精選版 日本国語大辞典 「プガチョフの乱」の意味・読み・例文・類語
プガチョフ‐の‐らん【プガチョフの乱】
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1773~75年のロシアの農民戦争。エカチェリーナ2世の治下で農奴の奴隷化が促進されたが、この乱は、このような圧制に対して頻発する農民一揆(いっき)を背景にしたものであった。
ドン・コサック出身のプガチョフЕмельян Иванович Пугачеёв/Emel'yan Ivanovich Pugachyov(1742ころ―75)が、1773年ヤイク川(現ウラル川)地方に現れ、政府の課した負担に反発していたヤイク・コサックを率いて反乱を宣し、秋にオレンブルグ要塞(ようさい)を包囲した。反乱軍には逃亡農民やバシキール人なども加わった。要塞の攻略には失敗したものの、以後反乱軍は最盛時に5万人に達した。カマ川流域を制圧して、翌年夏にはボルガ川の要衝カザン、サラトフを占領した。プガチョフはピョートル3世を僭称(せんしょう)して、農奴解放の詔勅を発し、多くの貴族、役人を処刑した。ボルガ川から中央ロシアにかけての各地で農民が蜂起(ほうき)し、その勢力はモスクワに非常な脅威を与えた。しかし増強された政府軍に敗退を重ね、74年8月末ボルガ下流で決定的な敗北を被った。プガチョフは再起を図ってドン地域に走ったが、密告のため政府軍に捕らえられ、75年1月モスクワで処刑され、反乱に参加した農民も残酷な報復を受けた。反乱は長く支配層に恐怖感を与えた。
なお、プーシキンの小説『大尉の娘』はこの反乱を素材としたものである。
[伊藤幸男]
『阿部重雄著『帝政ロシアの農民戦争』(1969・吉川弘文館)』▽『米川哲夫訳「プガチョーフ反乱史」(『プーシキン全集5』所収・1973・河出書房新社)』
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…18世紀後半になると,カザフスタンは,畜産物供給地,穀物や工業製品の市場としてロシアとの経済的結びつきを強め,同時に,軍隊や商人,入植者によって土地を奪われたカザフの不満は,しだいにつのっていった。プガチョフの乱は,小オルダと中オルダの一部をもまき込んだが,それに続き,1783‐97年には,反ロシア暴動が勃発するにいたった。19世紀前半,ロシアは中・小オルダを相ついで直接管轄下に置き,ホーカンド軍を破って大オルダをも服属させ,1860年代には,全カザフスタンを支配下におさめた。…
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