ドイツの政治家。第三帝国の総統兼首相、ナチスの指導者。
[村瀬興雄]
オーストリア・ハンガリー帝国の税関吏の子として4月20日ブラウナウ(現オーストリア)に生まれる。若くして両親を失い、ウィーンで画家になろうとして失敗し、同市の公営施設を定宿として、絵を描いて売ったり、両親の遺産に頼ったりして生活した。その間に下層社会や大衆の心理について体験したことが、のちに政治活動をするうえで役だった。オーストリア・ハンガリー帝国内の民族闘争に巻き込まれてドイツ民族至上主義者となり、国際主義的なマルクス主義を憎み、ユダヤ人とスラブ民族を憎むようになった。オーストリアで兵役につくことを嫌って1913年春にドイツのミュンヘンに逃れ、第一次世界大戦が始まるとドイツ軍に志願兵として入隊し、とくに伝令兵として功をたてて一級鉄十字章を受けた。軍隊内の戦友愛や規律、団結の精神が人生の規範となるべきだと考えるようになった。ドイツ革命(1918~1919)ののちにミュンヘンの軍隊内で、軍人のための政治思想講習会に出席して民族主義思想を固め、1919年9月、ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチス)という国家主義と社会改良主義を結び付ける小党に入党した。
[村瀬興雄]
雄弁の才能をもっており、いつも演説会で聴衆を熱狂させた。そして精力的に宣伝活動を行って党の勢力を拡張し、1920年3月末には軍隊を退いて政治活動に専念した。1921年7月には党内独裁者となり、軍部や保守派と結んで強大なドイツの再建、ベルサイユ条約の打破、民主共和制の打倒と独裁政治の確立、ユダヤ人排斥を説いたが、そのほかに中産階級の保護、社会政策の充実、民族共同体の樹立を訴えて、中産階級を中心とする国民各層の支持を確保し、大衆集会を頻繁に開いて党勢を急速に拡大した。1923年11月8日から9日にかけて、ミュンヘンで一揆(いっき)を起こした(ヒトラー一揆)。しかし、頼みとしていたバイエルン軍部と官僚の支持を得られずに失敗し、翌1924年12月20日までランツベルク獄中にいた。
出獄後、党を再建し、合法運動によって民主共和制を内部から征服しようとした。『わが闘争』(1925~1926)を出版して、東ヨーロッパを征服して生存圏を東方に大拡張するプランを示した。また党内のいろいろな傾向を巧みにまとめ上げて、国民の各階層、とくに中産階級の支持を確保し、1930年9月の総選挙に大勝してナチスを第二党に躍進させた。連立内閣への誘いを断ってナチスの独裁支配を要求し、1932年春の大統領選挙では36.8%(1340万票)の支持を得たが、ヒンデンブルクに敗れた。しかし同年7月の総選挙ではナチスが37.3%を得て第一党となり、支配勢力各層の有力者が彼を支持するようになったので、1933年1月30日、首相に任命された。保守派と一般国民の支持の下に反対派を弾圧し、一党独裁体制を確立した(第三帝国)。
[村瀬興雄]
1934年8月にはヒンデンブルクの死とともに大統領を兼ねて「総統兼首相(総統と略す)」Führer und Reichskanzlerと称した。民主共和制時代に蓄えられたドイツの生産力や技術をフルに活用し、支配勢力の支持を得て国力を発展させた。失業者に職を与え、工業を再建して繁栄をもたらし、軍備を大拡張し、国力を発展させたので、外交上で矢つぎばやに成功を収める基礎ができた。ドイツはヨーロッパ第一の強国となった。「ドイツ労働戦線」「歓喜力行団」その他の勤労者団体の努力によって国民の生活水準もいちおう向上し、社会習慣の近代化も行われたので、国民の広範な支持が生まれた。しかし厳しい弾圧と統制、各種の奉仕活動、準軍事訓練、絶え間ない募金活動が日常生活を圧迫し、重苦しい不快感を与えたため、政府に対する民衆の小さな反抗が至る所で起こり、政治的無関心と個人生活への退却などの現象もまた広がった。
