精選版 日本国語大辞典 「ナイジェリア」の意味・読み・例文・類語
ナイジェリア
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西アフリカ東部にある国。正称はナイジェリア連邦共和国Federal Republic of Nigeria。西はベナン、北はニジェール、北東端でチャド、東はカメルーンの各国と国境を接し、南はギニア湾に面する。国名は、黒を意味するネグロとニジェール川に由来するといわれる。国旗は縦に3等分され、左右の緑は豊かな森林、中央の白は平和と統一を表す。面積92万3768平方キロメートルで日本の約2.5倍、人口は1億3280万(2002推計)、1億4043万1790(2006センサス)で、アフリカ諸国中最大である。民族数は200以上あるといわれ、かつての奴隷貿易では最大の奴隷輸出地域であった。首都は1991年12月にラゴスから中央部のアブジャに移転された。
[島田周平]
ニジェール川およびベヌエ川流域の低地では中生代の岩石が、ニジェール川河口部とギニア湾岸低地およびチャド湖周辺低地では第三紀堆積(たいせき)岩とごく薄い第四紀堆積層がみられる。その他の台地状の地域は、ほとんどが古生代の花崗(かこう)岩、片麻(へんま)岩などからなる。錫(すず)とコロンバイトを産するジョス高原は、第三紀の火山活動による。ナイジェリアをT字形にえぐって流れるニジェール川とベヌエ川の流域が低地をなし、それ以外の地域は丘陵や山地である。丘陵の高度はせいぜい500メートル以下であり、1000メートルを超える山地は、ジョス高原とカメルーン国境付近のアダマワ高原などのごく一部に限られる。花崗岩の基盤岩が露出している地域ではインゼルベルク(島状丘)が、東部にはケスタ地形がみられる。沿岸部にはラグーン(潟湖(せきこ))が発達し、ニジェール・デルタと結び付いて広大な湿地帯を形成している。
植生は、雨量の多い南部から雨量の少ない北部へ、熱帯雨林、ギニア・サバナ、スーダン・サバナ、ステップ地帯と順序よく並んでいる。南部は3月から11月初旬まで、北部では4月下旬から9月下旬までが雨期である。雨期には湿潤な赤道西風の影響による南西風が吹き、乾期にはハルマッタンとよばれる乾燥した北東風がサハラ砂漠から吹きつける。
[島田周平]
ナイジェリアの農業地域は、東西に走る等雨量線に従い、南から北へと順次変化する。南部では、キャッサバ、ヤムイモ、ココヤム、プランテンといった根菜類の栽培が中心で、牧畜はみられない。これに対し北部では、ソルガム(モロコシ)、ミレット(アワ)、トウモロコシ、米などの穀類生産が盛んで、これに牧畜が加わる。この根菜類栽培地域と穀類栽培地域との遷移地帯が、ニジェール川、ベヌエ川流域の低地帯と重なる。これが、北部のイスラム教卓越圏と南部のキリスト教圏との境界線とも並行し、ナイジェリアを南部と北部に分ける重要な自然的、文化的境界線をなしている。行政上の南北境界線も、穀類栽培地域の南限の線とよく重なっている。
ナイジェリアの主要工業地域は、南部に二つ、北部に一つある。南部は、ラゴス、イバダンを中心とする地域と、ポート・ハーコート、アバを中心とする地域である。北部の工業地域はカノ地区、カドゥナ地区である。南北格差の是正と、ラゴスへの過度の工業集中を避けるため、精油所のカドゥナ誘致など北部都市への工場誘致が盛んである。
[島田周平]
ポルトガル人が初めてナイジェリア沿岸部に進出した15世紀ごろ、この地には、ベニン王国、ヌペ、カノ、ボルヌ、ケッビなどの国があった。3世紀余りに及ぶ奴隷貿易ののち、19世紀初頭には、北部にジハード(聖戦)でハウサ諸王朝を打ち破ったフルベ人のソコト藩王国が成立し、南部ではオヨ王国崩壊後のヨルバ諸国とベニン王国が存在した。イギリスは、1861年ラゴスを保護領とし、1885年のベルリン会議ではビアフラ湾岸地域の保護領化に成功した。1890年代には王立ナイジャー会社を利用し、内陸部の支配領域拡大に努めた。そして1900年、王立ナイジャー会社にかわりイギリス政府が直接支配に乗り出し、南・北ナイジェリア保護領が誕生した。北部での平定事業、ラゴス植民地と南部保護領との合併を経た1914年、ルガード卿(きょう)により南・北保護領が合併され、現在のナイジェリアの原型ができあがった。
