ヌビア(英語表記)Nubia

翻訳|Nubia

デジタル大辞泉 「ヌビア」の意味・読み・例文・類語

ヌビア(Nubia)

アフリカ北東部、エジプトアスワンからスーダンハルツームに至るあたりのナイル川流域の地。古代エジプトの遺跡があり、1979年「アブシンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群」の名で世界遺産文化遺産)に登録された。→アブシンベル神殿フィラエ神殿カラブシャ神殿アマダ神殿ワディ‐エル‐セブア神殿

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精選版 日本国語大辞典 「ヌビア」の意味・読み・例文・類語

ヌビア

  1. ( Nubia ) スーダン北部からエジプト南部にまたがるナイル川流域の地名。下流方向にあたるエジプト南部の下ヌビアにはアブ‐シンベルの神殿、クルルやヌーリのピラミッド群など古代エジプトの遺跡が多い。

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改訂新版 世界大百科事典 「ヌビア」の意味・わかりやすい解説

ヌビア
Nubia

エジプト南部からスーダン北部にかけてのナイル川流域の地名。一般的にアスワンの第1急湍(たん)から南の第4急湍付近までをさす。アラビア語ではヌーバNūba。黄金や木材の産地として,アフリカ奥地からの貢納品の中継地として,また多くの傭兵を徴用する地として,古代からエジプトにとって経済的にも軍事的にも重要な地域であった。下流のエジプト領の下ヌビア(古代名ワワト)と上流のスーダン領の上ヌビア(古代名クシュ。ギリシア人の呼称はアイティオピア)とに分けられる。アスワン・ハイ・ダムの建設により,下ヌビアの全域と上ヌビアの一部が水没してしまうため,1960年にユネスコが呼びかけたヌビア水没遺跡救済のキャンペーンに対し,20ヵ国以上が協力し,約30の調査隊が組織された。またアブ・シンベル神殿,カラブシャ神殿,フィラエ島イシス神殿など水没地の多くの遺構が移築された。

 この地には前期旧石器時代から連続して人類の活動の跡が見られる。新石器時代からエジプト初期王朝時代にかけての文化をAグループ文化と呼ぶ。エジプト古王国時代になると組織的な交易がおこなわれ,第1急湍南までエジプトの支配を受けた。前2000年頃エジプト文化の影響を受け,Cグループ文化と呼ばれるヌビア独自の文化がおこった。エジプト中王国時代には第2急湍南までが,そして新王国時代には第4急湍までがエジプトの支配下に置かれ,各地に拠点として要塞が築かれた。前8世紀中頃,上ヌビアのナパタを中心とする勢力が,第25王朝を樹立し,一時的にエジプト全土を支配したが,アッシリアのエジプト征服により,再びヌビアに退いた。その後,中心を南のメロエに移し,4世紀ころまでメロエ王国として繁栄し,その滅亡後6世紀まで下ヌビアを中心に,Xグループと呼ばれる独自の文化が栄えた。6世紀にキリスト教が導入され,ビザンティン文化の強い影響を受けた優れたキリスト教文化が花開いた。
執筆者: イスラム教徒アラブの侵入が始まる7世紀には,下ヌビアにムカッラMuqarra王国,上ヌビアにアルワ`Alwa(アロディアAlodia)王国の二つのキリスト教王国があった。最初の侵入である641・642年のウクバ・ブン・ナーフィーの率いた遠征では成果をあげず撤退したが,651年アブド・アッラーフ・ブン・サード`Abd Allāh b.Sa`dによる遠征はムカッラ王国の都ドンゴラまで侵入し,毎年365人の奴隷の貢納を約束させた。この後,ウマイヤ朝やアッバース朝の時代にも,ときおり遠征軍が送られたが,それはしばしば履行されなかった奴隷貢納を強制することと同時に,下ヌビアのアラーキーの金鉱支配を目的としていた。

 この不完全な従属関係はファーティマ朝まで維持されたが,アイユーブ朝サラーフ・アッディーンによる遠征軍派遣(1172)以後ヌビア支配政策が積極化した。マムルーク朝のスルタン,バイバルス1世(在位1260-77)とカラーウーン(在位1279-90)による遠征軍派遣は,ムカッラ王国の衰退をいっそう早め,1316・17年ついにイスラム教徒の王アブド・アッラーフ・ブン・サンブが即位するに及び,マムルーク朝の属領となった。この軍事的征服は,アラブの移住と相まってアラブ化とイスラム化を促進させた。アラブ軍による遠征の初期には,アラブの移住は進まなかったが,9世紀後半トゥールーン朝時代,上エジプトのアスワン(下ヌビア国境)付近にラビーア族やジュハイナ族などが住みつき,しだいにヌビア人とも混血,アラブ・ヌビア系のバヌー・カンズ族のような土着勢力が出現し,14世紀以後下ヌビアを支配した。また,1258年のモンゴル軍によるバグダード征服の難を逃れたアラブの移住も多かった。

