ピョートル[1世](読み)ピョートル

百科事典マイペディア 「ピョートル[1世]」の意味・わかりやすい解説

ピョートル[1世]【ピョートル】

ロシア皇帝(在位1682年−1725年)。アレクセイ・ミハイロビチの子。啓蒙専制君主典型。自ら英国,オランダに留学して西欧の技術文化の輸入を図り,富国強兵に努めた。スウェーデンとの北方戦争緒戦における敗北契機に軍制改革に着手,また官営の製鉄所や織物工場を設置。1703年新都ペテルブルグ(サンクト・ペテルブルク)を建設し,バルト海沿岸を制圧メンシコフらの協力も得て官僚機構を整備し,ツァーリ権力を絶対的なものにするとともに,農奴制度を最終的に確立した。インペラートル(皇帝)を称して大帝と呼ばれ,ロシア帝国の建設者となった。皇后エカチェリナ1世が後を継いだ。
→関連項目シュリューターソビエト連邦科学アカデミーツァーリズムパーベル[1世]ペトロパブロフスク要塞ポルタワの戦マゼパロシアロシア語ロマノフ朝

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世界大百科事典 第2版 「ピョートル[1世]」の意味・わかりやすい解説

ピョートル[1世]【Pyotr I Alekseevich】

1672‐1725
ロシア皇帝。在位1682‐1725年。国家,社会の改革を強力に進めてモスクワ・ロシア末期の絶対主義化と西欧化の方向を決定的にした。北方戦争終結の1721年,インペラートル(皇帝)を称して〈大帝〉とよばれ,ロシア帝国の建設者になった。ツァーリ,アレクセイ・ミハイロビチとその後妻ナタリア・ナルイシキナの子で,異母兄弟フョードル3世のあと10歳でツァーリとなったが,フョードルの姉ソフィア・アレクセーエブナの摂政期にはおもにモスクワ郊外プレオブラジェンスコエ村の離宮で暮らした。

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世界大百科事典内のピョートル[1世]の言及

【キリスト教】より

…なおロシア正教会では17世紀中葉,典礼の改革をめぐって深刻な紛争が生じ,改革に反対した一派はラスコーリニキ(分離派)として離脱し,教会全体の活力は弱まった。ピョートル大帝は教会改革の一環として総主教制を廃止し(1721),かわりにシノド(宗務院)を設け,国家による統制を強化した。 東方諸教会とはカルケドン公会議の前後に分離した非カルケドン派教会の総称であるが,そのうちの多くがのちにイスラム教徒の支配圏に組み入れられたため,勢力が著しく減退し,こんにち,多少ともまとまった形で存在するのは,エジプトのコプト教会,エチオピア教会,アルメニア教会,レバノンのマロン派教会などにすぎず,キリスト教世界全体における影響力も限られている。…

【皇帝】より

…tsar’称号もまた,imperator称号と同じく中世でビザンティン帝国のbasileus称号と等置されたが,そのtsar’称号を,920年代にはブルガリア人シメオン1世が(先行ブルガリア人支配者の称号khan=汗にかわって),1346年の戴冠式にはセルビア人ステファン・ドゥシャンが(kralj称号にかえて),1547年の戴冠式にはロシア人イワン4世が(先行支配者たちが最初に帯びていたknyaz’(公)称号,のちに帯びるようになったvelikii knyaz’(大公)称号の代りに),それぞれとなえたのは,いずれも,ビザンティン帝国の標榜する世界皇帝理念に対するみずからの態度表明としてであった。なお近代では,ピョートル大帝が,tsar’称号を廃して,代りに西方のimperatorを公式称号に採用したけれども,tsar’称号は依然として民間で存続した。(3)王を意味した古典ギリシア語バシレウスbasileusはビザンティン帝国ではローマ皇帝を指すようになり,かかるものとしてビザンティン皇帝がみずから帯びた。…

【サンクト・ペテルブルグ】より


[名称]
 1924年1月26日,レーニンの名を冠してレニングラードと改名されるまで,この都市は数多くの名で呼ばれた。1703年,ピョートル大帝(1世)によってネバ川のザーヤチイ島(〈兎島〉の意)に建設された要塞の公式の名称〈サンクト・ピーテルブルッフ(オランダ語の〈ペテロの市〉にロシア語のサンクト(〈聖〉の意)を冠したもの)〉が,そのまま,この都市の名称となった(要塞はその内部の寺院の名をとって,その後ペトロパブロフスク要塞と名づけられた)。この町の愛称ピーテルはこのオランダ語名に由来する。…

【シノド】より

…ロシアで18世紀に設けられたシノドは,宗務院と訳され,正教会内部の機関と見えるが,実際には国教としての正教会の管理に当たる国家機関であった。ロシアの近代化をはかった皇帝ピョートル1世は,教会改革の一環として,絶大な権力を有した正教会の代表である総主教の選出を禁じ,1721年に公式に総主教制を廃止し,代りにシノドを設けた。これは最初は〈宗教協議会〉の名称で呼ばれた。…

【ドボリャンストボ】より

… ロシアではキエフ・ロシアの時代以来,古い貴族層(ボヤールストボboyarstvo)が存在していたが,15~16世紀ごろから,モスクワ大公に奉仕する小領主層であるドボリャンストボが,中央集権国家発展の支柱としてあらわれてきた。そして18世紀のピョートル1世の改革によって,官等表で規定された一定の職につけば,だれでもドボリャニーンになれることになり,ボヤールストボはドボリャンストボに吸収されていった。ピョートルはまた,従来からの公爵knyaz’のほかに伯爵graf,男爵baronの爵位を新設した。…

【露土戦争】より

…(4)19世紀後半 ロシアによるオスマン帝国への進出に対してイギリス,フランスなどの西欧列強が干渉し,トルコの植民地化が決定的となった。(1)18世紀前半まで ピョートル1世の改革によってロシア帝国は発展し,まずバルト海に進出し,南方においても,黒海への出口にあたるアゾフの領有をめぐって,黒海北岸の支配権を握るオスマン帝国と対立した。1699年カルロビツ条約で,ロシアは一時アゾフを獲得したが,北方戦争に敗れたスウェーデン王のオスマン帝国への亡命問題に端を発したプルート戦争(1710‐11)で,ロシア軍はオスマン帝国軍に包囲され,ピョートル1世は危うく捕虜となることをまぬがれるなど敗北を喫し,オスマン帝国はアゾフを奪回した。…

【ロマノフ朝】より

…ロマノフ家は古くからの名門貴族で,16世紀以来ロマノフを名のり,リューリク朝のツァーリ,イワン4世の妃アナスタシアはその出身で,彼女の甥の子がミハイルである。 18人の皇帝のなかで,大帝といわれるのはピョートル1世エカチェリナ2世の2人だけであるが,300年のロマノフ朝の歴史は,この2人の治世とその前後の3時期に分けられるであろう。ピョートル1世までは王朝の創設期であり,基礎がつくられた時期である。…

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