ドイツの大作曲家。多数の音楽家を輩出したバッハ一族最大の存在で,とくに〈大バッハ〉と称される。バロック時代の末期に活躍し,ドイツ音楽の伝統に深く根ざしながらイタリアとフランスの様式をも吸収して〈諸国民様式の融合〉(M.F. ブコフツァー)を実現した。しかしバッハはバロック音楽の集大成,〈一時代の終極〉(A. シュワイツァー)たるにとどまらず,調性,和声,形式など多くの側面で,来るべき古典・ロマン派の様式を予告する〈開拓者〉(H. ベッセラー)でもあった。その音楽はルター派の信仰に基づく深い宗教性,啓蒙主義の影響をうかがわせる合理的な秩序と体系への志向,生命の躍動するリズムと個性的な和声書法,そしてとりわけ精緻極まりない対位法技術を特徴とし,精神内容の深遠さにおいても,作曲技術の完璧さにおいても,西洋の音楽文化が生んだ最大の遺産として後世の作曲家たちに絶大な影響を及ぼした。
バッハの地理的な足跡は,中部ドイツのチューリンゲンとザクセン地方を中心に,北はハンブルクやリューベック,南はカールスバート(現,チェコのカルロビ・バリ),西はカッセル,東はドレスデンまでの比較的狭い範囲に限られ,ドイツ国外に出ることは一度もなかった。また職務についていえば,通算15年を宮廷(オルガン奏者,楽師長,楽長)で過ごしたとはいえ,経歴の大半は教会の音楽家(オルガン奏者,カントル)として,地域共同体への地味な奉仕者に終始した。同年生れのヘンデルが国際的に活躍し,近代的な市民社会の音楽家として波乱に富む生涯を送ったのと,まさに好対照をなしている。
町楽師J.アンブロジウス(〈バッハ一族〉の項目のバッハ家系図の番号(11))の末子として,1685年3月21日,チューリンゲン地方最西端の町アイゼナハで生まれた。幼時の音楽教育については何の記録もないが,父からバイオリンの手ほどきを受け,父の従兄J.クリストフ(13)が弾く教会のオルガンに耳を傾けて育ったことであろう。94年に母,翌年には父を失い,オールドルフの町で教会オルガン奏者をしていた長兄J.クリストフ(22)のもとに引き取られた。ここでJ.パッヘルベルやJ.J.フローベルガーなどのオルガン曲とクラビーア曲を教材に,初めて本格的な音楽教育を受けた。兄秘蔵の楽譜帳をひそかに取り出し,夜ごと月明りで筆写したという逸話は有名である。1700年に北ドイツの町リューネブルクへ移り,ザンクト・ミヒャエル教会付属学校の給費生として聖歌隊に参加し,礼拝音楽の多彩な曲目を体験した。同地のオルガン奏者で作曲家ベームGeorg Böhm(1661-1733),ハンブルクのオルガン奏者J.A.ラインケンからも大きな影響を受け,訪れたツェレの宮廷で初めてフランス音楽にも接した。中部ドイツの質朴な音楽のうちで育ったバッハは,ここにいたって,壮麗な北ドイツ様式や洗練されたフランス様式へと,著しく視野を広げた。
1703年3月からワイマールのヨハン・エルンスト公の宮廷に従僕兼バイオリン奏者として雇われたのち,同年8月,アルンシュタットの新教会(現,バッハ教会)にオルガン奏者として迎えられた。18歳の若者に異例な高給が支給された事実は,オルガン演奏の技術がすでに卓抜であったことを証明している。05年10月から翌年1月末にかけて,バッハは北ドイツのリューベックを訪れて大家D.ブクステフーデの音楽に接し,そこから深い感銘を受けた。その影響は,この時期に書かれた多くのオルガン曲,たとえば有名な《トッカータとフーガ,ニ短調》(BWV565)などに明らかである。しかし,若いバッハは教会を監督する聖職会議としばしば衝突し,07年6月,帝国自由都市ミュールハウゼンのザンクト・ブラジウス教会オルガン奏者へと転任する。同年10月,アルンシュタット時代に知り合ったまた従姉マリア・バルバラ(父の従弟ヨハン・ミヒャエル・バッハ(14)の娘)と結婚。ミュールハウゼンでは,オルガン奏者としての職務を果たすと同時に,教会用声楽曲の作曲と演奏にも熱意を示した。08年の市参事会員改選記念礼拝用のカンタータ《神はわが王》(BWV71)はとくに好評で,その楽譜が市の経費で印刷されたほどであった。これは現存するバッハのカンタータのうちで,彼の生前に印刷された唯一の曲である。
ミュールハウゼンの保守的な音楽環境に不満を抱いたバッハは,1708年6月同市に辞表を提出し,ザクセン・ワイマール公ウィルヘルム・エルンストの宮廷にオルガン奏者兼楽師として採用された。ワイマールでの足かけ9年間はバッハの〈オルガン曲の時代〉と呼ぶことができ,《トッカータとフーガ〈ドリア調〉》(BWV538),《トッカータ,アダージョとフーガ,ハ長調》(BWV564),《オルガン小曲集》(BWV599~644)などをはじめ,オルガン曲の名作が集中的に書かれて,作曲家としても演奏家としても名声が高まった。彼はまた楽師(1714年からは楽師長)として宮廷楽団の活動にも参加し,A.ビバルディをはじめとするイタリアの協奏曲や室内楽に接して大きな刺激を受けた。ビバルディの協奏曲をオルガンやクラビーア独奏用に編曲しただけでなく,自らも協奏曲を作曲した。従来ケーテン時代の作とされていた6曲の《ブランデンブルク協奏曲》(BWV1046~51)のうち,少なくとも第3番と第6番はすでにワイマールで書かれた可能性が大きい。14年からはそれに加えて,毎月1曲の教会カンタータを作曲することもバッハの職務になった。それらはフランクSalomo FranckやノイマイスターErdmann Neumeisterの宗教詩に基づき,アリアとレチタティーボを主体とする新様式のカンタータで,みずみずしい情感にあふれた20曲余りが現存している。