日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
フランクフルト・アム・マイン
ふらんくふるとあむまいん
Frankfurt am Main
ドイツ中部、ヘッセン州の商工業都市。人口64万3700(2002)。ライン川の支流マイン川沿いにあり、中心市街地は右岸に位置する。古来、ライン川の河谷平野と北ドイツ平原を結ぶ交通路の渡頭集落として成長し、神聖ローマ帝国の政治の中心として発達した。経済的には、宗教戦争後、イギリス、オランダ、フランスなどから宗教亡命者(ユグノー)を受け入れたことで商工業が発達し、毛織物取引、金融の中心となり、この伝統が現在にも引き継がれている。
マイン川河畔のレーマー(旧市庁舎)とレーマー広場を中核に半円形に発達する市街地には、金融、保険、経済団体、官公署などの事務所が集中し、1960年代以降は高層ビルが多くなった。南郊の森林地帯にはヨーロッパ有数の規模を誇るフランクフルト・アム・マイン国際空港があり、地下鉄で都心に近い中央駅と連絡。自動車道路(アウトバーン)網もよく整備され、鉄道とともに国内各地はもとより近隣諸国への交通を容易にしている。当市で生まれた文豪ゲーテの名を冠した総合大学(1914設立)をはじめ、学術・文化施設も多い。周辺はドイツ有数のライン・マイン工業地域で、化学、電気機器、金属加工、ビール醸造、自動車などの工業が発達。また各種の国際見本市の開催地として有名で、春と秋の定期市のほか、楽器・ガラス・工芸品などの消費財見本市、服飾繊維品の「インターシュトッフ」、国際毛皮見本市、国際自動車ショーなどのいずれかがつねに開催されており、とくに秋の書籍見本市には世界中から書籍・出版業者、文献収集家などが集まる。
[朝野洋一]
歴史
古代ローマの城塞(じょうさい)や軍団の兵舎と推定される遺構があり、ローマ以来の歴史を伝えているが、6世紀にフランク王国の王宮所在地となったときから発展の基礎が築かれた。カロリング朝の諸王もここを戦略上の要衝として重視し、神聖ローマ帝国の時代には、とくに11世紀から13世紀にかけて定住者も増え、環状の市壁が築かれ、市場も開設されて中世都市としての確立をみた。歴史上最大の特色は、この都市が帝国国制上の重要な機能を果たしたことで、12世紀以来しばしば皇帝選挙の開催地となったほか、1562年以来皇帝の戴冠(たいかん)式が大聖堂で行われ、また15世紀末の帝室裁判所の設置まではフランクフルトの都市裁判所が帝国裁判所の役割を果たした。経済面でも、帝室貨幣鋳造所や市場開催などで繁栄し、人口は1387年までに約1万人に達した。しかし、市参事会の寡頭制的支配はたび重なるツンフト(同職ギルド)闘争にもかかわらず維持され、これが製造工業の発展を妨げた。逆に印刷術の普及による書籍出版とその販売、株式取引所と銀行の創設による金融業の発達(たとえばロスチャイルド家の繁栄)がヨーロッパにフランクフルトの名を高からしめた。
フランス革命期に一時フランスに占領され、1806年には帝国都市としての自由を失ったが、1815年自由都市として再生、1816年以降ドイツ連邦議会の開催地ともなった。1848年の三月革命期には、市内の聖パウロ教会でドイツ最初の国民議会が開かれ、「統一と自由」の運動の拠点となった。だが、1866年のプロイセン・オーストリア戦争の結果、ドイツ連邦は解体し、小ドイツ的統一が進み、フランクフルト自体もプロイセン国家に併合されるに及んで、政治や金融面でのドイツの中心はベルリンに移行していった。しかし、ライン川、マイン川の交易路と鉄道の発達や、工業地帯ボッケンハイムの市への編入などで商工業は飛躍的に発達、住民数も1861年の7万2000から1933年の55万6000へ急増した。第二次世界大戦で莫大(ばくだい)な被害を受けたが、戦後の復興は目覚ましく、「ゲーテの家」の復原、国民の募金による聖パウロ教会の再建など、史跡の保存にも力が注がれた。
[末川 清]