ドイツのメディア・アーティスト。旧東ドイツ、カール・マルクス・シュタット(現ケムニッツ)に生まれる。庭師として働いた後、1985~1990年ドレスデンでランドスケープ・デザインを学ぶ。アートにも強い関心をもち、1991年にはベルリンで初個展を開催した。本格的な作家活動のスタートは1992年、アーティスト活動のためのグループ「文化とコミュニケーション」を友人と設立したときであり、次いで1994年に制作グループ「音と無音のためのアーカイブ」を設立、サウンド・アート、メディア・アートなど複数の領域にまたがる活動の基盤を築いた。
作品の傾向としては、有機的な形態をモチーフとした絵画やオブジェのような比較的オーソドックスなものから、コンピュータを活用することによって特殊な情報環境を演出するインスタレーションまで、きわめて多岐にわたる。また自らのレーベル「ラスター・ノトン」を主宰し、日本のサウンド・アーティスト池田亮司(1966― )との共作を含め、すでに10枚以上のCDをリリースしているサウンド・パフォーマーでもある。ドクメンタⅩ(1997、ドイツ、カッセル)、リバプール・ビエンナーレ(1999)、ベネチア・ビエンナーレ(2001)、イスタンブール・ビエンナーレ(2001)など多くの国際展にも参加した実績をもっているほか、1998年にはライプツィヒ現代美術館で個展が開催された。メディア・アートの国際展アルス・エレクトロニカ(オーストリア、リンツ)では、2000年にはデジタル・ミュージック部門、2001年にはインタラクティブ・アート部門で連続してグランプリを受賞するなど、若くして国際的なメディア・アーティストの評価を確固たるものとしているが、活動の拠点は今なおケムニッツに置いている。
多くの展覧会が開催されている日本でもなじみが深く、「第10回アートラボ企画展」(2000、代官山ヒルサイドプラザ、東京)では、スロベニア生まれのメディア・アーティスト、マルコ・ペリハンMarco Peljhan(1969― )と共作した作品『polar』を、ワタリウム美術館での個展(2002、東京)では試験管やターンテーブルを活用したサウンド・アート作品を出品するなど、情報環境や音環境を一種のランドスケープとして探求する先鋭的な作品を発表している。2002年には、ドイツ現代美術の最新動向を紹介した「QUOBO ベルリンのアート――壁崩壊から10年」展に、2007年には「SPACE FOR YOUR FUTURE」展(ともに東京都現代美術館)にも参加した。
[暮沢剛巳]
『Autopilot (2002, Consortium Book Sales & Dist, New York)』
ロシア正教会の宣教師。日本ハリストス正教会の創始者。尼格頼、尼活頼とも書く。本名イオアン・ディミトリビッチ・カサーツキンIoan Dimitriwich Kasatkin。ロシアのスモレンスク県生まれ(父は輔祭)。ペテルブルグ神学大学在学中にゴロウニンの『日本幽囚記』を読み日本への興味をもつ。修道士となりニコライと改名。1861年(文久1)箱館(はこだて)(函館)のロシア領事館付司祭として来日。禁制下の日本人(沢辺琢磨(さわべたくま)など)に宣教した。日本語、日本文化を学び、いったん帰国。伝道会社を設立して1871年(明治4)ふたたび来日。翌1872年東京に出て神学校設立、『正教新報』を創刊(1880)した。また東京復活大聖堂(ニコライ堂)の建立(1891)などによって伝道活動を行い、日本人による正教会の確立を目ざした。また1901年(明治34)には邦訳の『新約聖書』を出版した。「其(その)露国人であると云(い)ふ点に於(おい)て国民の疑(うたがい)と反感を招いたが、日本人に対しては全く同胞の如(ごと)く対等国民の如くに考へ」(大隈重信(おおくましげのぶ)談―『正教時報』1913年(大正2)4月号)、日露戦争(1903~1904)の際にも日本にとどまった。1906年に大主教。1912年2月16日東京駿河台(するがだい)の本会内の住まいで心臓病で死去。1970年(昭和45)列聖される。
[山川令子 2018年2月16日]
『ニコライ著、中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫)』▽『鈴木透他編『大主教ニコライ師説教演説集』(1911・教要社)』▽『日本ハリストス正教会総務局編・刊『大主教ニコライ師事蹟 他二篇』(1936)』
ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝(在位1894~1917)。アレクサンドル3世の長子として生まれる。保守主義者ポベドノースツェフに教育されて、その影響を受けた。1891年(明治24)皇太子として日本訪問中、警護の巡査に額を斬(き)られて負傷した(大津事件)。94年イギリスのビクトリア女王の孫でヘッセン・ダルムシュタットの公女(結婚後アレクサンドラ・フョードロブナと改名)と結婚。夫婦間は愛情に満ち、よき夫であったが、のちに皇后がラスプーチンを登用するや、彼に政治に口出しするのを許すことになった。父帝の外交政策を継承し、フランスとの同盟を強化し、シベリア鉄道を完成させ、極東への進出を図ったが、日露戦争を引き起こして敗北した。1905年の革命によって「十月宣言」を発布するはめとなったが、革命が終息するやストルイピンを引き立てて革命運動を弾圧した。外交政策においてドイツと対立しイギリスに近づいたことから、第一次世界大戦に巻き込まれ、戦争中の17年3月退位を余儀なくされた。ボリシェビキが政権をとったあと、18年4月にエカチェリンブルグ(ソ連時代はスベルドロフスク)に家族(皇后と4人の子供たち)とともに幽閉され、地方のボリシェビキによって射殺された。2000年8月ロシア正教会は、ニコライ2世とその家族を「受難者」として列聖した。
