翻訳|Babylonia
現在のイラクのバグダード以南の沖積平野を中心としたメソポタミア南部を指す歴史的呼称。しばしば北部のアッシリアと対比され,またバビロニア南部はシュメール,北部はアッカドと呼ばれる。その歴史は,厳密にはバビロンによるメソポタミア南部の統一をもって始まるとみるべきであろうが,以下の記述では,サルゴンによるアッカド帝国の建設によりメソポタミア南部が初めて政治的に統合された時をもってその出発点とし,アレクサンドロス大王による征服までを扱う。なお,以下に掲げるアケメネス朝以前の諸王の治世年代はすべてA.レオ・オッペンハイム《古代メソポタミア》(改訂版,1977)に付されているJ.A.ブリンクマンの年代表に従う。
サルゴン(在位,前2334-前2279。以下同)は,後世の伝承によると,父は不詳,母はエントゥと呼ばれる女神官であった。その母は,サルゴンを秘密裏に生んだ後,これを防水した葦の籠に入れ川に流したが,アキという人物がこの幼児を拾い上げ,育てたことになっている。サルゴンは一時キシュの王宮に仕えたが,後にアッカドに移って独立し,ウルク,ウル,ラガシュ,ウンマなどのシュメール諸都市を征服した。彼はシリアにも遠征し,〈上の海から下の海に至るまで〉の領域を支配下におさめ,従来の都市国家の枠をはるかに越えた帝国を築き上げた。
その子リムシュとマニシュトゥシュの代に,アッカド帝国は一時衰えるが,サルゴンの孫ナラムシンの治世になってサルゴン時代の栄光を取り戻した。ナラムシン(前2254-前2218)は新しい王号〈四方(世界)の王〉を称して自己の支配権の大きさを誇った。ナラムシンはまた生存中に神格化された最初のメソポタミアの王としても知られる。シュメール王権の絶対化の過程で,王を神の子とする考え方は既に存在したが,生きている王が神となるのはナラムシンが最初である。先サルゴン時代のシュメール都市国家の王は,実際にはどうであれ,神によって王位を授けられるものと考えられていた。しかしアッカド帝国では,従来のシュメール都市国家の王職に相当する知事職が,アッカド王により任命されることになった。言い換えれば,先サルゴン時代に神々が有していた機能を今やアッカド王がもつことになったが,在位中の王の神格化はこのような事情を反映したものともいえる。このことは後述のウル第3王朝の王たちについても当てはまる。ナラムシンの治世に回復したアッカド帝国の栄光は,しかし永続きせず,その子シャルカリシャリ(前2217-前2193)の代でその歴史は事実上終わる。
アッカド帝国滅亡の直接の原因は,北東の山岳地帯からやってきたグティ人の侵入であった。グティ人はそのまま南メソポタミアの大半を支配したが,ラガシュなどのように独立を保ち,遠隔地との交易で栄えた国もあった。グティ人支配から南メソポタミアを解放したのはウルクの王ウトゥヘガルであったが,これを再建したのはウトゥヘガルの家臣としてグティ人駆逐にも活躍したウルナンムであった。
ウルナンム(前2112-前2095)はウルクを離れて独立し,自分の任地であったウルにウル第3王朝を建て,〈シュメールとアッカドの王〉を自称した。この王号は南メソポタミア(シュメールとアッカド)が名実ともに一つのまとまりとなったことを意味する。ウルナンムは,現存最古の〈ウルナンム法典〉の発布者としても有名である。
ウルからは多くの粘土板文書が出土しているが,その全部が第2代目の王シュルギ(前2094-前2047)治世24年以降のものといわれる。これはシュルギ王の治世21年に行政組織の大改革が行われ,徐々に経済,行政の記録が残されるようになった結果であろう。ウル第3王朝の支配領域は多くの地区に分かれ,とくに辺境地区には〈シャギナ〉と呼ばれる軍政官が,またその他の地区では〈エンシ〉と呼ばれる知事が任命され,それぞれの地区の行政の責任を負った。その行政組織は,長いメソポタミア史の中で他に例がないほどよく整備されていて,諸機関を通過する品物や家畜が克明に管理・記録された。シュルギの後,王権はアマルシン(前2046-前2038)からシュシン(前2037-前2029)へと受け継がれたが,その次のイビシン(前2028-前2004)の時代にウル第3王朝は滅びた。先に王の神格化がナラムシンに始まったことに触れたが,この傾向はウル第3王朝期にいっそう徹底し,シュシンの場合のように在位中に王の神殿が建てられたり,これまで神をたたえるためにのみ用いられてきた賛歌の形式が王にも用いられ,多くの王賛歌が作られたりした。
ウル第3王朝滅亡の直接の原因はエラム人の侵攻であったが,間接的にはアモリ人(アムル人)の侵入も一因となった。このアモリ人は,西方セム系の民族で,シリアのビシュリ(バサル)山のあたりに興ったといわれるが,ウル第3王朝期に,最初は傭兵や農業労働者として平和的に南メソポタミアに移住してきた。しかし,シュシンのころにはバグダードの北にティグリス川東岸からユーフラテス川西岸に至る長城を築いて,その侵入を阻止しなければならないほどになっていた。
