プレハーノフ(英語表記)Georgii Valentinovich Plekhanov

デジタル大辞泉 「プレハーノフ」の意味・読み・例文・類語

プレハーノフ(Georgiy Valentinovich Plekhanov)

[1856~1918]ロシア革命思想家。ロシアにおけるマルクス主義先駆者として、その普及活動に努め、「労働解放団」を創設ロシア社会民主労働党結成に参加したがレーニンらと対立同党の分裂後はメンシェビキに加わり、十月革命反対した。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「プレハーノフ」の意味・読み・例文・類語

プレハーノフ

  1. ( Gjeorgij Valjentinovič Pljehanov ゲオルギー=バレンチノビチ━ ) ロシアの革命思想家。ナロードニキから出て、マルクス主義に転じ、ロシア‐マルクス主義理論の基礎を築いた。社会民主労働党創設に力を尽くしたがレーニンと対立。一九一七年の革命では、ボルシェビキに反対の立場を示した。著に「史的一元論発展問題」など。(一八五六‐一九一八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「プレハーノフ」の意味・わかりやすい解説

プレハーノフ
Georgii Valentinovich Plekhanov
生没年:1856-1918

ロシアの革命家,思想家。ロシア・マルクス主義の父と称される。小地主の家に生まれ,鉱業専門学校在学中にナロードニキ革命思想に接して運動に入る。結社〈土地と自由〉の理論的指導者となり,結社の分裂(1879)にさいして〈土地総割替〉派に属する。亡命してマルクス主義に転じ,1883年ジュネーブに労働解放団を同志とともに創設,《社会主義と政治闘争》(1883)によって,ロシア・マルクス主義の理論を確立,《われわれの意見の相違》(1885)において,ロシア資本主義化論の先駆的分析をおこなった。それは,ナロードニキのロシア資本主義没落論を理論的・実証的に批判して,ロシアの現在と未来が資本主義のものであることを述べ,ロシアの革命運動はプロレタリアートが主体であること,ただし,専制主義の支配する現在の当面の課題はブルジョア革命であり,プロレタリア革命はその先であることを説くものであった。彼はこのような非連続的二段階革命論を終生保持し,時期尚早のプロレタリア革命は東洋的専制主義への逆転をうむと考えた。《イスクラ刊行を通じてロシア社会民主労働党の再建にレーニンらと協力,1903年の第2回大会でレーニンとマルトフらが対立すると,やがてメンシェビキの側に加わった。05-06年の第1次革命において革命戦略,農業綱領をめぐってレーニンと対立したが,反動期には解党派と闘った。第1次世界大戦においては祖国防衛派に属し,17年3月帰国,孤立のうちにフィンランドの病院で死去。豊かな学殖で知られ,哲学,思想史のほか,文学・芸術論など多くの著書を残した。主著に《史的一元論》(1895),《マルクス主義の根本問題》(1908),《芸術と社会生活》(1912)などがある。《ロシア社会思想史》(1914-)は未完に終わったが,ヨーロッパとアジアとの間としてのロシアという注目すべき方法論を基礎にして,ヨーロッパ思想のロシアにおける意味変化,その現実的意義を追求している。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「プレハーノフ」の意味・わかりやすい解説

プレハーノフ

ロシアの革命思想家。ロシア・マルクス主義の父といわれる。初めナロードニキ。1880年の亡命後マルクス主義者となり,初めてロシアにその革命理論を導入。《イスクラ》刊行を通じてロシア社会民主労働党の再健にレーニンらと協力したが,1903年第2回党大会以後はメンシェビキの側に加わった。1905年の第1次ロシア革命後は次第に実践から離れ,第1次大戦中には戦争を支持して革命運動から脱落した。19世紀末―20世紀初頭の最大のマルクス主義理論家とされ,文芸批評における業績も大きい。主著《社会主義と政治闘争》《史的一元論》《マルクス主義の根本問題》《芸術論》など。
→関連項目アクセリロード片山潜ザスーリチ反戦運動