第三帝国の前期には、保守帝政派を外相に任じて、支配勢力主流の要求する比較的協調的な外交政策を展開したが、国力が強化されるにつれて強硬外交を主張する者が国内で増大し、ついに1939年9月ドイツ軍をポーランドに侵入させて、第二次世界大戦に突入した。彼は作戦に干渉し、その指令は対フランス戦においては効果をあげた。独ソ戦では、1941年末にソ連軍の反撃を受けて戦線が混乱したとき、退却を禁ずることによって敗北を小規模にとどめたが、1942年11月~1943年1月のスターリングラードの戦いにおける敗北の前後から、現実を無視した指令を出して敗戦を重ねた。1944年7月20日に将軍たちや保守政治家が反乱を起こしたが、大戦末期に至るまで、一般民衆の個人的人気はいちおう保っていた。1945年4月30日、ベルリン陥落直前に自殺した。
[村瀬興雄]
長く独身であったが、姪(めい)のアンゲラ・ラウバルAngela Raubal(1908―1931)を愛し、彼女が自殺したあとでは、エバ・ブラウンEva Braun(1912―1945)を愛して、自殺の前日に結婚したが、エバもともに自殺した。菜食主義を実行し、酒とたばこを飲まず、夜は明け方の3時か4時ごろまで起きていて、側近と談笑した。したがって朝は正午近くまでベッドにいた。生涯を通じて芸術の保護者と自認したが、現代文学や絵画などは「ユダヤ的」「ニグロ的」と断定して、19世紀的芸術を推賞した。各種の政策決定には迷い抜いて、多くの決断は専門家(支配勢力の主流)にゆだねたので、独断で決定した政策は世上で考えられているよりもはるかに少ない。いろいろな圧力団体や利益団体からは独立した立場にいたので、「ドイツ労働戦線」の労働者本位の活動をある程度は許すなどの政策をとり、「公平な」指導者として国民に信頼された。狂気でも、性的異常者でもなかったと、いまでは説かれている。
[村瀬興雄]
『J・C・フェスト著、赤羽龍夫・関楠生・永井清彦・佐瀬昌盛訳『ヒトラー』上下(1975・河出書房新社)』▽『村瀬興雄著『アドルフ・ヒトラー』(中公新書)』▽『A・ヒトラー著、平野一郎・将積茂訳『わが闘争』上下(角川文庫)』
ドイツの政治家。ナチス(ナチ党)党首(1921-45),第三帝国の総統(1934-45)。オーストリアのブラウナウに税関吏の息子として生まれる。小学校卒業後,実科学校に進学,成績不良のため中退。1908年ウィーンに居住し,その前後に2度,造形美術大学を受験して失敗する。定職につかず,両親の遺産や孤児年金を支えに芸術家気どりの生活を送り,のち肉体労働や絵葉書を描いて生計をたてる。13年ミュンヘンに移住。14年第1次世界大戦が勃発すると,バイエルン軍に志願して従軍。戦功により,第1級鉄十字勲章を授与される。大戦後も,バイエルン軍にひきつづいて勤務し,兵士に反社会主義的,国粋的な政治思想を注入する任務に従事した。1919年ドイツ労働者党(ナチスの前身)に入党。21年党首に就任し,党指導の全権を掌握する。ベルサイユ条約の廃棄,激烈な反ユダヤ主義を唱えて注目をひく。23年11月ミュンヘン一揆を企てて失敗,党は解散され,自身は禁固刑に処せられる。24年末に釈放。25年2月ナチスを再建し,あらたに北部・西部ドイツに党勢を拡大する。経済恐慌が深刻化する中で30年9月の国会選挙で107議席を獲得し,一躍第二党の地位に進出。31年ブリューニング内閣に反対し,右派勢力とハルツブルク戦線を結成。32年7月の国会選挙で第一党の地位を確保したが,ヒトラーは,パーペン内閣への入閣を拒否。32年12月シュライヒャー首相によるG.シュトラッサー入閣の画策の失敗後,33年1月30日大統領ヒンデンブルクにより首相に任命される。
