ドナウ川(読み)ドナウガワ(英語表記)Donau

翻訳|Donau

デジタル大辞泉 「ドナウ川」の意味・読み・例文・類語

ドナウ‐がわ〔‐がは〕【ドナウ川】

Donau》ドイツ南部の山地に源を発し、バイエルン地方を横断してウィーンブダペストベオグラードなどを経てルーマニアとブルガリアとの国境を流れ、黒海に注ぐ国際河川。全長2850キロ。水運が発達し、北海方面へもライン水系のマイン川と運河で連絡する。ダニューブ川

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ドナウ川」の意味・読み・例文・類語

ドナウ‐がわ‥がは【ドナウ川】

  1. ( Donau ) ヨーロッパの東南部を流れる川。ヨーロッパ第二の大河。ドイツ南西部のシュワルツワルトを水源とし、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ルーマニア、ブルガリアを流れて黒海に注ぐ。ヨーロッパ内陸交通の大動脈で、沿岸にはウィーン、ブダペスト、ベオグラードなどの都市がある。全長二八六〇キロメートル。英語名ダニューブ(Danube)。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ドナウ川」の意味・わかりやすい解説

ドナウ[川]
Donau[ドイツ]

ドイツ南西部のシュワルツワルトに源を発し,中部ヨーロッパ,東ヨーロッパ南部を貫流し,黒海に注ぐ河川。ボルガ川に次ぐヨーロッパ第2の長流で約2860km,流域面積は81万7000km2。本流はドイツ,オーストリア,スロバキア,ハンガリー,ユーゴスラビア,ブルガリア,ルーマニア,ウクライナの8ヵ国を流れ,流域は11ヵ国に及ぶ。英語ではダニューブDanube川というが,各地ではそれぞれドゥナイDunaj(スロバキア語),ドゥナDuna(ハンガリー語),ドゥナフDunav(セルビア・クロアチア語,ブルガリア語),ドゥナリヤDunǎrea(ルーマニア語),ドゥナイDunai(ウクライナ語)と呼んでいる。

 ドナウ川本流はシュワルツワルトの標高1000m付近に発するが,ドナウという名称は源流部の一つブリガハ川が小都市ドナウエッシンゲンの城にある〈ドナウの泉〉の水を合わせた後(標高680m),初めて用いられる。ドナウ川はシュウェービッシェ・アルプ南西端においてジュラ紀石灰岩地域を峡谷をなして流れた後,アルプス前地北縁を北東流してレーゲンスブルクを過ぎ,ボヘミア山地(ボヘミアの森)縁辺を南東から東の方向に流向を変えつつパッサウ,リンツを経てウィーン盆地に入る。ジュラ紀石灰岩地域では水の浸透が激しく,大半はライン水系・ボーデン湖に地下排水され,渇水期には河床が干上がることがある。これより下流ではアルプスに源を持つ支流が流入し,ドイツ領内でレヒ川,イーザル川イン川など,オーストリア領内でエンス川,トラウン川,ザルツァハ川など,いずれもドイツ中山山地からの支流に比べて流量が豊富である。アルプスからの支流の流量は夏に最大,冬に最小となる。一方,ドイツ中山山地からの支流の場合には,冬と秋がそれぞれ豊水期,渇水期となり,その結果,ドナウ川はこの付近では年間を通じて比較的変動の少ない流量を保つことができる。以上のシュワルツワルトからウィーン盆地下流端(スロバキアのブラティスラバ)までの1040kmは上流部として扱われることが多い。この流程における高度差は987m,流域面積は13万1170km2である。河床高度はウルムで470m,レーゲンスブルクで340m,ウィーンで171mであり,100トン級の船が航行するウルムより下流はすでに平野の河川とみなされる(レーゲンスブルクからは1000トン級の船舶が航行)。

