精選版 日本国語大辞典 「プラハ」の意味・読み・例文・類語
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チェコ共和国の首都。同国最大の都市で政治、経済、文化、交通の一大中心地。英語名プラーグPrague。中央ボヘミア地方の中心でもあり、1993年1月にチェコとスロバキアに分離するまではチェコスロバキアの首都。人口117万8576(2001)。ラベ(ドイツ語名エルベ)川の支流ブルタバ(ドイツ語名モルダウ)川が市の中心を貫流し、起伏の多い丘陵地によって盆地が形成されている。気候は大陸性で、年平均気温8.0℃、1月は零下1.7℃、7月は17.6℃。年降水量は502.3ミリメートルと乾燥している。プラハは、ブルタバ川左岸の丘陵地フラッチャニ(プラハ城区域)とマラー・ストラナ(小市区)、右岸のスタレー・ムニェスト(旧市街)、ヨゼホフ(ユダヤ人街)、ノベー・ムニェスト(新市街)という1888年まで市壁に囲まれた区域を中心に、その後、膨張して市域に編入された郊外からなる。
[稲野 強]
プラハはこの国の商工業の中核をなしている。ことに工業地帯として重要で、国全体の約11%の工業生産量を誇り、機関車、自動車、電気工学機器などの機械製造、化学、繊維、印刷業のほか、食品工業ではこの国最大の集中度を示し、ビールなどの醸造、食肉加工、製粉業、さらに冷凍食品業が盛んである。また1989年の体制変革以降とくに目覚ましいのは観光・サービス業である。国内外の私企業によって繁華街、ホテルなどの改造、新築、また市の景観の整備が急速に進められ、中世的な町並み、歴史的建造物などの文化施設を訪れる外国人観光客の増加に対応している。交通では、プラハは道路網、鉄道網の拠点であり、放射線状に走る幹線道路と鉄道は、ウィーン、ベルリン、ブラチスラバ、ブダペストなど中欧の重要都市との間を結ぶ。一方、河川交通も盛んで、ブルタバ川に面した河港では700トン級の船の出入が可能である。また、市の中心部から約11キロメートル西方にはルジニェ国際空港があり、市内には1974年に地下鉄が開通し、郊外に広く延びている。
[稲野 強]
今日のプラハの基礎は神聖ローマ帝国の帝都であり、「黄金のプラハ」の名をほしいままにした14世紀なかばに築かれた。14世紀の後期ゴシック様式の建造物と、15~18世紀のルネサンス、バロック、ロココ、各様式の建造物が市の中心の至る所でみられ、「百塔の町」「北のローマ」と賛美されるのにふさわしい景観を示している。この歴史的地域は1992年に世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。歴史的建造物には、14世紀にほぼ完成し、左岸のフラッチャニにそびえたつバロック式宮殿のプラハ城がまず目をひかれる。さらにブルタバ川に架かる14世紀の石橋カレル橋、やはり14世紀建造の旧市庁舎、ティーン教会、ワルトシュテイン宮殿、聖ビート大聖堂、聖ミクラーシュ教会、ストラホフ修道院などみるべきものが数多くある。また、小説家カフカが生まれたユダヤ人街(19世紀後半よりヨゼホフと改名された)には、ナチス・ドイツ占領下でも破壊を免れたシナゴーグ(会堂)がある。教育・文化施設には中欧最古のプラハ(正称カレル)大学(1348)をはじめ各種大学、研究機関や国立博物館、チェコ民族運動の成果である国民劇場(1862)など多数の常設劇場があり、さらに世界有数のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の根拠地にふさわしく、スメタナ・ホール、ドボルザーク・ホールなどの音楽ホールや伝統的な人形劇場なども充実している。新市街にはプラハ市民の集まる場所として有名なバーツラフ広場がある。
[稲野 強]
