精選版 日本国語大辞典 「バリニャーノ」の意味・読み・例文・類語
バリニャーノ
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イタリア出身のイエズス会司祭で、三たび巡察師として来日し、布教事業に指導的役割を果たした。ナポリ王国のキエーティ市の貴族として生まれ、イエズス会員となったが、総長はその非凡の能力を認め、自らの名代ともいうべき巡察師に任命して東インドに派遣した。インドやマカオで仕事を終えてのち、1579年(天正7)に初めて日本に赴き、織田信長からも歓迎され、天正(てんしょう)遣欧少年使節行を立案し実施。1590年には帰国する少年使節を伴い、インド副王の使節として来日。この際、一行にヨーロッパから活字印刷機を携えさせ、日本で最初の活版印刷が始められた(1591年キリシタン版の刊行)。1598年(慶長3)から1603年(慶長8)まで3度目の滞日。1606年1月20日、マカオで病没した。カトリック教会史上の偉人の一人。
[松田毅一 2018年2月16日]
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1539.2.-~1606.1.20
イタリア人イエズス会巡察師。1579年(天正7)肥前国口之津に上陸,翌年五畿内を巡察し,織田信長から歓待された。日本イエズス会第1回協議会を開き,布教方針に日本の習慣などへの適応主義を採用,日本人聖職者養成のための教育機関であるセミナリヨ,コレジヨ,ノビシヤドの設立を指令した。通信制度を改革し,日本年報を作成させた。82年天正遣欧使節をともない離日。90年インド副王使節として長崎に上陸。豊臣秀吉のバテレン追放令への対処を協議し,キリシタン版の出版にも着手。91年聚楽第(じゅらくてい)で秀吉に謁見。92年(文禄元)長崎での第1回日本イエズス会管区会議後に再離日。98年(慶長3)3度目の来日。1603年まで長崎を中心に滞在。マカオで病死。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…1579年(天正7)来日したイエズス会インド管区巡察師A.バリニャーノは従来の日本通信(《耶蘇会士日本通信》)の制度を改め1年に一つの公式の年報報告をローマに送る日本年報の制度を確立し,同年最初の年報が彼の指導によって作られた。これは個人の書簡と異なって印刷されることを前提にし,その内容はまず日本の政治状況,キリスト教界の現況およびイエズス会の動向,次に同会の布教機関(カーザとレジデンシア)がある土地,下(しも)・豊後・都地方についての布教報告からなるが,この各地の報告にはヨーロッパのキリスト教徒の教化に裨益(ひえき)する事例が多く採られた。…
… その後,鎌倉,室町と戦乱の続く時代に学校は衰退し,わずかに前掲の足利学校や神奈川の金沢(かねさわ)文庫が隆盛を迎えたほかは,キリシタン学校が注目に値する。F.ザビエルが鹿児島に到着したのが1549年(天文18)であり,77年(天正5)には豊後領内の府内(現在の大分市)に最初の学林(コレジヨ)設立計画をたて,その3年後に実現し,肥前の島原半島では新管長A.バリニャーノによって79年,学林と修業所(セミナリヨ)が設立されている。さらにこれら九州地方だけでなく,翌80年には近江の安土城下にセミナリヨが建てられ,本能寺の変までのわずか1年余りであったが,多くの人材を養成した。…
…信長の政治的地位の上昇・確立に伴い教会勢力も増大し,77年3階建ての教会(南蛮堂,南蛮寺)が落成した。
[バリニャーノの改革]
巡察師バリニャーノはマカオ市との間に生糸貿易参加に関する契約を結んで日本布教の財源確保に努めたのち,79年来日した。彼は日本イエズス会を準管区に昇格させ,これを下(しも)・豊後・都の3布教区に分けて,クエリョを準管区長に任じた。…
…イエズス会巡察師バリニャーノの発起により豊後の大友義鎮(宗麟),肥前の有馬晴信,大村純忠の3キリシタン大名がローマ教皇に遣わした4少年からなる使節。バリニャーノはインド,ローマへの帰還に当たり,急きょ日本人キリシタンのローマ派遣を計画した。…
…だが実際の記述は94年2月まである。フロイスは1583年秋に執筆を命じられると直ちに着手し,84年に第1巻,86年に第2巻,93年には第3巻を完成し,推敲の段階にあったが,日本巡察師バリニャーノは原稿を検閲した結果,冗長にすぎるとして短縮を要望し,ヨーロッパに送付しなかった。そのため本書は近年まで未刊のままであった。…
…29歳で入会し,1578年にゴア,翌年澳門(マカオ)へ赴く。東洋総巡察使のアレッサンドロ・バリニャーノから中国語修得を命ぜられ,82年(万暦10)には広州に入ることに成功した。時計などの珍奇な品で両広総督陳瑞の歓心を買い,同年,広東省肇慶(ちようけい)にフランチェスコ・パジオ神父を伴って定住することを許された。…
※「バリニャーノ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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