 ブラティスラバの位置する,アルプスと北西部カルパチ山脈を分断する峡谷から,ハンガリー平原を経てトランシルバニア地方の西カルパチ山脈の狭隘部までが中流部である。この流程810kmにおける高度差はわずか70mで,河口から約1800km上流のブダペストの標高は100m,ユーゴスラビアの首都ベオグラードのそれは75mにすぎない。ドナウ川はハンガリー小平原では三つに分流し,中央の本流がスロバキア・ハンガリー国境となっている。ハンガリー大平原に入って南流し,ハンガリー・ユーゴスラビア国境を通過して南東方向に向きを変える。中流部ではアルプスからのドラバ川,ディナル・アルプスからのサバ川,そしてカルパチ山脈からのティサ川など大きな支流が合流する。西カルパチ山脈とスターラ・プラニナ山脈の間の峡谷部は,ルーマニア・ユーゴスラビア国境をなし,平野から山岳地域の景観へと変化する。ハンガリー大平原における1~2kmの川幅が,この130kmの峡谷部では100~150mにまで狭まる個所があり,〈鉄門〉と呼ばれる観光名所となっている。流速も平野部の0.3~1.1m/秒から2.2~4.7m/秒と速くなり,水深は最大54mにも達する。この鉄門付近に1971年にルーマニア・ユーゴスラビア両国共同のダムが完成し(長さ550mのダムにより33mの水面上昇があり,鉄門はかつての迫力ある峡谷美を失った),ヨーロッパ最大の水力発電所が設置された。

 峡谷を通過したドナウ川は下流部に入り,ワラキア平野ではブルガリア・ルーマニア国境を,最下流部のデルタ地帯ではウクライナ・ルーマニア国境を成しつつ黒海に注ぐ。ドナウ川の右岸側は高さ100m前後の急斜面を介して丘陵地となっているが,左岸側は湖沼を含む低湿地で,河道変遷が激しく,1970年には大洪水が生じた。黒海に流入して成長を続けるデルタ地帯では,大きく三つに分流し,多くの鳥趾状パターンを形成している。一面アシにおおわれる低湿なデルタは年間1億8000万tにも達する運搬土砂によって形成されており,このため砂州や砂堆の発達が著しく,改修以前は船舶の航行に障害となっていた。

 ドナウ川の年平均流量はアルプス前地のイン川合流前で630m3/秒,合流後1420m3/秒,ウィーン1875m3/秒,ブダペスト2400m3/秒,ベオグラード3750m3/秒,そして河口では6300m3/秒と増加する。3月に融雪水を集めるドイツ中山山地からの支流と6~7月に増水するアルプス諸支流によってハンガリー小平原までの年間流量は比較的安定する。しかし,ハンガリー大平原では夏の乾燥が激しく,流量のピークは4月と7~8月に現れる。ティサ川,サバ川など大支流合流後のドナウ川は3~5月にピークが出現するものの,年間を通じて豊富な流量を維持することができ,内陸運河としての条件を備えている。ルーマニア第1の貿易港で黒海に臨むコンスタンツァから,西に延びてドナウ川に至る運河が1984年開通した。またチェコ東部で支流のモラバ川とバルト海へ注ぐオーデル川を結ぶドナウ・オーデル運河が計画され,ドイツ南部でマイン川を介してライン川と結ぶライン・マイン・ドナウ運河は92年に完成した。
執筆者:

ドナウ川は,歴史上たえず軍事的国境線と平和的,経済的交易の二つの役割を果たしてきており,同時に東方と西方の文化を結びつける役割をも担ってきた。すでに紀元前7世紀にギリシア人がドナウ河口付近まで開拓し,黒海沿岸の植民市イストロスIstrosにちなんで,この川をイストロスと名づけた。

 紀元前10~前6世紀にドナウ上流域に,ヨーロッパ初期鉄器時代を代表するハルシュタット文化が栄えるが,その後期を担ったケルト人は,ドナウを東漸し,下流域のトラキア人の居住地を席巻した。ケルト人の居住跡はドナウ川上流から黒海沿岸まで幅広く分布しており,古代におけるドナウ水運の広がりを物語っている。

