フランス領西アフリカ
ふらんすりょうにしあふりか
Afrique Occidentale Française
西アフリカにあったかつてのフランスの大植民地。略称AOF。現在のモーリタニア、セネガル、ギニア、コートジボワール、ベナン、マリ、ブルキナ・ファソ、ニジェールのフランス語圏8か国が占める地域をいう。フランス領の植民地の連合体として形成され、セネガルの首都ダカールに置かれた総督府によって一元的に統治されていた。
1880年代から1890年代にかけてのアフリカ大陸分割の時期、フランスは、西アフリカ沿岸部の各拠点を足場に内陸部に勢力を伸ばし、セネガル、ギニア、スーダン(現マリ)、コートジボワールの各植民地を建設した。1895年、フランスはこれらの植民地を統一的に治めることを決定し、1899年にはダオメー(現ベナン)もこれに加え、1904年の政令により、フランス領西アフリカは正式に発足した。第一次世界大戦後、新たにモーリタニア、ニジェールなどサヘル地域のフランス領が加えられ、全領土は450万平方キロメートルという広大なものとなった。独立に際しては、1958年のギニアを皮切りに、各植民地はそれぞれ一国として、別個に独立を達成した。しかし、ギニア、モーリタニアを除く諸国は、通貨同盟(UMOA)に加盟し、植民地時代からの共通通貨であるCFAフランを使用するなど、経済的には緊密な関係を維持している。
[原口武彦]
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フランス領西アフリカ
フランスりょうにしアフリカ
Afrique Occidentale française; French West Africa
アフリカ大陸中央西部にあったフランスの植民地。セネガル,モーリタニア,フランス領スーダン (現マリ) ,オートボルタ (現ブルキナファソ) ,ニジェール,ギニア,コートジボアール,ダオメー (現ベナン) の各植民地の連合として 1895年に編成された。当時人口 1900万,面積 466万 km2を擁し,総督府はダカール (セネガル) におかれた。第1次世界大戦後フランスの委任統治領となったトーゴも,経済的には統合された。 1946年各植民地は海外領となったが,独立運動が頻発。 58年独立したギニア以外は自治共和国となったが,60年にはすべて独立した。
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世界大百科事典 第2版
「フランス領西アフリカ」の意味・わかりやすい解説
フランスりょうにしアフリカ【フランス領西アフリカ Afrique occidentale française】
西アフリカのフランス語圏8ヵ国(モーリタニア,セネガル,ギニア,コートジボアール,ベニン,マリ,オートボルタ,ニジェール)が占める地域の旧称。略称はAOF。植民地時代には,セネガルの主都ダカールにあったフランス植民地総督府の一元的な統治のもとにおかれていた。19世紀末,いわゆるアフリカ大陸における植民地獲得競争が激化してきた中で,フランスは西アフリカ沿岸部の各拠点から内陸部への侵略を開始し,セネガル,ギニア,スーダン(現,マリ),コートジボアールなどの植民地を建設した。
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世界大百科事典内のフランス領西アフリカの言及
【セネガル】より
… フランスが本格的な植民地化を行ったのは総督フェデルブ(在任1854‐65)の時代である。フェデルブは現地の小王国の抵抗を打ち破り,イスラムの聖戦を広げていたトゥクロール族のハジ・ウマルを撃退して,のちのフランス領西アフリカの基礎を築いた。しかし,その後もアフリカ人の抵抗は続き,南部のカザマンス地方をも平定したのは1903年にいたってであった。…
【ベニン】より
…その強力な中央集権的政治組織を基盤に栄華を極めたゲゾGhezo(Guézo)王(在位1818‐58)の名は,同国が組織したアマゾンと呼ばれる女性の軍隊とともにヨーロッパにも知れわたった。 19世紀末までにほぼ完全に全土をフランス軍に征服されたこの地域は,1904年セネガルのダカールに総督府をおくフランス領西アフリカに編入された。以来,フランスによって推し進められた植民地開発は,さしたる鉱物資源も存在しないこの地域ではそれほどの成果を生み出さなかった。…
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