[外川継男]
『保田孝一著『ニコライ2世と改革の挫折』(1985・木鐸社)』
ドイツの作曲家、指揮者。喜歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』の作曲者として有名。ケーニヒスベルクの作曲家の息子として生まれたが、家出し、ベルリンでツェルターに師事した。1833年ローマのプロイセン大使館礼拝堂オルガン奏者に就任、初めパレストリーナを研究するが、ベッリーニとの出会いからオペラの世界に入る。一時ウィーンで活躍するが、ふたたびローマに帰り、オペラ作曲家として名声を博したのち、41年ウィーン宮廷歌劇場楽長となり、42年、後のフィルハーモニー演奏会の基礎を確立、交響曲第九番をはじめとするベートーベン作品の演奏に努めた。48年ベルリン大聖堂指揮者兼王立歌劇場楽長に就任、翌49年、代表作『ウィンザーの陽気な女房たち』の初演に成功したが、2か月後、卒中で帰らぬ人となった。
[樋口隆一]
ロシアの皇帝(在位1825~55)。パーベル1世の三男として生まれる。長兄アレクサンドル1世の急死と、次兄コンスタンティン大公の皇位継承権放棄によって、1825年即位した。おりからデカブリストが首都ペテルブルグの元老院広場で反乱を起こしたが、軍隊を使ってこれを鎮圧し、主謀者を処刑した。まじめな性格で規律を愛し、生涯を通じて革命思想、自由思想を弾圧した。26年、悪名高い秘密警察「皇帝官房第三課」を創設し、プーシキン、レールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンら多くの文学者や思想家を流刑にした。30~31年のポーランドの反乱、48~49年のハンガリーの革命を厳しく抑圧し、「ヨーロッパの憲兵」として恐れられた。中央アジアに出兵して、領土を拡張したが、クリミア戦争を引き起こし、敗色濃いなかで死去した。
[外川継男]
アメリカの舞踊家、振付師。コネティカット州サウシントンに生まれる。無声映画のピアニストなどをしたのち、M・ウィグマンの公演を見て舞踊家に転向。1937年に自身の舞踊団を創設、48年ニューヨークのヘンリー・ストリート・プレイハウスを根城にアメリカ現代舞踊の一角を築いた。代表作に『万華鏡』(1956)、『トーテム』(1960)など。作風はM・グレアムなどの表現的な傾向とは違う抽象的なもので、肉体をデフォルメした形態の変化と光を強調したものである。映像作家E・エムシュウィラーの映画『テント』(1968)などには、被写体としてニコライの作品が使われている。
[市川 雅]
ベルリンの出版業者、著述家。レッシング、モーゼス・メンデルスゾーンらの執筆協力者を得て発刊した『最新文学に関する書簡』(1759~1765)および『ドイツ百科叢書(そうしょ)』(1765~1805)は、文学、思想界における啓蒙(けいもう)主義の牙城(がじょう)となる。また小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』(1773~1776)でルター正統派の偽善やピエティスムスの感傷癖を風刺した。
[小泉 進]
日本に布教したロシア正教会の宣教司祭。のち大主教(1906より)。俗名カサトキンIoan D.Kasatkin。スモレンスク出身,ペテルブルグ神学大学卒業。早くから日本伝道を志し,1861年(文久1),箱館のロシア領事館付司祭として赴任。日本語および日本事情を学びながら,キリシタン禁制下にひそかに日本人への伝道を始めた。密航前の新島襄はニコライの門をたたいたし,のち邦人初の正教司祭となった沢辺琢磨も函館で入信した。いったん帰国し,日本伝道会社を設立し,72年に東京進出。神田駿河台に本部を置き,伝道学校,のち正教神学校,女子神学校を設立し,日本ハリストス正教会は明治のキリスト教各派のなかでも有力な地歩を築いた。それを象徴するのが91年に完成した復活大聖堂(ニコライ堂)である。出版活動にも力をいれ,1901年には新約聖書の邦訳を出版した。日露戦争中は苦しい立場に置かれたが,東京にとどまって信者を激励した。ニコライの目的は日本人の正教会を育成することであったが,それを果たす前に没した。
執筆者:森安 達也
ドイツの作曲家,指揮者。ベルリン,ローマ,ウィーンで修業時代を過ごし,1838年からローマでオペラ作曲家として活動。41年ウィーン宮廷歌劇場の首席指揮者。42年に〈フィルハーモニー演奏会〉を始め,歌劇場の楽団を指揮して,ベートーベンの交響曲などを演奏した。この演奏会は,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に発展した。48年ベルリンの王立歌劇場楽長。代表作はオペラ《ウィンザーの陽気な女房たち》(初演1849)で,シェークスピアの台本に基づく3幕からなるこのオペラは,19世紀前半の最も人気のあった作品の一つに数えられている。オペラのほかに交響曲や室内楽をはじめ宗教音楽などの作品も残した。