 上ヌビアのアルワのアラブ化とイスラム化は,下ヌビアよりも遅れていた。しかし,16世紀スーダン地方からイスラム教徒の黒人フンジ族が侵入し,その支配下に入ってからイスラム化と黒人化が促進されたが,下ヌビアは1517年セリム1世に征服されてオスマン帝国の支配下に入ったため,両ヌビアは政治的・民族的にいっそう分離するようになった。オスマン帝国治下の16~19世紀,アラブ化したヌビア人の中には,傭兵,奴隷商人,ナイル川の船夫として活躍する者もいた。

 19世紀以降は,スーダンとともにエジプトのムハンマド・アリー朝の支配下に入り,1899年のイギリス・エジプト協定によって,ヌビアは現在のように南北に分断されることになった。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヌビア」の意味・わかりやすい解説

ヌビア
Nubia

アフリカ大陸北東部の古地名。東は紅海,西はリビア砂漠にはさまれたナイル川沿岸の地域のうち,北はアスワン南の第1急流 (エジプト) ,南はハルツーム (現スーダン) の間をさす。ワディ・ハルファより北を下ヌビア,以南を上ヌビアと呼ぶ。大部分は現スーダン領。古代エジプトではクシュと呼ばれ,古代ギリシア人はエチオピアと呼んでいた。新石器時代 (前 5000頃) から人類が居住した。しかしエジプトが王朝時代になり繁栄すると取残され,人的・物的資源の供給地として,また南方との交易路として重要な役割を果した。特にこの地で産する黄金,象牙,香料,黒檀,石材などは重要な物品であった。したがって古代エジプトの歴代の王たちはヌビア経営を重要な政策として考えたが,特に中王国時代の第 11王朝よりヌビアの征服が開始され,新王国時代は全ヌビアが王権のもとに制圧された。エジプトの支配時代に多くの神殿や城塞が建てられ,アブシンベル神殿などの古代エジプト遺跡が残る。前 800年頃からクシュ王国が栄え,エジプト第 25王朝 (前 730頃成立) は,ヌビアの王が建てた。前 590年に首都ナパタはエジプト軍に侵略され,上流のメロエに遷都して,鉄器文明の時代に入った。またエジプト,ローマ,ギリシアなどの影響を受けつつも黒人の造形感覚を生かした独自の美術工芸品を残した。メロエ文学も成立。4世紀にメロエのアクスム王国に滅ぼされ,成立したノバタエ王朝は 540年頃キリスト教国となった。 652年にヌビア一帯はエジプトのイスラム勢力の支配下に入ったが,ドンゴラを中心とした小キリスト王国は,14世紀にエジプトのマムルーク朝に征服されるまで存続。これら各時代の建造物はヌビア遺跡として残る。現在,住民はエジプト人と黒色人種の混血で,ヌビア語が広く用いられる。アスワン・ハイダムの完成で,現在下ヌビアはナイルの人造湖の湖底に沈んでしまった。

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百科事典マイペディア 「ヌビア」の意味・わかりやすい解説

ヌビア

アラビア語ではヌーバ。アフリカ北東部,ナイル川河谷(アスワンからハルツーム付近まで)およびヌビア砂漠を含む地域。金などを産する。古代エジプトの支配下ではアブ・シンベル神殿が造営された。前8世紀にナパタを都とする王国が成立し,前7世紀には都をメロエに移して,独自の文化の発展をみた。6―14世紀にはキリスト教王国が繁栄。7世紀半ば以降,アラブ・イスラム勢力の侵攻が続いたが,16世紀にはスーダン地方からの黒人イスラム勢力もこれに加わった。19世紀以降はエジプトのムハンマド・アリー朝下に入る。現在は北部の一部がエジプト領,残りはスーダン共和国領。エジプトのアブ・シンベルからフィラエに至るヌビア遺跡群は1979年世界文化遺産に登録された。
→関連項目クシュ王国ヌビア遺跡群

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ヌビア」の解説

ヌビア
Nubia

第1急湍(きゅうたん)上流のナイル川流域の総称。中央アフリカへの交易基地として古王国時代からエジプト化。ヌビア傭兵は著名。金,黒檀(こくたん),象牙を産し,のちにナパタ,メロエなどを中心とする独立王国もできた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ヌビア」の解説

ヌビア
Nubia

エジプト,ナイル川沿岸の都市アスワン以南,スーダンに至る地域のギリシア語名
古くから金の産地として知られ,古代エジプト語のヌブ(金)から古代ギリシア・ローマ人が呼んだもの。ハム語族を主体とし,エジプトとエチオピアがしばしばこの地の支配を争った。スーダン北部に広がる砂漠は,今もヌビア砂漠と呼ばれる。

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世界大百科事典(旧版)内のヌビアの言及

【スーダン】より

…国土の中央やや東寄りを,ウガンダのビクトリア湖に発し南部国境付近山岳地帯から流れる諸河川を集めた白ナイル川が北上し,エチオピア高原に発した青ナイル川と首都ハルツームで,アトバラ‘Aṭbara川とはアトバラで,それぞれ合流し1本のナイル川となってエジプトへ抜ける。 ヌビア砂漠Ṣaḥrā’ al‐Nūbaとよばれる北部の砂漠地帯は,年間降雨量100mm以下で,岩はだの荒野が広がる。ナイル川の涸れ谷(ワジ,ワーディー)が刻まれ,東部は丘陵となって紅海沿岸山脈に至る。…

※「ヌビア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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