映画館の毎週の番組(プログラム)を埋めるために量産される映画(ピクチャー)の意で,アメリカで1930年代初頭に〈2本立て興行double feature〉(1番組に劇映画2本を組み入れる興行)が始まったときに生まれた呼称。英語でprogrammerともいう。また別の言い方をすれば,番組のメーンになる〈本編feature film〉に対する〈併映作品,添えものsecond feature,supporting feature,co-feature〉である。
日本映画の場合は〈抱合せ〉という形で,戦前から,現代劇1本と時代劇1本の番組,旧作との〈併映〉,他社作品との〈混映〉,あるいは〈第二部〉と呼ばれた低コストの作品を〈添えもの〉にする方式などがあったが,田中純一郎(《日本映画発達史》)によれば,戦後,〈映画館の乱立乱戦と既封切映画のダンピングによって〉娯楽に飢えていた終戦当時の〈フィルム飢饉〉が昔語りとなった1950年ころから,〈観客へのサービスと称する2本立て興行〉が目だち始めた。そして東映が新作2本立て番組(初期の添えもの作品はスポーツ,歌,ストリップ,スター訪問などの記録映画が多く,洋画の短編との〈抱合せ〉などもあった)によって市場拡大に成功し,しだいに〈市場性確保を建前とする新作2本立て制度〉が一般化し,松竹がまず上映時間40~50分程度の中編作品の製作に乗り出し,これを〈シスター映画〉と呼んだ。社長の城戸四郎の命名による〈姉妹編〉を意味する和製英語sister picture(最初はshort pictureとも呼んだ)がその語源で,略してSPともいい,添えもの映画の代名詞として使われるようになった。松竹の〈シスター映画〉の第1号は,1952年製作の《伊豆の艶歌師》で,西河克巳の第1回監督作品。次いで,野村芳太郎(《鳩》1952),小林正樹(《息子の青春》1952)らの新人監督や川喜多雄二,水原真知子,北原三枝らの人気スターが生まれた。大島渚(1932-2013)監督の処女作《愛と希望の街》(1959)も〈シスター映画〉として製作され,新人監督の腕だめしのチャンスになったという点でも〈シスター映画〉の意義は大きい。そして〈シスター映画〉が製作され始めた52年から日本映画は本格的な〈2本立て興行〉に突入,東映が〈東映娯楽版〉の名の下に54年から打ち出した中編もの,《笛吹童子》三部作(1954),《紅孔雀》五部作(1954-55)等々の大ヒットを経て,〈プログラム・ピクチャー〉の全盛時代を迎えることになる。
〈シスター映画〉という呼称は〈添えもの〉を意味することから,〈営利上不利〉という理由で,やがて廃止され,それに代わって〈プログラム・ピクチャー〉という呼称が,〈2本立て興行〉のピークを迎えた〈日活アクション〉から〈東映やくざ映画路線〉に至る1950年代末から60年代初頭にかけて浮上してきたものと思われる。
→日本映画 →B級映画
執筆者:広岡 勉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
もともとはアメリカの映画用語。初期の映画作品は1本あたりの上映時間が極端に短かったため、興行では数本の作品を集めて番組(プログラム)を編成し、スクリーンにかけるのが通例だった。しかし1900年代になると、しだいに上映時間の長い作品が登場するようになる。この背景のもと、1914年あたりに出現し始めた5巻くらいの長編映画がプログラム・ピクチャーと称されるようになった。興行番組の看板作品となったからである。
しかし日本では、とくに1950年代から1970年代にかけて量産された規格品的な作品をこうよぶ。当時は、長編作品の2本立てや3本立てで番組が組まれ、かつ番組内容も定期的に入替えが行われていた。つまり、こうした番組興行を維持するために製作されたのが、日本のプログラム・ピクチャーである。しかし1980年代以降、しだいに封切館では1本立てが通常の興行形態となり、いまでは映画館で目にすることはほとんどなくなった。
[奥村 賢 2022年6月22日]
…最後の7年間には《忍びの者》シリーズ8本,《眠狂四郎》シリーズ12本をはじめ《陸軍中野学校》5本,任俠劇《若親分》8本と,4シリーズで大活躍。量産される大衆娯楽映画,いわゆるプログラム・ピクチャーの,まさに最後のスターといっていい。【山根 貞男】。…
…したがって,興行価値のない映画は〈作品〉として存在しないというのが映画の宿命ですらある。企業体としての映画会社の作品であろうと独立プロダクションの作品であろうと,プログラム・ピクチャーであろうと芸術映画であろうと,それは変わりはない。こうした宿命に〈のろわれた〉映画,すなわち客を呼ぶ力がなく劇場にかからない映画を救い上げ,〈芸術的〉な評価を与えることによって新しい〈興行価値〉を生み出すために,さまざまな映画祭やシネクラブやアート・シアターなどの運動が起こされたともいえる。…
…東映による2本立て興行の開始と日活の製作再開である。これにより日本映画は量産時代に入り,1950‐51年には約200本であった年間製作本数が年々増加,1956‐61年には500本前後になって,〈プログラム・ピクチャー〉全盛期を迎えた。日活が製作再開を発表する直前,既存の5社(松竹,東宝,大映,新東宝,東映)は,俳優,監督などの引抜きを防止するべく〈5社協定〉を取り決めた(1953)が,日活は5社協定への参加を拒否し,トラブルの間を縫って映画づくりを進め,業績をあげていった。…
…レコードのA面に対するB面と同じように,映画館のプログラムの表(メーン)になる“A”の作品に対して,裏の“B”の作品すなわち併映作品の意味であり,したがって〈2本立て興行〉が一般化したときからこの呼称と概念が生じたわけである。なお,〈2本立て〉のプログラムを埋めるために毎週量産される映画を意味する〈プログラム・ピクチャー〉という呼び名も生まれている。 初期のトーキーのものめずらしさも薄れ,また大恐慌後の長びく不況の影響で,1930年代に入るとアメリカの映画観客が激減し,その対策として映画館では入場者に景品として皿を配る〈ディッシュ・ナイトdish night〉とか宝くじの抽籤会をやる〈バンク・ナイトbank night〉とかいった〈客寄せ〉の催しが盛んに行われたが,さらに32年には上映作品のプログラムを長編映画1本から2本に増やして充実させ,〈ダブル・ビルdouble bill〉あるいは〈ダブル・フィーチャーdouble feature〉と呼ばれる〈2本立て〉の興行が始まった。…
※「プログラムピクチャー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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