百科事典マイペディア 「フランソア[1世]」の意味・わかりやすい解説
フランソア[1世]【フランソア】
→関連項目クレメンス[7世]|シャンボール城館|フォンテンブローの宮殿と庭園|フォンテンブロー派|マロ|モナ・リザ|レオ[10世]|レオナルド・ダ・ビンチ
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…しかし,これに対して,フランスの進出を嫌うベネチアなど北イタリア諸国,スペイン,神聖ローマ皇帝,ローマ教皇ユリウス2世,イギリスが同盟を結んだため,シャルルはイタリアからの退却を余儀なくされた。後を継いだルイ12世やフランソア1世もイタリア攻略の政策を受け継ぎ,フランソアはベネチアと組んでミラノを攻め,マリニャーノの戦(1515)に大勝した。しかし,神聖ローマ皇帝の位をめぐり,ヤーコプ・フッガーの財力に支えられたスペイン王カルロス1世(のちの皇帝カール5世)と争って敗れ(1519),やがて再開された戦闘でもパビアの戦(1525)に大敗,マドリードに捕らわれの身となった。…
…そのために,〈移動宮廷〉がこの時代の特徴となる。フランス・ルネサンスを代表する国王フランソア1世は,ロアール河畔に多くの王城を構えたばかりでなく,広く王国を巡回し,首都パリにとどまることは少なかった。巡幸のたびに,国王の側近のみならず,外交使節や貴婦人たち,要するに宮廷全体が,国王のあとを追って移動したのである。…
…この現象がとりわけいちじるしかったのは,官僚制がいち早く発展したフランスにおいてである。すでに15世紀後半以来,フランスでは,国王の財務官職や都市の役職の売買が非合法なかたちではびこりはじめたが,フランソア1世が,財政難を切り抜ける便法として,1522年新たに設けた諸官職を競売によって希望者に買いとらせる政策を開始したことから,売官は公然たる国家の制度へと転化するにいたった。16世紀末までに,この売官制は,財務官職のみならず司法官職やさまざまな行政官職にもおし広げられ,国王財政の重要な収入源となった。…
…
【アンシャン・レジーム期】
[宗教戦争の嵐]
16世紀にはいるとフランスはルネサンス文化の洗礼を受ける。フランソア1世(在位1515‐47)は王権の強化に努める一方で,その宮廷に文人や美術家を招いたが,その一人G.ビュデは,1530年パリにコレージュ・ド・フランスの前身である王立教授団を設立し,ユマニストの拠点とした。しかし,この頃より宗教改革運動の波がパリにも及び,新教派ユグノーとカトリックの対立が激化し始めた。…
… フランス王室の図書室はルイ9世(聖王)までさかのぼることができ,それ以前のカール大帝の息子,ルイ敬虔王所蔵の写本もビブリオテーク・ナシヨナルに現存するが,一般にはシャルル5世の収書が起源とされる。国の内外から善本を集め,ブルボン家が2世紀間に集めた蔵書を1523年に没収し,祖父ジャン・ル・ボンと父シャルル・ダングーレームの蔵書に加え,フォンテンブロー宮殿に特にギリシア語写本を集めさせたフランソア1世は,さらに1544年ブロア城から1890冊の図書をフォンテンブローに運ばせて,ヨーロッパ随一の図書館をつくった。ギリシア学者G.ビュデを司書長にE.ロッフェを製本師長に任命したフランソア1世は,1573年モンペリエの勅令で印刷本の納本制度をつくって領土内で印刷された本を集め,ビブリオテーク・ナシヨナルの基礎を確立した。…
…フランス国王フランソア1世が,1539年8月30日,パリの北東約75kmの小都市ビレル・コトレで発布した王令。絶対王権の樹立へと向かうにつれ王権の立法活動が活発になるが,この王令はその端緒となった重要なものである。…
…パリ南東約65kmのところにあるフランス王室ゆかりの宮殿。11世紀以来この地に,王家の狩りの館が建てられていたが,1528年以降フランソア1世の下で大規模な建替えが行われ,建築家ル・ブルトンGilles Le Breton(1500ころ‐53)によって新しい離宮が造営された。室内装飾はイタリアから招かれた芸術家たちが手がけた(フォンテンブロー派)。…
… 16世紀にフランスは政治上の統一を達成し,王室の権威を確立した。王室の日常にあって音楽の占める場所は小さくなく,フランソア1世は宮廷礼拝堂の音楽家たちのほかに,宮廷室内楽団と野外奏楽隊とを置いた。新興の市民階級は音楽の世俗的傾向を促進し,そこには新しいルネサンスの精神が反映されている。…
…ゴシック美術ロマネスク美術
【ルネサンス,近世】
15世紀末のシャルル8世のナポリ侵攻に始まるイタリア戦争は,文化の先進国であったイタリアのルネサンスが生み出した輝かしい成果をフランスにもたらすのに大きな役割を果たした。優れた芸術保護者でもあったフランソア1世は,晩年のレオナルド・ダ・ビンチに安住の地を与え,ラファエロ,アンドレア・デル・サルトその他の名作の収集に情熱を燃やしたほか,イタリアからロッソ・フィオレンティーノ,プリマティッチョなどを招いて,フォンテンブロー宮殿の装飾活動にあたらせた。このようにして生まれたフォンテンブロー派は,明白にイタリア・マニエリスムの影響の下に生まれたが,イタリアの過剰なまでの装飾趣味やあまりに衒学的な奇想への陶酔は見られず,スタッコ彫刻と壁画を同時に利用するというその独自な装飾表現においても,きわめて洗練された一見冷たい官能性をたたえた裸婦像においても,厳しい構築性と日常的な人間性の感覚は失われてはいない。…
…この俗語こそが,民衆の生活世界とその文化のかなめであった。このような3層より成る言語状況に対し,フランソア1世は,1539年のビレル・コトレの王令により,公式の裁判文書においては,〈母なるフランス語〉以外のいかなることばも用いてはならぬことを定め,第1には,中世普遍主義の象徴ラテン語を排し,返す刀で各地に生き続ける地域と民衆の言語を切り捨てたのであった。こうして,デュ・ベレーの擁護するフランス語は,フランソア1世により〈国家語〉の地位を獲得したのであった(〈フランス語〉の項の言語・方言分布図を参照)。…
…この時期の絵画作品は《洗礼者ヨハネ》である。 17年,フランソア1世の招きに応じてフランスへ移り,アンボアーズ近くのクルー城に居所を与えられ,王母の居城ロモランタンの設計をするほかは研究ノートの製作に没頭し,同地で没した。
[手稿――精神活動の記録]
愛弟子メルツィFrancesco Melzi(1493‐1570ころ)に残された膨大な手稿のうち,きわめて多くが今日では散逸・紛失した。…
※「フランソア[1世]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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