タンザニアの政治家。初代大統領。北西部のムソマ県に生まれる。1945年ウガンダのマケレレ大学教育学部卒業後、タボラのカトリック系高校で教職につく。1949年エジンバラ大学留学。1952年帰国、再度、ダルエス・サラームで教職につく。1954年タンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU。現タンザニア革命党=CCM)結成、書記長となる。1958~1960年立法審議会議員となり、1961年独立とともに首相就任。翌1962年共和国へ移行と同時に大統領になる。1964年ザンジバルとの合併でタンザニア連合共和国誕生とともに大統領。1967年2月「アルーシャ宣言」を発表し、アフリカ社会主義路線を明確化し、農村の社会主義化を目標とするウジャマー社会主義を推進(ウジャマーはスワヒリ語で家族や友愛の意)。1985年大統領をムウィニAli Hassan Mwinyi(1925― )に譲り引退。引退後、開発途上国の意見を代表する「南委員会」議長やブルンジ内戦の和平交渉の仲介役など、国際舞台で活躍。1987年CCM議長に3選。タンザニア政治を批判し介入した。1999年病没。著書に『解放と統一』(1969)、『解放と社会主義』(1969)、『解放と開発』(1973)がある。
[林 晃史]
『日本国際政治学会編・刊『第三世界政治家研究』(1977)』▽『山口圭介著『ナショナリズムと現代』(1987・九州大学出版会)』
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1922~99
タンザニアの政治家,初代大統領(在任1962~85)。1953年タンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU)党首に就任し,民族独立運動を指導。61年タンガニーカ独立時に首相に,62年初代大統領に就任し,64年ザンジバルとの合邦を実現。アフリカ的社会主義を掲げ,67年アルーシャ宣言により独自のウジャマー社会主義を推進。しかしウガンダのアミン政権との戦争(78~79年),第2次石油危機などによる経済不振のため政策を転換。国内外の信望は厚く,アフリカ諸国の調停役を務めた。
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…タンザニアの諸部族は,ハ,フィパ,ヘヘなどを除いては中央集権的な政治組織をもたなかった。ニエレレ初代大統領も小部族のザナキ出身であり,特定の部族が支配的地位を保つことなく,むしろ国家建設のため部族意識を捨てることを目ざしている。 言語政策においてもスワヒリ語を国語として定め,初等学校教育はもちろん,議会や裁判所などの公的機関や,ラジオ放送,商店の看板標示まで,すべてスワヒリ語が用いられており,現在は科学技術用語などの画定作業を急いでいる。…
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