1933年3月5日の国会選挙でナチスは647議席のうち288議席を獲得し,同年3月23日の授権法により議会政治を排除,5月以降,政党,労働組合の解散を強行し,ナチスによる一党支配を確立した。34年6月レーム,シュライヒャー,G.シュトラッサーなど潜在的な敵対者を粛清(レーム事件)。同年8月大統領ヒンデンブルクの死後,〈総統にしてドイツ国首相〉として,党首,政府首領,国家元首の地位を一身に結合,また国防軍の最高指揮官として軍からの忠誠の宣誓をうける。35年一般兵役義務を再び導入,また軍拡経済により大量失業の克服に成功する。対外政策ではヨーロッパ東部にドイツ民族の〈生存圏〉樹立の政策に邁進し,その手はじめに38年オーストリア,ズデーテン地方を併合,39年3月チェコスロバキアを軍事占領する。同年8月独ソ不可侵条約締結後,9月ポーランドへ侵攻。40年6月フランスを征服,41年6月ソ連と開戦しウクライナの広大な地域を占領し,彼の〈生存圏〉構想は一時,成功したかにみえた。だが43年2月スターリングラード攻防戦,5月北アフリカ戦線での敗北後,戦況は悪化。この間,占領地で残虐な民族抑圧政策を実施,ユダヤ人絶滅に着手。44年7月20日ヒトラー暗殺の陰謀がおきるが,奇跡的に助かった。45年4月29日ソ連軍包囲下のベルリンでエバ・ブラウンEva Braunと結婚,翌30日ともに自殺。その遺言においても,反ユダヤ主義と〈生存圏〉樹立の必要を強調した。
《わが闘争》(1925-26)から《第二の書》(1928年夏執筆完了。ただし刊行されず,第2次大戦後に草稿が発見され,61年に公刊)の執筆の間に世界観を確立した。その根底に〈自然〉の意志をすえ,この意志は生物界に普遍的に働くとみなした。ヒトラーは,生物の〈自己保存衝動〉をもっとも根源的な欲求ととらえ,この衝動にもとづく闘い,強者による弱者の支配・駆逐を〈自然〉の摂理として肯定し,この論理を人間界の個人と人種の双方に適用した。このような社会ダーウィニズムの世界観から,個人・民族間の平等,民主主義,議会主義,人道主義,国際平和を否認し,卓越した個人による独裁的統治,反ユダヤ主義を唱え,また人種の〈自己保存衝動〉を充足する基盤として〈生存圏〉の樹立を主張した。ヒトラーは,友人との親密な交際,家庭生活での団欒の体験を欠き,個人生活の内容は貧弱であったが,自己の目標達成のための緻密な策略と聴衆を酔わせる演説の才能をもちあわせていた。
→第三帝国 →ナチス
執筆者:中村 幹雄
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1889~1945
ドイツの政治家。オーストリアのブラウナウに生まれ,青年時代をウィーンの貧民街で過ごした。ドイツに移住して第一次世界大戦中は兵士となり,1919年ドイツ労働者党(20年ナチ党に改称)に入り,弁舌の才で頭角を現し,まもなく党の独裁者となった。23年11月,ヒトラー一揆を起こして失敗,1年弱入獄,この間自伝的政論書『わが闘争』を執筆した。出獄後,合法活動によって勢力を拡張し,33年1月首相となり,第三帝国を建設した。景気を振興し,経済建設に成功して,外交上でも成功を重ね,国民の支持を高めた。34年8月以来大統領を兼ねて総統(フューラー)と称し,未曾有の独裁政治をしいて国民生活をナチ化した。東ヨーロッパを征服してドイツ民族の「生存圏」を拡大する目的で第二次世界大戦を勃発させ,ポーランドとソ連の西半を占領し,ユダヤ人を虐殺し(ホロコースト),スラヴ民族に奴隷的強制労働を強い,かつ全ヨーロッパの占領地から物資を無慈悲に略奪した。戦争に敗れ,45年4月末,ベルリン陥落直前に女秘書と結婚してともに自殺した。
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1889.4.20~1945.4.30