1951、1954年と憲法改正が行われ、北部、西部、東部三大部族圏の地方政府の自治権が拡大された。1930年代に南部の都市エリート層によって始められた反植民地闘争も、1940年代に入ると民族主義的色彩を強めた。このような状況のなかで1960年10月1日、ナイジェリアは独立し、1961年に旧ドイツ領北カメルーンを編入、1963年に4州からなるナイジェリア連邦共和国が成立した。しかし地方分権と民族主義に基づく間接支配というイギリス植民地政策が尾を引いて強い民族間対立が残り、1967年、緩やかな連邦制を主張する東部と、それを認めない連邦軍が対立し、東部がビアフラ国として一方的に独立を宣言したため、ビアフラ内戦が起こった(ナイジェリア戦争)。戦後、勝利を収めた連邦軍のゴウォン将軍が元首の地位についたが、1975年にクーデターで失脚した。
その後ナイジェリアは、1979年から4年間余り民選の大統領シャガリが政権の座にあったほかは、すべて軍人が政権を掌握してきた。1993年には大統領選挙が実施され、社会民主党の党首アビオラ首長が優勢であったと非公式に発表されたが、当時のババンギダ政権はこの結果を破棄し、その後も軍政が続いた。地方行政では、1976年にそれまでの12州体制が19州に変更され、このときアブジャに連邦首都地域が設定された。この後も州再編は続き、1987年に22州、1991年に31州体制へと改編され、1996年には新たに6州が新設された。
[島田周平]
1979年以降4年余り政権を維持した民選の大統領シャガリは、2期目に入った1983年末に軍事クーデターで失脚した。それ以降、いずれも軍人が関与した二つのクーデターと一つの政変が起き、政権は軍人が掌握してきた。1984年からのブハリ将軍、1985年からのババンギダ将軍、そして1993年からのアバチャ将軍がそれである。歴代の軍事政権が直面してきた最大の問題は、民政移管、対外債務問題、そして宗教問題であった。1993年には総選挙が実施され、社会民主党のアビオラ首長が勝利したと思われた。しかしババンギダ政権はこれを認めず、国民の強い反発を買った。このときの政治的混乱に乗じてアバチャ将軍が政権を奪取したが1998年6月アバチャは急死、国軍参謀長のアブバカルが後継に就いた。これによって民主化への道が開かれるかにみえたが、同年7月には、民主化の期待を担っていたアビオラが獄中で死亡。その死因をめぐってさまざまな憶測が流れ、暴動にまで発展した。しかしその後、病死と判明したことによって、民主勢力との対話の姿勢を見せるアブバカル軍事政権と民衆との間に対話の道が開かれた。
1998年7月、アブバカル暫定統治評議会議長(国家元首)は1999年1月から民主選挙を行い、5月には民政移管を実現すると発表した。公約通りに99年2月に行われた大統領選挙では、ナイジェリア最有力政党の国民民主党(PDP)の元最高軍事評議会議長のオルセグン・オバサンジョOlusegun Obasanjo(1937― )と、民主連合および全国民党の2政党が擁立した元蔵相のオル・ファラエの2人が候補者となったが、民主化の旗手として国際的にも知られるオバサンジョが当選、直前に行われた総選挙においてもPDPが過半数を占めた。ナイジェリアは新たな民政移管への道の第一歩を踏み出すことになった。オバサンジョは2003年再選。
対外債務問題に対しては、1986年以降、構造調整計画を実施し、通貨の切下げ等を行った。宗教問題では1986年に当時の軍事政権がイスラム会議機構に正式加盟したことを公表したことに反発して、1990年に一部の南部出身若手将校がクーデター未遂事件を起こした。
