年の三月革命は失敗したが,ビスマルクの登場でプロイセンは強大化し,普墺戦争普仏戦争の結果,プロイセンの指導下に,1871年ドイツ帝国が成立した。第1次大戦に敗北して帝政は崩壊し,1919年ワイマール共和国が成立,1933年ヒトラーのナチス政権が樹立。ナチス・ドイツは世界を巻き込んで第2次大戦の破局へと突き進んだ。〔東西ドイツ時代の政治・経済〕 第2次大戦に敗れた後は米・英・仏・ソの4国が占領,分割統治を行った。1949年西方3国の占領地区にはドイツ連邦共和国(西ドイツ),ソ連占領地区にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が樹立された。以後米ソ対立の中でベルリン問題などが,しばしば国際政治の争点となり,1955年に西ドイツは北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。1969年に成立したブラント社民党首班政権の下では,東ドイツやソ連などとの関係改善をはかる東方外交が展開され,1972年に東西ドイツの国交を樹立する基本条約が結ばれた。翌1973年両国は国連に加盟。西ドイツでは第2次大戦の戦禍から1950年代にめざましく復興,10年間に工業生産は2倍を超える伸びを示した。EC(現EU)には発足時から加盟,通貨統合(ヨーロッパ通貨統合)などをリードした。1960年代に大幅な貿易黒字国となったが,労働力不足に悩み,外国からの労働者が増大し,政府間協定で導入された外国人労働者(ガストアルバイター)は70年代前半には260万人に及び,定住化する者も多く,その後の移民や難民も加えて,今日まで大きな政治問題・社会問題の原因となっている。1970年代,2回にわたる石油危機で大きく揺れた西側先進諸国の中で,インフレ抑制とマルクの安定,自動車産業の育成等々に成功し,西ドイツ経済の強さを示した。他方,東ドイツでは第2次大戦中の破壊と戦後の分裂による工業面での打撃が西ドイツよりも大きかった。戦後いちはやく土地改革,重要工業部門の国有化を断行,社会主義経済の建設にふみ出し,数次の5ヵ年,7ヵ年計画を経て,チェコと並ぶ東欧圏での先進工業国となった。しかし,その後は社会主義経済の弊害で停滞が長く続き,1990年の統一時点で東西の経済力には格段の差が生じていた。1989年に東欧各国で起きた民主化運動(東欧革命)および米ソ冷戦の終焉で,東西ドイツ統一の気運がいっきょに盛りあがり,1990年10月3日統一が実現した。1999年のユーロ圏始動に向けて,前年ヨーロッパ中央銀行がフランクフルトに設立された。〔ドイツ統一後の政治〕 ドイツ連邦共和国基本法に基づく連邦共和国で,13州(ラント)と3市(ベルリン,ハンブルク,ブレーメンで州と同格)からなる。1990年の東西統一は基本法23条に基づき,西ドイツが東ドイツを併合するかたちをとった。元首は大統領で,連邦議会議員と州議会で選ばれた同数の代表からなる連邦集会で選出される。権限は形式的・儀礼的なものに限られている。国会は連邦議会(任期4年,小選挙区制と比例代表制の組合せで選出)と連邦参議院(州政府の任命)からなる二院制だが,実質は連邦議会の一院制。政党としては,保守のキリスト教民主同盟(CDU)(バイエルン州ではキリスト教社会同盟(CSU)),ドイツ社会民主党(SPD),中道の自由民主党(FDP)が西ドイツ時代からの主要勢力であるが,東ドイツ時代のドイツ社会主義統一党から衣替えした民主社会党(PDS),1980年代以降国政レベルに進出した〈緑の党〉,他方では外国人労働者排斥などを訴えるドイツ共和党(1983年結成)のような極右勢力も台頭している。