国民社会主義ドイツ労働者党党首。1933年1月にドイツ首相就任,翌年8月には大統領職を兼任,総統と称した。独特の人種イデオロギーと生存圏理論にもとづき外交・戦争政策を展開し,日本とも防共協定と日独伊防共協定により同盟関係を形成した。39年9月ポーランドに侵攻して第2次大戦の火蓋を切り,戦時中にはユダヤ系市民を強制収容所で大量虐殺する政策を推進した。45年4月末に自殺。
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…他の諸国も第1次大戦の時よりいっそう大がかりな統制を行った。20世紀で最も組織的な言論統制を実施したのはナチス・ドイツで,ヒトラーは1933年2月政権獲得直後,国会放火事件を〈でっちあげ〉てワイマール憲法の保障する新聞出版の自由を大統領令によって停止させ,これにもとづいて,共産党および社会民主党系新聞約180紙の発行を禁止し,一瞬にして社会主義的新聞を葬った。さらに同年5月10日,左翼はむろんトーマス・マンやヘレン・ケラーなど自由主義者の著書や出版物を没収して焼きすてた。…
… 第2次世界大戦では,その開始に先立って総力戦のための国家総動員の必要が,とくにファシズム諸国で力説された。ナチス・ドイツでは,1933年のヒトラーの政権掌握直後から失業対策と秘密再軍備のために統制経済が発足し,1936年には本格的な戦争準備をめざす4ヵ年計画がゲーリングを大臣として開始された。宣伝相ゲッベルスの手で大規模な宣伝による大衆操作がすすめられ,ニュルンベルクの党大会の演出と宣伝には著名な建築家,音楽家,映画監督らが動員された。…
…第1の神話は,人種と文化がストレートに関連するとするものであり,第2の神話は,ある人種は知的にすぐれているというものである。ヒトラーは,ヨーロッパ白色人種に根づく有色人種劣等思想(19世紀末,フランス人J.A.deゴビノーによって頂点に達した)を根拠に記した《わが闘争Mein Kampf》(1925‐27)において,人種主義を唱えている。〈われわれが今日,人類文化について,つまり芸術,科学および技術の成果について目の前に見出すものは,ほとんど,もっぱらアーリヤ人種の創造的所産である〉〈アーリヤ人種の輝く額からは,いかなる時代にもつねに天才の神的ひらめきがとびでる〉。…
…1933年1月のヒトラー内閣の成立で始まり,45年5月の第2次世界大戦におけるドイツの敗北によって崩壊した,ナチズム体制の公式の名称。ヒトラーは彼の帝国を,962年に始まる神聖ローマ帝国,および1871年にビスマルクの強力な指導力のもとに成立した第二帝制の後を継ぐドイツ民族による3度目の帝国とみなしたのである。…
…
[ドイツ]
第2次世界大戦は,1933年1月政権を獲得したナチズムが引き起こした戦争であった。ヒトラーは明確な外交構想をもってそれを段階的に実現していった。ヒトラーは政権を獲得するまえに,すでに《わが闘争》(1925‐27)や1928年に書かれた《第2の書》(未公表)で示したように,二つの大構想を抱いていた。…
…サウンド版の《モダン・タイムス》(1936)に続くチャールズ・チャップリンの最初のトーキー映画。チャップリンの4日後に同じ貧困と無名のうちに生まれ,チャップリンとはいわば正反対の方向に進んで世界制覇の野望に燃えたヒトラーとそのファシズムに対して,チャップリンが〈たった1人の戦争〉をいどんだ作品で,〈時代の歴史〉に対するもっとも痛烈な風刺喜劇として評価されている。 そもそもの着想はイギリスのプロデューサー,アレクサンター・コルダによるもので,その内容が表ざたになると,駐英ドイツ大使の抗議,ヒトラーとゲッベルスからの直接的な圧力をはじめ脅迫状や製作中止勧告が相次いだが,チャップリンは独裁者ヒンケルとユダヤ人の床屋の二役をみごとに演じて,誇大妄想狂の〈独裁者〉の内面をあばいてみせた。…