バッハは17年8月,アンハルト・ケーテン公の宮廷楽長に任命されたが,ワイマールの領主は辞任を許可せず,17年11月6日から12月2日まで,バッハを不服従の罪で拘禁した。釈放されたバッハがようやく新しい任地ケーテンに移ったのは,その年も押し詰まってからのことであった。ケーテンの領主レオポルトは音楽のよき理解者でバッハの才能を高く評価し,異例の高給をもって遇した。宮廷楽団にも優秀な音楽家が集まっていたので,バッハは斬新な手法を駆使して多くの協奏曲や室内楽を書くことができた。ケーテンの宮廷は新教でカルバン派に属し,教会音楽をあまり重視しなかったから,ケーテンでの6年間,バッハは世俗器楽曲の創作に集中した。三つのバイオリン協奏曲(BWV1041~43),1721年にブランデンブルク辺境伯に献呈した《ブランデンブルク協奏曲》,《無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ》(BWV1001~06),《無伴奏チェロ組曲》(BWV1007~12)などがとくに優れた果実である。
20年7月に妻マリア・バルバラが病死し,幼い子どもを抱えたバッハは翌年12月,16歳年下のソプラノ歌手アンナ・マクダレーナと再婚する。前者との間に7人,後者との間に13人の子どもが生まれ,約半数は幼時に死亡したが,成人した男子6人のうち5人は音楽家へと成長する。20年ころから,バッハの関心は息子たちや弟子の教育のために,また新妻を中心とする一家の団欒のためにクラビーア音楽の創作に向けられ,2声と3声の《インベンション》(BWV772~801),《平均律クラビーア曲集》第1巻(BWV846~869),《フランス組曲》(BWV812~817)などが生まれた。《イギリス組曲》(BWV806~811)の作曲年代については,ワイマール時代の1715年ころとする説が近年有力である。物質的にも精神的にも恵まれた生活を反映するかのように,ケーテン時代の作品には生命の喜びが躍動している。
1722年6月,ザクセンの大都市ライプチヒではトーマス教会カントルの大作曲家J.クーナウが没し,後任としてハンブルクの音楽監督テレマンやダルムシュタットの宮廷楽長グラウプナーChristoph Graupner(1683-1760)らが候補に上がった。しかし彼らが就任を拒否したため,市参事会は〈最良の人物が得られない以上,中庸な者でがまんしなければなるまい〉と言って,23年4月にバッハの採用を決定した。この事実のうちには,バッハがライプチヒで直面するさまざまな困難が予示されている。23年5月,バッハはトーマス教会カントルおよび市の音楽監督としてライプチヒに移り,最後の27年間を再び教会音楽家として送ることになった。トーマス教会カントルは歴代有力な音楽家が務めたルター派教会音楽の要職で,教会付属学校の音楽教師であると同時に,ザンクト・トーマスとザンクト・ニコライの二大教会を中心とするライプチヒ全市の教会音楽の最高責任者でもあり,聖歌隊の訓練,年間60日に及ぶ日曜日と祝祭日の礼拝音楽の作曲・演奏が主要な職務をなしていた。その中心をなすのが教会カンタータで,現存する約200曲のうち,ほぼ180曲がライプチヒで新たに作曲された。しかも,1957年と58年に現れた新しい年代研究によれば,その大多数がライプチヒ時代初期に集中していて,1727年ころからカンタータ創作が激減すること,また1724-25年には賛美歌の歌詞と旋律に基づくコラール・カンタータが集中していることは注目に値する。バッハは全市の音楽監督たることを強く意識し,二大教会のみでなく大学教会の音楽も自分の管轄下に置くことを要求したが,これが拒否されたため,25年,ドレスデンのザクセン選帝侯に3回の提訴を行った。自分の権利を主張して,さらに28年には聖職会議と,29-30年には市参事会とも争い,30年8月,教会音楽の改善を求める覚書を市参事会に提出したが無視される。ライプチヒに希望を失って,同年10月,ダンチヒ在住の旧友に就職依頼の手紙を送った(エールトマン書簡)。またライプチヒでの立場を強化するため,33年には《ロ短調ミサ曲》(BWV232)の〈キリエ〉と〈グローリア〉をザクセン選帝侯に献上し,選帝侯の宮廷作曲家という称号の授与を求めた(1736年に実現)。この間,教会音楽の分野では《暁の星はいと麗しきかな》(BWV1。1725年),《喜びて十字架を担わん》(BWV56。1726年)をはじめとする多数のカンタータ,《ヨハネ受難曲》(BWV245。1724年),《マタイ受難曲》(BWV244。1729年または1727年),《クリスマス・オラトリオ》(BWV248。1734年)などの名作が続々と生み出された。
29-37年と39-41年,バッハはライプチヒ大学の学生を主体とする演奏団体コレギウム・ムシクムの指揮者も務め,選帝侯家表敬のための世俗カンタータをはじめ,毎週コーヒー店で演奏会を催して一連のチェンバロ協奏曲や《コーヒー・カンタータ》(BWV211)などを演奏して,市民の世俗的な音楽生活にも大きな貢献をした。しかしバッハの作風は概して難解なものとみなされ,37-38年,若い世代を代表する評論家シャイベJohann Adolf Scheibe(1708-76)から音楽誌上で痛烈に批判された。30年ころから,教会音楽の創作に代わって,バッハは旧作の改訂や曲集の出版に熱意をみせ始める。こうして31年に6曲のパルティータ(BWV825~830)が《クラビーア練習曲集》第1部として,35年には《イタリア協奏曲》(BWV971)と《フランス風序曲》(BWV831)が同第2部,39年にはオルガン・コラール集が同第3部,42年ころにはチェンバロ曲の大作《ゴルトベルク変奏曲》(BWV988)が同第4部としてそれぞれ出版された。出版にはいたらなかったが,《平均律クラビーア曲集》第2巻(BWV870~893)も,ライプチヒ時代後期の重要な産物である。晩年のバッハは《農民カンタータ》(BWV212。1742年)のような世俗曲で明快な和声的書法をみせるかたわら,フリードリヒ大王にささげられた《音楽の捧げもの》(BWV1079。1747年)や未完の大作《フーガの技法》(BWV1080。1749年)においては難解な対位法技術の集大成が試みられている。49年初頭から眼疾が悪化し,2回の手術も甲斐なくついに失明し,50年7月28日夜,卒中のために65年の生涯を閉じた。遺体はヨハネ墓地に埋葬されたが20世紀に改葬され,現在は聖トーマス教会祭壇前の床下に眠っている。
