バイフ(英語表記)Jean-Antoine de Baïf

改訂新版 世界大百科事典 「バイフ」の意味・わかりやすい解説

バイフ
Jean-Antoine de Baïf
生没年:1532-89

フランスの詩人。1547年以降,パリのコクレ学寮においてギリシア語学者ドラの指導のもとに人文学の研究,詩作を始める。学友ロンサールらとともに,古典およびイタリアの詩作品を模範として,フランス語の表現力を高め詩の革新を実現することを主張するグループ,のちにロンサールによって〈プレイヤード〉と名付けられる詩派を形成する。彼の作品には《メリーヌへの恋愛詩集》(1552),《フランシーヌへの恋愛詩集》(1555)があり,これにより女性と恋愛を技巧的な表現をもって扱うペトラルカ風の詩作の流れに連なる。そのほか書簡詩,風刺詩,古典劇の翻案などがあり,また韻律押韻についての新工夫,綴字法の改革の企ても行ったが,とくに重要な業績とされてはいない。1570年に国王シャルル9世の保護のもとに〈詩歌・音楽アカデミー〉を創立し,詩と音楽を結合する教育機関とすることを志した。
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バイフ
Lazare de Baïf
生没年:1496ころ-1547

フランスの人文学者,外交官。若くしてローマに留学し,古代ギリシア語に習熟して帰国。ビュデに続く世代の代表的古代学者と目される。国王フランソア1世に仕え,1529年ベネチアに大使として赴任。現地の女性との間にやがて詩人・喜劇作家として大成するジャン・アントアーヌをもうける。34年帰国後はパリ高等法院評議官や王室請願聴聞官などを歴任したが,これと並行して古代文化の考古学的・実証的研究に心血を注いだ。《古代衣装考》(1526)や《古代船舶考》(1536)はその成果を集成したもの。ほかにソフォクレス悲劇エレクトラ》のフランス語韻文訳(1537)もある。晩年は息子アントアーヌの人文主義的教育に力を入れ,有名なギリシア学者ドラを招いて家庭教師とした。若き日のロンサールが彼の好意によってこの授業に同席を許されたことはよく知られている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のバイフの言及

【シャンソン】より

…一派の領袖ロンサールは,本来,詩が歌われるべきものであることを繰り返し説き,自らの《恋愛詩集Les amours》(1552)巻末にジャヌカンらによる作曲の実例を添え,収録の全詩がその実例のいずれかに則して歌えることを示し,分類している。また,同派のJ.A.deバイフが1570年にシャルル9世の勅許を得て音楽家クールビルJoachim Thibault de Courville(?‐1581)とともに創設した〈詩と音楽のアカデミーAcadémie de Poésie et de Musique〉では,古典詩法にならって音節の長短をそのまま長短の音符に移そうとする〈韻律音楽musique mesurée à l’antique〉の試みがなされた。16世紀後半の代表的音楽家としてはJ.アルカデルト,コストレGuilaume Costeley(1530か31‐1606),O.deラッスス,ル・ジュヌClaude Le Jeune(1528ころ‐1600),A.ベルトランらが挙げられるが,最上声部支配のホモフォニックな書法と並んでポリフォニックなものの復活,さらにイタリアのマドリガーレに由来する音画技法や半音階法などとも相まって,その様式は多様化している。…

【フランス音楽】より

…ただし16世紀中ほどからイタリア音楽の影響で世紀初めの素朴な性格は薄れた。 しかしイタリア文明との出会いは,非キリスト教的古代への関心を誘い,詩人のJ.A.deバイフは勅許を得て1570年に〈文芸音楽アカデミー〉を設立,古代に学んで詩の韻律的な律動を厳密に追っていくシャンソンの作法を唱道し,ル・ジュヌClaude Le Jeune(1528から30‐1600),コートレGuillaume Cotelay(Costeley)(1530ころ‐1606)らが佳品を残した。 ル・ジュヌ,グディメルはユグノーの音楽家でユグノー詩編に作曲した。…

※「バイフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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