出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
	
    
  
  Sponserd by 
 
    
	
                
        
  	
                    
		
                    パーニーパット
Pānīpat
        
              
                        インド北西部,ハリヤナ州東部の町。デリー北方約 80km,ジャムナ用水路にのぞむ。西南アジアとガンジス川平原を結ぶ歴史的な交通路にあたるため,古来インドの覇権を決するような重大な戦争がたびたび行われた (→パーニーパットの戦い ) 。米,サトウキビなどを集散,加工するほか,ガラス,機械などの工業がある。パンジャブ大学のカレッジ3校がある。人口 19万 1010 (1991) 。
                                                          
     
    
        
    出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
	
    
  
  Sponserd by 
 
    
	
        
  	
                    
		
                    パーニーパット
Pānīpat
        
              
                        インドのデリー北方にある古戦場
(1)1526年バーブルがロディー朝の大軍を破ってムガル帝国を建設した,(2)1556年にアクバルがデリーを占領したヘームーの反乱軍を倒した,(3)1761年には新興マラータ同盟軍がアフガンに敗れた,というインド史上3つの重要な戦いが行われた。
                                                          
     
    
        
    出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
	
    
  
  Sponserd by 
 
    
	
        
  
            
		世界大百科事典(旧版)内のパーニーパットの言及
    		
      【パーニーパットの戦】より
        
          
      …インドのデリー北方約90kmのパーニーパットPānīpatで行われたインド史上重要な3回の戦い。パンジャーブ平原の東のはずれにあるパーニーパットは,北西インドからデリーへのいわば入口となるところである。…
      
     
    		
      【パンジャーブ】より
          
      …侵入勢力はまずパンジャーブでインド亜大陸に馴化(じゆんか)し,根拠地を設けて土着勢力を打破することにより,東方および南方への進出が可能となった。とくにデリー北方のパーニーパット周辺が,両勢力の角逐の場となることが史上しばしばあった。最初の西方からの侵入勢力は前1500年ころのアーリヤ人である。…
      
     
         ※「パーニーパット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 
        
    出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
	
    
  
  Sponserd by 