バッハの創作活動はそのときどきの職務と密接に結びつき,後世の自由創作的な態度は晩年を除いてほとんどみられない。ベートーベンのように未来の聴衆を予測することもなく,与えられた条件の中で最善を尽くすというのが彼の基本的な姿勢である。しかし教会,宮廷,都市の3者にまたがってしばしば任地を変えた結果,彼の作品はオペラを除く当時のほとんどあらゆるジャンルにわたっている。それらは声楽曲と器楽曲に大別されるが,声楽曲がしばしば器楽的な旋律をもち,器楽曲の中にも声楽的な表現がみられるというように,声楽様式と器楽様式の相互浸透がバッハの作風の大きな特色である。声楽曲はさらに教会カンタータ,モテット,受難曲,オラトリオ,ミサ曲,マニフィカトなどの教会音楽と,世俗カンタータや歌曲のような世俗曲に分けられるが,ここでも教会様式の中に多くの世俗様式が入り込んでいる。とくに,世俗声楽曲に宗教的な歌詞を付けて教会音楽に仕立て直すパロディの手法は注目すべき点であろう。
器楽曲は楽器や編成によって,オルガン曲,クラビーア曲,室内楽,協奏曲,管弦楽組曲に分けられる。ドイツ最大のオルガン奏者として名声の高かったバッハにとって,オルガンは少年時代から最も身近に親しんだ楽器であり,オルガンこそが彼の発想の原点だといっても言い過ぎではない。オルガン曲の中には,一方に華麗な演奏技術を駆使する〈トッカータとフーガ〉〈前奏曲(幻想曲)とフーガ〉などがあり,他方にはルター派教会音楽の源泉たるコラールを用い,内面的な表現を特徴とする〈コラール前奏曲〉〈コラール変奏曲〉などがある。さらに3声書法を1個のオルガン上で実現した6曲の《トリオ・ソナタ》(BWV525~530),1個の低音主題による構築的な変奏曲《パッサカリア(とフーガ)》(BWV582)もバッハ様式の優れた例である。
クラビーア(チェンバロまたはクラビコード)曲には,元来教育を目的とした《インベンション》や《平均律クラビーア曲集》と,多彩な舞曲を配列した数多くの組曲のほか,ビバルディの協奏曲形式をチェンバロ独奏に応用した《イタリア協奏曲》,1個の低音主題に基づいて前人未到の演奏技巧を繰り広げる《ゴルトベルク変奏曲》,さらには半音階的な旋律と和声によって個性的な表現を達成した《半音階的幻想曲とフーガ》(BWV903)がとりわけ重要である。
室内楽の中には,バロック時代の慣用に従ったトリオ・ソナタや通奏低音付ソロ・ソナタもあるが,バッハの特徴はむしろ,1個の旋律楽器とオブリガート・チェンバロのための《バイオリン・ソナタ》(BWV1014-19)や《フルート・ソナタ》(BWV1030,1032),そしてとくに単一の楽器から限りない可能性を引き出した《無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ》および《無伴奏チェロ組曲》に認められる。前者では純粋器楽の中にしばしば宗教的ともいえる深遠な表現がみられ,後者は純粋な音の運動そのものが確かな音楽的実在と化している。一連の協奏曲でバッハはビバルディを範としながらも,対位法的な織地を豊かにして深さを与え,13曲のチェンバロ協奏曲(BWV1052~65)では,のちのピアノ協奏曲へとつながる新たなジャンルを創出した。《音楽の捧げもの》と《フーガの技法》は,いずれも単一主題によるフーガとカノンの曲集だが,その大部分に楽器の指定がなく,いわば現実の音響を超越した抽象音楽の趣さえ感じられる。
バッハの作品で彼の生前に印刷出版されたものは数少なく,大部分は自筆または他人の筆写による手稿譜として後世に伝えられた。クラビーア曲を中心に19世紀初頭から徐々に出版の動きがみられたが,全作品の集成は19世紀後半の《バッハ全集》(BG版)によって初めて実現した。1954年から,詳しい研究成果に基づいて,約90巻の《新バッハ全集》(NBA)が刊行されつつある。バッハの作品を整理するため,シュミーダーWolfgang Schmieder(1901- )が1950年に《バッハ作品目録》(BWV)を刊行した。モーツァルトのケッヘル番号と同じように,バッハの作品には現在このBWV番号を付けるのが一般化している。ただし,この番号はジャンル別の分類に基づくもので,作曲年代の順序とはまったく関係がない。旧バッハ全集やBWVで従来バッハの作品とされていたものの中で,最近の研究によって偽作ないし疑作とされたものが相当数に上る半面,新たに発見された作品の数はきわめて限られている。その中には,1966年に服部幸三と角倉一朗によって日本で発見されたコラール編曲《深き淵より》(前田育徳会),76年にストラスブールで発見された《14のカノン》(BWV1087。パリ国立図書館),そして84年にC.ウォルフによってアメリカで発見された33曲のオルガン・コラール(イェール大学)などがある。
執筆者:角倉 一朗
