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1714年から1901年までのイギリス王家。ブランズウィックBrunswick朝ともいう。1714年スチュアート家のアン女王の死に伴い、王位継承法(1701)の規定により、ジェームズ1世の孫にあたるドイツのハノーバーHanover選帝侯妃ゾフィーの子ゲオルク・ルートウィヒ(ゲオルク1世)がジョージ1世(在位1714~1727)としてイギリス王位につき、ハノーバー朝の開祖となった。以来ハノーバー家は123年間にわたってイギリスとハノーバーとの君主を兼ねたが、1837年ビクトリア女王のイギリス国王即位にあたって分離された。その後、1901年のエドワード7世のとき、父アルバート公の家名をとってサックス・コーバーグ・ゴータSaxe-Coburg-Gotha朝と改称、続いて第一次世界大戦中の1917年、対戦国のドイツ式の名称を名のることを避けるためウィンザー朝と改称され、現在に至っている。現王室はハノーバー朝の直系にあたる。
[大久保桂子]
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…そのため選挙で選ばれた議会多数派が国王の内閣をつくるというより,国王の信任する内閣が議会多数派を生み出す傾向が支配的で,院の内外を問わず政党の組織力や議員規律は弱かった。1714年に始まる大陸出身のハノーバー朝の時代には,国王が定期的に国内を留守にしたり,皇太子を通じて野党政治家に閣議機密の漏れるのを防ぐため臨席を避けたりしたため,国王の臨席なき内閣運営の慣行が定着する。特に七年戦争時の広範な国策統合の必要に応じて,人員膨張により非能率となった内閣会議の中に,少数有力閣僚のみからなるインナー・キャビネットの一種,実務内閣Efficient Cabinetが形成された。…
※「ハノーバー朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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冬期3カ月の平均気温が平年と比べて高い時が暖冬、低い時が寒冬。暖冬時には、日本付近は南海上の亜熱帯高気圧に覆われて、シベリア高気圧の張り出しが弱い。上層では偏西風が東西流型となり、寒気の南下が阻止され...
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