精選版 日本国語大辞典 「フォーレ」の意味・読み・例文・類語
フォーレ
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フランスの作曲家、教育者、オルガン奏者。スペインに近い南フランスの町パミエの教育者の家に生まれ、早くから音楽の才能を示した。9歳からパリのニデルメイエール音楽学校に入学、11年間宗教音楽を中心に学ぶ。この間、サン・サーンスのピアノ・クラスでリスト、ワーグナーの音楽に接し、作曲に開眼した。1865年同校卒業後、レンヌのサン・ソブール教会を皮切りに、パリのいくつかのオルガン奏者を歴任し、77年にマドレーヌ教会の楽長、96年には同教会主席オルガン奏者となった。同じ96年からパリ音楽院の作曲法の教授となり、1905年から17年間、同院長を務めた。その80年近い生涯は、ドイツなどへの外国旅行のほかには波瀾(はらん)もない平穏なものであったが、後半生の20年間は、耳の疾患により聴力を失うという不幸のなかで教育と作曲活動に専念して、その名声にこたえた。とくに晩年の作品にみられる気品と深みをたたえた作風は、他の追随を許さない。1909年アカデミー会員となり、清貧のうちにパリに没。死にあたっては国葬が行われている。
フォーレの創作期は1865年(20歳)から1924年(79歳)までの59年に及ぶ。彼はロマン主義から世紀末のベル・エポック、ダダイスムなど、激動する芸術的潮流のなかにあって、一貫して叙情性の強く、完成度の高い独自の様式を貫き、声楽、ピアノ曲、室内楽の各分野で多くの秀作を残した。なかでも声楽曲がもっとも重要で、ロマン派の詩による『夢のあとに』(1865?)、『リディア』(1870?)など初期の歌曲、ベルレーヌの詩による『月の光』(1887)と『優(やさ)しい歌』(1892~94)、そして最晩年の『幻(まぼろし)の水平線』(1921)などによって、フランスのメロディ(リートの仏訳)は、ドイツ・リートに匹敵するものとなった。そのほかに、『レクイエム』(1887~88)、オペラ『ペネロープ』(1907~13)、多くのピアノ用の即興曲・夜想曲・前奏曲、ピアノ三重奏曲ニ短調(1922~23)、弦楽四重奏曲ホ短調(1923~24、絶筆)がある。
[船山信子]
『P・フォーレ・フルミエ著、藤原裕訳『フォーレ――その人と芸術』(1972・音楽之友社)』▽『E・ヴュイエルモーズ著、家里和夫訳『ガブリエル・フォーレ――人と作品』(1981・音楽之友社)』
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出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
…第3は,1660年より1760年に至るベルサイユ楽派の時代。そして第4は,フォーレ,ドビュッシー,ラベルを頂点にいただく1860年以後の1世紀である。これは一つの見方にすぎぬかもしれないが,フランス音楽がヨーロッパにあって最も古く輝かしい歴史を誇る音楽の一つであることは,語ってくれるだろう。…
※「フォーレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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