ドイツの作曲家,クラビーア奏者。J.S.バッハの次男で,〈ベルリンのバッハ〉〈ハンブルクのバッハ〉と呼ばれる。J.S.バッハの息子たちのうち作曲家として最も大成し,前古典派を代表する一人となってハイドンやベートーベンにも大きな影響を与えた。ワイマールで生まれ,ライプチヒでトーマス学校を卒業後,同地とフランクフルト・アン・デル・オーデルの大学で法律を学んだ。その間にも作曲と演奏を続け,1740年にはベルリンでプロイセン国王フリードリヒ2世(大王)の宮廷クラビーア奏者に任命された。大王とは音楽上の趣味が一致せず,あまり重用されなかった。67年に名付親のテレマンが死ぬと,その後任として,ハンブルク市の音楽監督に迎えられ,没するまで同地で五つの主要教会のために教会音楽を作曲・演奏するとともに,交響曲や室内楽の分野でも市民の音楽生活に大きく貢献した。彼の作品には約200曲のクラビーア独奏曲を中心に,協奏曲,交響曲,室内楽,受難曲,歌曲など多くがあり,斬新な転調,ロマン主義を予測させる自由な感情表出(多感主義)を特徴としている。とくにクラビーア・ソナタで急・緩・急の3楽章形式を確立し,第1楽章で古典派のソナタ形式への道を開いた功績は大きい。またクラビーア教科書《正しいクラビーア奏法の試論》2部(1753,62。邦訳《正しいピアノ奏法》1963)も,当時の演奏法を知るうえで重要な文献となっている。彼の時代はハープシコードやクラビコードから初期のピアノへの過渡期にあたり,ハープシコードとピアノの対照をねらった二重協奏曲も書いた。
執筆者:角倉 一朗
ドイツの作曲家。〈ミラノのバッハ〉〈ロンドンのバッハ〉と呼ばれる。J.S.バッハと2度目の妻アンナ・マクダレーナの末子としてライプチヒで生まれた。15歳で父を失い,ベルリンで兄エマヌエル(C.P.E.バッハ)から教育を受けた。1754年からイタリアに住み,ボローニャでG.B.マルティーニ神父に師事したのち,カトリックに改宗してミラノで教会音楽の作曲家や大聖堂オルガン奏者として活躍。やがてオペラの作曲家としても名声を確立し,62年からロンドンに定住して次々にオペラを上演,王室や貴族の音楽教師としても絶大な人気を博した。64年には,ロンドンを訪れた8歳のモーツァルトを親しく教え,大きな影響を与えることになった。65年から友人アーベルKarl Ferdinand Abel(1725-87)とともに始めた〈バッハ・アーベル演奏会〉も,近代的な公開演奏会の早い例として重要である。しかし,ロンドン市民の趣味が変化したため晩年には急速に人気が衰え,多くの借財を残して没した。作品にはオペラや宗教音楽も多いが,クラビーア協奏曲,協奏曲,交響曲などの器楽が重要で,イタリア趣味の流麗な旋律と明快な和声,ギャラント様式の優雅な表現を特徴としている。
執筆者:角倉 一朗
ドイツの作曲家,オルガン奏者。J.S.バッハの長男としてワイマールで生まれた。父バッハはこの長男の教育用に《ウィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラビーア小曲集》を書いた。その中には《インベンション》や《平均律クラビーア曲集》第1巻の一部が含まれている。1733年ドレスデンのソフィア教会,46年にはハレのマリア教会オルガン奏者となり,卓越した演奏によって高く評価された。しかし不安定な性格ゆえに64年にハレの職を辞した。一時ブラウンシュワイクに住んだのち,74年からベルリンに定住したが,死ぬまで定職に就かず,教授や作曲によって貧しい生活を続けた。J.S.バッハの息子たちの中で最も豊かな才能をもちながらも天才肌の奇矯な行動が多く,教会カンタータ,クラビーア曲,協奏曲,交響曲など多くの作品を残して孤独と貧困のうちに没した。
執筆者:角倉 一朗
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツ・バロック音楽を代表する作曲家、オルガン奏者。200年にわたり多数の音楽家を輩出したバッハ一族最大の音楽家で、「大バッハ」とよばれる。彼に至る西洋音楽史を集大成するような偉大な存在だが、優秀な息子たちと多くの弟子をもったため、後代の音楽の発展にも重要な影響を及ぼした。とくに19世紀にはパレストリーナと並んで古い音楽伝統の象徴的存在とみなされ、あらゆる音楽家の学習の対象となった。すでにモーツァルトもゴットフリート・ベルンハルト・バン・スウィーテン男爵の影響でバッハを研究しており、それなしには『ジュピター交響曲』や『レクイエム』をはじめとする晩年の傑作の充実は考えられない。少年時代に、師のネーフェの指示でバッハの『平均律クラビア曲集』を学んだベートーベンも、「バッハは小川(バッハ)ではなく大海(メール)である」と述べるほどバッハを尊敬し、大きな影響を受けていた。しかし、バッハに対する一般の評価を決定的なものとしたのは、1802年に出版されたフォルケルによる最初の『バッハ伝』と、1829年に弱冠20歳のメンデルスゾーンによってベルリンで行われた『マタイ受難曲』の歴史的な復活上演であった。さらにブラームスはベートーベンを超克するための創造力の源泉をバッハに求めている。現代音楽への扉を開いたシェーンベルクが、「十二音技法」の理論的支柱をバッハの対位法に求めている点も注目に値する。
なお彼の作品番号は、今日ではW・シュミーダー編の『バッハ作品主題目録』Bach-Werke-Verzeichnis(略称BWV)(1958)が広く用いられており、ここでもそれに従った。
[樋口隆一]