ウル第3王朝を滅ぼしたエラム人は約10年間ウルにとどまるが,ウル第3王朝の元家臣で,その後イシンに独立王国を建てたイシュビエラ(前2017-前1985)がこれを追い出し,ウル第3王朝の正統な後継者をもって自認した。この後イシンを中心とした約100年間は,事実上ウル第3王朝時代の継続といえるが,前1900年ころになってラルサ,バビロン(バビロン第1王朝),エシュヌンナなどにアモリ系の王朝が相次いで興り,新しい時代が始まる。ナラムシン以来続いていた王の神格化の慣習が廃れ始めるのもこの頃である。またこの頃以降になって,南メソポタミアでは初めて土地の私的所有を前提とした耕地の売買や〈タムカールム〉と呼ばれる一種の商業資本家を中心とした活発な商業活動がみられるようになる。政治勢力としてのラルサの出現後は,イシンとラルサの間で覇が争われるが,いずれも他を圧するほどの力はなく,南部メソポタミアにおいても小国分立の状態が続き(イシン・ラルサ時代),やがてイシンはラルサに滅ぼされ(前1794),ラルサはハンムラピ(前1792-前1750)治下のバビロンに滅ぼされる(前1763)。
こうして前1763年バビロンは南メソポタミアを統一,次いで前1761年マリを滅ぼし,その支配領域を中部メソポタミアにまで広げた。しかし強力な中央政権の出現は,前19世紀末から前18世紀初葉にかけてみられた民間における活発な商業活動を阻害し,一時は商業資本家として活躍した〈タムカールム〉たちも中央政権の管理下に組み込まれていったように思われる。ハンムラピが築いた広大な王国は,彼の死をもって崩れ,その後のバビロンは首都を中心とした比較的限られた王国としてさらに4代続き,ついにヒッタイトのムルシリ1世の手により滅ぼされた(前1595)。こうしてウル第3王朝滅亡後に始まった長い古バビロニア時代も終わる。
バビロン第1王朝の滅亡後,その遺産を受け継ぎ,後の時代に伝えたのは東方の山岳地帯からやってきたカッシートであった。カッシートのバビロニア支配は初め北部に限られていたが,前15世紀後葉からは南部にも及び,前12世紀半ばころまで全バビロニアを支配した。前14世紀中葉はエジプトではアマルナ時代に当たり,カッシート朝バビロンは,アッシリア,ミタンニ王国およびヒッタイト王国と並ぶ勢力であった。前14世紀後半から前13世紀後半にかけての時代は王都ドゥル・クリガルズを中心に活発な商業活動もみられた。カッシート朝バビロンは,その後一時アッシリアの支配を受けるなどし,最終的には前1155年エラム人により滅ぼされた。カッシート時代といえば〈クドゥル〉と呼ばれる石碑を連想する。これは不規則な形をした石碑で,碑文のほかに神々のシンボルが浮彫されている。カッシート時代のクドゥル碑文は,個人または神(殿)に対する王からの耕地の贈与,または過去に行われた耕地の贈与を確認した内容のものであり,後には税免除の特権条項も付されていた。
カッシート朝を滅ぼしたエラム人は,そのままバビロニアにとどまらなかったため,当時ニップールと並んで重要な都市であったイシンの知事(?)がバビロンの王となり新王朝(イシン第2王朝。前1157-前1026)を開いた。しかしカッシート人は引続き王国の主要ポストを占めていたため,先行するカッシート朝との間には断絶はなかったと思われる。
イシン第2王朝の後50年足らずの間に3王朝7王が入れ替わる混乱期を経て,バビロニアは前8世紀半ばころまでの約250年間まったくの暗黒時代に入る。この期間の前半は,中部および北部メソポタミアを勢力下においたアラム人によりバビロニアと西方および北方との交易路が完全に閉ざされたこと,および中央政権の弱体化と反比例して特権都市を中心とした地方分立化の傾向が増したことなど,また後半は新アッシリアの台頭によってバビロニアの存在が常に危機にさらされていたこと,などがバビロニアの政治的・経済的疲弊の主たる原因といえる。しかしこの間に,バビロニアの政治と文化の担い手が,カッシート人からカルデア人に交代し,バビロニア史最後の栄光である新バビロニア帝国誕生の準備がなされていたことを忘れるわけにはいかない。
