精選版 日本国語大辞典
「フィッツジェラルド」の意味・読み・例文・類語
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「フィッツジェラルド」の意味・読み・例文・類語
フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald)
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フィッツジェラルド
FitzGerald, Garret
[生]1926.2.9. ダブリン
[没]2011.5.19. ダブリン
アイルランドの政治家。首相(在任 1981~82,1982~87)。フルネーム Garret Michael FitzGerald。フィン・ゲール党(統一アイルランド党)党首として労働党との連立政権を率いた。アイルランド自由国の草創期に革命志向の政治家一家に生まれた。ダブリン・ユニバーシティ・カレッジ(ダブリン国立大学)と法曹学院キングズインに学び,1959年にダブリン・ユニバーシティ・カレッジの政治経済学部で経済学講師。1969年にアイルランド議会下院(ドイル)議員に選出された。のちに大学講師の職を退き,フィン・ゲール党のライアム・コスグレーブ首相率いる連立政権の外務大臣に就任した。この連立政権が 1977年の選挙で大敗すると,コスグレーブは党首の座をフィッツジェラルドに譲った。フィッツジェラルドは草の根レベルから党の近代化と強化に取り組んだ。フィッツジェラルド政権では,離婚,妊娠中絶,避妊に関する法律の緩和を進めるとともに,北アイルランドのプロテスタントとの対話努力を重ねた。1985年にイギリスのマーガレット・サッチャー首相との間でイギリス=アイルランド合意(ヒルズバラ合意)に調印し,アイルランドは北アイルランドの統治について意見を述べることが可能になった。1987年の選挙でフィン・ゲール党が大敗したのをうけて党首の座を退いた。おもな著書に "Planning in Ireland"(1968),"Towards a New Ireland"(1972),"Unequal Partners"(1979)など。
フィッツジェラルド
Fitzgerald, F. Scott
[生]1896.9.24. ミネソタ,セントポール
[没]1940.12.21. カリフォルニア,ハリウッド
アメリカ合衆国の小説家。フルネーム Francis Scott Key Fitzgerald。自伝的小説『楽園のこちら側』This Side of Paradise (1920) で認められ,1920年代の「ジャズ時代」を担う新世代の代弁者とうたわれた。次いで短編集『フラッパーと哲学者』Flappers and Philosophers (1920) ,『ジャズ時代の物語』Tales of the Jazz Age (1922) ,長編『美しく呪われし者』The Beautiful and Damned (1922) ,『華麗なるギャツビー』The Great Gatsby (1925) など,盛んに書き続けたが,1920年代の享楽的な生活にのめり込んで才能を浪費したばかりでなく,1930年代の時代風潮はすでに彼の文学を受け入れず,妻ゼルダの精神疾患と相まって,その生活は破綻せざるをえなかった。長編『夜はやさし』Tender Is the Night (1934) の不評のあと,ハリウッドを舞台に再起をかけた力作『最後の大君』The Last Tycoon (1941,死後出版) も未完のままに終わった。
フィッツジェラルド
FitzGerald, George Francis
[生]1851.8.3. ダブリン
[没]1901.2.22. ダブリン
イギリスの物理学者。ダブリンのトリニティ・カレッジ (ダブリン大学) に学び,同大学のチューター (1877) ,教授 (81) 。 J.C.マクスウェルの理論を発展させ,同カレッジの物理学研究の水準を高めた。 1889年 H.ローレンツに先立って,マイケルソン=モーリーの実験結果を説明するために,運動物体は運動方向に長さが短縮するとの解釈を与えた (→ローレンツ収縮 ) 。陰極線が原子よりも小さい荷電粒子より成るとの見解も示した。 83年にロンドンのロイヤル・ソサエティ会員に選出された。
フィッツジェラルド
FitzGerald, Edward
[生]1809.3.31. サフォーク,ブレッドフィールド
[没]1883.6.14. ノーフォーク,マートン
イギリスの詩人,翻訳家。ペルシアの詩人オマル・ハイヤームの『ルバーイヤート』の翻訳"The Rubáiyát of Omar Khayyám" (1859) によって知られる。オマルの原詩に劇的な統一を与え,過ぎゆく一刻一刻を十分に享受したいという朝の願望に始り,青春のはかなさと死の接近を嘆く日没に終る連作として訳出。ほかに,教育制度批判の書『ユーフラノール』 Euphranor (51) ,警句集『ポローニアス』 Polonius (52) ,翻訳『カルデロンの戯曲6編』 Six Dramas of Calderón (53) がある。
フィッツジェラルド
Fitzgerald, Ella
[生]1917.4.25. バージニア,ニューポートニューズ
[没]1996.6.15. カリフォルニア,ビバリーヒルズ
アメリカ合衆国の女性ジャズ歌手。1934年アマチュア・コンテストで優勝してチック・ウェッブ楽団の専属歌手となった。1946年からノーマン・グランツの Jazz at the Philharmonic (JATP) コンサートに加わり,以後名実ともにジャズ・ボーカルの女王として 1980年代半ばまで活躍,1986年に心臓手術を受けたあとも復帰し,1993年まで歌い続けた。1953年に初来日。ヒット曲は『ア・ティスケット・ア・タスケット』『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』。12個のグラミー賞を獲得したほか,多くの賞を受賞した。
フィッツジェラルド
Fitzgerald, James (Fitzmaurice)
[生]?