1685年3月21日、中部ドイツ、チューリンゲン地方の小都アイゼナハで生まれている。父アンブロジウスは同市の町楽師、その従兄(いとこ)ヨハン・クリストフ・バッハ(1642―1703)はセバスチャンが洗礼を受けた聖ゲオルク教会のオルガニストという音楽的な環境に育った。この2人にとどまらず、バッハ一族は中部ドイツを代表する音楽家系であった。9歳となった94年の5月に母エリーザベトを、翌95年2月に父アンブロジウスを失ったバッハは、オールドルフの教会オルガニストだった長兄ヨハン・クリストフ(1671―1721)のもとに引き取られた。この兄はヨハン・パッヘルベルのもとで修業した優秀な音楽家であり、オルガン演奏や作曲など、バッハは彼から多くを学んだことであろう。閲覧を禁じられていた兄所有の曲集を見たい一心で、毎晩夜中に起き出して月の光の下に写譜した、という少年バッハの勉強熱心を伝える逸話も残っている。1700年3月、バッハはオールドルフを後に北ドイツのハンザ都市リューネブルクに向かった。聖ミカエル教会朝課合唱隊に採用され、ミカエル学校で学ぶことができたからである。リューネブルク時代のバッハは、近くのハンブルクではラインケンのオルガン芸術とカイザーらのオペラ、またツェレではフランス音楽に接する機会を得た。リューネブルク聖ヨハネ教会オルガニストだった巨匠ゲオルク・ベームの影響も忘れてはならない。
[樋口隆一]
1702年春、ミカエル学校を卒(お)えたバッハは、翌03年3月から約半年ワイマール公ヨハン・エルンストの宮廷楽師を務めたのち、アルンシュタット新教会オルガニストとなった。18歳の青年音楽家にとって、ここでの4年間は矛盾と問題に満ちたものとなった。若いオルガニストは、自分より年上の生徒もいる聖歌隊との折り合いが悪く、ついにはその1人ガイエルスバッハと立回りを演じる始末、さらに4週間の休暇をとって出かけたリューベック旅行も無断で4倍も長いものとなり、聖職会議にたしなめられることとなる。リューベック聖マリア教会のオルガン奏者ブクステフーデの芸術は、若いバッハにそれほど魅力的だったのである。バッハは新天地を求めた。帝国自由都市ミュールハウゼンの教会オルガニストとなるのである。07年4月24日の復活祭に行われた試験演奏では、おそらくカンタータ『キリストは死の絆(きずな)につきたまえり』(BWV4)が上演され、彼の輝かしいカンタータ創作の第一歩が踏み出された。わずか1年間のミュールハウゼン時代には、さらに『深き淵(ふち)より』(BWV131)、『神の時は最上の時』(BWV106)、『神はわが王』(BWV71)のような傑作が書かれた。最初の妻マリア・バルバラとの結婚もこの1707年のことであった。
[樋口隆一]
1708年6月25日、バッハはミュールハウゼン市参事会に突然辞表を提出し、ワイマール宮廷オルガニスト兼宮廷楽師となった。よりよい待遇と職業上の可能性とが理由であった。『オルガン小曲集』(BWV599~644)をはじめとする多数のオルガン曲の傑作が生まれた。ビバルディらのイタリアの協奏曲をオルガンやチェンバロの独奏用に編曲したのもこのころだが、それはオランダ帰りの若い公子ヨハン・エルンストの依頼によるものだった。14年楽師長に昇進したバッハは、毎月一曲の割合で新作のカンタータを上演する義務を与えられた。『天の王よよくぞ来ませり』(BWV182)、『泣き、嘆き、憂い、畏(おそ)れよ』(BWV12)、『わが心は血の海に浮かぶ』(BWV199)をはじめとする、いわゆるワイマール・カンタータの数々はこうして生まれるのである。16年12月1日、楽長ドレーゼが世を去るが、後任にはその息子が指名され、バッハは昇進の道を失った。新たな可能性を外に求めた彼にケーテン宮廷楽長への道が開けた。しかしワイマール公は辞職を許すどころか、バッハを1か月の禁錮処分にするのである。
[樋口隆一]
1717年12月、禁錮にも屈しなかったバッハはケーテンに移籍を敢行した。音楽好きの君主レオポルト侯は優秀な宮廷楽団をもち、バッハもそのために多数の室内楽曲や協奏曲を作曲した。しかし20年、妻マリア・バルバラを失い、音楽予算が削減されるに及び、彼の目はふたたび外に向き始める。その年11月のハンブルク聖ヤコビ教会オルガニストへの応募、翌21年3月のブランデンブルク辺境伯への『ブランデンブルク協奏曲集』(BWV1046~1051)の献呈はその表れで、23年にはついにライプツィヒに移籍することになる。この間、20年には『無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ』(BWV1001~1006)、22年には『平均律クラビア曲集』の第一巻(BWV846~869)の自筆浄書譜が完成している。また21年にはアンナ・マクダレーナ(1701―60)と再婚している。
[樋口隆一]
1723年5月5日、ライプツィヒ市のトマス・カントル兼音楽監督に就任したバッハは、トマス学校での教育と、同市の主要四教会への教会音楽の供給に多忙な日々を過ごすことになった。こうして毎週の礼拝に上演されるため、現存するだけでも200曲近い教会カンタータや、「マタイ伝」や「ヨハネ伝」に基づく受難曲が作曲された。とくに27年に初演された『マタイ受難曲』は、そうした活動の頂点を形づくるものといってよい。市の上層部との関係が悪化した30年は、転機であり危機でもあった。すでに前年に指導を始めていた学生音楽団体コレギウム・ムジクムとの活動が増し、宗教曲にかわって協奏曲や『コーヒー・カンタータ』(BWV211)、『農民カンタータ』(BWV212)に代表される世俗カンタータの創作の比重が大きくなった。啓蒙(けいもう)主義の影響による感覚的でわかりやすい音楽の隆盛から流行遅れとみなされたバッハは、しだいに自己の芸術の集大成を目ざすようになった。こうして『クラビア練習曲集』第一部~第四部(1731~42ころ)、『音楽の捧(ささ)げもの』(1747、BWV1079)、『シュープラー・コラール集』(1748、BWV645~650)が出版された。『フーガの技法』(1740年代、BWV1080)が作曲され、『ミサ曲ロ短調』(BWV232)が完成されたのもこの一環としてとらえられる。最後の作品となったこの壮大なミサ曲は、1733年にザクセン選帝侯に献呈したキリエとグロリアをその第一部とし、やはり既存のサンクトゥスを利用しながら、最晩年の48年秋から失明直前の翌49年春にかけて残りの部分を作曲し、完全なミサ曲としたもので、そこには伝統的な声楽ポリフォニー様式から、当時最新の華麗様式(ギャラントスタイル)に至る声楽作曲法のあらゆる可能性が示されている。こうしてバッハは西洋音楽史上の一大記念碑を自らの手で打ち立てたのち、その生涯を終えている。1750年7月28日、そこひの手術の失敗による衰弱と卒中の発作が死因であった。