 ローマ時代,この川はダヌウィウスDanuviusと呼ばれ,北,東からローマ領内に侵入してくる〈バルバロイ(蛮族)〉に対するローマの防衛線であった。川にはローマの小艦隊が航行し,沿岸には防備施設が置かれた。紀元前1世紀にはドナウ川上・中流域の南側は,アルプスを越えて北上してきたローマ軍に征服され,ラエティア,ノリクム,パンノニアの3属州に編成された。現在ウィーンの東約40kmにあるローマの遺跡カルヌントゥムは3属州に対するローマの統治基地であり,ウィーンもウィンドボナと呼ばれるローマ軍団の駐屯地であった。西暦90年ころには,ライン,ドナウ両川間でリメス(長城)の建設がはじまり,カルヌントゥム以西でドナウ川に沿って長城が築かれ,国境の防備は堅固になった。だが一方で古くからの諸民族との平和的な交渉・往来は絶えることがなかった。ローマの商人は国境を越えてゲルマニアで交易を営み,ゲルマン人も交易のためにローマ領内に入った。ゲルマン人はローマ属州より,ブドウ酒,食器,ガラス製品,石臼などを輸入し,その見返りにコハク,毛皮,奴隷などを輸出していた。

 4世紀後半,西ゴート族が帝国の同盟者としてドナウ川を渡り,いわゆる民族大移動の発端をつくった。西ゴート族がイタリア方面に去った後,フン族が,さらには東ゴート族がこの川を渡ってローマに侵入,略奪を繰り返した。5世紀末にはスラブ人がドナウ国境に姿を見せ,6世紀初めからドナウ川を越えてローマ領に侵入しはじめた。

 東方の遊牧民のアバール人は573年ごろドナウ川を渡り,582年には国境線上の最重要都市シルミウムを落とし,次いで近くのシンキドゥスム(現,ベオグラード)以下の町を破壊した。この結果,ドナウ国境は放棄され,アバールとともに多数のスラブ人がバルカン半島になだれ込んできた。中流域のスラブ人は強力なアバール人の前に屈し,服従したが,8世紀にフランク王国の力を借りて独立し,大モラビア帝国を建国した。しかし彼らはやがてビザンティン帝国,ブルガリア王国周辺を席巻しつつ,西進した遊牧民のマジャール人に滅ぼされた。

 一方,ドナウ川上流域では,フランク王国がドナウ・アルプス地域にマルク(辺境)を設置し,オストマルク(東辺境領)とした。このオストマルクから,のちに中欧の覇権を握るオーストリアが誕生した。

 11世紀,ドナウ川は第1回から第3回十字軍遠征の通路となり,兵士や軍需物資を運ぶ船団がこの川を下った。第3回十字軍遠征に参加したイギリス王リチャード1世が,帰国途中オーストリアで捕らえられ,幽閉されたデュルンシュタインの城砦はウィーン西方8kmのドナウ川沿いにある。

 13世紀から15世紀にかけて海洋国家ベネチアが栄え,バルカン半島でオスマン・トルコ帝国が支配権を得ると,東西交易の中心は地中海に移り,ドナウ川を利用した交易は活力を失ってしまう。1526年,オーストリア,ハンガリー,ボヘミアの連合軍がドナウ河畔のモハーチの戦で決定的な打撃を蒙った。その結果ハンガリーの領土はオスマン帝国のスルタン直属の中部ハンガリー,間接支配のトランシルバニア公国,ハプスブルク朝の影響力の強い西部ハンガリーに三分され,ドナウ川はオスマン帝国の北境となり,中欧に進出したオスマン・トルコにとってドナウ川は対ヨーロッパ戦略の軸となった。だが1683年にオーストリア軍が対トルコ戦に勝利すると,逆にそれ以来,ドナウ川はオーストリアのバルカン戦略の軸となるのだが,いずれにせよ,オスマン帝国の長いバルカン支配によって上流のレーゲンスブルクから,ドナウ川中・下流域の諸都市を経由してビザンティン帝国領へと延びていた交通路はとだえ,ドナウ川の国際性は失われた。

 17世紀末にオスマン帝国を破り(オーストリア・トルコ戦争),ドナウ川流域の主要部分を治めたオーストリアは,ドナウ川航行に対する管理体制を確立することに努めた。マリア・テレジアは独自の航行省をつくり,息子のヨーゼフ2世は,河川規制措置を提案し,河川整備工事を推し進めた。

