精選版 日本国語大辞典 「フリーメーソン」の意味・読み・例文・類語
フリーメーソン
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18世紀初頭のイギリスから始まった世界主義的、人道主義的友愛団体。起源は中世のメーソン(石工)のギルドにあり、彼らは町から町にフリー(自由)に移動して働いたが、その際、独特のしるしや合いことばによって行く先々のロッジ(小屋)に宿泊を許された。こうして、ロッジはしだいに彼らの地方支部組織あるいは地方集会場になっていったが、それらは現在の社会保障団体のような機能を備えていたため、17世紀に石工以外の一般人も名誉会員として加入を認められると、知識人を中心に急速に数が増えた。そして、1717年ロンドンにあった四つのロッジが大ロッジ(本部)を形成し、25年にはさらに全イングランド的組織に発展して、そこから18世紀中にヨーロッパ各地やアメリカに広まった。それはもはや石工だけの組織ではなく、知識人や中産層を主体とする思想団体で、世界市民的な意識をもとに自由主義、個人主義、合理主義の立場にたち、宗教的には寛容を重んじて、啓蒙(けいもう)思想の一翼を担った。そのため、啓蒙専制君主の統治したドイツではかなり広く受け入れられた(プロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのヨーゼフ2世も会員であったといわれる)が、カトリック教会の強力なフランスなどでは危険思想として迫害され、秘密結社的にならざるをえなかった。また、秘密結社としてフランス革命や19世紀ヨーロッパ各地の革命や政治運動を画策したとされるが、フランス革命当時の多くのジャコバン党員やイタリア統一運動時のマッツィーニ、ガリバルディらが会員であったことは確かであるにせよ、フリーメーソンが彼らに政治理論や行動原則を提供したとはいえず、危険な陰謀団体というイメージは虚構である。
現在では国ないし地域ごとにいくつかのロッジ(支部)があり、それが大ロッジ(本部)にまとめられ、大ロッジどうしはそれぞれ独立を保ちつつ連合するという組織によって、会員相互の友愛と向上、社会的慈善と博愛、それらを通じての国際親善と世界平和を目的としている。
[松村 赳]
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国際的な友愛団体。18世紀初頭のロンドンで石工の組合を模してつくられ,全ヨーロッパに広がった。会則と運営は秘密結社の性格を持ったが,内部では会員の身分,国籍を超えた人間的交流があり,啓蒙思想の伝播にも貢献した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…幼名ジュゼッペ・バルサモGiuseppe Balsamoとしてシチリア島パレルモのリボン商人の家に生まれ,数々の非行を重ねてから,東方生れの伝説的な王子アシャラという高貴な血筋を詐称する山師として世に登場した。やがてローマで生涯の伴侶となるロレンツァ・フェリチアーニと邂逅し,以来ヨーロッパ諸国を放浪,各地の宮廷にフリーメーソン大首長のふれ込みで登場しては,錬金術,予言の奇跡を演じて人々をたぶらかした。ミタウのクアラント公国,エカチェリナ2世のロシア宮廷,ポーランドのポニンスキ大公,シュトラスブルク(ストラスブール)のロアン枢機卿のサロンなどに出入りしては同じ手口の〈奇跡〉を演じ,1785年パリのベルサイユ宮ではマリー・アントアネット相手の〈王妃の首飾事件〉に巻き込まれてバスティーユに投獄される。…
… 民衆レベルの巷説では,薔薇十字団員たちは三十年戦争によるヨーロッパの分裂と混乱を救済すべく東方からやってきた道士たちで,戦乱の収拾と同時にふたたび忽然と姿を消したのだとうわさされた。しかし三十年戦争以後も依然として隠された潮流は持続し,17世紀初頭の薔薇十字運動はしだいに〈極度に理想的に構想された本来の団の水増しと思える〉(H.ジルベラー)第2の局面に移り,次いで一部はフリーメーソンと合流するなど,18世紀に入るとふたたび新たな展開を迎えた。フランスではフリーメーソン・ロッジに〈薔薇十字の騎士〉の位階が導入され,ドイツでは1777年ベルリンにフリーメーソンから分離独立した〈黄金・薔薇十字団〉が結成され,フォルスターGeorg Forster(1754‐94)や解剖学者ゼンメリングSamuel Thomas Sömmering(1755‐1830)らが活動したといわれる。…
…ツロ(テュロス)出身の有能な青銅細工師で,ソロモンがその神殿造営にあたって呼び寄せ,ヤキンとボアズの2柱の製作をはじめ多くのめざましい仕事をなしたという(《列王紀》上7:13以下ほか)。〈聖なる技術〉としての建築術の秘奥に通じた人として,後世ではフリーメーソンの伝説的な始祖とされた。なお,ダビデ・ソロモン時代のイスラエルに物資や技術者を供給したツロの王もヒラムと呼ばれる。…
…しかしこの間,16世紀のマニエリスムの到来とともに,こうした静的な比例観に対しては批判が加えられるようになり,ミケランジェロにあっては,比例はもはや不変の美の規範ではなく,作家個人の手法に属するものとみなされるようになっていた。バロック,ロココを通じてこの傾向はさらに強まり,18世紀の新古典主義においても,一部でフリーメーソンにより象徴的比例の復活がみられたものの,ロマンティックな超越的壮大さや不規則な美を求める傾向に押され,再び建築理論の中心的位置を占めるには至らず,近代の合理主義は,宇宙観とのアナロジーによる古典的な比例の伝統を完全に絶ち切ってしまう。 19世紀の建築理論家ビオレ・ル・デュクは,比例よりも尺度の重要性を説き,ある尺度に基づく基準格子(二等辺三角形)の使用を推奨している。…
…1780年ころまではパリの邸宅建築(オテル)を数多く手がけ,王室建築家,アカデミー会員として活躍したが,その後は教育と理論的著作(生前には刊行されず)や空想的計画案の制作に専念。それらの計画案に見る大胆な無装飾の幾何学的形態は,ディドロやルソーら啓蒙思想家たちの芸術理念やフリーメーソンの思想を具現化したものといえるが,一方その巨大さへの志向は,ナポレオン時代のアンピール様式や帝政ロシアあるいはナチスの建築(第三帝国)などにも大きな影響を及ぼした。【福田 晴虔】。…
… 17世紀に入るとデカルトとメルセンヌが機械論的自然観を主張してヘルメス思想を精力的に批判し,一部を除いてヘルメス主義的科学者は影をひそめた。ヘルメス思想家たちは薔薇十字団を結成して潜行し,ファルツ侯フリードリヒ5世の保護のもとに技術者を中心に活動したが,三十年戦争のため挫折し,17世紀中ごろ以後はフリーメーソンに依拠して活動した(そのシンボルであるペリカンはヘルメス思想における〈賢者の石〉を,ロッジは小宇宙を表すものとみなされている)。17世紀以後では,ベーメ,メーストルのほか,ゲーテ,シュレーゲル兄弟,ノバーリス,ティーク,シェリングらのロマン主義者たちが影響を受け,モーツァルトにもこの思想は反映しているといわれる。…
※「フリーメーソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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