[樋口隆一]
『樋口隆一著『バッハ』(新潮文庫)』▽『辻荘一著『J・S・バッハ』(岩波新書)』▽『角倉一朗著『バッハ』(1963・音楽之友社)』▽『礒山雅著『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』(1985・東京書籍)』▽『W・フェーリクス著、杉山好訳『J・S・バッハ 生涯と作品』(1985・国際文化出版社)』▽『K・ガイリンガー著、角倉一朗訳『バッハ――その生涯と音楽』(1970・白水社)』▽『A・シュヴァイツァー著、浅井真男・内垣啓一他訳『バッハ』全3巻(1983・白水社)』▽『角倉一朗監修『バッハ叢書』10巻・別巻2(1976~ ・白水社)』▽『樋口隆一著『バッハの旅』(1986・音楽之友社)』▽『樋口隆一著『原典版のはなし――作曲家と演奏家のはざまに』(1986・全音楽譜出版社)』▽『樋口隆一著『バッハ・カンタータ研究』(1987・音楽之友社)』
ドイツの作曲家。大バッハと最初の妻マリア・バルバラの次男として3月8日ワイマールに生まれる。その活動地により「ベルリンのバッハ」または「ハンブルクのバッハ」ともよばれた。父から音楽教育を受け、ライプツィヒとフランクフルト・アン・デア・オーデルの大学で法学を学び、1738年プロイセン皇太子フリードリヒに仕え、その王位継承とともにフリードリヒ2世の宮廷チェンバロ奏者としてベルリンで活躍、大王に捧(ささ)げた『プロイセン・ソナタ集』、ウュルテンベルク公のための『ウュルテンベルク・ソナタ集』をはじめとして、多数のクラビア・ソナタを作曲、『正しいクラビア奏法』を著した。67年、名付け親テレマンの死に伴い、その後任としてハンブルク教会音楽監督として君臨、優れたクラビア演奏家としても名声を博した。当時「大バッハ」とよばれたのはJ・S・バッハでなく、このエマヌエル・バッハのことである。88年12月14日ハンブルクで没。バロックとクラシックの中間を占める彼の作品は、交響曲、協奏曲、室内楽曲、クラビア曲、教会音楽、歌曲と多作だが、その多感様式は前古典派形成に重要な位置を占めている。
[樋口隆一]
ドイツの作曲家。大バッハと第二の妻アンナ・マグダレーナとの間の末子として9月5日ライプツィヒに生まれる。父の教育を受けたが、15歳で父を失い、ベルリンの次兄エマヌエルに引き取られた。同地の宮廷オペラに魅せられ、1756年にはミラノに向かい、リッタ伯爵の宮廷楽長として活躍、ボローニャのマルティーニ師の指導を受け、60年にはカトリックに改宗してミラノ大聖堂オルガン奏者となるが、トリノやナポリでのオペラの成功は、62年のロンドン行きの原因となった。王立劇場でのオペラの成功、有名なバッハ・アーベル演奏会(1775以降)の開催により、ヘンデル以後のロンドン音楽界の大立て者となった。82年1月1日ロンドンで没。のちに「ミラノのバッハ」または「ロンドンのバッハ」とよばれた彼は、12のオペラ、90曲の交響曲、多数の室内楽曲、クラビア曲を残したが、「歌うアレグロ」とよばれるイタリア的な様式は前古典派の形成に重要で、モーツァルトにも大きな影響を与えている。
[樋口隆一]
ドイツの作曲家、オルガン奏者。大バッハと最初の妻マリア・バルバラの長男。ワイマール生まれ。父の指導で鍵盤(けんばん)楽器演奏と作曲を学んだうえ、メルゼブルクのJ・G・グラウンにはバイオリンを学んでいる。1733~46年ドレスデンの聖ソフィア教会オルガン奏者を務めたのち、46~64年ハレの聖マリア教会オルガン奏者兼音楽監督。その後は定職をもたず、貧困のうちにベルリンで没した。その特異な性格は多くの器楽曲や教会音楽作品に独自の個性を与えている。
[樋口隆一]
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1685~1750
ドイツの音楽家。オルガンの作曲,演奏家として知られ,長くライプツィヒのトーマス教会合唱指揮者を務め,教会音楽,器楽に膨大な作品を残した。作品には多音音楽と和声音楽が巧みに摂取されており,近代音楽の創始者と呼ばれるにふさわしい。
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… 1750年のバッハの死以後今日に至るドイツ音楽の目ざましい発展については,よく知られているので,ここではその大筋を追うにとどめたい。18世紀中葉の新興市民階級の登場とともに,ドイツ音楽もバロックの貴族的・宮廷的・宗教的壮麗と威厳を捨て,簡単な和声伴奏の上に親しみやすい旋律を歌わせるホモフォニーによって,テレマンのロココ音楽,マンハイム楽派の多感様式,あるいはエマヌエル・バッハCarl Philipp Emanuel Bach(1714‐88)のシュトゥルム・ウント・ドラング的音楽を生み出した。この方向はやがてハイドン,モーツァルト,ベートーベンらのウィーン古典派の交響曲や室内楽に結集され,ドイツ的なものを中心にイタリアや東欧の要素を内に含んで,全ヨーロッパに通用するドイツ音楽の頂点を形成した。…