執筆者:西原 稔
アメリカの舞踊家,振付師,演出家。コネティカットで生まれる。照明などの舞台機構とモダン・ダンスを結びつけ,新しい感覚の作品を発表したことで知られる。1937年にベニントン舞踊学校の授業に顔を出したのがきっかけで舞踊を始める。その後,ハンヤ・ホルム,M.グラーム,ドリス・ハンフリーらに習う。48年に自分の舞踊団を作り,以後《カレイドスコープ》(1956),《イリュージョン》(1961)など多くの作品を発表している。
執筆者:山野 博大
ドイツの出版業者,著述家。ゲーテ,シラー,カント,フィヒテらを攻撃したため,頑迷な啓蒙主義者と見られがちであるが,啓蒙主義の指導的な雑誌の刊行者,ベストセラー作家,批評家としてその多面的な活動は,ドイツ18世紀文化史に大きな足跡を残した。レッシングやM.メンデルスゾーンの助けをえて,ベルリンの啓蒙主義運動の組織者として活躍し,文化の媒介者の役割を果たした。
執筆者:岩村 行雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(大江満)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1836.8.22 - 1912.2.16
ソ連の宣教師。
元・ロシア正教会大主教。
スモレンスク県ベリョーザ生まれ。
本名Ioan〉 イオアン〈Kasatkin カサーツキン。
日本名尼格頼,尼适頼。
日本ハリストス正教会の創始者で在学中に日本への興味を持ち1861年函館のロシア領事館付司祭として来日、禁制下宣教活動を始める。一時帰国、日本伝道会社設立後1871年再び来日、東京で神学校設立。「正教新報」創刊。ニコライ堂建立等伝道活動を行い日本人による正教会の確立を目指す。1901年邦訳「新約聖書」を出版。日露戦争中も日本に留まり活動、’06年大主教となる。’12年東京駿河台で没。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
1836.8.2~1912.2.4
ロシア正教会最初の来日宣教師。俗名はカサトキンIoan Dimitrovich Kasatkin。1861年(文久元)箱館領事館つき司祭として来日。7年間日本の国語・歴史・文学・宗教などを研究し,宣教に着手。日本正教ミッションを開設し,72年(明治5)禁制の高札撤去を前に東京神田駿河台に本拠を移し,伝教学校・正教神学校を開き,日本ハリストス教会の基礎を築いた。91年東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立。1906年大主教に昇る。聖書・聖典の日本語版出版に努め,「正教新報」などの定期刊行物を出版。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…フランスではP.マリボーの《スペクタトゥール・フランセSpectateur Français》(1722‐23),A.F.プレボーの《プール・エ・コントルLe Pour et Contre》(1733‐40)などが相次ぎ,ルイ王朝の弾圧に遭ってオランダへ亡命した人たちが刊行した雑誌だけでもフランス革命にいたるまで30をかぞえる盛況を示した。ドイツではF.ニコライの創刊した《ブリーフェBriefe,die neueste Litteratur betreffend》(1759‐65)誌に,レッシングやM.メンデルスゾーンが編集委員として参加し文芸雑誌の伝統をつくった。ゲーテが編集に参画していた《フランクフルター・ゲレールテン・アンツァイゲンFrankfurter Gelehrten Anzeigen》(1772‐90)や,〈ドイツの定期刊行物の父祖〉といわれた《アルゲマイネ・リテラトゥーア・ツァイトゥングAllgemeine Literatur‐Zeitung(総合文芸新聞)》(1785)など,ドイツの雑誌はヨーロッパのどの国よりも文芸的な内容を特色としていた。…
…大正時代以後はロシアの音楽,演劇,バレエなどに対する関心が強まった。またニコライNikolai(1836‐1912。俗名はカサトキンIoan Dmitrievich Kasatkin)によってもたらされたロシア正教は,明治末年までに信徒3万人を擁する日本ハリストス正教会へと発展した。…
…明治正教会ともいう。宣教師ニコライが1861年(文久1)6月箱館に渡来し,キリシタン禁制のため公然たる布教活動はできなかったが,68年(明治1)には,市内の神官沢辺琢磨他2人の正教徒を得た。翌69年,キリスト教解禁の間近いことを知ったニコライは一時帰国,ロシア宗務院の許可を得て日本における伝道会を設立,その長となって71年に帰任し,本格的な活動を開始した。…
※「ニコライ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新