紀元前5世紀ごろからケルト系のボイイ人がこの地域に居住していたが、6世紀ごろには西スラブ人が定住した。8~9世紀にはプラハ城の基礎がつくられ、南方に城砦(じょうさい)ビシェフラトが築かれた。10世紀に出たチェコ人の民族王朝プシェミスル家は国家の中心をプラハに置き、キリスト教の普及に努め、973年には司教座を置いた。ドイツ人、ラテン民族、ユダヤ人商人によって西欧と東欧の通商路となり、14世紀にはヨーロッパの経済、政治、文化の中心地に発展して人口は4万人を数えた。ことに、1346年ボヘミア(チェコ)王となったルクセンブルク家のカレル1世(神聖ローマ=ドイツ皇帝カール4世)はプラハを帝国の首都と定め、中欧最初の大学(プラハ大学)を建て(1348)、ペトラルカなどのイタリア・ルネサンスの文人を招き、中欧のルネサンスを招来した。さらに大司教座を置き、新しい市街区を設けるなど、今日のプラハの基礎をつくった。1618年に始まる三十年戦争はプラハで勃発(ぼっぱつ)した。ボヘミアの封建貴族はオーストリア・ハプスブルク家の中央集権化に反対し、新国王にプファルツ伯を擁して挙兵したが、プラハ近郊のビーラー・ホラ(白山)Bílá hora(ドイツ語名ワイセルベルクWeißenberg)の戦いでたちまち敗れた。三十年戦争期間中、この町は各国の軍隊に蹂躙(じゅうりん)されるところとなり、政治的重要性を失い、17世紀なかば以降はドイツ化された一地方都市に衰微した。18世紀に入るとハプスブルク家の経済政策のもとで活況を呈し、マニュファクチュアがおこり、人口は8万に達した。19世紀にはスラブ民族運動の中心の一つになり、1848年革命期にはスラブ民族会議が開かれた。当時住民の3分の2はドイツ人であったが、19世紀後半はオーストリア帝国内でもっとも工業の発達した都市の一つであり、民族資本の力を背景にチェコ人市民層も徐々に勢力を増すとともに、労働運動、反ドイツ民族運動の中心となった。1918年10月28日、この地でチェコスロバキア共和国の創立が宣言され、首都となった。39年にプラハはドイツ軍によって占領され、45年に旧ソ連軍に解放されるまで続いた。68年にいわゆる「プラハの春」という自由化運動がこの地から生まれた。その後、69年に成立したチェコスロバキア社会主義連邦共和国内のチェコ社会主義共和国の首都として再出発した。89年に「東欧革命」が勃発し、脱社会主義体制化が図られたが、政治変革を推進する大衆運動はまずプラハで組織・拡大され、各地に波及した。93年1月1日にチェコとスロバキアが分離・独立を果たし、2国が誕生した結果、プラハはチェコ共和国の首都となった。
[稲野 強]
『平田達治・平野嘉彦編『プラハ・ヤヌスの相貌』(1986・国書刊行会)』▽『ロバート・J・W・エヴァンズ著・中野春夫訳『魔術の帝国――ルドルフ二世とその世界』(1988・平凡社)』▽『ヴラスタ・チハーコヴァー著『プラハ幻影――東欧古都物語』(1993・新宿書房)』▽『薩摩秀登著『プラハの異端者たち』(1998・現代書館)』▽『南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(1999・山川出版社)』
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チェコ共和国の首都。エルベ川の支流ヴルタヴァ(モルダウ)川に臨む。古来河川交通の要衝として西スラヴ系チェコ人が居住。プシェミスル朝のもとで,ボヘミア王国の首都となり,1257年には自治権を得た。14世紀にはルクセンブルク朝のカール4世のもとで神聖ローマ帝国の首都になり,ドイツ圏の政治・経済・文化の中心として飛躍的に発達し,「黄金のプラハ」と称せられた。その後ハプスブルク家支配下でもボヘミア王国の首都であり続け,19世紀には工業都市化し,1918年から92年まではチェコスロヴァキアの,93年からはチェコの首都となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…事実,この概念の成立を裏づけるように,この時期には年代が確定されても,制作地の推定が困難な作品が多数存在している。 国際的交流は,1320年代すでにジョットにはじまるイタリア絵画の革新の影響として,空間の存在を暗示する立体感や遠近感表現の画面への導入や,感情表現に示される人間解釈の深化がアルプス以北の作品に散見されることから立証されているが,14世紀中葉,教皇の都アビニョンと皇帝の都プラハでの造営事業を通じて本格化する。アビニョンに集まった工人の出身地は多彩であるが,S.マルティーニ,ジョバネッティMatteo Giovanetti(生没年不詳)などシエナ派の画家が招かれ教皇庁壁画,祭壇画,写本挿絵制作などに活躍し,アビニョンを中継地としてシエナ派の影響が国際的に波及した。…
※「プラハ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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