プリモ・デ・リベラ(読み)ぷりもでりべら(その他表記)Miguel Primo de Rivera y Orbaneja

日本大百科全書(ニッポニカ) 「プリモ・デ・リベラ」の意味・わかりやすい解説

プリモ・デ・リベラ(Miguel Primo de Rivera y Orbaneja)
ぷりもでりべら
Miguel Primo de Rivera y Orbaneja
(1870―1930)

スペイン軍人政治家ファランヘ党の創設者ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラの父。植民地各地で軍務につき、1909年に始まるモロッコ遠征では反乱鎮圧に活躍。1922年カタルーニャ方面軍司令官となる。当時、カタルーニャのナショナリズム運動が高揚し、アナルコ・サンジカリスト指導下の労働者、農民の運動も激しく、また、モロッコでの軍の大敗北が政治問題となって国王の責任追及にまで及ぶなど、王制は危機に瀕(ひん)していた。こうしたなかで、彼は1923年9月にクーデターを行い、コルテス(議会)を解散、憲法を停止し、軍事独裁を開始した。モロッコの反乱を平定し、社会党系組合の支持を取り付ける一方でアナルコ・サンジカリスト系組合を弾圧し解散に追い込み、公共事業投資政策をとって経済回復を図るなど、王制を危機から救った。しかし、自治の尊重という約束を反故(ほご)にしたため、カタルーニャ・ブルジョワジーの支持を失い、イタリア・ファシズム体制を模した政治体制の導入にも失敗。さらに1928年以降のペセタの下落、国家財政の破綻(はたん)によってその独裁政は動揺した。知識人や学生、政治から排除された旧勢力の反独裁運動が活発となり、軍部の支持も失って、1930年1月に辞職。パリに亡命し、その直後の同年3月16日に死去。アルフォンソ13世の全面的支持を受けた独裁政の倒壊は王制の崩壊を早め、翌年4月に共和制が成立した。

[中塚次郎]


プリモ・デ・リベラ(José Antonio Primo de Rivera y Sáenz de Heredia)
ぷりもでりべら
José Antonio Primo de Rivera y Sáenz de Heredia
(1903―1936)

スペインのファッショ運動団体、ファランヘ党(スペイン・ファランヘFalange Española)の創設者、指導者。アルフォンソ13世の親任を得て軍事独裁(1923~30)を行ったミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の長男に生まれたが、軍人への道を選ばず、マドリード大学法学部を経て弁護士を職とした。独裁政の崩壊、第二共和革命の成立(1931)に際し、これを阻止しえなかった旧体制支配層に不信を抱く一方、共和政下の社会的・政治的対立の激化に危機感を深め、1933年10月、既存の諸政体にかわる「有機的国家」の建設のスローガンを掲げてファランヘ党を結成した。その新国家論はきわめて抽象的、観念的で、「具体的改革を論ずるのは、大衆的血統の人間のすること」とした。すなわち、意識革命を担う思想運動(ファランヘ)とその思想を実践する政治運動を価値的、組織的に峻別(しゅんべつ)し、前者の優位を強調したため、1936年初頭まで彼の影響力は微小なものにとどまった。左翼活動家へのテロ活動を称揚したことから、1936年3月収監を受け、同年7月の内戦勃発(ぼっぱつ)に伴いアリカンテ市に移送されたのち、同市の人民法廷で共和国に対する反逆罪に問われ、同年11月銃殺刑に処せられた。

[山本 哲]

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改訂新版 世界大百科事典 「プリモ・デ・リベラ」の意味・わかりやすい解説

プリモ・デ・リベラ
Miguel Primo de Rivera y Orbaneja
生没年:1870-1930

スペインの軍人,政治家。カディスの名門出身。モロッコ,キューバフィリピンの戦役に参加,1898年米西戦争の敗北後,帰国。1909年からモロッコ遠征で活躍後,マドリード師団司令官。上院でモロッコ政策を批判して罷免され,22年カタルニャ方面総司令官に左遷された。第1次大戦後の不況,社会混乱で文民内閣が総退陣すると,政治に介入して23年9月,バルセロナプロヌンシアミエントを行った。国王アルフォンソ13世の承認を得てクーデタに成功,議会を解散し,憲法を停止した。24年4月,唯一の政党である〈愛国同盟〉を結成,経済活動に国家が介入して政治の再生を目ざす独裁制を確立した。資本の集中投入や外国資本の導入によって鉄道・道路建設や水力事業など公共事業に着手した。初期には民衆の支持を受けた独裁制も,モロッコ問題の泥沼化から内政が混乱し,25年には〈国家諮問会議〉を設立,文民主導制へ切り換えた。しかし世界的不況に加え,経済政策に失敗し,労働者,学生,地方主義勢力の反独裁運動が高揚した。支持勢力のうち,教会,軍隊が離反し,30年1月辞任。3月パリで客死した。長子ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラはファランヘの創立者である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プリモ・デ・リベラ」の意味・わかりやすい解説