…最初ドイツ労働者党Deutsche Arbeiterparteiと名のり,《ミュンヘン・アウクスブルク夕刊》紙のスポーツ担当記者ハラーの仲介で反革命結社〈トゥーレ協会Thulle Gesellschaft〉の援助を受け,かつ活動もハラーの方針に従い小規模な人数の演説集会に終始した。19年9月ヒトラーがドイツ労働者党へ入党,宣伝担当の役をまかされる。党の大衆化の方針をめぐってヒトラーはハラーと対立,20年1月ハラーは離党。…
…〈ファシズム〉という語が生まれたのは,ムッソリーニを指導者とするイタリアの〈ファシズム〉運動の台頭によってである。イタリアでは,第1次大戦直後の混乱のなかで,1922年10月31日に早くもムッソリーニ内閣が成立したが,その後29年に始まる世界恐慌を背景に,33年1月30日ドイツではヒトラー内閣が生まれた。20年代から30年代にかけてヨーロッパの広範な諸国にこのムッソリーニの〈ファシズム〉やヒトラーの〈ナチズム〉に類似した政治的急進主義の動きが芽生えていたが,第2次大戦の緒戦におけるドイツの軍事的勝利にも支えられて,42年夏には,この種の動きが全ヨーロッパを支配してしまうようにさえみえた。…
…オリジナル版は,〈偉大な賭博者――ある時代の表象〉と〈地獄――ある時代の人びと〉の二部構成で,二夜連続で上映された。第1次世界大戦後ドイツの混乱した退廃的な社会で催眠術と変相術を巧みにつかい,強大な組織をあやつって闇の世界を支配しようとし,追いつめられたあげく狂人となって発見される心理学博士マブゼは,いわば《カリガリ博士》と同一の系列にある人物であり,すでにヒトラーのイメージを引きずっているといわれ,犯罪は大規模であるほど成功するというヒトラーの《わが闘争》の理論を先取りしているとも評された。そして,あきらかにマブゼとヒトラーの二重像をつくりあげたトーキー版の続編《怪人マブゼ博士》(原題《Das Testament von Dr.Mabuse(マブゼ博士の遺言)》1932)は,ナチスによる最初の上映禁止映画になった。…
…1923年11月8~9日,政権奪取をめざしてヒトラーがミュンヘンで起こした一揆。23年1月ドイツの賠償支払遅滞への制裁として,フランス・ベルギー軍がルール地方を占領すると,ベルリンの中央政府は,〈受身の抵抗〉でこれに対抗。…
…ユダヤ人とは自由主義者,列強協調論者,議会政治家,マルクス主義者,ボリシェビキ,都市インテリ,大資本・大商人,国際的金融資本,西欧帝国主義者であり,ドイツ国民に敗戦と過酷な賠償による塗炭の苦しみと底知れぬ屈辱を味わわせている張本人であった。ヒトラーはこのような反ユダヤ主義のデマゴギーを中間層,農民,労働者の獲得と動員のために徹底的に利用した。とくに彼は広範な社会層にみられた資本主義に対する批判,議会制民主主義への失望を,〈ユダヤ人資本家〉〈ユダヤ人議会政治家〉に対する攻撃によってとらえ,同時にドイツ的国民社会主義すなわちナチズムを,〈ユダヤ的〉国際主義的社会主義と対置することにより民衆の社会主義への志向をすくい取ろうとした。…
…一説にはアリマタヤのヨセフが〈聖杯〉と〈聖槍〉をイングランドにもたらしたといわれ,アーサー王伝説の中にもとり込まれた。またカール大帝がこの聖槍の効験でイスラム軍を撃退したとか,聖槍の所有者が世界征服を達成するなどの伝承が古くからあり,ヒトラーの野望は彼がウィーンのホーフブルク宮にある〈聖槍〉の霊感に打たれたときに始まるとする説まである。〈聖槍〉はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂ほかヨーロッパ各地に今も残る。…
※「ヒトラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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