[没]1579.8.18. マンスター,カースルコネル
アイルランドの反乱の指導者。 16代デズモンド伯の弟。 1573年イギリスに対する反乱を起して失敗したのち大陸に逃れ,79年ローマ教皇やスペインの支援を得て,アイルランドに上陸したが,戦死。
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「フィッツジェラルド」の意味・わかりやすい解説
フィッツジェラルド
米国の作家。処女作《楽園のこちらがわ》(1920年)で,第1次大戦後の空白感をジャズと目的のない行動で埋めようとする青年群像を描いた。以後〈ロスト・ジェネレーション〉の旗手として,《偉大なるギャツビー》(1925年),《夜はやさし》(1934年)を発表したが,浪費的な生活の破綻とともに文学的にも後退,不遇のうちに未完の大作《ラスト・タイクーン》(1941年)を残して死んだ。
→関連項目ウィルソン|村上春樹|ロスト・ジェネレーション
フィッツジェラルド
英国の詩人。ケンブリッジ大学卒業後,英国南東部サフォークで隠遁の一生を送った。ウマル・ハイヤームの〈ルバーイヤート〉の流麗な英訳(1859年)は,ロセッティらに称賛され,世紀末の耽美(たんび)的傾向の先駆となった。ほかにギリシア悲劇の翻訳など。
フィッツジェラルド
米国の黒人女性ジャズ歌手。バージニア州に生まれ,ニューヨークのハーレムで成長。1935年チック・ウエッブWilliam(Chick)Webb〔1909-1939〕の楽団の歌手としてデビュー。1938年に《ア・ティスケット,ア・タスケット》がヒットし人気を獲得した。スイング・ブームとともに,〈ジャズ・ボーカルの女王〉と呼ばれ,半世紀近く第一線で活躍。スキャットを駆使した歌唱力と,飾らない美しい声のバラードによって名声を得た。
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世界大百科事典 第2版
「フィッツジェラルド」の意味・わかりやすい解説
フィッツジェラルド【George Francis FitzGerald】
1851‐1901
イギリスの物理学者。ダブリンに生まれ,トリニティ・カレッジで学び,1877年トリニティ・カレッジのフェロー,80年ダブリン大学実験物理学教授となった。H.R.ヘルツやH.A.ローレンツらと並んでマクスウェル理論に深い関心を示し,とりわけ光の電磁理論に注目し研究を行った。方向による光速度の差を検出しようとして行われたマイケルソン=モーリーの実験の否定的結果に関心をもち,帯電物体がエーテル中を運動するとき電気力が変化することから,分子間力も同様に変化し,それによって運動方向に物体は短縮することも考えうるとして,89年短縮仮説を提出した。
フィッツジェラルド【Edward FitzGerald】
1809‐83
イギリスの詩人,翻訳家。繊細な感受性と洞察力をもち,サフォークの田園で静かに翻訳活動をした。その一生は友愛に満ち,ユーモラスでやさしい書簡集でも有名だが,彼の名を不朽にしたのは,11~12世紀のペルシアの詩人ウマル・ハイヤームの《ルバーイヤート》の名訳(1859)である。原詩は神秘的4行詩で,人生の無常を嘆き,美女,ワイン,詩の喜びで浮世の苦悩を忘れようとするエピキュリアン的刹那主義の長大な詩であった。
フィッツジェラルド【Ella Fitzgerald】
1918‐96
アメリカの黒人女性ジャズ歌手。バージニア州ニューポート・ニューズ生れ。少女時代,ハーレムの〈のど自慢〉で歌っているところをジャズ・バンド・リーダー,チック・ウェッブWilliam(Chick) Webb(1907?‐39)に認められ,専属歌手として1935年デビュー。スウィング・ブーム到来とともにナンバーワン女性歌手となり,ウェッブの死後約1年,そのバンドのリーダーを務めた。その後独立,デッカ→バーブ→パブロ各レコードのドル箱歌手として活躍を続けてきた。
フィッツジェラルド【Francis Scott Key Fitzgerald】
1896‐1940