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「プレハーノフ」の解説

プレハーノフ
Georgii Valentinovich Plekhanov

1856~1918

ロシア・マルクス主義の父。1870年代にナロードニキとして運動を始めたが,亡命後マルクス主義に転向,83年労働解放団を組織した。レーニンとともに『イスクラ』の刊行,第2回ロシア社会民主労働党大会の準備に努力した。第2回大会後,マルトフの側に立ち,メンシェヴィキに属した。1905年革命後解党派に反対し,レーニンと接近したが,第一次世界大戦中は熱烈に戦争を支持し,十月革命を拒否した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「プレハーノフ」の解説

プレハーノフ
Georgiy Valentinovich Plekhanov

1856〜1918
ロシアのマルクス主義の父
初めナロードニキに属したが,のちマルクス主義に転向し,その宣伝につとめた。ロシア社会民主労働党を創設。レーニンと対立し,同党の分裂後はメンシェヴィキを指導,第一次世界大戦では祖国防衛の立場から戦争に協力。また,十一月革命に反対した。著書『史的一元論』『マルクス主義の根本問題』。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のプレハーノフの言及

【片山潜】より

…1901年日本最初の社会主義政党,社会民主党を結成するが即日禁止となる。04年第二インターナショナル(アムステルダム大会)に日本代表として出席し,交戦国代表ロシアのプレハーノフとともに反戦アピールを世界に向けて行う。06年日本社会党に参加,幸徳秋水ら直接行動派と対立している議会政策派を支持する。…

【史的唯物論】より

…しかしながら,一歩たちいって内容を規定する段になると,論者に応じてかなりの差異がある。例えば,ロシア・マルクス主義の父と呼ばれるプレハーノフは,史的唯物論は〈学として現れうべき将来のあらゆる社会学に対するプロレゴーメナ〉であると規定し,社会哲学,ないし,社会諸科学・歴史諸科学に対する認識論的基礎部門として性格づける。これに対して,ボリシェビキきっての〈史的唯物論通〉と呼ばれたブハーリンは,〈史的唯物論はプロレタリア的社会学〉そのものであると規定し,哲学というよりもむしろ社会科学の次元に属するものと主張する。…

【ソビエト連邦共産党】より

…ソ連邦の全15共和国中,ロシア,グルジア,アルメニアの各共和国では党員の住民に占める比率が高かった。
【歴史】

[ボリシェビキの成立]
 ロシアにおける反体制運動のなかで,マルクス主義的潮流の歴史は1883年,プレハーノフによってスイスで組織された労働解放団にさかのぼることができる。このころからロシア国内でも労働運動が台頭し,19世紀末には各種のサークル,団体が形成され,P.B.ストルーベやレーニンらが中心となり,マルクス主義的サークルが国内でも誕生した。…

【弁証法的唯物論】より

… マルクス=エンゲルスは,唯物論とはいっても,古代ギリシアの物活論的唯物論,啓蒙期フランスの機械論的唯物論,それにまた,L.A.フォイエルバハの唯物論や生理学主義的な俗流唯物論,これら先行的・同時代的なもろもろの唯物論を批判し,弁証法的な唯物論の立場を標榜した。ただし,〈弁証法的唯物論〉という成句的表現は,マルクス=エンゲルスの自称ではなく,ロシア・マルクス主義の父と呼ばれるG.V.プレハーノフが用いはじめたものと言われる。このさい,〈弁証法的〉というのは,ヘーゲル哲学において結実した弁証法の合理的核心を批判的に継承しているからである。…

【ロシア社会民主労働党】より

…ロシアのマルクス主義政党。マルクス主義が社会民主主義としてロシア人に初めて受容されるのは,亡命中のプレハーノフらが1883年ジュネーブで創立した〈労働解放団〉による。プレハーノフは後進国ロシアの当面する革命は専制打倒のブルジョア革命だとし,二段階革命を主張した。…

※「プレハーノフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ゲリラ豪雨

突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...

ゲリラ豪雨の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android