日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブルゴーニュ公国」の意味・わかりやすい解説
ブルゴーニュ公国
ぶるごーにゅこうこく
État bourguignon フランス語
[堀越孝一]
公国の由来
フランク王国時代のブルグントBurgund王国のうち、ソーヌ川以西の土地に11世紀初頭、フランスのカペー王家によって公家がたてられた。カペー家系ブルゴーニュ公家(ブルゴーニュはブルグントのフランス語読み)といい、これは14世紀中ごろまで存続した。1361年に公家の男系が絶え、公領はいったんフランス王家のバロア家に吸収されたのち、1363年バロア家当主ジャンの末男フィリップ(1世)に与えられた。これがバロア家系ブルゴーニュ公家で、1477年まで4代を数え、ブルゴーニュ公国を形成する。ブルゴーニュ公国は、フランス語でエタ・ブルギニョンという場合の、その呼称の訳語であって、これは厳密にいえばヨーロッパ史における固有名詞ではなく、ブルゴーニュ家が本来の家領、すなわち、ブルゴーニュ公領のほかに、フランドル、ネーデルラント方面に支配地を広げ、フランス王家に対抗して一つの国家的な組織をつくろうとする方向に展開したことに由来する呼称である。
[堀越孝一]
公国の版図
バロア家系のブルゴーニュ公家初代当主フィリップ1世Philippe Ⅰ(在位1363~1404)は、1384年ソーヌ川以東のブルグント伯領を神聖ローマ皇帝より受封し、フランドルとアルトア両伯領をフランス王から受封した。いずれもその妻であるフランドル伯女マルグリットの相続財産である。ここに公家は「北方領国」をもつことになった。やがて、第3代当主フィリップ2世Philippe Ⅱ(在位1419~67)のとき、公家はネーデルラントのブラバント公領、ホラント、ゼーラント、エノー3伯領を取得する。ルクセンブルク、リンブルク両公領も彼の代に公家の統制下に入った。さらに最後の当主シャルルCharles(在位1467~77)は、10年間の短い当主期間において、両ブルゴーニュに隣接するアルザス(エルザス)、ロレーヌ(ロートリンゲン)の領有をねらい、一時はこれを保有し、ホラントの東、ライン川下流域のヘルレ公領もまた彼の代に公家の支配地となった。これら新たに取得された支配地は、いずれも神聖ローマ皇帝の宗主権の及ぶ土地であった。歴史的にみれば、これは往時の「ロタリンギア」、すなわちフランク王国が分解したのちに一時成立した中部王国からイタリアを除いた版図にほぼあたる。
[堀越孝一]
アラスの和約
この公家の動向は、必然的にフランス王家との摩擦を引き起こす。1420年のトロア条約成立後、1435年のアラスの会議に至るまで、ヨーロッパの国際政局は両家の対立を軸に展開した。公家としては、フランス王家との関係を絶ち、独立の公国としてたつ絶好の機会であった。しかし、当主フィリップ2世はついにその決断を下さず、バロア家のシャルル(後のシャルル7世)の巧みな外交術数に踊らされてバロア家と和解する(1435、アラスの和約)。
[堀越孝一]
ヨーロッパの大公
フィリップ2世は「ヨーロッパの大公」であったとよく批評される。公家は、その財政や軍事の局面において、ヨーロッパ諸勢力中バロア家に次ぐ大勢力であった。ブルゴーニュのディジョン、フランドルのブリュージュ、そしてパリの公館を拠点に営まれた宮廷文化が、その荘重な形式主義において中世の騎士道文化の集大成であり、フランドルやネーデルラントの市民生活に豊かに受容され、近代市民文化に遺産を残した事情については、オランダの歴史家ホイジンガがその著『中世の秋』に活写したごとくである。ファン・アイク兄弟を始祖とするネーデルラント画派、ホラントからフランドルにかけて展開したネーデルラント神秘主義の「新しい信仰」運動等々、文化の諸局面にわたってブルゴーニュ文化は、一つの独特のスタイルをもった文化であった。
しかし、後代は、ブルゴーニュ文化を遺産として受け取りはしても、ブルゴーニュ「国家」については多くを語らない。16世紀後半に成立するネーデルラント連邦共和国(オランダ)がブルゴーニュ「国家」の後身であるという理解は、歴史の幾重もの屈折についての展望を得て初めて定まる。フィリップ2世の死後、1467年に当主となったシャルルの決断について、まず展望をもつことが必要である。
[堀越孝一]
王権との抗争
アラスの会議において王家がブルゴーニュ公家の王国からの離脱を阻止したということは、具体的にいえば一つには公家を王家の司法権の制約下にとどめたということである。以後、王家の役人は公家支配地の各所で紛争を醸成し、王家裁判所への上訴を誘導した。封建宗主としての上級裁判権を武器に公家の消耗を図る作戦である。アラス会議において、王家は公家にアルトアの南のソンム川流域諸都市の都市領主権を譲渡した。このソンム諸都市に対するこの種の工作において、王家が公家に対して仕掛けた、いわば「司法戦争」は、最大の効果を発揮した。公家は、王家の挑発にいらだち、1464年同種の不満をもつ他の諸侯と連帯して内乱を起こした(公益同盟戦争)。バロア王家当主ルイ11世は、各個撃破の形で反逆諸侯の不満をなだめ、公家を孤立せしめた。67年フィリップ2世を継いだシャルルは、王家との協調の不可能を悟り、1472年、再度諸侯がルイ11世と対決した内戦の挫折(ざせつ)を機に、フランスの内政から離脱し、「ロタリンギア王国」の実現へと決定的な第一歩を踏み出したのであった。これは当然神聖ローマ皇帝とドイツ諸侯の警戒を誘う。シャルルは、ネーデルラント、フランドル諸都市の資力を収奪して一大軍団を養い、フリースラント、ヘルレ、ラインラント、ロレーヌ、アルザス、上シュワーベン(スイス)に転戦するが、ついに1477年1月、ロレーヌ公のスイス人傭兵(ようへい)隊とナンシーに戦って敗死する。
[堀越孝一]
ハプスブルク家との婚姻
シャルルのひとり娘マリアは、フランドル、ブラバントなど北方諸領邦の等族会議の支持を得て、オーストリア・ハプスブルク家のマクシミリアン(後の皇帝、1世)との結婚策に踏み切り、ブルゴーニュ公領とアルトア伯領はフランス王家に横領されたものの、ネーデルラント、フランドル諸領邦とブルグント伯領をハプスブルク家の支配にもたらした。このハプスブルク・ブルゴーニュ公家のネーデルラント領は、その後スペイン・ハプスブルク家の支配地となり、16世紀後半、ネーデルラント独立戦争を迎えるのである。シャルル、マリア父娘の決断が、ブルゴーニュ公家北方領国の未来に一つの方向性を与えた。
[堀越孝一]