また1995年に小説家でオゴニ地域の環境運動家であったサロウィワが軍事裁判のうえ処刑されたときや、1996年にアビオラ首長の釈放を強く求めていた彼の妻が何者かに射殺されたときには、西側諸国は強く反発しアバチャ政権を非難した。非同盟中立政策とアフリカ中心主義が外交の基本で、石油輸出国機構に加盟している。
軍隊は志願兵制で、陸軍6万2000人、海軍5600人、空軍9500人、総兵力7万7100人である。
[島田周平]
ナイジェリアは世界有数の石油資源をもち、国民総生産(GNP)は299億9500万ドル(1994)で、アフリカでは第五の経済規模の国である。しかし、輸出の90%以上を石油に依存するため、1981年以来の石油価格の下落によって経済危機に直面している。推定埋蔵量179億バレル(1994)といわれる石油は、東部沿岸地方を中心に生産され、1975~1980年には日産200万バレルの水準で、一時はアフリカ最大の生産量を記録した。1992年には日産205万9000バレルであるが、石油収入は1980年の250億ドルから1992年は92億ドルに減少している。天然ガスの埋蔵量は3兆1148億7000万立方メートルであるが、液化装置が不十分なため輸出は行われていない。鉱物資源としては北部の錫(すず)、コロンバイトのほか、国内消費用として東部のウディ炭鉱で採掘される石炭があり、鉄、鉛、亜鉛の埋蔵も確認されている。電力のうち約50%は水力発電で、その大半は1969年ニジェール川に建設されたカインジ・ダムから供給されている。
農業は就業人口の過半数を吸収するナイジェリアのもっとも重要な産業で、耕地は国土の3分の1を占める。おもな食料作物は、南部ではヤムイモ、キャッサバ、ココヤム、プランテン、トウモロコシで、北部ではソルガム、ミレット、トウモロコシである。トリパノソーマを伝染媒介するツェツェバエがいる南部では牧畜は行われず、北部のサバナ地帯で牧畜が盛んである。換金作物としては、南部のココア、パーム油、ゴムと、北部のラッカセイ、綿花が重要である。とくにココア、パーム油、ラッカセイは1960年代前半までナイジェリアの三大輸出品であった。
貿易では、輸出は原油が97.9%(1992)と大半を占める。輸入は機械機器43.2%、加工製品24.5%、化学品16.0%、食料品8.8%(1992)などである。おもな貿易相手国は、アメリカ、イギリス、フランスなどである。
[島田周平]
ナイジェリアには200以上の民族がいるといわれる。おもな民族は、北部のハウサ人、フルベ人(1640万人)、カヌリ人(230万人)、ティブ人(140万人)、西部のヨルバ人(1130万人)、エド人(100万人)、東部のイボ人(920万人)、イビビオ人(200万人)などである。全国的にみればハウサ、ヨルバ、イボの三大民族が民族対立の主体になっているが、各地域別にはこれら三大民族の専横に対して他の少数民族が反対するという対立の構図がみられる。独立以来の政府の方針は、行政単位の細分化により有力民族の分割とその他の少数民族の自治権拡大を目ざした。しかし、民族を単位とした政党支持や政治行動は今日も変わっていない。民族の数に匹敵する数の言語があり、公用語は英語となっている。各地のテレビ、ラジオでは、その土地の民族言語が使われることもある。宗教は北部がイスラム教、南部がキリスト教とまったく異なり、これが民族対立をいっそう激しくしている。
人口増加率は1975~1980年が年率3.3%、1980~1986年は年率3.4%、1990~1994年が2.9%で、2000年の人口は1億1500万を超えアフリカ諸国中最高である。急速な人口増と都市化は、都市部での住宅不足、失業の増大、食糧輸入の急増などの社会問題を引き起こしている。
教育は、小学校6年、中学校5年、大学4年である。南部にはキリスト教の伝道活動の一環としてつくられた私立の小学校が多いのに対して、北部では公立の小学校が多い。また北部ではイスラム教学校もある。大学は1948年創設のイバダン大学をはじめとして22大学に約12万7000人(1994)の学生が就学している。
