フレデリック・ヘンドリック【Frederik Hendrik】
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
世界大百科事典内のフレデリック・ヘンドリックの言及
【オラニエ=ナッサウ家】より
…ウィレム1世は若くしてドイツ皇帝カール5世の側近として将来を期待されたが,のちにオランダ共和国独立の指導者となり,オランダ諸州の総督に就任し,建国の父として記憶される。ウィレムが暗殺されると,その子マウリッツさらに弟フレデリック・ヘンドリックが総督職を継ぎ,対スペイン独立戦争を指導した。17世紀中葉,オランダの国力,経済,文化は絶頂に達し,オラニエ=ナッサウ家はヨーロッパ諸国の王室,大貴族と姻戚関係を結び,ハーグにある総督官邸は宮廷のような栄光につつまれた。…
【オランダ共和国】より
…1618年,総督マウリッツはクーデタを起こし,30年以上共和国を導いた議会派の指導者オルデンバルネフェルトを逮捕し,翌年処刑した。 マウリッツのあとを継いだ総督フレデリック・ヘンドリックも優れた武人で,21年再開された対スペイン戦争を優勢に展開し,北ブラバント,リンブルフ両州を共和国領に加え,35年にはフランスと攻守同盟を結んでスペイン領南ネーデルラントを脅かした。
[黄金時代の経済と文化]
オランダはウェストファリア条約でスペインと和を講じ,諸列強からその独立を承認され,経済的繁栄の絶頂期と文化の黄金時代を迎えた。…
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