フリードリヒ
[一] (一世)
ドイツのホーエンシュタウフェン朝第二代の神聖ローマ皇帝(在位
一一五二‐九〇)。国内諸侯をおさえ、
イタリア政策を推進した。第三回十字軍遠征中溺死。赤髭王(
バルバロッサ)と呼ばれた。(
一一二三頃‐九〇)
[二] (二世) ドイツのシュタウフェン朝第六代の神聖ローマ皇帝(在位
一二一五‐五〇)。シチリア国王も兼ねる。第六回十字軍をおこし
エルサレム王国をたてた。最初のルネサンス人といわれる。(
一一九四‐一二五〇)
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デジタル大辞泉
「フリードリヒ」の意味・読み・例文・類語
フリードリヒ(Caspar David Friedrich)
[1774~1840]ドイツ‐ロマン派の代表的画家。象徴的、宗教的意味を担った独自の風景画を描いた。
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フリードリヒ
ふりーどりひ
Caspar David Friedrich
(1774―1840)
ドイツの画家。9月5日グライフスワルトに生まれ、1794~98年コペンハーゲンの美術学校に学ぶ。以後ドイツ・ロマン派の拠点ドレスデンに定住して、画家オットー・ルンゲ、詩人ノバーリス、ティーク、ノルウェーの画家ヨハン・クリスティアン・ダール、医者で画家のカール・グスタフ・カールースらと同志的な交わりを結ぶ。1807年木版および素描(セピア画)から油彩に転じ、風景とロマン派的な宗教感情を融合した『山の十字架』(ドレスデン絵画館)を描いて独得の画風を確立する。24年以後はドレスデン美術学校教授を務めた。彼は「風景における悲劇の発見者」といわれ、主として北ドイツの荒涼とした原野や森や廃墟(はいきょ)やフィヨルドの眺望を、旅愁、憧憬(しょうけい)、悲哀などの情感を込めて描き、ドイツ・ロマン派最大の風景画家とされる。40年5月7日ドレスデンで死去。代表作に『海辺の僧侶』(ベルリン国立美術館シャルロッテンブルク宮殿)、『ウァッツマン山』(ドレスデン絵画館)、『希望号の難破』(ハンブルク美術館)などがある。
[野村太郎]
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フリードリヒ
Friedrich, Caspar David
[生]1774.9.5. ポンメルン,グライフスワルト
[没]1840.5.7. ドレスデン
ドイツの風景画家。 1794~98年コペンハーゲンのアカデミーに学び,98年ドレスデンに定住。 1801年 O.ルンゲを知り,C.カールスや作家のノバーリス,シュレーゲル兄弟,L.ティークらとともにロマン派のグループを形成,ドイツ・ロマン主義絵画の代表的画家となる。近景から無限の遠方に広がる神秘的な風景画を得意とした。 24年ドレスデン・アカデミーの員外教授。正教授になることなく不遇な晩年をおくったが,20世紀に入ってその人と画業が再発見された。代表作『山中の十字架』 (1808,ドレスデン国立絵画館) ,『海辺の修道士』 (10,ベルリン国立美術館シャルロッテンブルク宮殿) ,『月を見る2人の男』 (19,ドレスデン国立絵画館) 。
フリードリヒ
Friedrich, Carl Joachim
[生]1901.6.5. ライプチヒ
[没]1984.9.19. マサチューセッツ,レキシントン
ドイツ出身のアメリカの政治学者。ハイデルベルク大学で博士号を得て,1926年からハーバード大学に奉職,38年アメリカ市民権を得る。 62~63年にはアメリカ政治学会の会長をつとめた。非行動科学系の学風を守り,権力概念の分析や比較政治学の領域にすぐれた業績を残している。主著『立憲政治と民主主義』 Constitutional Government and Democracy (1937) ,『伝統と権威』 Tradition and Authority (72) 。
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「フリードリヒ」の意味・わかりやすい解説
フリードリヒ
ドイツの画家。コペンハーゲンで学んだ後,ドレスデンで制作した。1807年に祭壇画として《山上の十字架》を描き,その斬新な風景の扱い方によって論議を巻き起こした。彼が描く神秘的で瞑想的な自然の相貌は,形而上的世界へのロマン主義的な憧憬と人間の孤独をあますところなく伝える。19世紀末の象徴主義の展開とともに再評価され,現在ではドイツ・ロマン主義絵画を代表する画家とされている。
→関連項目ルンゲ
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フリードリヒ【Caspar David Friedrich】
1774‐1840
ドイツ・ロマン派を代表する画家。ドイツの北限に近い,北海に臨むグライフスワルトGreifswald生れ。1794‐98年にコペンハーゲンの美術アカデミーに学んだ後,ドレスデンに住み,小さな国内旅行を除き,生涯をここですごした。当時のドレスデンはアカデミーや,ザクセン選帝侯が集めた数々の名画(ドレスデン国立絵画館)によってドイツにおける美術の中心地の一つであったが,同時にベルリン,イェーナなどとともにドイツ・ロマン主義運動の中心地でもあり,フリードリヒの芸術もこうした運動の一環としてとらえることができる。
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世界大百科事典内のフリードリヒの言及
【ドレスデン】より
…三十年戦争で,1635年プラハ条約によりラウジッツが選帝侯領に加えられると,ドレスデンはエルツ山脈の鉱山地帯と広い農村繊維工業地域を後背地にして経済的に繁栄する。トルコ戦争に参加し,ポーランド王(アウグスト2世)も兼ねた選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(強王)Friedrich‐August I(1670‐1733)の時代には,18世紀ドイツ・バロックの真珠といわれるフラウエン教会,ツウィンガー宮殿,日本宮殿なども建設され,マイセン磁器もこのころ始まる。3回にわたるシュレジエン戦争,ついでナポレオン戦争による戦禍を受け,政治的には衰退した。…
【廃墟】より
…また孤絶の美学を荒れ果てた墓地にもとめるT.グレーらの墓畔詩人もここから生まれた。さらにC.D.フリードリヒをはじめとするロマン主義の画家たちは自然の荒々しい力の隠喩を廃墟に認め,自我をもつ存在(個人)の内面的葛藤を際立たせる神聖な画題としてこれを描いた。また彼らにとって廃墟は,物質的な現実が滅び霊的な未来が訪れることの暗示でもあった。…
※「フリードリヒ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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