 19世紀に入り,イギリス産業革命の波が中欧にも押し寄せ,水運が見直されるに及んでドナウ川も新しい時代を迎えた。まず1829年,ロシアとトルコとの戦争を終結させたアドリアノープル条約で,ドナウ川は交易,航行が自由になった。同年,〈第一ドナウ蒸気船航行会社〉がウィーンで設立され,ウィーンからブダペストまで蒸気船〈フランツ1世〉号が初めて運航されることになった。だがドナウ川の船舶交通が大規模に拡大されたのは,19世紀後半の河川整備工事およびドナウ川の国際河川化以降であった。

ドナウ川は,西欧と黒海を結ぶ重要な航路であるが,民族国家が諸地域に形成されると,河川の使用,管理,統治をめぐって国家間の争いが絶えず繰り返されることになる。19世紀半ば以降,国際法的見地から航行権を保障する動きが現れてくる。

 1856年,クリミア戦争終結後のパリ平和会議で,ドナウの自由航行権をめぐる問題が一定の解決をみた。すなわちこの会議で,暫定的に法制化を図るために〈ヨーロッパ・ドナウ委員会〉が設置され,すべての非沿岸諸国にも河口から三角州地帯のイサチェヤまでの貿易船の自由航行が確定されたのである。この委員会の本部はガラツィに置かれ,関係8ヵ国で構成されたが,のちにルーマニアの合意のもとで,自由航行できる範囲が78年以降はガラツィまで,83年にはブライラまで延長された。

 第1次世界大戦後締結されたベルサイユ条約で,1921年,ドナウ川沿岸諸国とヨーロッパ・ドナウ委員会に属するイギリス,フランス,イタリアの非沿岸諸国で〈国際ドナウ委員会〉が設立された。この委員会は,ブライラから,航行可能の最終地点ウルムまでの自由航行の保障と,河川の管理や改修計画の作成をその任務とした。しかしながら両大戦間期にしばしば発生した国際紛争や世界的な経済不況のあおりを受けて委員会は十分機能を果たしえず,改修工事計画も進まなかった。第2次世界大戦中のドイツの中・東欧支配の強化のなかで,この委員会はヨーロッパ・ドナウ委員会とともに,40年に解散させられており,ドナウ川全体の管理権はドイツにゆだねられた。

 第2次世界大戦後,ドナウ川の法的地位が東西両陣営の間で争われることになった。48年7月にベオグラードで,ドナウ川航行に関する条約締結のための会議が開かれ,ソ連とドナウ川沿岸諸国の代表によって協定が結ばれた(ベオグラード協定)。この協定で1921年の協定が破棄されることになったが,イギリス,フランス,アメリカはベオグラード協定の無拘束性を主張した。この協定に署名したソ連とドナウ川沿岸諸国の代表によってドナウ委員会が設立され,ドナウ川の自由航行権と沿岸諸国の船舶の武装権を保障している。ドナウ委員会の本部はルーマニアのガラツィに置かれ,1960年にはオーストリアが,63年には西ドイツがこの委員会に加わった。ドナウ委員会は,航行状況,通航の原則,河川監視に関する法規についての権限をもっており,その権限はウルムから黒海までの航行可能な部分にまでのびている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドナウ川」の意味・わかりやすい解説

ドナウ川
どなうがわ
Donau

ボルガ川に次ぐヨーロッパ第二の大河。ドナウはドイツ語で、英語ではダニューブDanube、ハンガリー語ではドゥナDuna、ルーマニア語ではドゥーナリアDunǎrea、ブルガリア語ではドゥーナブDunavという。ドイツ南西部に発し、中部ヨーロッパ、東ヨーロッパを東西に流れて黒海に注ぐ国際河川である。全長約2860キロメートル、流域面積81万7000平方キロメートル。流域幅は平均280キロメートルである。水源はドイツ、バーデン地方のシュワルツワルト山地で、ブレゲBrege川とブリガッハBrigach川との合流点以下をドナウ川という。流路は南ドイツ、オーストリア北部、スロバキア・ハンガリー国境を東進し、ブダペスト北方約35キロメートルから南折してハンガリー中央部を流れ、クロアチアとセルビアの国境を南進したのちふたたび東に転じ、ベオグラード付近を東流してブルガリアとルーマニアの国境を流れる。下流部ではワラキア平野を北上して、ルーマニアとモルドバ共和国との国境を南流するプルート川と合流し、ルーマニアとウクライナの境を東進して黒海に注ぐ。支流の数は3000に近く、ウィーン、ブダペスト、ベオグラードと、3国の首都を貫流する。