プリモ・デ・リベラ
Primo de Rivera y Orbaneja, Miguel, Marqués de Estella

[生]1870.1.8. カディス
[没]1930.3.16. パリ
スペインの軍人,独裁者。侯爵。リベラ・イ・オルバネハとも呼ばれる。トレドで軍人教育を受けたのち,モロッコ,キューバ,フィリピンで軍務につき,アメリカ=スペイン戦争 (1898) にも従軍。カディスの軍事総督 (1915~17) ,バルセロナの軍事総督 (1922) も務めた。第1次世界大戦後のスペイン王制の危機に際し,カタルニャの保守勢力支持のもとに軍部を率い,1923年9月クーデターを起こして内閣を打倒。国王アルフォンソ 13世の承認を得て国会解散,憲法停止を行ない軍事独裁を確立した。その後国内改革を唱えたが成功せず,世界恐慌によってスペイン経済は大打撃を受け,1930年1月独裁政府は崩壊した。

プリモ・デ・リベラ
Primo de Rivera, José Antonio, Marqués de Estella

[生]1903.4.24. マドリード
[没]1936.11.20. アリカンテ
スペインの政治家。侯爵。 M.プリモ・デ・リベラの長男。右翼ファランヘ・エスパニョラ党を創立 (1933) 。 1933年国会議員になったが,36年には議席を失い,人民戦線政府によって逮捕され銃殺された。 F.フランコの勝利 (39) 後,遺骸は改葬され,44年遺稿集が出版された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「プリモ・デ・リベラ」の解説

プリモ・デ・リベラ(ミゲル)
Miguel Primo de Rivera

1870~1930

スペインの軍人。モロッコへ派遣後,1895年キューバ,97年フィリピンへ派遣され,のち再度モロッコ戦線に参加。バレンシアマドリード軍管区司令官をへて,1922年バルセロナ軍管区司令官。23年クーデタで軍事独裁体制を樹立。再生主義の申し子を自認し,「新国家」構築をめざして愛国同盟や国民会議を創設,協調組合主義的理念に立ってスペイン国民意識の統合を図るが失敗。30年失脚,パリへ亡命し,同年死去。


プリモ・デ・リベラ(ホセ・アントニオ)
José Antonio Primo de Rivera

1903~36

独裁者ミゲル・プリモ・デ・リベラの長男。スペインにおけるファシズム政党,ファランヘ党の創立者。1934年,ファランヘ党と国民サンディカリスト攻撃評議会の合併を実現。彼の思想は青年層を暴力的政治闘争に駆り立てた。36年投獄。スペイン内戦勃発後,アリカンテの監獄に移送され,同年処刑。

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百科事典マイペディア 「プリモ・デ・リベラ」の意味・わかりやすい解説

プリモ・デ・リベラ

スペインの軍人,政治家。1923年カタルーニャ方面総司令官の時,当時のブルジョアの支持を得てクーデタを起こす。国王アルフォンソ13世がこれを承認し,議会を解散,憲法を停止し,軍事独裁が確立した。モロッコで起きた民族的反スペイン運動をフランスと共同して鎮圧。国家統制下,公共事業などに着手し景気回復に努めたが,在任後半に経済が破綻し,1930年1月,反体制運動の高揚で辞任。
→関連項目スペインファランヘ党

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旺文社世界史事典 三訂版 「プリモ・デ・リベラ」の解説

プリモ=デ=リベラ
Miguel Primo de Rivera y Orbaneja

1870〜1930
スペインの軍人・独裁者
米西(アメリカ−スペイン)戦争ではフィリピンで活躍。第一次世界大戦後,バルセロナ軍司令官となり,社会不安の解決をめざして1923年軍事独裁を樹立。しかしモロッコ問題から内政が混乱し,経済政策に失敗したことから国民の不満が高まり,1930年失脚し,まもなく死んだ。

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世界大百科事典(旧版)内のプリモ・デ・リベラの言及

【アリカンテ】より

…マドリードから最短距離の積出港で,石油精製,化学工業も進んでいる。内戦中,ファランヘ党の創設者プリモ・デ・リベラが投獄,処刑された所で,この都市も共和国政府側につき,フランコ反乱軍に投降した最後の都市として知られる。【宮川 智恵子】。…

【スペイン】より

…続発するテロ行為とストライキ,収拾がつかない議会,モロッコ戦争の失敗の責任をめぐる政府と軍部の対立など,まさにスペイン社会は混乱のきわみに達していた。
[独裁政]
 1923年9月12日早朝から翌13日にかけて,当時カタルニャ方面軍総司令官であったプリモ・デ・リベラ将軍が,祖国救済をスローガンとしてクーデタを起こし,国王アルフォンソ13世に全閣僚の罷免と憲法の効力停止を求めた。国王は将軍の要求を受け入れ,首相は辞任し,閣僚らはピレネーの国境を越えてフランスへ亡命した。…

【バルセロナ】より

…このような状況を背景に,19世紀末からバルセロナを中心に燃え上がったカタルニャ地方主義運動の主導権がブルジョアジーから左派の掌中へ移って急進化し,イギリス型の二大政党制に基づく立憲君主制を意図した当時の国家体制(1876年体制)と鋭く対立した。そうした中で,1923年,カタルニャ管区総司令官の職にあったプリモ・デ・リベラ将軍は,バルセロナでクーデタを起こし,独裁政を樹立した。独裁政崩壊後の31年の自治体選挙に勝利した反王政派は,バルセロナでは首都マドリードよりも数時間早く,第二共和国成立を宣言した。…

※「プリモ・デ・リベラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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