フランツ[2世](読み)フランツ

百科事典マイペディア 「フランツ[2世]」の意味・わかりやすい解説

フランツ[2世]【フランツ】

最後の神聖ローマ皇帝(在位1792年―1806年)。レオポルト2世の子。ナポレオン1世に敗れて1806年神聖ローマ帝国は解体した。1804年以後はオーストリア皇帝(フランツ1世)と称した。1813年以後対仏大同盟参加メッテルニヒ執政をゆだねてウィーン会議主宰神聖同盟を結んで反動的政策を行った。
→関連項目カール[大公]ハプスブルク[家]

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世界大百科事典 第2版 「フランツ[2世]」の意味・わかりやすい解説

フランツ[2世]【Franz II】

1768‐1835
最後の神聖ローマ皇帝。在位1792‐1806年。オーストリア皇帝としてはフランツ1世(在位1804‐35)。神聖ローマ皇帝レオポルト2世の長男。ナポレオンに敗れて1804年ハプスブルク家世襲領をオーストリア帝国に再編,06年神聖ローマ帝国は解体する。10年娘マリー・ルイーゼMarie Louise(1791‐1847)をナポレオンに嫁がせ帝国の温存を図ったが,ウィーン会議後は官僚と軍隊の頂点にあってメッテルニヒ政治をゆだね,正統主義による反動的役割を果たした。

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世界大百科事典内のフランツ[2世]の言及

【トスカナ[州]】より

…メディチ家の家運もしだいに衰え,ジャンガストーネの死(1737)によって断絶してしまった。トスカナ大公国
[啓蒙的改革]
 トスカナ大公位はオーストリア皇女マリア・テレジアの夫ロートリンゲン(ロレーヌ)公フランツ・シュテファン(フランツ2世)のものとなった。ポーランド継承戦争の結果ポーランド王位を追われたスタニスワフ・レシチニスキーにロートリンゲンが与えられることになり,その代償にトスカナを得たわけである。…

【ハプスブルク家】より

…しかしプロイセンのフリードリヒ2世大王がシュレジエンを占領,バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが相続権を主張すると,マリア・テレジアは40年オーストリア継承戦争に直面する。45年ドレスデン和約で,シュレジエンを失うが,世襲領の相続とともに夫フランツ1世Franz I(神聖ローマ皇帝,在位1745‐65)に皇帝位を確保した。戦後は軍・行財政など国内改革を進め,外交でも数世紀にわたって敵対関係にあったフランスとの同盟を成功させ,プロイセンの孤立化を図り,七年戦争ではロシアとともにフリードリヒ2世を苦しめたが,シュレジエンの奪回には失敗した。…

※「フランツ[2世]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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