出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
「ビクトリア」のページをご覧ください。
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…イギリスがインドを直接支配した期間のインドの呼称。インドがイギリス王領に移管されてしばらくした1877年から,イギリス女王ビクトリアは〈インド女帝Empress of India〉の称号を合わせ持つことになり,その後のイギリス国王も代々インド皇帝と名のった。帝国の中にもう一つ帝国ができたことになる。その後イギリスの領土拡張の時代になったが,インドはイギリス帝国の中で常に一つの独自な構成部分とみなされ,自治領や他の植民地とは区別されていた。…
…18世紀までは遺伝病とは気づかれず,アメリカの医師オットーJohn Conrad Otto(1774‐1844)が19世紀初頭はじめて遺伝病であることを明らかにし,血友病――ヘモ(血)+フィリア(友)――という名称は,1828年にシェーンラインによって与えられた。歴史の中で血友病の悲劇として知られるのは,イギリスのビクトリア女王の家系である。ビクトリア女王には9人の子女があったが,3人の王子のうち,レオポルド王子が血友病のため31歳で死亡し,その娘アリス公女にも血友病の男児が生まれた。…
…ビックス・バイダーベック,デューク・エリントン,アート・テイタム,そしてジョージ・ガーシュウィンの作品には,その影響がよく表れている。
[伝播と逆輸入]
イギリス王室は早くから黒人の音楽・芸能に興味を抱き,すでに1850年代,ビクトリア女王は〈ダンスの王様たち〉と呼ばれたグループ〈ジュバ〉を王室に招いている。黒人芸人バート・ウィリアムスは第1次世界大戦前に,王室でケークウォークを披露したし,1919年には,ジャズをヨーロッパに紹介したW.マリオン・クックの黒人バンドも,御前演奏を行っている。…
…彼女も啓蒙専制君主を自認する政策を展開したが,晩年は農奴制を強化するとともにポーランド分割に積極的に加わり,ツァーリズムの再編に一役買った。女子に王位継承権が認められていたイギリスでは,1837年ハノーバー朝のビクトリア女王(在位1837‐1901)が即位する。ハノーバー朝はドイツのハノーファー家の出身であるが,ビクトリアの即位に伴い,女子相続を認めない同家との同君統治の関係は消滅した。…
…この王朝は,その後名称を変えながら現在まで継続している。すなわち,1901年,ビクトリア女王が没し,エドワード7世が即位するに際して,父(アルバート公)の家名であるサックス・コーバーグ・ゴータSaxe‐Coburg‐Gotha家と改称,さらに,17年にはドイツ系の名前を嫌って,ウィンザー家と再改名し,現在に至っている。 ジョージ1世時代(1714‐27)の1715年には,スコットランドにジャコバイト(ジェームズ2世の子孫を戴く)の乱が発生したが,鎮圧された。…
…ビクトリア朝時代の植民地拡大により,内外の美術工芸品,珍品が多く収集され,57年博物館の複合体として現在地に建設された〈サウス・ケンジントン博物館〉に移る。その後も収蔵品は増大し,99年,増築工事の定礎式の際,ビクトリア女王は夫君アルバート公の名を連ねた現在の名称を与えた。現在展示は〈サウス・ケンジントン博物館〉時代の基礎コレクションとそれ以外の収蔵品に分けられ,前者は時代や国別に各種の代表作を通覧できる部屋と,ジャンルごとに同一種の作品が陳列される部屋とで構成されて,アマチュア,専門家双方に対する配慮がなされている。…
…字義どおりには,1837年から1901年に至るイギリスのビクトリア女王の治世をいう。だが通常は,その治世の中でも,とくにイギリスが世界経済の覇者となった1840~70年代のこの国の〈黄金時代〉を含意し,しかもこの時期の生活,文化とのかかわりで用いられる。…
…またチャールズ1世が1647‐48年にカリスブルック城に幽閉されている。カウズの近くにあるオズボーン・ハウスOsborne Houseは,ビクトリア女王がこよなく愛した海浜別荘であった。夫アルバート公自身が設計にあたり,女王はここで初めて海水浴を体験し,この館で息を引き取った。…
※「ビクトリア女王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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