[三井嘉都夫]

流量・溶流物質・デルタ

アルプスの褶曲(しゅうきょく)山地を2か所で横断し、アルプスとカルパティア山脈、トランシルバニア・アルプスとバルカン山脈を分かつが、ウィーン付近より下流は平野部を流れ勾配(こうばい)が緩く、勾配の大きい山間河川としての流程は短い。ドナウ川の平均流量は季節による変動が小さく、ウィーンや下流部のルーマニアのブライラにおける河況係数(最大流量と最小流量との比)は前者が4.0以下、後者が30.0内外であることからもわかるように流量はきわめて安定している。全流域の年降水量の平均は約750ミリメートル、流出率は32.5%、毎年供給される溶流物質量は2億2500万トン、浮泥量は5000万トンである。これらの物質は主として河口付近に堆積(たいせき)するため、デルタ(三角州)の先端を毎年約40メートルずつ前進させている。このため河口から上流300キロメートル付近(ルーマニアのカララシCǎlǎrasi)まではデルタ状を呈し、河道は網目状に分流する。とくに黒海へ注ぐ数十キロメートル手前では、扇形に開く三つの支流は、北からキリアChilia、スリナSulina、スフィントゥ・ゲオルゲSfǐntu Gheorghe(聖ジョージ)の3分流で、川幅は100~130メートル前後である。キリア分流はドナウ川の本流とされ、現在ルーマニアとウクライナとの国境になっている。このデルタ地帯には無数の湖(バルタBaltaとよばれる)があり、水路で結ばれている。丈の高いアシの類が茂る水路を小舟で行くと、スイレンの花の陰から鮮やかな水鳥が飛び立って旅行者を楽しませる。デルタ地帯に住む鳥は300種を超えるといわれている。1991年にこのドナウ・デルタはユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された。デルタ探索の拠点は、扇の要(かなめ)のあたりにあるルーマニアのトゥルツェアTulceaである。

[三井嘉都夫]

航行

デルタの発達が著しく、下流部の水深が最深部でも5~10メートルと浅く、しかも河床の変化、流路の変転が著しいので、喫水の深い船は河口から160キロメートル上流のブライラまでしか達しない。ブライラとその下流のガラチは、ルーマニアの重要な小麦輸出港になっている。南ドイツでは支流アルトミュール川を経てドナウ川はライン川支流マイン川と連絡する(ライン・マイン・ドナウ運河)。もともとマイン川とドナウ川は19世紀にバイエルン王のルートウィヒ1世のもとで運河が実現したが(ルートウィヒ運河)、大戦を経て使用されなくなった。その後、新しい運河が建設され、1992年にアルトミュール川沿いのケールハイムとマイン川がつながり、ライン川の合流地点マインツへと水路が通ったのである。この運河によって黒海と北海がつながれた。

 おもな航行難所は流路変化の激しいデルタ地帯と、トランシルバニア・アルプスとバルカン山脈を分かつ谷間にあたる鉄門Iron Gate付近の峡谷である。鉄門は1896年に新オルソバ島の南側に新水路が設けられ、航行がたやすくなった。ウィーンとリンツの間も、鉄門付近ほどではないが峡谷状を呈し、一つの難所になっている。これらの峡谷風景はいずれも世界的景勝地として名高い。下流部デルタ地帯の航行困難は運河建設による解決が早くから計画されてきた。1984年ルーマニア領でドナウ・黒海運河(全長64.2キロメートル)が開通し、ドナウ川岸のチェルナボーダと黒海沿岸のコンスタンツァが結ばれて大幅に短縮された。

[三井嘉都夫]

