ドイツの数学者。ケーニヒスベルク(現、ロシア領カリーニングラード)に生まれ、1880~1884年ケーニヒスベルク大学に学んだ。同大学での友人にミンコフスキーがおり、また1884年に助教授として着任したフルウィツAdolf Hurwitz(1859―1956)から多くのことを学んだ。ミンコフスキー、フルウィツと数学について論じ合ったことが大きな影響を与えた。1885年に学位を得ると、1年間ライプツィヒ、パリに遊学、帰国して1886年に母校の私講師になった。フルウィツは1892年にスイスのチューリヒ大学へ移るが、それまでの8年間、フルウィツの教えを受け、フルウィツの後を継いでケーニヒスベルク大学教授となり、1895年にはF・クラインの招きでゲッティンゲン大学教授となり、生涯をここで送った。
業績は数学の全分野にわたるが、年代別には次のようになる。まず1885~1893年は代数的形式論を研究し、不変式は有限個の基底からできていることをきわめて一般的に証明、また今日の代数幾何学での基本定理の一つ、零点定理もこの形式論のなかで証明された。1894~1898年、代数的数論を研究、有名な「数論報告」(1896)を完成し、類体論への基礎を固めた。1899~1903年の業績は幾何学基礎論への貢献である。1899年出版の『幾何学基礎論』Grundlagen der Geometrieは、20世紀の数学において抽象化へ踏み出す動機を与えたもので、数学思想史上の画期的な仕事である。1900年パリで開かれた第2回国際数学者会議で「数学の問題」という講演を行い、23の未解決の問題を出した(ヒルベルトの問題)。代数学、幾何学、解析学などの広い分野にわたるこれらの問題は数学者の関心をひき、20世紀の数学の発展にとって大きな契機を与えた。1904~1912年は解析学への貢献である。積分方程式を無限次元の一次連立方程式として考え、無限次の一次変換や、二次形式論を構成しながら、今日のヒルベルト空間の基礎を確立した。1913~1922年は理論物理学を詳しく研究し、1922年以降は数学基礎論の研究を行った。形式主義の立場をとり、数学を支配している論理を詳しく調べ研究した。著書にアッケルマンWilhelm Ackermann(1896―1962)との共著『理論論理学の基礎』Grundzüge der Theoretischen Logik(1928、1948改訂)、ベルナイズPaul I. Bernays(1888―1977)との共著『数学の基礎Ⅰ・Ⅱ』Grundlagen der Mathematik Ⅰ,Ⅱ(1934、1939)などがある。
[井関清志 2018年10月19日]
『C・リード著、彌永健一訳『ヒルベルト――現代数学の巨峰』(1972・岩波書店/岩波現代文庫)』
ドイツの数学者。19世紀の終りから20世紀前半にかけ,全世界の数学の進歩を指導したもっとも重要な学者の1人であった。ケーニヒスベルクに生まれ同地の大学に学ぶ。1885年不変式論についての論文によって同大学の学位を得,翌年同大学私講師となりパリに留学。92年同大学教授。95年ゲッティンゲン大学教授となり,1930年退職までその職にあった。業績は数学全般にわたるが,不変式論に関する研究の後,幾何学基礎論,次いで代数的整数論,積分方程式論,解析学,理論物理学,数学基礎論へと研究の主目標を移した。その間一貫して進められたのは,数学全般に特有の純粋な論理の追究と,方法の単一化である。また興味ある問題を指摘して,数学の進んでいく方向を指示する驚嘆すべき直感力をもっていた。幾何学基礎論では,ユークリッド幾何学の完全な公理系を与えて,公理の間の関係を調べ,代数的整数論では,C.F.ガウス以来の深い結果を整理したうえに類体論の成立を予見した。積分方程式論に関しては,(後の命名であるが)ヒルベルト空間論をつくり,解析の問題としてはディリクレ問題,変分法の問題などを扱った。晩年には,数学の無矛盾性を問題とする数学基礎論に没頭した。1900年,パリに国際数学者会議のあったとき,主催者の依頼に応じて〈数学の問題〉と題する講演を行い,今世紀の数学研究の目標となるべき23の問題(ヒルベルトの問題)をあげた。それには,基礎論に関する〈連続体問題〉〈算術の無矛盾性の問題〉のほか〈リー群の定義に関する第5問題〉〈類体の構成に関する第12問題〉などが含まれる。そのうちにはすでに解かれたものもあるが,未解決のものもあり,いずれも学界の興味の中心とされ,それらの解決はつねに話題となった。30年代にドイツではナチスが政権をとり,晩年の生活は不幸であったが,数学への影響は今日に及んでいる。
執筆者:弥永 昌吉
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…例えば,パッシュM.Pasch(1843‐1930)は,〈一つの直線が三角形の内部に入っていけば,それは再び外へ出る〉という公準が必要であることを発見した。このため,ユークリッドの公準を補ってユークリッド幾何学の論理的に完全な公理系を与える研究が行われ,D.ヒルベルトの著書《幾何学の基礎》(1899,1版。1930,7版)においてその完成をみた。…
…純粋な論理体系として幾何学を構成することを幾何学基礎論という。これが完全な形で実現されたのはD.ヒルベルトの有名な著書《幾何学の基礎Grundlagen der Geometrie》(1899)においてである。しかしながら,その源泉はそれより2000年以上も前に著されたユークリッドの《ストイケイア》にある。…
…20世紀初頭,集合論における逆理(パラドックス)の出来(しゆつたい)を一つの契機として始まった数学基礎論において,B.A.ラッセルの論理主義,L.E.J.ブローエルの直観主義と並んで,D.ヒルベルトによって主張された立場である。ヒルベルトは,彼の公理主義の立場から,数学を述語論理の中で形式化した。…
…数学における各理論は,その前提となる仮定としていくつかの命題を設定し,これらの命題(公理という)から出発して論理的に展開される厳密な演繹的体系として組み立てられるべきであるという主張。このような主張を明確に述べ,実行したのはD.ヒルベルトであって,現代数学を支配する基本思想である。これはギリシア以来の思想でもあり,ユークリッド幾何学はその典型である。…
…ユークリッドの《ストイケイア》は,論理的に多くの欠陥を含みその点が明らかにされていなかったからである。D.ヒルベルトの《幾何学基礎論》(1899)はユークリッド幾何学の公理を5群にわけて完全に与え,その間の論理的関係を精密に調べた。《ストイケイア》はそこで初めて意図されていたとおりに整備され,明示された前提から,厳密な論理によって構築された体系として再現されるにいたったのである。…
…この意味で,その立場はしばしば半直観主義とも呼ばれる。 形式主義の立場に立つ公理主義者D.ヒルベルトは楽観的な態度をとり続け,数学は何らかのくふうにより,〈そのままの形〉で救えるものと考えた。1920年代後半,彼は数学(例えば解析学)を記号論理の中で形式化して得られる公理的体系を考え,その体系の無矛盾性の証明を有限の立場で行うという基本的プログラム(ヒルベルトの計画という)を提出,みずからもP.ベルナイスの協力を得つつその実行を試みた。…
…D.ヒルベルトの提唱した形式主義においては,数学の各理論体系は用いられる論理も含めて公理化され記号化される。式,命題,証明はそれぞれ体系内で定められた一定の規則に従う単なる記号の有限列であって,そこに現れる記号(論理記号も含めて)や記号の有限列はすべて〈意味のない〉ものとされ,初めに与えられた法則のみに従って変形されるものとする。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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