1982年10月に就任し,保守・中道(キリスト教民主同盟・キリスト社会同盟と自由民主党)の連立内閣を率いるコール首相は,1998年9月まで西ドイツ初代首相アデナウアーの14年を超える20世紀最長の政権を担当した。コールは同年の選挙で野党に敗れ,ドイツ社会民主党(SPD)のシュレーダーに政権を渡し,同党は90年連合(同盟90とも呼ばれる)・緑の党と中道左派連立政権を組んだ。シュレーダー政権は大胆な規制緩和と経済改革に取り組み,2000年代後半にドイツが危機に陥ったEU経済を支える基礎を作ったと評価されている。〔メルケル時代の政治・外交・経済〕 2005年9月の総選挙では与野党が伯仲,シュレーダー政権が退陣し,キリスト教民主同盟党首メルケルが首相に就き(ドイツ初の女性首相),〈大連立〉政権となった。2006年サッカー・ワールドカップ大会を開催。2008年米国金融危機に端を発する金融危機と世界同時不況でEUユーロ圏内でももっとも大きな打撃を被り失業率も増大した。メルケル政権は金融機関への資本注入・不良債権買取りにくわえ,総額500億ユーロの総合経済対策を発表,不況対策を強化した。2009年の総選挙ではキリスト教民主同盟(CDU),ドイツ社会民主党(SPD)ともに票を減らしたがキリスト教民主同盟(CDU)は第1党を確保,これまでの大連立を解消して,あらたに自由民主党(FDP)との中道右派連立内閣を発足させた。2010年1月に表面化したギリシア財政破綻とユーロ圏経済の危機に際しても,最大の経済力を持つドイツを中心に,2010年5月,EUはギリシア支援を打ち出し,6月,7500億ユーロ(1230億ユーロはドイツ負担)の支援策を発表した。しかしギリシアに続きアイルランド,ポルトガル,スペイン,イタリア,さらに2012年にはキプロスとユーロ危機ソブリンリスク,欧州債務問題はその後も深刻化し,EUの金融能力を支えるドイツの役割はきわめて重大となった。メルケル政権は2009年にドイツの伝統的な原子力発電撤廃から転換し,脱原発政策の見直しを進めたが,2011年3月の福島第一原発の大事故を受け,大規模な反原発デモが起こり,方針の再転換を表明,脱原発依存に大きく舵を切った。その後の州議会選挙ではキリスト教民主同盟(CDU)は得票・議席数を共に減らし,緑の党が躍進してドイツ社会民主党(SPD)の支持も回復しつつあった。しかし,メルケル首相のユーロ危機・欧州債務問題に関するリーダーシップに対する国民の支持は高く,2013年9月の連邦議会選挙でメルケル首相率いるキリスト教民主同盟(CDU)が巻き返せるかどうか注目されたが,得票率を伸ばしたものの単独過半数には及ばず,連立政権パートナーの自由民主党(FDP)は議席獲得に必要な5%条項をクリアできなかったため1949年の連邦議会選挙以来,初めて議席を失う結果となった。メルケルはキリスト教民主同盟(CDU)とドイツ社会民主党(SPD)との連立協議に入り,大連立を組むことに成功,12月17日ドイツ連邦議会で第3次メルケル政権が発足した。国際問題では,2014年3月に発生したウクライナ危機に際して,ドイツは,米国と協調しながらフランスなど対ロシア関係で微妙に立場の異なるEU諸国をまとめ,ロシアに圧力をかけるという,経済危機とは局面を異にする外交的・軍事的課題でもリーダーシップを発揮している。→ウクライナ問題
→関連項目ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック(1936年)クヴェートリンブルクの聖堂参事会教会,城と旧市街ベルリンオリンピック(1936年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドイツ」の意味・わかりやすい解説