国際河川としてのドナウ川

ドナウ川の水は灌漑(かんがい)や発電に用いられることはもちろんであるが、国際河川として東ヨーロッパの文化や交易のうえで重要な役割を果たしてきた。通過国はドイツ、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ウクライナの8か国に及び、その数の多さは世界随一である。そのため、古くから航行権をめぐって流域諸国間に重大な関心と紛糾をもたらしてきた(後述〔歴史〕参照)。その反面、通過国数の多いことが大規模な人為的改変を防いできたともいえる。これは、一国内のみを流れる内陸河川としては世界最大であるロシアのボルガ川と比べた場合、ボルガ川が運河や水門、貯水池の連続で人為的改変が高度に進んでいるという点で、両者は著しく趣(おもむき)を異にしているといえよう。

[三井嘉都夫]

歴史

古代ギリシアのヘシオドスヘロドトスの書物には、すでにドナウ川下流域についての記述がみられる。ローマ時代、アウグストゥス帝(在位紀元前27~紀元後14)は帝国版図の北限をドナウ川沿いにまで拡大した。以後数世紀の間、概してドナウ川がローマ帝国と異民族との境界線となった。その結果、川沿いに要塞(ようさい)が築かれ、これが現在の沿岸都市の基盤となる。4世紀にローマ帝国が東西に分裂すると、ゲルマン民族をはじめとし、スラブ民族やマジャール人がこの川の流域に移動し侵入した。14世紀以後、オスマン帝国がバルカン半島に進出し、川の中・下流を支配下に置いた。18世紀には、中流域にあたるベオグラード周辺地域で、川がハプスブルク帝国とオスマン帝国との境界線となった。このころから軍事・商業上の交通路として川がもつ重要性が増大し、沿岸の諸民族にとっても航行の自由は大きな関心事となった。1856年、クリミア戦争を終結させたパリ条約で、初めてドナウ川の自由航行が保障され、イギリス、フランス、オーストリアなど列強を中心とするドナウ航行委員会が創設された。しかし、沿岸の諸民族はこの委員会に参加できなかった。第一次世界大戦末の1918年、ドナウ沿岸諸民族がブクレシュティ(ブカレスト)に集まり、ドナウ川管理の回復を唱えたが、戦後のベルサイユ条約によりこの主張は退けられ、イギリス、フランス中心の管理体制が継続した。1930年代のナチス・ドイツの進出によってドナウ川が完全にドイツの支配下に置かれると、ドナウ航行委員会は解散した。第二次世界大戦後の1948年、社会主義政権が確立した沿岸の東欧諸国はベオグラードに参集し、ドナウ航行の自由、沿岸諸国の武装の自由、管理委員会を沿岸諸国に限定する旨の協定を結び、ドナウ管理委員会を創設した。1954年には、オーストリアもこれら諸国と協定を結び、1960年以後管理委員会に加わった。沿岸諸国は定期的に会議を開いており、共同の河川開発も活発である。旧ユーゴスラビアとルーマニアが協力し、約8年を費やして1972年に完成した鉄門ダムはこの典型的な例で、各国に多大の電力を供給している。1989年以後、沿岸の東欧諸国は体制転換をとげた。1990年代に入ると、沿岸諸国(ドイツ、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナ、ルーマニアの10か国)がドナウ川の環境汚染の問題を中心として、ドナウ諸国協力を進めている。

