ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パパンドレウ」の意味・わかりやすい解説
パパンドレウ
Papandreou, Andreas
[没]1996.6.23. アテネ近郊エカリ
ギリシアの政治家,教育者。首相(在任 1981~89,1993~96)。ゲオルギオス・パパンドレウの息子。アテネ大学で法律を学んだのち渡米。1943年ハーバード大学で博士号を取得。1955~63年ハーバード大学,ミネソタ大学,カリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとった。1963年,父の首相就任をうけて帰国,ギリシア議会議員に当選した。1967年に軍事クーデター(→ギリシア・クーデター)が起こると亡命。1974年にギリシア軍事政権が倒れたのち帰国,左派政党全ギリシア社会主義運動 PASOKを設立。着実に支持者を増やし,1981年の選挙で圧倒的な勝利を収めて首相となった。選挙活動中は準社会主義的な内政改革を主張したが,就任後は中道寄りに転換した。パパンドレウ政権が実施した手厚い社会保障は,巨額の公的借入によって可能となったものだった。PASOKは 1985年の選挙でも圧勝したが,2期目終盤に収賄スキャンダルが発覚すると政権は弱体化した。1989年6月,PASOKが選挙で敗北し首相を辞任。しかし引き続き党首を務め,1993年10月の総選挙で首相に返り咲いた。1996年1月,病気のため辞任した。(→ギリシア史)
パパンドレウ
Papandreou, Georgios
[没]1968.11.1. アテネ
ギリシアの政治家。アテネ大学卒業後,ベルリン大学に学んだ。 1923年国会議員となり,30~32年教育相をつとめる。 35年社会民主党を結成し流罪となる。第2次世界大戦中,ドイツ軍の占領中に短期間投獄されるが脱獄,44年 10月カイロ亡命政権の首相に就任。ドイツ軍撤退後アテネに戻り,共産勢力と激しい争いを展開,12月左右対立のなかで辞任。 46年無任所相,47年内相,50~51年副首相。 61年社会民主党と自由党を合同して中道左派の中央同盟を結成,63年 11月の総選挙で第一党となり首相に就任。 64年2月の総選挙では絶対多数を制して再び首相に就任したが,65年国防軍の統制をめぐって国王コンスタンティノス2世と対立,辞任した。 67年4月の軍のクーデターで逮捕され,釈放後まもなく死去。
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