ドイツ
Deutschland

正式名称 ドイツ連邦共和国 Bundesrepublik Deutschland; BRD。英語では Germany。
面積 35万7582km2
人口 8320万(2021推計)。
首都 ベルリン

ヨーロッパ中部を占める共和国。アルプスの北縁から北海バルト海の間に広がり,北はユラン半島でデンマークと,東はポーランドおよびチェコと,南はオーストリアおよびスイスと,西はフランス,ルクセンブルク,ベルギー,オランダと国境を接する。1949年,ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)とに分離したが,1990年10月3日,東ドイツが西ドイツに編入され,統一国家となった(→ドイツ統一問題)。ヨーロッパ連合 EUの原加盟国。16の連邦州からなる。各州には州政府があり,教育,財政,法律などに関して大幅な自治権が認められている。住民の約 1割は非ドイツ系で,1950年代半ば以降,トルコ人労働者とその家族が多数移住。宗教はキリスト教が大多数で,ルター派とカトリックがほぼ同数。国土は北部,中部,南部に分けられ,北ドイツは,フランス南西部からベネルックス諸国を経てポーランドにいたる北ドイツ低地からなる。ゆるやかな起伏の氷河堆積物の丘や砂質の低地が広がり,全体に低平で,ライン川エムス川,ウェーザー川,エルベ川などの諸河川の下流部が流れる。中部ドイツは,ベルギー国境のアイフェル高地にはじまり,タウヌス山地ザウアーラント,ジーガーラント,トイトブルガーワルト,チューリンガーワルトエルツ山地などに続く中位山地とその間の盆地が主要部をなす。中位山地は概して起伏が小さく,小さな山塊に分かれているので,早くから居住が行なわれ,鉱工業の発達がみられた。しかし,産業革命期以降の工業は,中位山地の周辺部に多く立地した。南ドイツは,ほぼマイン川水系より南方をいい,スイスから連なるジュラ山脈の一部がシュウェービッシェアルプ,フレンキッシェアルプの山地となって中央部を東西に走り,ドナウ川水系との分水界をなしている。ドナウ川以南は,アルプスから運ばれた氷河堆積物からなるゆるやかな起伏の台地で,南端部でアルプスに急変する。気候は概して南のほうが厳しい。北海沿岸からライン川に沿ってボン付近までは比較的温暖であるが,南東に向かうにつれて大陸性気候となる。降水量は 500~1000mmで,年間を通じて平均した降水をみる。ライン川,マイン川,ネッカー川モーゼル川などの河谷は,比較的温暖なため,古くからのブドウ栽培地で,ワインの生産が盛ん。そのほか各種の園芸農業もみられる。農業は伝統的有畜農業が広く行なわれているが,北ドイツ低地と南ドイツのアルプス周辺では酪農,牧畜が中心となり,中部ドイツから南ドイツにいたる肥沃な黄土地帯では,主としてムギ類,サトウダイコン,ジャガイモなどが生産される。EU域内での競争力を高めるため,経営の合理化,大規模機械化が進む。石炭,カリ塩,岩塩,鉄鉱石など地下資源も豊富。世界有数の工業国であり,ザールラント,ルール地方の重工業のほかに,ウォルフスブルクシュツットガルトの自動車工業,ライン川沿岸の石油化学工業,ベルリンや南西ドイツの電気機器工業に特色がある。北大西洋条約機構 NATO加盟国。(→ドイツ史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ドイツ」の解説

ドイツ
Deutschland[ドイツ],Germany[英]

ヴェルダン条約ないしメルセン条約によってカール大帝の領土が3分され,東フランク王国が生まれたときから国家としてのドイツが始まる。その後カロリング朝は断絶し,有力な諸侯のなかから王を定める制度が始まった。オットー1世は再びローマ教皇から帝冠を受け,神聖ローマ帝国が始まり,1806年まで続いた。13世紀以来帝権は衰え,統一国家の実は失われたが,他方東方植民によりドイツ人の居住地は東に広がり,また都市が発達してハンザ同盟などができた。宗教改革以後国内はカトリック,プロテスタント両派に分裂して内戦が行われ,ことに三十年戦争によって国土は荒廃し,諸侯の領地は領邦国家として事実上独立国となった。そしてオーストリアプロイセンがドイツの2大国として対立するに至った。フランス革命時代にドイツ諸君主は同盟してフランス軍と戦ったが敗れ,ライン左岸はフランス領となった。ナポレオン時代はたびたびこれと戦って敗れ,その支配下に全面的な領土の改変が行われた。ウィーン会議ドイツ連邦が形成され,オーストリアのメッテルニヒがこれを保守的に指導した。これに対して自由と統一を求める運動が起こり,1848年の革命(三月革命)となったが失敗した。やがてプロイセンにビスマルクが出るにおよんでプロイセン‐オーストリア戦争プロイセン‐フランス戦争によりドイツ帝国が成立した。第一次世界大戦の敗戦によってヴァイマル共和国が成立し,ついでナチスが政権をとり,第二次世界大戦に敗北した。戦後ドイツは米英ソ仏の4国に分割統治されたが,1949年西側3国の占領地区にドイツ連邦共和国,東のソ連地区にドイツ民主共和国ができた。89年東ドイツに民主化革命が起こり,90年10月東西ドイツが再統一されて現在のドイツ連邦共和国となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ドイツ」の解説

ドイツ
Duitch (オランダ)
Deutschland (ドイツ)
Germany (イギリス)