…タッチに敏感で繊細な美しい音色をもつので,感情の自然な表出を目指した感情過多様式empfindsamer stilにとって最適の楽器であった。18世紀後半のドイツで大変好まれ,なかでもC.P.E.バッハは,《わがジルバーマン・クラビーアへの別れ》(Wq.66,1781)ほか多数のクラビコードのための作品を残すとともに著書《クラビーア演奏の正しい技法についての試論》(第1部1753,第2部1762)のなかでクラビコードの特質や奏法について詳しく述べている。19世紀にいったん廃れたが20世紀に入ると古楽復興のブームに乗って復活し,少数ながら新しい作品も書かれている。…
…バッハ,モーツァルト,ベートーベン,ブラームス,ワーグナーらに代表されるドイツ音楽の偉大さがしばしば語られる。しかし,ドイツ音楽を簡単に定義することはできない。…
…とくに16,17世紀に器楽曲が隆盛になるにつれて,作曲されるようになり,J.ダウランドの息子ロバートRobert Dowland(1591ころ‐1641)のリュート教則本《リュート・レッスンのさまざま》(1610)や,J.プレーフォードの出版したビオル教則本は初期の最も重要な練習曲に数えられる。18世紀に入るととくに鍵盤楽器を中心に多くの練習曲および教則本がつくられるが,なかでもF.クープランの《クラブサン奏法》(1716),エマヌエル・バッハの《正しいクラビーア奏法の試論》2部(1753,62)は,運指法や装飾法の手引きとしてだけではなく,作曲家の個人様式や特定の時代様式に即した練習の手引きとしても意味をもつ。また,J.S.バッハの《インベンション》は息子や弟子の教育目的に作曲された練習曲であり,彼の《イタリア協奏曲》や《ゴルトベルク変奏曲》などは《クラビーア練習曲集》として出版された。…
…しかもこの300年期の中間には,およそ150年の間隔でさらに時代を画する現象を指摘することができる。少なくとも記録のある限り850年ごろといえるポリフォニーの始まり,初期ポリフォニーの最初の成果を示す1150年ごろの聖マルシアル楽派,1450年ごろに起こりルネサンス時代の開始を告げるフランドル楽派,J.S.バッハが没しバロック時代の終りを記す1750年。美術史から借用され音楽史でも一般化している様式概念を以上の時代区分に当てはめるならば,西洋音楽の歴史は,《ハーバード音楽辞典Harvard Dictionary of Music》(1944)にならって,およそ次のように図式化できよう。…
…J.S.バッハの作品(BWV1079)。3声と6声のリチェルカーレ各1曲,フルート,バイオリン,通奏低音のためのトリオ・ソナタ1曲,2~4声の種々のカノン10曲から成り,《フーガの技法》(1745ころ‐50。…
…バロック時代の声楽形式で,一つの物語を構成する歌詞がアリア,レチタティーボ,重唱,合唱などからなる多楽章形式に作曲されている点から,小型のオペラまたはオラトリオともいえる。J.S.バッハによって,今日では教会礼拝用音楽としての教会カンタータが有名であるが,バロック時代を通じての標準的で一般的なカンタータは世俗カンタータであった。バッハの教会カンタータは教会曲Kirchenstückともよばれた。…
…ただし,他の宗教にも数多くの宗派宗旨があるように,キリスト教にも,カトリックとプロテスタントの二大教会の別があり,それぞれの内部に数多くの教派があって,音楽的伝統も一様ではない。芸術的に見た場合,それらの中でとくに重要なのは,パレストリーナやベートーベンのミサ曲によって代表されるローマ・カトリック教会,バッハのカンタータや受難曲によって代表されるルター派のドイツ福音主義教会,パーセルのアンセムやヘンデルのオラトリオによって代表される英国国教会,ボルトニャンスキーの教会コンチェルトによって代表されるロシア正教会などである。 イエス・キリストの生涯を書き記した新約聖書の福音書には,ただ1ヵ所だけ音楽に言及した個所がある。…
…ルターの作をはじめとする16世紀のコラールは,信徒の共同体意識を強調したものが多く,ニコライPhilipp Nicolai(1556‐1608)作曲の《目覚めよと呼ぶ声聞こゆ》《たえにうるわし暁の星》で,一つの頂点をきわめる。17世紀に入るとしだいに個人的な心情を歌った作風が支配的となるが,J.リスト作詞,ショップJohann Schop(1590ころ‐1667)作曲の《奮い立てわが心》(バッハの《主よ,人の望みの喜びよ》の原曲)のような佳曲も見られる。18世紀は全般的に見て衰退期である。…
…これらのテキストでは聖書の言葉はほとんど完全に排除されているが,前者はヘンデル,テレマン,R.カイザー,マッテゾンらによって,後者はカルダーラ,N.ヨンメリ,パイジェロらによって作曲された。他方,J.S.バッハの《ヨハネ受難曲》(1724)は,部分的にブロッケスの詩をとり入れてはいるが,福音史家の記述を中心として受難曲本来の叙事詩的な性格を回復した名作であり,彼の《マタイ受難曲》(1729)は,ピカンダーPicander(本名Christian Friedrich Henrici,1700‐64)の宗教詩をとり入れながらもさらに聖書的な性格が強く,叙事的・抒情的・劇的な要素を壮大な規模で有機的に統合した記念碑的な作品である。
[受難オラトリオ]
バッハの没後は,宗教的な劇音楽の演奏の場所がしだいに教会から演奏会場へ移るのに伴って,本来の意味での受難曲は衰微し,代わってイエスの受難を題材としたオラトリオが主流を占めるようになった。…