前8世紀半ばころから前7世紀半ばにかけての新アッシリア帝国全盛時代に,バビロニアはアッシリアの直接・間接の支配を受けたが,カルデア人たちはこの間反アッシリア運動の先頭に立ち,ついに前625年ナボポラッサルによりカルデア人自身の王朝が打ち建てられた。この新バビロニア帝国は,王朝創設者ナボポラッサル(前625-前605)の後を受けたネブカドネザル2世(前604-前562)の時に全盛期を迎えて繁栄する。その後6年間に3度も王の交代を経験した後,同王朝最後の王ナボニドス(前555-前539)の時代になる。彼は不振の王国を建て直そうとするが,10年にわたるテイマ滞在や月神重視政策がマルドゥク神官団の反感を買い,彼らによって解放者として迎え入れられた新興アケメネス朝ペルシアの王キュロス2世により王位を奪われてしまった。こうしてバビロニア史未曾有(みぞう)の栄華を極めた新バビロニア時代は,わずか90年足らずでその歴史を閉じた。
アケメネス朝ペルシアによるバビロニア支配は,都市の破壊や生活の混乱もなく始まった。初めはナボニドス時代の武将に支配がゆだねられるが,まもなくカンビュセス2世(前530-前522)の支配するところとなる。カンビュセスの死後ペルシアでクーデタが勃発したのを機に,バビロニアは2度反乱を起こしたが,いずれも失敗した。その後ダレイオス1世(前522-前486)の治世を経てクセルクセス1世(前486-前465)の4年目までバビロニアは平穏であった。前482年にバビロニアは3度目の反乱を企て失敗している。この間,バビロン,ボルシッパ,キシュ,ニップール,ウルクおよびウルといった諸都市は比較的栄えていたことが知られている。しかし,ペルシアの支配下に入ってからのバビロニアは,新しく生まれた交易路から外れたこと,アッシリアとバビロニアは第9サトラップとしてシリアから切り離されたこと,およびペルシア王室に対する厳しい納税義務などにより経済的不振に陥る。やがて前331年バビロニア駐留中のペルシア軍がガウガメラの戦でアレクサンドロス大王に敗北,アケメネス朝ペルシアのバビロニア支配が終わる。
→アッシリア →メソポタミア
執筆者:中田 一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代メソポタミア南部のシュメール・アッカド地方に対する後代の呼称。イラン高原の南西部を縁どるザーグロス山脈とアラビア台地との間に展開する肥沃(ひよく)なメソポタミア平原は、バグダードを境にして上・下の2地域に分かれる。上メソポタミアはアッシリア地方に相当し、大部分が緩やかに波打つ起伏を示す卓状地である。これに対してバビロニア地方に相当する下メソポタミアはティグリス・ユーフラテス両川の堆積(たいせき)作用によって形成されたデルタ地帯で、完全に平坦(へいたん)な平原である。デルタでは両川の水が各所であふれ、湿地や沼沢地ができ、アシは生えるが、木や石、鉱物は産しない。しかし豊かな太陽熱と灌漑(かんがい)によって、農業、牧畜を基礎とする世界最古の文明が開花した。交易、通商を得意とする好戦的なアッシリア人に対して、バビロニア人は農耕的、定住的な民族であった。
[吉川 守]
シュメール人とアッカド人は少なくとも紀元前3000年ごろから平和的な共生関係にあったと考えられるが、シュメール・アッカド地方が文化的にバビロニアとして統一的に把握されるようになるのは、バビロンを首都とするバビロン第1王朝(前1830ころ~前1530ころ)がセム系民族のアムル人(『旧約聖書』のアモリ人)によって樹立されてからである。この王朝に先行する約100年間、バビロニアでは同じアムル人によって樹立されたイシン王朝とラルサ王朝が覇を競ったが、この時期は初期古バビロニア時代とよばれる。古都バビロンの名は、アッカド王朝第5代の王シャルカリシャッリの年号にカ・ディンギルKá-dingir(「神の門」の意)としてみえるが、土地の決定詞をとっていない。ウル第3王朝時代にはこの決定詞をとってKá-dingirkiとして表記されるようになる。この呼称は最後まで使われるが、アッカド語ではBâbilu(「神の門」の意。『旧約聖書』のバベル)とよばれた。バビロン第1王朝になるとこれらの名称と並行して、Tin-tirki(「生命の森」の意)が多用され、前7世紀にはEki(「運河」の都市の意)が用いられた。バビロンを新興の世界都市に変貌(へんぼう)させたのは、バビロン第1王朝第6代の王ハムラビ(在位前1792~前1750または前1728~前1686)である。同王はラルサ王を滅ぼし、エラムの勢力をメソポタミア平原から一掃し、アッシュール国王シャムシ・アダド1世の没後、メソポタミアの統一を完成する。これ以後シュメール・アッカド地方は首都バビロンにちなんでバビロニアと呼称されるようになる。こうして西セム語系のアムル人が北のアッシリア、南のバビロニアと全メソポタミアの支配者となったわけである。アッカド王朝時代から、バビロニアではシュメール語とアッカド語が併用されていたが、ハムラビ時代以後は公用語として西セム語のアッカド語が使用されるようになる。有名なハムラビ法典もアッカド語で記されており異民族同化統一が図られた。王の努力によりバビロンは世界都市としての基礎を得、バビロニア史上の古典時代ともいうべき黄金時代を現出した。
