精選版 日本国語大辞典 「ノルマン朝」の意味・読み・例文・類語
ノルマン‐ちょう ‥テウ【ノルマン朝】
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ノルマンディー公ウィリアム(公としては2世、イギリス王としては1世、征服王)のイングランド征服(ノルマン・コンクェスト)によって開かれたイギリス王朝(1066~1154)。ウィリアム1世は大陸の封建制度を導入し、サクソン行政組織を利用して集権的な封建制度を確立した。その三男ウィリアム2世(在位1087~1100)、ついで四男ヘンリー1世(在位1100~1135)が後を継ぐが、ヘンリー1世は中央政庁を整備し、全国に巡回裁判官を派遣して王権を強化した。彼は王子ウィリアムを亡くしたため、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁しその死後アンジュー伯ジェフリーGeoffrey(ジョフロア。1113―1151)と再婚していた娘のマティルダMatilda(マティルド。1102―1167)を後継者としたが、貴族らは王妹アデラの子ブローニュ伯スティーブンStephen(1097?―1154、在位1135~1154)を王に選んだ。そのためマティルダは王位を要求して十数年続く内乱を起こしたが、この間封建貴族勢力は伸展した。1154年スティーブン王の死後、マティルダの子アンジュー伯ヘンリー(2世)が即位してプランタジネット朝を開き、ノルマン朝は終わった。
[富沢霊岸 2022年12月12日]
1066~1154
ノルマン人の征服によりウィリアム1世が開いたイングランドの王朝。王は封建制をもって王権を強化し,次のウィリアム2世をへてヘンリ1世は集権的封建制の基礎を固めた。しかし続くスティーヴン王のとき,王位争いの内乱が約20年継続し,結局1154年ヘンリ2世が即位してプランタジネット朝を開いた。
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…クヌット2世はイングランド王だけでなく,やがてデンマーク王,ノルウェー王をも兼ねて,北海を内海とする一大帝国を樹立したが,それも約20年後彼の死とともに瓦解し,イングランドにはまもなくエドワード懺悔王が即位して,ウェセックス王家が復活した。しかし彼には嗣子がなかったため,1066年その死後王位をめぐる闘争が生じ,北フランスのノルマンディー公ギヨームが麾下の騎士を率いて侵入,イングランドを征服,ウィリアム1世(征服王)として即位してノルマン朝を開いた。イギリス史上これを〈ノルマン・コンクエスト〉という。…
※「ノルマン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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