ヨーロッパのほぼ中央部を占める地域。第二次世界大戦後の1949年,国土が東西に2分され,東にドイツ民主共和国(東ドイツ),西にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立。1990年に統一してドイツ連邦共和国となる
起源は5世紀に建設されたフランク王国が,カール1世の死後,ヴェルダン条約(843)・メルセン条約(870)によって3分割されて成立した東フランク王国に始まる。カロリング朝の断絶(911)後,ザクセン朝のハインリヒ1世が即位してドイツ全土を統一した。その子オットー1世は,962年ローマ教皇から西ローマ帝国皇帝の冠を受け,ドイツ・イタリアを合わせた神聖ローマ帝国が生まれた。しかし,皇帝と教皇との利害が一致せず,叙任権闘争が起こった。この争いは1122年のヴォルムス協約で終わったが,このころから十字軍の遠征と並行して東方植民が行われ,ドイツ騎士団領が成立して,のちのプロイセン王国の起源となった。シュタウフェン家の断絶後,大空位時代(1256〜73)が始まり,カール4世の金印勅書(1356)で選挙王政が実現したが,皇帝の権力は弱まり,諸侯が領邦国家をつくった。他方,北ドイツの自由都市はハンザ同盟を組織し,東欧や地中海まで交易に進出して栄えた。1517年,ルターが贖宥状の販売を九十五か条の論題で論難すると,その波紋は全ドイツに広まり,ヨーロッパの宗教改革の幕あけとなった。1555年,アウグスブルクの宗教和議で諸侯や自由都市に信仰の自由を認めたが,その後も新旧両派の対立はやまず,1618年三十年戦争となった。1648年ウェストファリア条約が結ばれ,戦争は終結したが,アルザス地方のフランスへの割譲や国土の荒廃などにより,ドイツの後進性は決定的となった。18世紀には,オーストリアとプロイセンがオーストリア継承戦争・北方戦争でドイツにおける覇権を争った。1806年ナポレオン1世を保護者とするライン同盟が成立し,神聖ローマ帝国は消滅したが,解放戦争でナポレオンは敗れ,1814〜15年のウィーン会議でドイツ連邦が成立,オーストリアのメッテルニヒが主導権を握って反動政策を行った。これに対し,1848年,フランスの二月革命の影響を受けて三月革命が起こったが失敗。1866年の普墺 (ふおう) 戦争ではオーストリアが敗れてドイツ連邦が解体し,翌年,プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦と,オーストリア−ハンガリー帝国が成立した。普仏 (ふふつ) 戦争ののち,1871年,プロイセンのビスマルクはヴィルヘルム1世をドイツ帝国の皇帝に即位させ,また巧みな外交政策でドイツの国際的地位を高めた。ヴィルヘルム2世は帝国主義政策をとり,ついに第一次世界大戦を招いたが敗れ,1919年,ヴァイマル共和国が成立した。しかし,1930年代初期の世界恐慌による社会不安に乗じてヒトラーの率いるナチスが台頭し,第三帝国を成立させて侵略政治を展開した。これが原因となって第二次世界大戦となったが,ドイツは敗れ,戦後の1949年,東ドイツにドイツ民主共和国,西ドイツにドイツ連邦共和国が成立してドイツは東西に分裂した。東欧の民主化と東西対立の解消により,1990年統一が実現。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ドイツ」の解説

ドイツ

ヨーロッパ中央部に位置する国。漢字表記は独逸・独乙。1871年プロイセンを中心としたドイツ帝国が成立。それ以前の日本との関係では,オランダ商館医師として来日したケンペル(1690年来日)やシーボルト(1823年来日)が有名。明治新政府はプロイセン・ドイツを近代国家建設のモデルとして憲法や陸軍軍制を制定。地方自治制度のモッセや憲法・商法のレースラーらが御雇外国人として活躍。哲学・文学・医学・音楽・政治学などドイツ文化の及ぼした影響は大きい。外交的には日清戦争中のドイツ皇帝ウィルヘルム2世の黄禍(こうか)論や,日清戦争後の三国干渉などで対立,第1次大戦では日本はドイツに宣戦した。敗戦後ドイツにはワイマール共和国が誕生。昭和期に入ると,ナチスのヒトラーが政権を握り,1936年(昭和11)日独防共協定,40年日独伊三国同盟を締結。枢軸国として第2次大戦を戦い,ともに敗戦国となった。戦後ドイツは西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ(ドイツ民主共和国)とに分断されたが,西ドイツは同じ敗戦国の日本と同様めざましい経済発展をとげた。89年ベルリンの壁が崩され,90年統一ドイツが成立した。正式国名はドイツ連邦共和国。首都ベルリン。

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世界大百科事典(旧版)内のドイツの言及

【フォルク】より

…ドイツ語で民族,国民,民衆,人民を意味する言葉。18世紀以来のドイツの歴史的変遷のなかで,政治陣営や思想家によってさまざまに使い分けられてきた。…

※「ドイツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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