[島田周平]
ナイジェリアは比較的豊富な歴史的、文化的遺産をいまに伝えている。最古のものでは北部ジョス高原で発見された紀元前3~2世紀の鉄器文明、ノク文明が知られている。ラゴスの国立博物館には全国の歴史的遺物が展示されているが、各地方には地方独自の文化・歴史を展示する博物館がある。イフェ、ベニン・シティの博物館(真鍮(しんちゅう)やテラコッタの頭部像)、ジョス博物館(ノク文化のテラコッタ)、カノのマカマ館(フルベ人の馬具、武器など)が有名である。
文学活動も盛んで、英語で書いた小説や戯曲で世界的に有名な作家が少なくない。『物みな別るる』『もはや安楽なし』などで有名なチヌア・アチェベ、『やし酒飲み』で有名なエイモス・トゥトゥオラ(チュツオーラ)、『信仰篤(あつ)い陛下』のティモシー・M・アルコなどがいる。劇作家としてはアフリカ人として初のノーベル文学賞に輝いた、戯曲『森の踊り』で有名なショインカや、ジョン・ペッパー・クラークなどがいる。1977年1月にはラゴスで第2回世界黒人芸術祭が開かれ、黒人の芸術と文化を世界に強く宣揚することに貢献した。
日刊紙は『デイリー・タイムズ』紙など主要なものだけで10紙を数える。またナイジェリア通信(NAN)、国営ナイジェリア・ラジオ(FRCN)、ナイジェリア・テレビ(NTV)がある。
[島田周平]
日本からの輸入は1億9700万ドル、日本への輸出は2000万ドル(1994)で大幅な輸入超過である。輸出は石油、ゴマ、牛骨粉などであり、輸入は自動車や機械が中心になっている。1980年代なかばまでは1人当り国民所得が高かったために有償の円借款がほとんどであった。しかし、それ以降の経済の停滞を受け、日本は同国を無償援助対象国に位置づけ、食糧増産、医療、水供給関係の援助を実施してきた。ところが、1993年以降のアバチャ政権の政策が民主化に逆行するものであるとして、新規のプロジェクトは停止された。民間ベースの企業進出も1980年代後半以降縮小傾向にある。2000年7月、九州・沖縄サミットに開発途上国グループの代表として大統領オバサンジョが訪日、2001年1月には首相森喜朗がナイジェリアを訪問した。同年5月、オバサンジョがふたたび来日し、日本とナイジェリアとの間で「スペシャル・パートナーシップ」の確立が合意された。
[島田周平]
『外務省監修『ナイジェリア連邦共和国』(1982・日本国際問題研究所)』▽『日本貿易振興会編・刊『貿易市場シリーズ233 ナイジェリア』(1983)』▽『島田周平著『地域間対立の地域構造―ナイジェリアの地域問題』(1992・大明堂)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
西アフリカ,ギニア湾に面する連邦共和国。アフリカ最大の人口を擁する。約300もの民族が住み,なかでも北部のハウサ人,西部のヨルバ人,東部のイボ人が有力で,北部はムスリム,南部はキリスト教徒が多い。この地域間,民族間,宗教間の対立が国の独立以来,統一を困難にする一因になっている。1861年,イギリスはラゴスを直轄植民地に,1900年には現ナイジェリアの大半を保護領にした。60年に独立し,63年,北部,東部,西部,中西部の4州からなる連邦共和国になった。66年,反イボ人派将校団クーデタでのイボ人大統領殺害と,12州制移行に反発して東部州はビアフラ共和国として分離独立を宣言し,連邦政府とのビアフラ戦争が勃発(~70年)。99年には,軍事政権から民政移管されるにあたって政情が不安定となった。石油を産し,経済的にはアフリカ内での有力国である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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