[柴 宜弘]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドナウ川」の意味・わかりやすい解説

ドナウ川
ドナウがわ
Donau

ヨーロッパ中部から東部を流れる川。ボルガ川に次ぐヨーロッパ第2の長流で,全長約 2850km,流域面積約 81万 5000km2。ドナウはドイツ語。スロバキア語ではドゥナイ Dunaj,ハンガリー語ではドゥナ Duna,セルボ=クロアチア語ではドゥナブ Dunav,ルーマニア語ではドゥナレア Dunǎrea,ブルガリア語ではドゥナフ Dunav,ロシア語ではドゥナイ Dunai,英語ではダニューブ Danube。ドイツ南西部バーデンウュルテンベルク州のシュワルツワルトに源を発し,ウルム,レーゲンスブルクを経てパッサウ付近でオーストリアに入り,リンツ,ウィーンを経てスロバキアのブラチスラバにいたる。ここまではドナウ上流部と呼ばれ,おもな支流には右岸にレヒ川,イーザル川イン川エンス川,左岸にナープ川,モラバ川の諸川がある。ブラチスラバの下流でドナウ川は三つに分枝,中央の本流はスロバキアとハンガリーとの国境をなしたのち,バーツ付近で南に転じ,ブダペスト,ドゥナウーイワーロシュ,モハーチを経てクロアチア=セルビア国境をなす。オシエク付近でドラウ川,ノービサード付近でティサ川,ベオグラードでサバ川を次々に合流したのち,セルビア=ルーマニア国境をなすカザン峡谷に入る。峡谷入口のバジャスまでがドナウ中流部と呼ばれる。その下流で難所として知られた鉄門を過ぎ,ルーマニア=ブルガリア国境を東流したのち,ルーマニアのカララシ付近で向きを変えて同国東部を北に貫流,ガラツから東にルーマニア=ウクライナ国境をなして黒海に注ぐまでが,ドナウ下流部である。下流部のおもな支流は右岸のイスカル川ヤントラ川,左岸のジウ川オルト川シレト川プルト川の諸川で,カララシより下流ではいくつかに分流する。また,ガラツの下流にあるトゥルチヤ付近からは三つに大きく分かれ,河口にヨーロッパ最大の三角州を形成している。この湿原は貴重な動植物の宝庫,とりわけ 300種に上る鳥類の生息地として知られ,1991年世界遺産の自然遺産に登録された。ドナウ川は古くからヨーロッパ中部と黒海を結ぶ重要な交通路として,また漁業に,灌漑に,近年は水力発電に幅広く利用され,その管理権をめぐってさまざまな争いが繰り返されてきた。現在は沿岸諸国で構成される委員会の管理により,航行はすべての国の商船に対して自由となっている。ガラツの上流のブライラまでは 4000t級の船が航行可能。また古来難関として知られる鉄門付近も,かなりの大きさの船が航行しており,100t程度の船なら遠くウルムまで遡行できる。またマイン川を経てライン川にいたるマイン=ドナウ運河によって黒海と北海とが水路で結ばれている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ドナウ川」の解説

ドナウ川(ドナウがわ)
Donau

ダニューブ川ともいう。ヨーロッパの中部・東部を流れるヨーロッパ第2の大河。ヴォルガ川に次ぐ。ドイツに発し,オーストリア,ハンガリー,スロヴァキア,ユーゴスラヴィア,ブルガリア,ルーマニアなどを流れて,黒海に注ぐ。古代ローマでは国境線として,中世および近世には軍隊の通路や商業路として,19世紀には国際的水運の動脈として重要な役割を演じた。19世紀の中頃から中部・東部ヨーロッパの民族運動の高揚と衝突のなかで幾度かドナウ連邦案が打ち出された。クリミア戦争後の1856年のパリ条約によって国際河川として列強の航行の自由が保障されたが,沿岸の諸民族はこれに参加できなかった。78年のベルリン条約はこの自由航行の原則を確認した。第一次世界大戦末期に沿岸諸民族は河川管理の回復運動を起こしたが実らず,第二次世界大戦後の1948年のベオグラード会議において,航行の自由と沿岸諸国の武装の自由が保障され,今日に至る。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ドナウ川」の解説

ドナウ川
ドナウがわ
die Donau

西南ドイツの山地に源を発し,中部ヨーロッパ・東ヨーロッパを流れて黒海に注ぐヨーロッパ第2の大河。古くはイステル川と呼ばれ,英語ではダニューブ川(the Danube)という
流域にはウィーン・ブダペスト・ベオグラードの諸都市が存在する。ローマ時代には防衛線としての役割を果たした。中・東欧の交通路として重要で,19世紀以後,自由航行の問題で列国が対立し,クリミア戦争終結後の1856年,パリ条約で国際河川として自由航行が認められた。以来,沿岸諸国の勢力の消長によって航行制度も変更されたが,現在では,自由航行の原則が再確認されている。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のドナウ川の言及

【国際河川】より

… すなわち,1815年のウィーン会議最終議定書は,ヨーロッパのすべての国際河川についての一般原則を定めた。これを実際に適用するため,ドナウ川については56年にパリ条約,ライン川については68年にマンハイム条約が締結された。1919年のベルサイユ講和条約は,ライン川,ドナウ川,エルベ川,オーデル川,ネマン(ニーメン)川の自由航行と国際管理を規定した。…

※「ドナウ川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android