アメリカの小説家。ミネソタ州セント・ポール出身。第1次大戦に志願して少尉に任官されたがもっぱら内地勤務で,プリンストン大学在学中に書き始めていた小説の完成に専念,終戦後改作してようやく出版されたのが処女作《楽園のこちら側》(1920)。権威が失墜した既成道徳に思いきり反逆する当時の若者の思考と感情を,奔放な行動を通して直截に描いた小説だが,粗笨(そほん)な仕上がりにもかかわらず時流に投じて戦後世代の絶大な共感を呼んだ。
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世界大百科事典内のフィッツジェラルドの言及
【アメリカ文学】より
… 第1次世界大戦を経て,戦後のいわゆるロスト・ジェネレーションの作家たちは,1920年代の〈荒地〉的風景において,その名の示す通り,神の恩寵から見放された人間の状況を書いた。F.S.フィッツジェラルドは《偉大なるギャッツビー》(1925)その他の作品でジャズ・エージの夢が崩壊するさまを書き,ヘミングウェーは《陽はまた昇る》(1926)以下の作品において〈ハードボイルド〉と呼ばれる,タフ・ガイが非情に語るような文体を駆使して現代の空虚に生きる人間を示した。フォークナーも特異な文体家であるが,代表作《響きと怒り》(1929)などにより,南部社会の深層を〈意識の流れ〉の手法の開拓やトウェーン伝来の語り口を通じてみごとに剔出して見せた。…
【ジャズ・エージ】より
…繁栄と,戦後の解放感から,とくに若い世代が,前代までの保守的な道徳律に反抗して,一般的に享楽的になり,風俗やマナーが急激に変わった時代である。《ジャズ・エージの物語》(1922)という短編集を出し,この言葉をさらに一般化した小説家F.S.フィッツジェラルドも,当時は〈一つの民族全体が享楽的になり,快楽を追い求めていたのだ〉と言っている。それはまず,若い女性の服装の革命的な変化に象徴的に現れている。…
【フラッパー】より
…とくに画期的なのはそのファッションで,裾が膝までしか届かないストレート・ドレス,ショート・ヘア,ペティコート追放,大戦後に初めて現れた化粧品(真っ赤な口紅,アイシャドーなど)がトレード・マークであった。作家F.S.フィッツジェラルドは,短編集《フラッパーと哲学者》(1920),同じく《ジャズ・エージの物語》(1922),長編《楽園のこちら側》(1920)などで,彼女らの生態を文学化している。【金関 寿夫】。…
【相対性理論】より
…それは,電磁波は真空や物質の中を一様に満たしているエーテルという仮想的な媒質の中を伝わるというものであり,マイケルソン=モーリーの実験(これも静止したエーテルの存在を実験的に見いだそうとしたものである)が,これに対して否定的な結果を与えた後も,この考えはなかなか捨てられなかった。このような仮想的な物質を仮定することは,かえって困難を増すのみであったが,H.ローレンツとG.フィッツジェラルドは,それぞれ独立に,エーテル説に立ったうえで,マイケルソン=モーリーの否定的実験を説明するためには,速度vで動く物体は,その進行方向に
倍短くなると考えればよいことを示した(ローレンツ収縮)。しかし,あらゆる物体が,その種類をとわず一様に収縮する機構を説明することはできなかった。…
【ローレンツ収縮】より
…マイケルソン=モーリーの実験は,絶対静止系(エーテル系)の存在を否定するものであったが,H.A.ローレンツはなおエーテル説との両立を求め,エーテルに対して速度vで動く物体は,光速度をcとすると,その方向に
の割合で短くなると考えればよいことを示した(1893)。この仮説をローレンツ収縮,またはローレンツ短縮という(G.F.フィッツジェラルドも独立にこの仮定を立てており,フィッツジェラルド=ローレンツ収縮ともいう)。しかしすべての物体が,その物質や構造に関係なくエーテルに対する速度だけによって決まる割合で変形を受けると考えるのはいかにも不自然であった。…
※「フィッツジェラルド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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