[吉川 守]
ハムラビの次王の時代には、ザーグロス山脈中の現在のルリスタン地方を本拠地とするカッシート人(アッカド語カッシュKaššu人)がバビロニアに侵攻し、その後、約150年にわたって農業労務者として平和的に移住を続けた。しかし、前1530年ごろ、カッシート人は、ヒッタイト王ムルシリシュ1世の率いる軍隊によって首都バビロンを略奪され瀕死(ひんし)の状態にあった王朝を急襲し、これを倒して、カッシート王朝(前1530~前1150ころ)を樹立した。この時代は、バビロン第1王朝に比して文運はおこらず、エジプトのアマルナ時代の国際社会においてもバビロニアの地位は低く、ミタンニ、ヒッタイト、アッシリアの影響下に置かれていた。弱体化した王朝はついに前1150年ごろ、スーサを都とするエラム王国のシュトルク・ナフンテによって倒された。この際、シッパル市にあった玄武岩のハムラビ法典がスーサに奪い去られたのは有名である。その後ネブカドネザル1世(在位前1146ころ~前1123ころ)はエラムを滅ぼしたが、アッシリアには勝てず国力は衰えた。南バビロニアのメロダクバラダン2世は前710年ごろアッシリア王サルゴン2世によって国を追われ、バビロニアはアッシリアによって併合された。前689年、サルゴン2世の子センナケリブはバビロンを完全に破壊した。バビロンは10年後エサルハッドン王が再興するまで廃墟(はいきょ)となっていた。エサルハッドンはその長子をバビロン王とし、その弟のアッシュール・バニパルをアッシリア王としたため兄弟戦争(前652)が起こり、バビロンは兵火に焼かれ、アッシリアの属州となった。
[吉川 守]
前625年ナボポラサルはバビロンでアッシリアから独立し、前612年メディアを援助してアッシリアを滅ぼし、新バビロニア王国(カルデア王朝時代)を開いた。その子ネブカドネザル2世(在位前605~前562)はハムラビ王に倣い、文化の向上と国力の充実に努力し、首都バビロンはもっとも繁栄し、オリエント世界の政治・文化の一大中心地となった。ユダヤ人の「バビロン捕囚」もこの王の時代(前597、前586)に行われた。ナボニドス王の前539年、アケメネス朝ペルシア王キロスは戦勝し、バビロンに入城してカルデア王朝は滅亡した。このあとバビロニアの多くの都市は荒廃したが、バビロンは前1世紀ごろまで存続した。
[吉川 守]
『パロ著、波木居斉二・矢島文夫訳『聖書の考古学』(1976・みすず書房)』▽『パロ著、波木居斉二訳『ニネヴェとバビロン――続・聖書の考古学』(1959・みすず書房)』▽『H・クレンゲル著、江上波夫・五味亨訳『古代バビロニアの歴史』(1980・山川出版社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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元来「シュメールとアッカド」と呼ばれていたメソポタミア地域の名称。バビロン第1王朝のハンムラビが再統一を果たしたことから,その市にちなんでバビロニアと称される。前2千年紀の後半にアッシリアが台頭することで,バビロニアは北のアッシリアに対立する。新アッシリア時代になると,バビロニアはアッシリアの政治的支配に服した。しかし,アッシリアは副王的存在である「バビロンの王」を派遣するなど,古い文明を継承した世界の中心都市バビロンという特殊性は意識されていた。新アッシリアのあとカルデア人の新バビロニア王朝が開始されるが,バビロンを支配したアムル人,カッシート人,カルデア人,そのどれもが自己の民族性でなくバビロンの伝統を尊重した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…しかし,それが医学の発達による分化であるのか,あるいは医学に統一される過程での,個別的な技能者の存在を意味するのか,意見の分かれるところである。古代エジプトの医学を直接示す資料としては,いくつかの医学に関するパピルス文書が残されており,いずれも完全に解読されている。最も古いのはカフーン・パピルス(前20世紀ころ)で,産婦人科と獣医学に関するもの,エドウィン・スミスのパピルス(前14世紀ころ)は外科,エーベルス(前17世紀),ハースト(前16世紀),大ベルリン(前14世紀)と名づけられたパピルスは処方集,ロンドンという名を冠するパピルス(前14世紀)は呪法を内容とする。…
※「バビロニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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