…しかしその一方,従来は許されなかったような旋律進行が和音によって正当化され,各声部の動きが多様化したことも事実である。このような調的対位法は18世紀前半のJ.S.バッハによって集大成され,フーガを中心とする彼の対位法的楽曲においては,各声部のきわめて自立的かつ性格的な旋律進行と,豊かで多様な和音を伴う和声進行の相互作用が独特な緊張感を生み,対位法と和声法の比類ない総合が達成された。 古典派の時代に入ると,たいていは最上声に置かれる主要旋律と,それを伴奏する副次声部や和音というホモフォニーの書法が主流を占め,諸声部の均質性という16世紀以来の対位法の理想は解体する。…
…バッハ,モーツァルト,ベートーベン,ブラームス,ワーグナーらに代表されるドイツ音楽の偉大さがしばしば語られる。しかし,ドイツ音楽を簡単に定義することはできない。…
…そうしたトッカータを高度に発展させたのが北ドイツ・オルガン楽派の雄ブクステフーデである。オルガンの名手として名高かったJ.S.バッハは若い頃しかこの種のトッカータを作曲しなかったが,彼の有名なニ短調の《トッカータとフーガ》(BWV565)は,1705年にリューベックのブクステフーデを訪れたときの感動をそのままに伝えている。クラビーアのための有名な《半音階的幻想曲とフーガ》(BWV903)にもトッカータ精神がみなぎっている。…
…しかし,その後のバロックの独奏協奏曲の規範となったトゥッティtutti(総奏部)とソロsolo(独奏部)の鋭い対照,急・緩・急の3楽章形式という特徴を確立したのは,《調和の幻想》(1712)をはじめとするビバルディの多数の協奏曲作品である。その後の世代にビバルディの様式は協奏曲の典型と見なされ,J.S.バッハ,ヘンデル,テレマンはその影響のもとに多数の協奏曲を書いている。他方,高度の技巧の追求も行われ,バイオリンの多声的な可能性の極限を示したJ.S.バッハの《無伴奏ソナタとパルティータ》(1720)や,《24のカプリッチョ》を含むロカテリの《バイオリンの技法》(作品3。…
…およそ16世紀末から18世紀前半にかけての音楽をいう。この時代に活躍した音楽家の中では,J.S.バッハ,ヘンデル,ビバルディらの名が広く知られているが,彼らは後期バロックの巨匠であり,初期を代表するモンテベルディやフレスコバルディ,中期のリュリやコレリらも見落とすことができない。同時代の美術の場合と同じく,バロック音楽を社会的に支えたのは,ベルサイユの宮廷に典型を見る絶対主義の王制と,しだいに興隆する都市の市民層であった。…
…しかし彼の発明はイタリアでは注目されず,むしろドイツとイギリスで発展した。ドイツではG.ジルバーマン(ジルバーマン)がクリストフォリの考案を採用して何台かを試作し,1740年代にはフリードリヒ大王のポツダム宮殿にも採用されて,晩年のJ.S.バッハがそれを試奏した。クリストフォリやG.ジルバーマンの打弦機構はいわゆる〈突き上げ方式Stossmechanik〉で,ハンマーは鍵と独立して別の固定的な支点をもち,ハンマーの付け根をレバーが突き上げて打弦する。…
…また,リチュルカーレにおける動きの少ないゆったりとした主題に代わり,運動性や多様性に富んだフーガ独自の主題が求められ,主題の入りを明確にするために,しばしば跳躍音程を取り入れるくふうも行われるようになった。 フーガの技法の最も高い芸術性はJ.S.バッハにみることができる。彼はフーガの主題を,より個性的なものにするとともに,楽曲全体に調的対立に基づく形式性を与えた。…
…日本では復顔法を行った例はあまり多くない。欧州ではかつて,地下室墓地の多数の骨の中に入りまじっていた音楽家バッハの頭蓋骨を判別するために復顔法を行ったところ,肖像画に一致した例が知られている。復顔像作製の材質は,はじめよく湿した粘土を用いて頭蓋骨に形体をつくりあげ,つぎに,これにセッコウあるいはセレシン系物質の混合物を使用することが多い。…
…J.S.バッハの6曲から成る協奏曲集(BWV1046~1051)。ケーテンの宮廷楽長時代のバッハが,1721年3月,この6曲をブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートウィヒChristian Ludwig(1677‐1734)に献呈したところからこの呼名が生まれた。…
…J.S.バッハの2巻から成る曲集で(第1巻BWV846~869,第2巻BWV870~893),各巻とも24の前奏曲とフーガを含む。当時まだ新しかった平均律(ただし現在のような12等分平均律ではない)の可能性に挑戦し,すべての長調と短調を用いた画期的な曲集で,各巻ともハ長調から始まってハ短調,嬰ハ長調,嬰ハ短調……というように,長調と短調を交互に置いて最後のロ短調まで半音階的に順次上行する配列がとられている。…
…《マタイによる福音書》によるキリスト受難の物語を題材とする音楽。とくにJ.S.バッハの作品(BWV244)が有名で,プロテスタント教会音楽の最高峰に数えられる。《マタイによる福音書》26~27章を中心にして,ルター派の賛美歌(コラール)と抒情的な宗教詩を配したピカンダーPicander(本名Christian Friedrich Henrici,1700‐64)の台本によって作曲され,1729年4月15日(一説では1727年4月11日)の聖金曜日にライプチヒのトーマス教会で初演された。…
※「バッハ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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